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2012年4月10日(火曜日)
無名時代の桜トンネル
2011年7月4日(月曜日)
パパとママと過ごした日
2010年6月10日(木曜日)
地下道慕情(2)西灘の好々爺
2010年5月19日(水曜日)
地下道慕情(1)
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奥摩耶の銀盤
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2012年4月10日(火曜日)

無名時代の桜トンネル

カテゴリー: - naddist @ 12時00分20秒

入学式。
灘区内ではあちこちの桜の木の下で記念撮影する光景が見られる。
誰も知らないと思うが、「桜」は灘区の木に選定されている。
「え?マリーゴールドじゃなかったけ?」と思われた人もいるかもしれないが、それは灘区の「花」で、桜は「木」なのだ。さらにややこしいことに灘区には「歴史の花」というのもあって、これは菜の花。お隣の東灘区は区の花として「梅」が選ばれているだけなのに、3つも選定してしまうおっちょこちょい具合が実に灘区らしい。

神戸市のホームページより選定理由を抜粋してみる。

 区民公募により最多投票数を得て、区内には、王子公園・
 護国神社・トンネルなど桜の名所が多いことから平成12年
 7月に灘区の木として選定されました。
 「なだ桜まつり」など春の風物詩として区民に親しまれてい
 るイベントも多く行われています。

オレ、投票なんかしてねえよ!という人もいるかもしれないが、とにかくいつの間にか決まっちゃったのです。
確かに灘区は桜の名所が多い。でも昔からこんな桜が多かったかしら?いまだに「都賀川は桜やなくて柳や」という人もいるし。
大体「桜のトンネル」だって、いつからそう呼ばれるようになったのかはっきりしない。せいぜい桜並木とか桜坂とか呼ばれ、近隣の人が愛でる知られざる桜スポットにすぎなかったが、シーズンには他府県ナンバーの車も多く見かけるようになった。あげくの果てに、桜にぶつかって枝を折ったりとか。いっそのこと坂の上に料金所つくって100円とれば儲かるのになどと思ってしまう。

この桜のトンネルの桜は、摩耶ケーブルの開通に合わせて植えられたという。大正14年に開業した摩耶ケーブルは、戦時中に金属供出で鋼索、車両などが撤去され、戦後も休止状態が続いていたが、戦後復興から高度経済成長期を迎え、世はレジャーブームに。奥摩耶開発の機運が盛り上がり、摩耶ケーブルも昭和30年に運転を再開する。
摩耶ケーブルは灘クミンにとって単なる交通機関ではない。
摩耶山と街をつなぐ大事なへその緒。当時の灘クミンの喜びはどれほどだったであろう。

摩耶ケーブルが再開した当時の貴重な写真がある。(写真上 写真提供:寺本雅男様)
細い坂道の両側に桜が植えられているのがお分かりだろうか(注)。まだ桜のトンネルなどと呼ばれていなかったころは、ローラースケートや子どもたちが「ひこうき」と呼んだ遊具(建具の戸車を車輪にした手づくりの乗り物)で滑走するのどかな坂道だったが、今では灘区有数の桜の名所に。
当時の灘クミンは今の状況を想像できただろうか。
今年、摩耶ケーブルの車両が56年ぶりにリニューアルされる。
つまり、この坂道の桜も相当の高齢樹だ。
次の桜を育てていかないといけけない時期が来ている。

(注)写真は昭和35年頃撮影。幹が細いので大正時代に植えられたものではないと思われる。ちなみにこの並木が神戸市の街路樹として認定されたのは昭和12年9月15日。


2011年7月4日(月曜日)

パパとママと過ごした日

カテゴリー: - naddist @ 20時00分37秒

西灘のエントリーが続きますが、ご容赦ください。

国道2号沿い、西灘小学校の目と鼻の先にアダルトショップ「パパと
ママの店」ができたのは今から30年以上前だっただろうか。
当時界隈の子どもたちは、新しいオモチャ屋ができるのかと大騒ぎした。
しかし、この店には子どもたちが楽しめるようなオモチャはなかった。

パパとママの店は寡黙だ。
通りから中の様子をうかがうことはできない。
見えないだけに、子どもたちの胸は期待にふくらんだ。
「あの店、コケシ売ってるねんて。電池で動くらしいで」
「コケシ?マジンガーZとかとちゃうん」
「ウルトラコケシいう名前やて」
「そんなウルトラ兄弟聞いたことないわ」
店の前で残念そうな顔をしている低学年に、高学年の兄貴分が
「ウルトラマンよりオモロいねんで」と指南した。

西灘小学校区は灘区初のラブホテルが建設されたり、通学路にポルノ
雑誌の自動販売機が設置されたりと、灘区内では比較的「ませた」校区
で、ポルノ撲滅に血眼になっている大人たちをよそに、子どもたちは
街なかの日常の性とクールに接した。『ウィークエンダー』などで知識を
仕入れていた子どもたちは、店で売られていた「電動バイブWカリ仕上げ」
が、どういうものか薄々気づいていた。
店の北には小さな村社、猿田彦神社があり聖と俗が道一本隔てて同居し
ていた。猿田彦の天狗の面とパパとママの店で売っている天狗の面の
違いを知ることもこの地区ではマストだ。
「摩耶十三丁は馬でも越すが、越すに越されぬパパとママ」と詠われた
パパとママの店は、西灘っ子が越えなくてはならない大人の階段だった
のだ。

艶っぽい取扱商品群とは裏腹の、円弧と直線のモダンな組み合わせが
印象的な「パパママPOP体」は、市章山のイカリマークに通じる街の
アイコンだ。遠く灘を離れた元クミンが帰省した際、あの看板を見て
初めて「灘に帰ってきた」とほっとするという。
灘東部のランドマークが「傾いた喫茶店」なら西は「パパとママの店」
と言われるほど、誰でも知っているビューポイントでもある。
タクシーに乗って行き先を告げるとき「パパとママの先を左折して
ください」などと口走ってしまい、車内が少し気まずい空気になった
という経験をした灘クミンもいるに違いない。

「パパとママの店、閉店したらしい」
そんな噂を聞いた。
ネットショップとしてリスタートするという話もある。
看板にはツタが茂り「店」の字が消えかかって「パパとママの…」
になっていた。
切なかった。
パパとママの…
そう言いかけたまま、震災を乗り越えた昭和のオトナの店がまた
一つ去ろうとしている。


2010年6月10日(木曜日)

地下道慕情(2)西灘の好々爺

カテゴリー: - naddist @ 12時00分52秒

西灘地下道

今年創立130周年を迎えた西灘小学校前にある西灘地下道は好々爺という言葉が相応しい。
なぜか地下道独特の陰鬱さをあまり感じない。
むしろ乾いた明るさがある。
あそうだ、ちょっと笠智衆に似ている。
「いつも子どもたち見てもらってありがとうございます」
なんて言ったらきっと
「いやあ」
なんて頭を掻きながら照れくさそうに笑うに違いない。

西灘地下道は昭和の訪れとともに誕生した。
昭和5年に完成した西灘村耕地整理の記録写真にもその姿を見ることができる。(写真下)
左端に見える出入り口が初代西灘地下道の勇姿だ。
その後ろの建物は西灘小学校の旧校舎、正面の小さな建物は森交番、手前の道は開通したばかりの
阪神国道(国道2号)で、道路の中央には阪神国道電車の軌道敷も見える。
車もまばらで、まだ馬が牽く荷車も行き交っていた。
この交差点の少し先に西灘村の役場があった。
当時このあたりは、神戸市ではなく武庫郡西灘村と呼ばれていたのだ。

船寺交差点(昭和5年ごろ)

「神戸っ子殺すにゃ刃物はいらぬ、平地に連れてきゃ狂い死ぬ」
と揶揄されるほど、坂の街に育った神戸人は他の街と比べて坂好きが多い。
日本最大のドM登坂イベント、六甲山全山縦走が大盛況なのも平地で育った
街の人には考えられないだろう。
そしてケーブルカーへの偏愛は、もはや「坂萌え」と呼んでもいいし、
灘だんじりにおける民衆の熱狂は坂があってこそだ。
坂を見るとつい登ってしまうという悲しい性を持つ灘っ子にとっては
西灘地下道の背中は気軽にのぼれる「坂」だった。
タッチの浅倉南は階段を登って大人になったが、灘っ子は坂道を登って大人になる。
地下道の急すぎず、緩すぎず、絶妙の傾斜は下校途中の子どもたちを魅了した。
スロープに寝転がって空をみたり、買ってきた串カツを食べたりした。
西灘地下道は背中に登って楽しむ「遊べる都市インフラ」だったのだ。
ザラザラとしたモルタルの背中は、グリップ力があって登りやすく、
「世界長グッピー」でもずり落ちない。公園の滑り台とは似て非なるものだ。
出入り口近くではヒヨコ売りや篠鉄砲売りなどのあやしげな露天商が店を開き、
目立ちたがり屋がてっぺんで西城秀樹を熱唱するステージにもなった。
いつも子どもたちが集う地下道は孫を背中に乗せてあやす「おじいさん」の姿そのものだった。

