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2008年1月28日(月曜日)

45日目 待ちのある街

カテゴリー: - naddist @ 15時30分44秒

現代は「待てない」時代だそうです。
なんでもかんでも手っ取り早くすませたい。
待たされるとキレたりする。

六甲道名物「開かずの踏切」がなくなって35年ほど経ちました。
その名の通り、人も車も延々待たされた踏切。
JRが高架化されてなくなって便利になったわけです。

開かずの踏切(S46年ころ)

「でもな、開かずの踏切、ええこともあってんで」
と六甲道暦50余年のクミン。
「踏切が閉まっとうあいだ、好きな子とな、しゃべれるねん」
つまりですね。
淡い恋心を寄せていた女の子と過ごす踏切待ちの時間が楽しみだったらしいのですね。
声をかけて呼び止めるわけでもなく、自然と隣同士になれる。
お互い前を向いているので視線が交錯しない。
などの「踏切効果」により、自然なコミュニケーションが生まれる場であった
というわけです。

で、この踏切、なかなか開かない。
メトロノームのようにリズムを刻む警報機にシンクロする胸の鼓動。
貨物列車がガタンゴトンゆっくり通り過ぎるのを待ちながら、ドキドキしながら
延々待つわけですね。
つまり延々しゃべり続けるわけです。
下手したら20分くらい。
「俺は踏切で会話テクを磨いたんや」
街のネガティブな面を逆に利用して自らをスキルアップさせる。
不便なものをあるがままに受け入れ、ポジティブに反転していく。
これぞ街達人です。
街で暮らす、学んでいくとはこういうことなんだろうなと。
その後も彼の「踏切トーク」は途切れることなく延々1時間続きました。
これでは、踏切で話しかけられた彼女も大変だったでしょう。

待つことによって熟成されること。
待てた街。
街には「待ち」の要素がなければきっと熟成しない。
「春を待つ」ライブハウスや踏切が消えた六甲道を便利さのみが優先される
コクのない街にしないためには「待ち」が必要かと。
え?
みんな回転寿司屋の前で待ってるって?携帯メールしながら?
そこに「開かずの踏切待ち」のような豊かな時間はあるんですかね?

写真:『灘のうつりかわり』(灘区勢振興会)より


2008年1月18日(金曜日)

44日目 950118桜口

カテゴリー: - naddist @ 08時30分17秒

震災翌日の1995年1月18日の22:30。
当時住んでいた東京から持てるだけの救援物資を背負い込み、西宮北口から
歩くこと4時間。実家へ向かう道すがら、私は桜口の交差点にいました。
西宮、芦屋、そして神戸市内に入っても東灘区あたりではまるで人ごとのように
歩いていた身体に変化が表れたのは、石屋川を越えて桜口にさしかかるころ。
猛烈に涙が止まらない。
普通、涙がでるときは感情が伴うはずなのですが、不思議なことに悲しいとか、
悔しいとか、つらいとかまったく感じなかったように思います。
むしろ目にゴミが入って涙が止まらなくなるような、そんな感じに近かった
かもしれません。

1995 桜口

十数年振りに訪れた桜口交差点周辺には、漆黒の闇の中につんのめった亀の
ような「コトブキ」と、波に打ち上げられた鯨のような「八幡市場」が横た
わっていました。
それまで無機的であった灘区という街が、1つの大きな生命体に見えた瞬間
でもありました。奇しくも震災よって、今まで気づかなかった街の生命に
気づかされたのかもしれません。
その生命が目の前で息も絶え絶えに横たわっている。
建物一つ一つ、信号機1本、店の看板1つ、路傍の1握りの土塊まで愛おしい。
六甲道で生まれ育ったわけではないのになぜか狂おしく愛おしい。
メルマガ「naddist」や「ナダタマ」開設の原点となる風景が桜口にあった
といっても過言ではありません。

今、巨大な六甲道南公園で遊ぶ子どもたちは震災を知らないだろうし、その
両親もこの街がどういう街だったか気にも留めていないように見えます。
この新しい街が、どういう街の上にできあがっているかをこの「永遠の六甲道」
で少しでも伝えられればいいなと。
ただし、単なるノスタルジックブログにはしたくないと思っています。
「懐かしいね」「昔は良かったね」では、震災前の六甲道が浮かばれないし、
今この街で暮らす新クミンの皆さんに対しても失礼です。
新しくて巨大で無機的な六甲道が「建物一つ一つ、信号機1本、店の看板1つ、
路傍の1握りの土塊まで愛おしい有機的な生命体」になりうるかどうかを
過去を参照しながら見いだし、見極め、伝えていくのが「永遠の六甲道」の
テーマだと思っています。

今年もおつきあいの程、よろしくお願いいたします。

震災によってこの街でなくなられた方のご冥福をお祈りいたします。
                                 合掌

(写真:『ウェルブ竣工記念誌 We love We Live』より)


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