しかし、平成のリニューアルで西灘地下道の姿は一変する。
腰回りにはレンガタイルが貼られたのは百歩譲ったとしても、
直角三角形フォルムからシリンダー型への改変はとうてい看過できない。
つまりですね、子どもが地下道の背中に登れなくなったわけですよ。
「背中に登られへん地下道なんか地下道ちゃうわ!」
きっと子どもたちは変わり果てた西灘地下道に激しく落胆したに違いない。
いや、一番寂しかったの背中に子どもたちの重さを感じなくなった西灘地下道自身かもしれない。


2010年5月19日(水曜日)

地下道慕情(1)

カテゴリー: - naddist @ 19時30分02秒

その日は突然やって来た。
阪急王子公園駅前の「原田地下道」が撤去、いや、南入り口近くにあった灘区が誇る
地ソース「灘ソース」や玉子焼きの名店「たこ福」の記憶とともに地中に「埋め」られた。

都市インフラの中でも「暗い、汚い、怖い」の3拍子揃った地下道が好きな人は少ないと思う。
でも僕は地下道が愛おしい。
神戸は大きな幹線道路が小学校の校区内を分断しているため、子どもたちは通学時に歩道橋や
地下道を利用した。
昭和という時代に、地上の交通戦争から子どもの命を守ってくれた大切なシェルターだったのだ。
同じ役割を果たしたのが歩道橋だが、歩道橋が陽とすれば地下道は陰の存在だった。
歩道橋が天地真理だとすれば、地下道は安西マリアだ。
古すぎますか?
じゃ、歩道橋が松田聖子だとすれば、地下道は中森明菜なのだ。
ちがうか。
僕は頭のさきっちょから声を張り上げて「青い珊瑚礁」を歌う松田聖子より
少しドスの効いた声で「スローモーション」を歌う中森明菜が好きだった。
…えっと、話を戻そう。
ま、とにかく地下道は歩道橋と比べてドラマチックだった。
まず、地下道を降りるときの、少し「ゾワッ」とする感じ。
何か、イケナイ世界へ誘われるような、異次元への入り口のようなワクワクする感じ。
階段の先の見えない怖さ、そして何もいなかった時の安堵感。
でも、外の音が龍の鳴き声のように聞こえる反響音にまた怖くなって走る。
そして、登り階段の先に光が見えた時の嬉しさ。
どうです。歩道橋ではこうはいかない。
ひと歩きでいくつもの楽しみがあるのが地下道なのです。
(歩道橋は歩道橋の楽しみ方があるのだけど)

残念なことに僕らを導いてくれた地下道はどうやら廃止される運命にある。
かつての盟友、歩道橋だって撤去が進んでいる。
「ザラザラ」な昭和から「ツルツル」の平成へ。
地下道や歩道橋という「おでき」のような「ザラザラ」が街からなくなり、ツルツルの風景が
浸食して、どんどんドキドキワクワクできない街になっていくような気がする。
そんな街は、ほくろのないちあきなおみが歌う『喝采』みたいに何の味わいもない。

地下道がなくなった王子公園駅前は妙によそよそしくなった。
原田交差点のシンボルである、阪急電車の「原田拱橋(アーチ)」が街角の仲間の最期を
静かに眺めていた。

次回から「失われつつある昭和の道」地下道の魅力をひもといていきたいと思う。


2010年2月9日(火曜日)

奥摩耶の銀盤

カテゴリー: - naddist @ 11時00分09秒

まだ2月だというのにあたたかい。
やはり冬は寒くないと困る。
灘クミンとしは、バンクーバー冬季五輪よりも氷の彫刻作りが始まった「六甲山氷の祭典」
気になる。六甲山の冬の目玉イベントだが、今まで雨や気温上昇で難度も泣かされてきた

山上の氷を切り出して運んだ「アイスロード」という道もあるくらい六甲山と氷の縁は深い。
六甲山や摩耶山にある大小無数の池にはかつてのような分厚い氷は張らなくなったが、
かつては六甲山上の八代池、三国池、ひょうたん池などは天然のスケートリンクとして多くの
滑走客で賑わった。
シーズンになると六甲ケーブル下駅に各池の滑走の可否が表示された。
今からさかのぼること74年前の昭和11年に開催されたドイツ・ガルミッシュオリンピックの
女子フィギュアスケート日本代表、稲田悦子嬢は六甲山の八代池で練習していた。
今で言えば浅田真央が六甲山でトリプルアクセルを練習しているようなもので、
灘クミンとしては冬の五輪トピックとして記憶しておきたい。
昭和27年には、本格的なスケートリンクとして「新池スケート場」がオープン、
しかし年々暖冬になり氷の張る期間が少なくなり、次第に市街地のインドア型のスケートリンクに
客を取られていった。

奥摩耶スケート場

摩耶山にも小さなスケート場があった(写真上)。
昭和30年、摩耶ロープウエー開通と同時に、奥摩耶(現在の掬星台周辺)観光の目玉として
奥摩耶遊園地がオープン。自然の地形を生かした園内には様々な施設があったが、掬星台から
徒歩5分ほどの場所に「奥摩耶アイススケート場」が開設された。
オープン当初は賑わった奥摩耶遊園地もやがて来園者が減少し、ジェットコースターなどの
大型遊具もいつしか撤去された。奥摩耶スケート場も自然に戻され、摩耶自然観察園内の
「あじさい池」として第二の人生を送ることになった。
初夏になると周囲があじさいで埋め尽くされ、特に霧に覆われた時は浮世離れした幻想的な
風景が広がるあじさい池は、あじさいの名所として知られるようになったが、スケート場
時代の痕跡を見つけることができる。

あじさい池

古い写真と見比べていただきたい。
「奥摩耶スケート場」という看板が設置され、客がつかまった手すりが池の周囲にひっそりと
残っている。(写真下)
完全に撤去されたわけでもなく、廃墟化したわけでもない。
思いを巡らすことのできる頃合いの昭和の痕跡が心地よい。
この池は谷間にあるので、今でも厚い氷が張る。
「あじさい池」などという名前をつけられてしまったために、冬訪れる人は少ないが
「昭和の冬」を感じることのできる貴重な場所なのだ。
池の近くには立派な氷の滝があり、ひそかに「奥摩耶滝」と名付けている。

奥摩耶スケート場の手すり

地球温暖化は摩耶山や六甲山から冬を奪う。
氷の張らない摩耶六甲なんて、クリープを入れないコーヒーみたいなものなのだ。
せめて今週末はキンキンに冷える昭和の六甲山が戻って「氷の祭典」が無事開催されて
欲しいと思う。
 
 
 

写真:『写真で見る公社索道事業の歩み』(財団法人神戸市都市整備公社、昭和60年


2009年12月15日(火曜日)

都賀川ハードボイルド階段

カテゴリー: - naddist @ 18時00分40秒

都賀川ハードボイルド階段

最近階段が気になる。
階段といってもマンションの階段や、家の階段ではなく街の中にある階段。
気になるといっても「この階段、バリアフリーじゃないな」という気になり方ではなく、
むしろそれとは真逆で「上ってみるなら(下りてみるなら)上ってみろ」的な風情の
階段にワクワクする。

もう「ここで足を踏み外しても本望」と思えるほど愛おしい階段が都賀川にある。
都賀川が山手幹線と交差するあたりにある河床へ下りる小さな階段。
その「ワル」なたたずまいにグッと来る。
おそらくこの付近だけ公園化が遅れているので、昔の階段が残ってしまった
といった感じの明らかに昭和風情の「残っちゃいました系」の階段。
今のように河川敷におりて水と親しむための階段ではなく、落ちた物を拾うとか
非常階段のようなものだったのかもしれない。
昔々に上流から流されてきた石を思わせる歴史を感じさせる肌触り、なにか城塞の階段を
思わせるワイルドさは、きれいに整備された都賀川沿いではあきらかに異質なたたずまいで、
階段面(踏みづらという)もぼこぼこして、手すりすらない。
まるで上り下りすることを拒否しているかのように思える。
安心安全的な視線でみると、明らかにキケンな「肉食系階段」で、きっとちっちゃな時から
悪階段で15で不良で呼ばれたに違いない。
だいたい人に媚びていないのがいい。
「オレに近づくとケガするぜベイベー」的なハードボイルドさにそそられる。
都賀川は親水化され、誰もが気軽に川にアクセスできるようになった。
それはとてもすばらしいなことだと思うが、川は公園ではなく自然だということを忘れては
いないだろうか。(たとえ人工的なしつらえになっても)

そこで、このハードボイルド階段の存在が重要になってくる。

先週、都賀川の自然を象徴するかのような素敵な記事が新聞に掲載された。
灘区在住の水中写真家、宮道成彦氏が都賀川でアユの産卵の撮影に成功した。
振り返れば昭和40年代には洗濯排水が泡立ち、自転車が捨てられ、死んだフナに蛆がわき、
足にヒルが吸い付き「でかいドブ川」とまで呼ばれた都賀川をここまで蘇らせたのは、都賀川を
守ろう会を中心とする灘クミンの「灘魂」のたまものだと思う。
そして、かつては石垣に這いつくばって下りた川へのアクセスも容易になった。
しかしこの環境を守っていくためには、時にアクセスのしやすさが仇となる場合がある。
都賀川は親しい友人でもあるが、雄大な自然の一部である。
都賀川ハードボイルド階段は、そんな踏み外してはいけない人と川の一線を教えてくれている
ような気がするのだ。

この階段もいずれはなくなるのだろう。
その前に是非足を踏み外さないように下りてみていただきたい。


2009年12月3日(木曜日)

灘の廃線跡を行く〜神戸臨港線編

カテゴリー: - naddist @ 09時00分26秒

神戸臨港線踏切(2003年12月)

短い汽笛が「ポッ」っと寒空に響く。
あ、9時や…
実家のすぐ近くが、神戸港へ向かう臨港線の始発場所だった。
毎晩9時に港へ向かう貨物列車が発車する。
その音が時を告げる鳩時計のように暮らしにとけ込んでいた。
灘の街から臨港線が消えて8年たった。
神戸の重要な魅力の1つ「ミナト」を、アピールできる資源の1つだったので残念に思う。
観光や生活路線として再活用することはできなかったが、遊歩道化され「市道臨港線」として
生まれ変わった。
今まで歩けなかった線路敷を歩いてみることにした。

JR灘駅の南、踏切があった場所から遊歩道が始まる。
長い長い貨物列車をやりすごした踏切。
近くの溝ではザリガニが釣れた。
残念なことに、踏切の東側に線路に立ちふさがるように無粋なマンションが建ったが
このマンションを建てた会社は今年潰れた。
言わずもがな、である。
街の歴史に敬意を払わない報いだ。

道路をまたぐ鉄橋も形を変えて残された。
「庄境架道橋」とかかれた橋の下を通るのは区境の道路。
きっと古くから村の境目だったのであろう。
昭和4年までこの道路から西が神戸市で、東側は武庫郡西灘村と呼ばれていた。
文字通りここから街が変わる。匂いが変わる。
男と女の間には深くて暗い川があるらしいが、子どもにとっても灘区と旧葺合区の間に
道幅以上の距離を感じたものだった。

庄境架道橋

旧神鋼病院北のカーブ

臨港線は灘区から旧葺合区域へ入ると、南へ大きくカーブする。
遊歩道には鉄道のキロポスト表示を模したサインもある。
またところどころホンモノの標識も残されている。
カーブの南側にバームクーヘンのような形が斬新だった神鋼病院があった。
毎週のように通った思い出の病院。
高度経済成長期、工場が林立し「灘名物の百煙突」とも揶揄された灘・葺合の海岸部は
空気も悪かった。小児喘息で苦しむ子どもも多く、私もその一人だった。
神鋼病院の小児科の待合室には毎日大勢の喘息児童があふれ、苦しそうな咳が病院内に響く。
それがいやで、診察を待つ間病棟の外に出て臨港線を眺めた。
長い貨物列車がカーブをゆっくりと通り過ぎると、ディーゼル機関車の排煙のむせるような
熱気と匂いがあたりに漂った。
現在はこのカーブのあたりに小さな線路が引かれている。
隣接する県立科学技術高校の鉄道研究会の模型蒸気機関車走行会に使われるという。
皮肉なことに臨港線がなくなって本物の蒸気機関車が走ることになったのだが、
歴史を踏まえた素敵な仕掛けだと思う。

旧神鋼ファウドラー付近

山側に目を向けると、かつては甍(いらか)の波ならぬ、神鋼ファウドラーの水色のトタン屋根
の波が広がっていた。
現在はマンションが林立し風景は一変してしまったが、遠くに見える摩耶山の紅葉は昔のままだ。
このあたりでは琺瑯タンクが製造されていた。おそらく灘の酒蔵でも醸造用タンクとして使われ
ただろう。この近くにある灘の地ソースメーカー「プリンセスソース」では、今でもここで造ら
れたタンクが使われている。

脇浜拱橋

いよいよこの臨港線のハイライト「脇浜拱橋」にさしかかる。
伸びやかな鉄橋で広い国道2号をまたぐ。
国道を西へ向かうとき、この橋をくぐると灘区を出たという感覚になった。
心理的な灘区の西のゲートだったのかもしれない。
橋上には架線柱も残され、かつての神鋼ファウドラーの屋根の色と呼応するかのような
懐かしいベビーブルーもまぶしく塗り直されている。
まさかここを歩いて渡れるとは思いもしなかった。

脇浜拱橋

重工業の街から新しい街へ、震災後めまぐるしく移り変る臨港線沿線だが、
脇浜拱橋を渡ると昭和のあじわいを色濃く残す懐かしい風景に出会った。
歴史を感じさせる日本香料の社屋が、軌道脇にそっとたたずんでいた。

日本香料

そのユーモラスな姿から「春日野道のゾウさん」と呼ばれた、川鉄「西山記念会館」のあたりで
遊歩道は終わるが、一部本物の鉄路が保存されていた。
枕木の間に雑草が生えている、あの懐かしい臨港線のたたずまいそのものだ。
HAT神戸方面から歩いてきた親子連れが不思議そうに線路を見つめていた。
「なんでこんなところに線路があるんかなぁ」
彼らはこの線路の上を「神戸港からヨーロッパへ向かう欧州航路の船客を乗せた特別列車が走った」
ことなど知る由もない。
線路にそっと耳をつけてみて欲しい。
もう貨物列車は走ってこないが、明治、大正、昭和とミナトコウベを支えてきた老兵のつぶやきが、
あるいは、この周辺の工場で働いていた人々の息づかいが聞こえてくるかもしれない。

残された臨港線の線路

2009年12月5日(土)に、臨港線跡を探訪するツアーを開催します。
解説付きのガイドウォークです。
ふるってご参加ください。
詳しくは下記リンク先をご参照ください。
「灘まちなみ建築探訪vol.11〜臨港線編」



2009年11月17日(火曜日)

帰ってきた傾いた喫茶店(2)

カテゴリー: - naddist @ 17時00分52秒

11月14日。
イースト水道筋の一角、骨董通りの路地に、昨年末に閉店した永手町の傾いた喫茶店こと
「レードルのアレ」の甘酸っぱい芳香が漂った。
限定20皿分はすべて予約済み。
あとはお客さんを待つだけだ。

「看板はいらんのちゃう?レードルよりミニ言うたほうが分かる人多いし」
店頭に置かれたレードル時代の看板を見てマスターが照れくさそうに笑った。
「ミニ」という名前があまり好きではなかったので店名を変えたという。
六甲模型に行くときによく目にしていた「ミニ」に、初めて行ったのは
高校生の頃、日尾町の友人宅に行った帰りに寄ったような記憶がある。
2階の窓際席で、たしかアイスレモンティを飲んだ。
1階にはアップライトのピアノ、2階にも楽器が置いてあった。
当時はしばしば店内でライブもあった。

「あ、CD忘れた!なんか音楽ある?」とマスター。
「なんでもいいっすか?」
はて、BGMは何がいいだろう。
手元にあったiPodをブラウズして「はっぴいえんど」を選んだ。
昭和45年、市電が廃止された直後の山手幹線に姿を現した傾いた喫茶店の風情と
同時期にデビューしたはっぴいえんどの『花いちもんめ』の歌詞がリンクした。

 ぼくらが電車通りを駆け抜けると 
 巻き起こるたつまきで街はぐらぐら 

やがてカレーの香りに引き寄せられるかのようにお客さんが集まってきた。
メニューは1種類なので、誰もオーダーはしない。
黙って座っていると、「アレ」が出てきた。
もちろん皿もスプーンもすべてレードル時代のものだ。
14個の紅玉と14個の玉ねぎとホールトマトをじっくり煮込んだ無水カレー。
「今日は商売やないからステーキ用の肩ロースも入れてん。せっかく来てくれるねんからね」
と、寡黙なマスターがぽそり。
それ以上、会話があるわけではない。
特に復活の高揚感があるわけでもない。
寂として声無し。
みな黙々とスプーンを口に運ぶ。
一口食べると口に広がる衝撃的な甘酸っぱさと濃厚な旨味。
そしてその後にやってくるじんわりとした辛さ。
激辛ではないが、体の芯から汗が吹き出す。
味の時間差攻撃、タイムラグがこのカレーのキモだそうだ。

午後3時、全てのカレーがなくなった。
「最初つくったときは感動したんやけど、今食べたらそうでもないな」
誰もいなくなった店内で、マスターは少し残ったカレーを食べて言った。
店の外の昭和の面影を色濃く残す路地には柔らかい秋の光が射し、レードルの
看板越しに摩耶の山並みと青い空が見える。

 紙芝居屋が店をたたんだあとの 
 狭い路地裏はヒーローでいっぱい

店内にはまた『花いちもんめ』が流れていた。
「でもやっぱりBGMは『シバの女王』がええな」
来年復活する時は用意しておきます。


2009年9月23日(水曜日)

ゆく橋、くる橋[灘駅跨線橋]

カテゴリー: - naddist @ 10時10分21秒

2009年9月22日、昭和の生き証人がまた一つ灘から消えた。
80余年の間、灘の南北をつないできた橋がその役目を終える。
昭和初期にかけられた灘駅跨線橋は新しい自由通路の完成によって
解体撤去される。
三宮から一駅、都心の駅の建造物とは思えないその風情は貴重な風景だった。
前日に開催された当サイト主催のイベント「灘駅跨線橋渡り納めツアー」には
多くの参加者が集まった。

岩屋の自宅から水道筋の市場にあった店まで毎日この橋を自由通路として
往復した鮮魚商の大将は、愛おしそうに橋を触った。
重い荷物を持ってこの橋を毎日毎日上り下りしたという。
「懐かしい思い出の橋やから、お別れに来てん」
駅を通り抜けるときに発行された通行許可証も橋と一緒になくなる。

「この橋から僕らの生活が始まった」
故郷を出て、神戸に来た沖永良部出身のSさんは懐かしそうに古い橋を眺めた。
「永良部人(えらぶんちゅ)は、灘駅には特別な思いがあるねんで。
僕らにとっての『あゝ上野駅』や」
『あゝ上野駅』は集団就職の少年たちをテーマにした井沢八郎のヒット曲だが
灘駅周辺に多く住む奄美・沖永良部の人たちは、悲喜こもごもの出会いと別れが
繰り広げられた上野駅を灘駅と重ね合わせたのだろう。

「いやあ、最後の最後間に合いました!」
切り絵作家の成田一徹さんが南口で跨線橋をカメラに収めていた。
成田さんはかつて「昭和の残り香」として灘駅を切り絵にした。
水道筋の酒場で跨線橋解体のことを聞き、急遽駆けつけたという。
少し上気した顔で、子どものようにシャッターを切っていた。

2004年に開催したイベント「灘駅で本を読む日」で灘駅で本を読んだ朗読家の甲斐祐子さんは
この日ホームの端で小さな小さな朗読会を行った。
甲斐さんが「古い橋」に向けて最後に読んだ作品は、灘駅前、原田の森にあった関西学院出身の詩人、
竹中郁の「伝言板」だった。

――先にゆく 二時間も待った A
恋人どうしか ただの友達どうしか
――先にゆく 先にゆく
おれも なにかを待っていたが
とうとう この歳になっても 来なかったものがある
名声でもない 革命でもない もちろん金銭でもない
口で云えない何かを待った
いま広大無辺な大空に書く
白い白い雲の羽根ペンで書く
――先にゆく と

灘駅は先にゆき、残されたクミンの心には、何度も何度もペンキが塗り重ねられた人の皮膚の
ような壁の手触りと、人が通るたび音を立てる木の階段のゴトゴトという音が消せないシミの
ように残った。
新しくできる自由通路は灘駅で分断された南北の街の人の悲願だったことはよく分かる。
分かるのだが、なにか釈然としないものが残る。
古いものを残しつつ新しい自由通路を確保することはできなかったのだろうか。
灘駅の建造物は水害も、戦災も、震災もくぐり抜けて来た貴重な歴史遺産だったはずだ。
もう2度と作ることはできない。
新しい自由通路には前の駅舎にあった窓をモチーフにしたデザインが施された。
こんなものはあくまでも「イメージ」でしかない。
この駅に蓄積された無数の記憶や手触りは再現することはできない。

新しい橋(自由通路)を見て唖然とした。
南口にまるで天上寺参道のような長大な階段が聳えていた。
58段あった。
古い跨線橋は37段。
21段も階段が増えている。
もちろんエスカレータはない。
これではバリアフリーの名の下に壊された古い橋が浮かばれない。

今日から新しい橋は新しい記憶を積み重ねて行く。
この新しい橋が、古い橋のように愛される橋になるかどうかは
灘クミン次第なのだ。

最終電車が来る少し前、線路際で小さなイタチが跨線橋を見つめていた。
彼らの遊び場も今日でなくなる。
新しい橋にイタチは寄り付くまい。
さようなら、そしてありがとう灘駅跨線橋。


2009年8月26日(水曜日)

下町の小さな山

カテゴリー: - naddist @ 09時00分10秒

灘区の山と言えばほとんどの人が六甲山、摩耶山の名前をあげると思う。
あるいは長峰中出身なら長峰山とか。
とにかく灘区の北側はすべて山で、六甲ケーブルに摩耶ケーブル、ロープウェー、そして
有馬へ抜ける六甲有馬ロープウェーと実に4路線ものケーブル、ロープウェーネットワーク
がある日本有数の山の街なのだが、そんな背山とはひと味もふた味も違う、街の中にひっそり
とたたずむ山がある。
しかもすぐ南には国道43号線が走り、北を阪神特急がけたたましく駆け抜ける灘の下町に。

灘区の浜手の街、都通。
阪神西灘駅から南へ3分ほど歩くと、標高7〜8mの小さな山「大塚山」がある。
正式名称は西求女塚古墳。灘が誇る前方後方墳だ。
三角縁神獣鏡が出土し、世紀の発見として一躍脚光を浴びたのも記憶に新しい。

しかし地元の古老たちはこの古墳を「大塚山」と呼ぶ。
昭和初期、大塚山には大きな屋敷があった。
屋敷には釜風呂をひっくり返したような屋根の茶室や、
中国風の奇妙な門、そして山を囲むように観音様が配置され
八十八カ所巡りができたという。
摩耶山や一王山とまったく同じような「ミニ八十八カ所巡りスポット」が浜手にあったと
いうことは興味深い。
ここは子どもたちにとっても格好の遊び場で、ガキ大将たちが山に登り周りの街を見渡した。
彼らにとってはここが「Top Of The World」だったに違いない。
やがて戦争になり、大塚山の屋敷も灰燼に帰した。
戦後、大塚山はまた山に戻る。
昭和36年大塚山は公園として整備され、子どもたちの歓声が戻ったが
子どもたちは公園とは呼ばず、やはり大塚山と呼んだ。



昭和初期の大塚山(写真協力:本田様)

大塚山の南東角にはたくさんの観音様が無造作に安置されている。
それぞれには番号がふられている。
八十八カ所巡り時代の観音様たちだ。
通常公園内に地蔵や観音様が安置されることはない。
宗教云々っていうやつだ。
ふざけんなといいたい。
お地蔵さんや観音様はここが神戸市に編入されるずっと前からこの地にいるのだ。
摩耶山もそうだ。
旧天上寺が延焼し、敷地が公に移管されたとたん摩耶山中の野仏たちは
全て撤去された。
過去を振り向かない神戸らしい対応ともいえるのだが、過去へ礼をつくさない
実に味気ない態度だ。
(しかも残しておけば観光スポットになったかもしれないのだ)

大塚山は違った。
公園化されても石仏は撤去されずに残された。
地域の人の強い思いがあったのだろうか。
あるいは撤去できない「なにか」があったのかもしれない。
8月23、24日には大塚山では地蔵盆が行われる。
深い歴史を刻んだ昭和の証人たちが地元の人々の提灯で彩られ、
子どもたちがそっと手を合わせる。

草に覆われた大塚山の頂上に登ってみた。
すぐ南を大型トレーラーが行き交ってるとは思えないエアポケットのような空間。
かつてはここから、雄々しい摩耶の山並みや、白砂青松の美しい砂浜が見えたのだろう。
今は頭上に青い空がぽっかりと見える。
下町の知られざる山、大塚山。
是非この山に登って、ひっそりと残る足下の歴史を味わって欲しい。


大塚山(求女塚西公園)
神戸市灘区都通3-1
アクセス:阪神西灘駅より徒歩3分


大きな地図で見る


2009年8月13日(木曜日)

マヤ遺跡群

カテゴリー: - naddist @ 19時00分38秒

蒸し暑い日が続く。
心配ない。灘区には山がある。
下界との温度差5°
まだクーラーがなかった昭和の初め、灘クミンは摩耶山の天然クーラーで涼をとった。
電鉄系の施設が多く「よそいきの避暑地」として開発が進んだ六甲山に比べ
摩耶山は天上寺を中心とした「地元の避暑地」としてにぎわった。
普段ならケーブル、ロープウェーを乗り継いで上がる摩耶山だが、
夏は是非ケーブル虹の駅で下車し、昭和の避暑地をたどっていただきたい。

まやビューラインの中間駅「虹の駅」から旧天上寺までの参道には今も昭和が残っている。
いわゆる「マヤ遺跡群」だ。
昭和初期はまだロープウェーもなく、ここが摩耶山上駅だった。
駅前にはかつて「摩耶一茶」という茶店があった。
「ここのうどんはおいしかった!」というクミンは私だけではあるまい。
摩耶ロープウェー虹の駅までの間には、ほかに5〜6軒の茶店や射的場がならんだ
天上寺門前街といった風情だった。

摩耶一茶跡

摩耶一茶跡

両側に草が生い茂った石段をのぼり、小さなほこら「高尾明神社」を過ぎ、
しばらく行くと「摩耶花壇」と呼ばれる廃屋が残っている。
サウナ風呂や入院施設のあった療養所だったそうだ。
摩耶の清々しい空気を吸いながら、患者たちは英気を養ったのだろうか。

摩耶花壇跡

摩耶花壇跡

このあたりは旧天上寺の塔頭跡の構造物が草の下で静かに横たわっている、
上野道への分岐点に地蔵の祠があるが、このあたりに「下のアメヤ」と呼ばれる茶店があった。
おはぎ、ぜんさい、きな粉餅、焼きとうきびなどの甘味などがあったが、なんといっても
ここの名物は「ネコのフン」だ。
芋飴の中に煎った大豆が入った姿が猫のソレに似ていることから名付けられた
伝統の「摩耶スイーツ」である。
下のアメヤでは他にもおはぎ、ぜんざい、きな粉餅、焼きとうきび、昆布菓子など
山歩きに適した甘味が供されていた。

下のアメヤ跡

下のアメヤ跡

参詣者に「ほうけんどう」と呼ばれていた宝筐印塔(ほうきょういんとう)を過ぎると、
つづれ折りの坂道になり、いよいよ山岳寺院の趣が深まる。
青谷道との分岐を右に行くと小さな踊り場のようなスペースがある。
「ヤメア」と書かれたコンクリート製の構造物が残っている。
これは右からアメヤと読む。
つまり、ここにアメヤ(茶店)があったことを示している昭和の遺構だ。
ここには「上のアメヤ」と呼ばれた茶店があった。
「ししおどしもあったなあ」と天上寺の伊藤貫主。



今でも残るラムネ冷やし台

夏は引いてきた山水を、さきほどのコンクリート製の水槽にためて、ラムネなどの飲み物の他
トマトや摩耶山で採れたアケビなどを冷やして売っていた。
なんとも風流な「山カフェ」である。
ラムネでのどを潤し、涼しげなヒグラシの声を聞きながら一息ついて見上げれば、
うっそうとした森の中に仁王門がたたずむ。
「さあ、もう一息や」
ここから参詣客は300余段の階段を上り、天上寺を目指した。

8月15日と22日の両日、仁王門下の「上のアメヤ」で数十年ぶりにラムネを売るイベントを
開催します。
当時の古い写真も展示しているので、昭和の参詣客になった気分で摩耶山に涼みにきてください。

「摩耶山ラムネ茶屋〜帰ってきた上のアメヤ」
平成21年8月15日(土)・22日(土)
12:00~16:00
場所:旧摩耶山天上寺仁王門前(摩耶ケーブル虹の駅より徒歩15分)
主催:摩耶ビューラインサポーターズクラブ(仮)
協力:灘百選の会・灘区役所

摩耶山ラムネ茶屋

摩耶山ラムネ茶屋地図


2009年7月28日(火曜日)

水害と地蔵

カテゴリー: - naddist @ 12時00分35秒

いにしえの六甲道に思いを巡らせる「永遠の六甲道」を今回から灘区全域を対象に、
昭和の残り香を訪ねる「灘区昭和館」としてリニューアルしましたのでよろしくお願いします。

都賀川の事故から1年経った7月28日、「都賀川を守ろう会」による慰霊式典が行われた。
いつもはおだやかな、摩耶六甲の山並みも、都賀川のせせらぎも、一度牙を剥けば
恐ろしい自然だということを、灘クミンは肝に銘じなければならない。
先週から今週にかけて各地で起こっている土石流災害などの豪雨被害。
昔から山津波に見舞われてきた灘クミンにとっても決してひとごとではない。
神戸はおよそ30年周期で大きな水害に見舞われてきた。前回の水害が昭和42年だから、
かれこれ40年以上。いつ六甲山が街に牙をむいてもおかしくない。

街の中にひっそりとたたずむ地蔵。
実は水と格闘してきた記憶を今に伝える生き証人でもある。
都賀川下流の大石南町でユーモラスな笑みを浮かべる「太郎八地蔵尊」は、1765年7月16日の
台風で都賀川上流から流されてきた。大石の太郎八という人が拾い上げ、この地に安置したので
太郎八地蔵と呼ばれるようになったと伝えられている。
流されてきた日を命日にしたのでここの地蔵盆は多地区の地蔵盆より1月以上早く行われる。

太郎八地蔵尊

上野通にある観音寺という字名は、かつて観音堂があったことから名付けられた地名だが、
この観音堂の観音様は摩耶山中から大水で流れてきたものを安置したといわれている。
摩耶山の観音様も水害の被害者だったのだ。

観音寺バス停

そして昭和13年7月5日、一度牙を剥いた自然を止めることはできなかった。
六甲山からの山津波は大地を震撼させながら、一瞬のうちに家屋を飲み込んでいった。
忌まわしい阪神大水害は灘区だけで死者127人を出した。
荒れ狂った六甲川と杣谷川は都賀川で合流し、その被害は凄惨を極めた。
合流点の川幅、いや土石流の幅は200mにも及んだという。
濁流は水道筋を越え、旧灘警察と区役所を直撃、省線(現JR)を越え、浜手の町を襲った。
実家の近くに流れていた観音寺川には石や木に混じって、上流にあった湊川女学校(福住通)
の女学生も流れてきたという話も、夏になると近所の古老から聞かされた。
浜手の下河原通に「復興地蔵」と名付けられた地蔵尊がある。
阪神大水害からの復興を願って名付けられたという。
普段、地蔵名は表記されていないが、地蔵盆のときだけ「復興地蔵尊」と書かれた
提灯が揺れる。

復興地蔵尊

他にも灘区内には水難にあったお地蔵さんが多数まつられている。
彼らのつぶやきに耳を澄ませてみよう。
灘区は水と戦ってきた街だということを教えてくれるはずだ。
彼らは記念碑や慰霊碑ではなく、街の生き証人なのだから。

[告知]
今年も8/23に地蔵盆を巡る探訪イベント「灘区地蔵盆ラリー」を開催します
詳しくはこちら


2009年2月5日(木曜日)

傾いた喫茶店よ永遠に(2)

カテゴリー: - naddist @ 12時00分11秒

閉店したレードルのマスター曰く、
「どうせ捨てるねんから、店のものでいるもんあったら持っていってな」
閉店したとはいえ店内にはまだレードルの残り香がたくさん残っていた。
マンガも旧式の冷蔵庫も古いランプシェードも、けなげに客を待っているかの
ように佇んでいた。

僕はマッチをもらった。
レードルではなく「ミニ」時代の貴重なものだ。
ちゃんと傾いた建物が表現され、しかもミニの「M」の文字が建物のシルエットに
なっているところなどなかなかのデザイン。
喫茶店と言えばやはりマッチはつきもの。
これで火をつければまるでマッチ売りの少女のごとく、マッチの暖かい炎とともに
レードルの煮込みハンバーグや甘辛カレーが現れるかもしれない。
いや、まてよ。
もっと多くのクミンとレードルの記憶を共有できないだろうか?
そして小さなプロジェクトを思いついた。
その小さなプロジェクトとは
「リメインダーズ・オブ・ザ・レードル・サクセション(レードルの残り物の継承)」
コードネーム「RLサクセション」である。

まずは旧灘温泉の番台のリユースで実績のあるチンタのマスターに声をかけた。
1月4日に畑原市場にあるチンタ宵酔食堂はチンタ本店としてリニューアルオープンした。
本店があるのなら支店はどこなのか?などという無粋な詮索はここではやめておこう。
店内のインテリアも、以前の立ち飲み風の高いカウンターからゆったりとくつろげる
タイル張りのカウンターへ大きく変わった。
このニューチンタのカウンターに、閉店したレードルの椅子が組み合わされた。
そう、現在レードルの椅子は畑原市場にあるのだ。
座ってみた。
ああ、この感触。
レードルの椅子だ。
固くもなく柔らかくもなく。
奇をてらう事なく、客を支えてきた
永遠の六甲道の椅子が、今水道筋の酔客の体を支えている。
ピカピカの六甲道では行き場を失った椅子を、水道筋は優しく迎え入れた。
まるで前からここにあったかのように。
チンタに様子を見に来たレードルのマスターがぽつりと言った。
「面白い場所や、水道筋は」

もう一つ、レードルものが水道筋にある。
チンタからほど近い畑原東商店街のスタンドモンク。
この店のステンレス製の水差しもレードルから譲り受けたもの。
あの特辛カレーにはかかせなかった水差しである。
長い間の使用で年季の入った業務用の水差しが暗い店内で鈍い光を放つ。
モンクのカウンターは旧灘温泉の番台のリユースだが、あらたに灘の老兵が加わったことになる。
「長い間ご苦労でしたな」
「いやいやおたくほどでもないですわ」
カウンターと水差しの会話が聞こえてくるような気がした。

歴史をムダにするのは実にもったいない。
かつての記憶を今の街で生かしていくこと。
ノスタルジックに浸るだけでなく、新たな物語を積み重ねていくこと。
記憶のリサイクルと言ったら言い過ぎだろうか。
こうしてレードルの記憶の一部は、水道筋で生き続ける事になった。
そしてRLサクセションプロジェクトはまだまだ始まったばかり。
モノだけではなく味も継承したい。
そう、次はカレーだ。(続く)


2009年1月8日(木曜日)

傾いた喫茶店よ永遠に(1)

カテゴリー: - naddist @ 11時00分30秒

その日は突然訪れた。
昨年末、ナダタマ事務局に1本の電話が。
「店閉めることにしてん」
ナダの斜塔、傾いた喫茶店こと「レードル」が昨年末ひっそりと長い
歴史に幕を下ろした。

震災後、大きく姿を変えた六甲道周辺で、数少ない六甲道DNAを
引き継いだ店がまた一つなくなる。
もちろん建物だけではなくて味も、だ。
一風変わったビジュアルが取り上げられることが多かったのだが、
ここは喫茶店というよりレストランであり、手間ひまかけてつくる
手作りのカレーやハンバーグがこの店の売りだった。
もちろんこの店はメディアで紹介されるような商売上手な洋食屋でも、
小洒落たビストロでもない。
あくまでも「普通のおいしさ」を作り続けてきたんだと思う。
建物とは違って味に衒いはなかった。

新しい街になった六甲道周辺は○野屋や宮本む○しなど「どこにでもある」
24時間のチェーン店が増えた。
灘っ子は食べ物に関してうるさいからそういう店は続かない、などという
予想を覆しそれらの店は着実に根付いていった。
そして六甲道は「そういう街」に生まれ変わった。
「最近の若い子はコンビニやチェーン店の味がええらしい」
レードルのマスターは六甲道かいわいから六甲道DNAを持った手作りの味が
なくなっていくことを寂しそうに嘆いていた。

六甲道かいわいに住んでいる灘クミン一部の灘クミンと話をしていて
気づくことがある。彼らは往々にして自分の住む街に「味わい」(おいしさという
意味ではなく)を求めていない(人が多い)。
彼らが望む街は、昼夜の区別なく明かりを放つ誰もがよく知っているチェーン店があり、
巨大スーパーが林立し、JRの快速が止まり大阪にも三宮にも出やすい、どこにでもある
コンビニエント(便利)な街なような気がしてならない。
彼らにとってもはや街は愛する対象ではない。
きっと欲望が満たせればいい場所なのであろう。
街を愛せないから、店も愛せない。
きっと建物が傾いていたり、オリジナルの手作りの味なんてどうでもいいのだろう。
そんな街に、傾いた喫茶店は「まっすぐに」立っていた。
いや、あまりにもまっすぐに立ちすぎていた。

傾いた喫茶店には一部、城のモチーフが使われていることにお気づきだろうか。
ここは街の味を守ろうとした城だったのかもしれない。
閉店した店の傾いた窓から外の街を見てみた。
ひょっとしたら建物ではなく街が傾いているのかもしれない、
そんな風に思えてしかたがなかった。(つづく)

[参照:傾いた喫茶店レポート]
41日目 傾いた喫茶店物語(1)
42日目 傾いた喫茶店物語(2)
43日目 傾いた喫茶店物語(3)

[naddist001010-69]レードルのアレ【一杯、食べとく?02】


2008年9月2日(火曜日)

六甲道番外地〜富士映劇

カテゴリー: - naddist @ 22時50分45秒

六甲道から少し離れているが、前回、前々回と六甲道の映画館の話題が続いたので
ついでにここも紹介しちゃいます。
いや、「ついでに」なんていうと、きっとここで青春時代を過ごした諸先輩方から
怒られるかもしれないが。

昔六甲道から2号線を…いや『阪神国道』を通り三宮へ向かう市バスが走っていた。
六甲道が終点になる前は現在親和女子がある旧神戸外大まで走っていたので
「外大前行き」と呼ばれていた市バス17系統。
このバスに良く乗った覚えがある。
六甲道駅南口を出たバスは八幡線を南に下り、桜口から2号線へ…いや『阪神国道』を西へ。
ここからは当時「銀バス」と呼ばれていた阪国バスと同じコースを進む。
県営烏帽子住宅を過ぎると右手にナダシンが見え、運転席後ろの「次止まります」
ランプが点き、やがて河原バス停に到着する。

この河原のバス停の真ん前にあったのがご存知「富士映劇」。
バスが止まると「金曜土曜日祝日オールナイト」の看板とともに否が応でも
目に入るのがめくるめくピンク映画のポスター群だった。
『痴漢電車 車内で一発』『痴漢電車 前から後から』
など新東宝の痴漢電車シリーズが多かった記憶がある。
子ども心に「なんだかわかんないけど電車ってすげえ」と思った。
また子どもたちの間では「どうも阪神電車内の実話らしい」などといったまことしやかな
噂がかけめぐった。
ときおり映画館から出てくる客が見えた。
彼らは背中を丸め、ポケットに手をつっこみ、逃げるようにそそくさと立ち去った。
この映画館は、どう考えても「悪所」としか思えなかった。
母親などとバスに乗ったときは絶対に目をそらせた。
(とはいえチラ見していたが)
できれば河原のバス停に止まらないで欲しいとも思った。
(とはいえチラ見していたが)
このバス停にはえも言われぬ「影」があった。
末期はピンク館だった富士映劇だが、もともと神国キネマと呼ばれていた一般映画館
で、日活の渡り鳥シリーズや「シンドバッドの冒険」などの洋画もかかっていたそうだ。
また灘区内の映画館では珍しい2階席もあった。

そんな富士映劇だが、神戸を離れているあいだに閉館していた。
現在はJAFの建物が建ち、すこぶる健全になった。
もう河原バス停でおりてもなにも恥ずかしくない。
恥ずかしくないのだが、なんか物足りない。
街に影が無くなった。
健康的で明るい場所ばかりでは街に深みが出ない。
つまり物足りない。
だからといって六甲道にストリップ劇場をつくれ、というわけではないのだが。

話を神戸に広げてみる。
神戸はいつの間にかワクワクしないない街になってしまった。
港街特有の「影」と山の手の「明」、そしてそれをつなぐ中の手の「グレーゾーン」。
街のグラデーションや明度差が神戸の魅力だったと思う。
かつては南京町や高架下やメリケン波止場の「影」が神戸に妖しい艶を与えていたはず。
だからみんなそんな「コウベ」にワクワクしたんだと思う。
眩しいばかりの「ハイカラ・モダン」はコウベの「影」があったからこそ引き立ったんだと思う。
灘で言えば「富士映劇とその前を通過するみなとまつりの花電車のコントラスト」である。
今の神戸はコンビニの陳列棚のようで、街に影がない。
暗い外人バーはなくなり、24時間明るい宮本むなしが席巻する街。
ま、そんな「安全安心」な観光地はコンビニ世代には受けがいいのかもしれないが。

富士映劇。
灘の街にとって大事なものを無くしたような気がする。

富士映劇跡

富士映劇跡。
現在はJAFに。
市バスはなくなり、阪国バスも銀色ではなくなったが
バス停は今も変わらず。


2008年8月12日(火曜日)

52日目 桜口の映画館、六甲映画劇場

カテゴリー: - naddist @ 14時30分14秒

前回のエントリー「六甲東映」に、多くの諸先輩方のコメントが寄せられた。
ありがとうございます。

灘区から最後の映画館が消えて4年がたった。
先日第4期が開講した灘大学
1回目の講座は「水道筋学」だったのだが、学生から当時の映画館のエピソード
に関する発言もいくつかあった。
灘クミンの中の映画館はまだ健在なのだ。

僕にとって映画館は不思議な施設だった。
そんなに頻繁に行かなくとも、映画館が我が街にあるだけで、
自分の住んでいる街に、毎日カタカタと音を立ててまわる映写機があるだけで、
なんとなく安心だった。
それは毎日乗らずとも、摩耶山や六甲山で黙々と動き続けているケーブルカーや
ロープウェーに対する感情に近い。
そういった安心感は、それらを動かし続けている街の力強さ、いや街の余力から
来るものだったのかもしれない。
今の灘区は、むんむんとむせるような街の力強さは影を潜めた。
新しい街になって一見活気があるような六甲道でもそう思う。
いや、もう街の余力にたよる時代ではない。
ケーブルカーを動かしたいのなら、映画館が欲しいのなら、灘クミン自ら企画し運営する。
きっとそんなフェーズに入って来たのだと思う。
「昔は良かったね」だけではあまりにも寂しすぎる。

さて、実は六甲道には六甲東映の他にもう一軒映画館があった。
大阪万博あたりまであったそうだが、これに関しては全く記憶がない。
場所は駅の南側、桜口交差点北、現在の灘区役所あたり。
ちょうど御旅所の南、三和銀行があった場所に「六甲映画劇場」があった。
昭和35年10月20日の神戸新聞朝刊に掲載された映画案内を見てみると、
このとき上映されていたのは
・白子屋駒子
・がめつい奴
・爆発娘罷り通る
東宝系の三本立て。
てことは、ゴジラとかもやっていたのだろうか?

S35.10.20神戸新聞朝刊映画案内
(S35.10.20神戸新聞朝刊映画案内)

またここは「火事のあった映画館」として記憶している灘クミンも多い。
「六甲映画劇場な、小林旭の映画見てたら火事になってなぁ」
という証言もある。
ん?小林旭ってその当時日活では?
どうやら封切館ではなく二番館、三番館だったようである。

とにかく、またまた諸先輩方の記憶にたよるしかない。
六甲映画劇場体験のある方。
またそのたたずまい等を覚えていらっしゃる方。
コメントよろしくお願いいたします。

六甲映画館跡

六甲映画劇場跡。現在はWeLv4番街1番館のビルがそびえる。
正面にあった八幡市場はパニエに。


2008年8月5日(火曜日)

51日目 ええとこええとこ六甲東映

カテゴリー: - naddist @ 09時30分32秒

先月7月26日に水道筋商店街で「水道筋アーケード劇場」というイベント
が開催された。
「スクリーンがあった街・水道筋」を真夏の夜に復活させる、もう今年で
5回目か6回目かの水道筋の夏の定番イベントだ。
今年もお手伝いをさせていただいたのだが、なかなかの好企画だと思う。
アーケードに設置された巨大な特設スクリーンに映る「アンパンマン」を
食い入るように見つめる子どもたちを見ていると、ふと子どもの頃を思い
出した。

今のような大画面TVもなく、まだ白黒TVも現役で、せいぜいキドカラー
やパナカラーの18型程度の、のぞき穴くらいの画面を「のぞいて」いた僕ら
にとっては映画館のスクリーンはあまりにも広大だった。
春休み、夏休み、冬休み前になると小学校前で、インチキくさい計算尺や
学研の勧誘、篠鉄砲売り、色付きひよこ売りなどに混じって「東映まんが
まつり」や「東宝チャンピオンまつり」などのいわゆる「まつり系映画」
の割引券が子どもたちに大量にばらまかれた。
それを握りしめて水道筋へ走った。
ゴジラ以外はほとんどTV番組を無理やり映画化したものだったが、それでも
大画面で見る仮面ライダーや、「ポニョ」の原型とも言われる宮崎アニメ
「パンダコパンダ」は迫力があった。
しかも「豪華6本立て!」みたいな、これでもかっ!て感じの怒濤のプログ
ラムだったのだが、母親が水道筋で買い物をしている間しか見ることができ
なかったので、たいてい半分くらいしか見ることができなかった記憶がある。

そして、高校生くらいでまた映画館通いが始まるのだが、そのころになると
8軒ほどあった水道筋の映画館もほとんどが閉館していたので、三宮方面の
阪急文化や新聞会館にあったスカイシネマ、三劇、ビッグ、アサヒ(うーん
これも全部閉館だ)などに行った。

で、灘区の映画館でも気になる映画館があった。
河原の「富士映劇」と、六甲道の「六甲東映」(やっと六甲道が出た)だった。
両方ともいわゆる「ピンク館」だったわけです。
当時の高校生的には美保純などのにっかつ系が人気だったので、独立系の富士や
六甲はどうしても敬遠され、なかなか足が向かなかった。
(正確にいうと、美保純はあまり見たくなかったのだが、当時その手の映画は
数名で見に行くのが常だったので、いつも多数決で負けたのだ)

でも、六甲道の北にあった映画館「六甲東映」は僕の17才の地図にもしっかり
プロットされたいた。
ヌーベル六甲の貸しレコード屋でレコードを借り、六甲道の南天荘書店まで
おりる途中、六甲本通商店街から少し西に入ったところにひっそりとたたずん
でいた六甲東映(正式名称は六甲宮前映画劇場)。
今のスーパードライな六甲道ではなく、まだ六甲道らしい翳りと湿り気が残っ
ていた通りだったと思う。
東映と名がつくが東映とは無縁で「東映まんがまつり」ではなく「団鬼六緊縛
まつり」や「谷ナオミ(SM女王)まつり」などがかかり、「ピンクのカーテン」
などのアイドルポルノに辟易していた高校生には魅力的な小屋だった。

がしかし、やはりハードルが高かった。
人目を気にしながら少し逡巡し、その場を立ち去るというのがいつものパターンだ。

と、ここまで延々と書いたが、結局この「六甲道の映画館」には入れずじまい
だったのである。
あとは諸先輩方の六甲東映体験コメントに期待したいと思います。
よろしくお願いいたします。

六甲東映跡

六甲東映跡。現在はマンションになっている。
周辺にも高層マンションが増えたが、アーケード手前のトタン屋根の家がかろうじて
昔の面影を残す。しかしもはや「六甲道の裏筋」の風情はない。


2008年6月26日(木曜日)

50日目 日の出「と」もり家

カテゴリー: - naddist @ 19時00分35秒

六甲道から南におり、阪神新在家にほど近いところにある灘区が誇るメガ食堂
「日の出もり家」。
昔なつかしのデパートの大食堂然とした店内風情と怒濤のメニュー群に圧倒
されたクミンも多いと思う。
寿司もあればうどんもある、そしてお好み焼き、そば焼、明石焼といった
鉄板焼きメニュー群。そして中華丼やラーメンまでも。
寿司と鉄板焼と中華丼ですぜ。
一見相反するメニュー群のダイナミックな並列、そして融合。

太陽神戸、三菱東京UFJ、石川島播磨、コニカミノルタ、阪急阪神HD、
ヒデとロザンナ、じゅんとネネ、へドバとダビデ、爆風スランプetc…
最近ではgoogleとyahoo!など世にあふれる合併モノ。
しかし灘区的に合併といえば、やはり「日の出もり家」である。
ご存知の方も多いと思うが、もともとここは「日の出食堂」と「もり家」
という別々の店が合併してできた店である。
「もり家」はもともと六甲道駅の東の高架下、現在TSUTAYAのある
あたりにあったお好み焼き店。
かなりの人気店だったようだが震災で閉店。
震災後、もともと今の場所でやっていたご親戚の「日の出食堂」と
バロムクロス的に合併して再出発したのが「日の出もり家」。
さしづめ「日の出もり家HD(ホールディングス)」ってとこか?
その際、日の出の定食系メニューともり家の鉄板系メニューの統廃合を
行わなかったので、おそらく今のような怒濤のメニュー構成になったかと。
ともかく灘的には「華麗なる一族」を超える合併。
いや「華麗なるメニュー」か。
あ、もちろんカレーもあります。

この店、メニューの豊富さに目を奪われがちだが、もちろんメシも美味い。
そのあたりに関しては世にゴマンといるグルメ系ブロガー(笑)の皆さんに
まかせるとして、やはり「永遠の六甲道」的には店内外の空気感を伝えたい。
今の六甲道で失われつつある空気感。
もう少し南の「ぐいぐい酒場樫本」に通じる居心地の良さ。
なんかこう、だだっ広いのにあったかい感じ。
広いと言ってもファミレスとは全く違う空気。

先代の「もり家」からののれん?
メガ店舗に不釣り合いな小さなのれん。
たまりません。

このイスから普通のイスに移行するのが大人への
第一歩だったかも。

なんだか神戸港っぽい船の絵。新港突堤あたりだろうか?
なんだかキングジョーが現れそうな静けさ。

そして、やっぱり一番ステキなのが大テーブル。
テーブル上にはマヨネーズ、ソース、そして生花に混じって焼酎の瓶などまで。
いい感じのカオス具合。

   

1つのテーブルを知らない人と共有するってのがいい。
つながってないんだけどつながってる雰囲気。
一人で行っても、みんながいるような一体感。
でも別に隣同士ベタベタするわけではなく、それぞれ勝手に飯を食ってる。
「ちんまりとしたカフェ」あるいは「だたっぴろいだけのファミレス」との違いは
この大テーブルの、つかず離れずの微妙な距離感がもたらすコモンスペース風情ではないかと。
そしてこのテーブルの状態こそが六甲道、いや灘区が目指すべき街の姿かもしれない…
大貝のそば焼で瓶ビールを飲りながら、ふとそんなことを考えてしまいました。


		

2008年6月9日(月曜日)

49日目 県営烏帽子団地

カテゴリー: - naddist @ 18時00分00秒

団地という言葉をすっかり聞かなくなった。
団地族、団地妻…高度経済成長期を代表する言葉だった団地。
システムキッチンやダストシュートなどの近未来ライフスタイルを
予感させる住宅設備は人々の羨望の的であったという。
団地は街でもある。
廊下はいわば立体路地であり、階段は子どもたちの格好の遊び場になった。
そこでの遊びは団地ルールなるローカルルールが存在し、それが団地外
に住む人間の目にはとても新鮮に映った。
敷地周辺や中庭には植栽が施されていた。
想定外に大きくなった樹木。
勝手に生える雑草。
鳥が運んでくる花の種。
住民たちが勝手に植えたのであろうネギなどの小野菜。
それらが渾然となって独特の庭世界が構築されていた。
いわゆる「団地ガーデン」である。
最近のマンションのような業者任せで画一的な、格好ばかりの
中庭などとは違ういきいきとした風景があった。

六甲道南の桜口交差点の西、烏帽子中学の北にあるレトロな小団地
「県営烏帽子団地」がついに解体された。
建設されたのは昭和36年。
まだ国道2号には阪神国道電車がガタゴトと走り、八幡電停近くには
六甲映画館があった時代である。
震災も乗り越え間もなく四半世紀を迎えようとしていた烏帽子団地は
界隈でも独特の存在感を誇った。
2号線の排気ガスで黒くすすけたファサードはこの地で生きてきた
古老の肌のようであり、陰影のある階段室は、街に何かを語りかける口
のようであり、ひさしのついた窓はこの街を眺め続ける憂いのある瞳の
ように見えた。
モダンなライフスタイルを指向した現代建築が年を経て、有機的な表情を
見せているのは皮肉なものである。

少しでも2号線との緩衝にと作られたのであろうか、ささやかな植込みが
設けられ、いろんな植物がいろんな風に育ち建物と一体化していた。
落ち葉の掃除が面倒くさいからと街路樹がバシバシと切られている
国道2号沿道では貴重な緑の景であり、鎮守の森とまではいかないが
摩耶や六甲の緑に呼応する「街の緑」であったと思う。

建物の表情の経年変化や緑の風情を見ていると、この団地自らが
意思を持ちこの街にとけ込もうとしているように思えてならなかった。
はす向かいにある、いつまでもピカピカで自己主張の強すぎる
WeLvのファサードやイタリア広場とは対照的な態度である。

県営烏帽子団地がなくなって六甲道の「しわ」がまた一つなくなった。
果たして六甲道に林立する集合住宅群は50年後どうなっているだろうか。
県営烏帽子団地のようにいい年の取り方ができるであろうか。

残念なことがもう一つある。
烏帽子団地には毎年、春にきれいな桜が咲き
住民だけでなく国道のドライバーの目も楽しませてくれた。
桜がなくなった桜口では唯一の桜だったが、もう見ることはできない。
できれば養生されてこの地に戻ってきてくれることを願うばかりである。


(撮影:2007年4月)


2008年5月9日(金曜日)

48日目 大きな瓢箪の中で

カテゴリー: - naddist @ 13時00分50秒

最近すっかり大バコ居酒屋にいかなくなってしまいました。
なんせ、あのワイワイガヤガヤとした音圧が耐えられない。

酔っぱらうにしたがってヒートアップするグループ客の嬌声。
「ここだけの話やで!…って…ねんて〜!」
「え〜?何て?聞こえへん!」
うるさくて成立しない会話。

心臓に悪い爆笑。
「ドハッハッハッハ〜〜!!」
ユニゾンする爆発音のような笑い声。

傍若無人な拍手。
「では3本締めで!ヨォ〜ッ!」
頼むから、せめて1本締めにしてよ。

すっかり生きる気力を吸い取られてしまうわけです。
もうね。疲れるんですよ。こういう場所。

同じ大バコのうるささでも「心地よいうるささ」というのもあります。
先日大バコとしての使命を終えた六甲道を南に下った「ぐいぐい酒場樫本」は
まさにそういうハコでした。
心地よいざわめきというか、身を委ねていてもそんなにいやじゃない喧騒、
バラバラでありつつグルーブ感のあるノイズ。

そして「許せるうるささ」というのもあります。
六甲道のネイティブ系大バコ「ふくべ」。
八幡線沿いの本店は昭和33年の開店なので六甲道で50年の老舗。
唯一「うるさくてもいい」いや「ずっとうるさくあって欲しい」
と思える大バコです。

   

逆にここで静かに飲めたら六甲道もいよいよ終わりではないかと思うわけです。
半世紀の「六甲道宴会DNA」が、この空間には凝縮されています。
新歓コンパ、忘年会に新年会、歓送迎会に同窓会。
さまざまな悲喜こもごものドラマが繰り広げられてきた大バコ。
それは六甲道の歴史でもあります。

典型的なふくべ宴会の図です。

いい風景です。
1グループなのに、それぞれがバラバラに盛り上がっています。
なにかこう、画面のそこここに小さな物語がありそうな。
そう、ここは街なのです。
爆笑、嗚咽、沈黙、酩酊
策略、謀略、脱線、沈没
目の前の八幡線は拡幅されようと、ここでは変わらない情景が
繰り広げられています。

「ふくべ」というのは瓢箪の別名だそうです。
瓢箪から飛び出す、まさにめくるめくという表現がぴったりのメニュー群と
心地よい「うるささ」に包まれ、今宵も「永遠の六甲道な」夜が更けていきます。


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