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2010年8月8日(日曜日)
第83話「浜田町」
2010年6月20日(日曜日)
第82話「畑原通」
2009年12月27日(日曜日)
第81話「灘南通」
2009年11月22日(日曜日)
第80話「灘浜東町」
2009年7月21日(火曜日)
第79話「灘浜町」
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nada, もっと...

2010年8月8日(日曜日)

第83話「浜田町」

カテゴリー: - aiai @ 09時02分56秒

浜田町、というぐらいなので、かつては海辺であったことは間違いない。

旧八幡村が海とつながっていた、唯一の場所でもある。

浜田町の丁目の並びは、ちょっと不思議だ。

浜田町は、阪神新在家駅から南東方向に広がる、およそ200メートル四方の区画だが、

南東側4分の1が1丁目、北に上がって43号線の北側に2丁目と3丁目、

再び43号線の南側に渡って、区画の南西部分が4丁目となる。

浜田町2丁目、浜田公園を東に望んだ直線上には、阪神石屋川駅がある。

細長い公園は、かつて阪神電車が走った名残である。

季節柄、公園ではちょうど盆おどりの準備が進んでいるところだった。

43号線の頭上には阪神高速が聳え、運河の南側には神戸製鋼の製鉄所が広がる。

巨大な構造物や工場と隣り合うため、住宅と工場が混ざり合う浜田町の人間臭さが心地よい。


2010年6月20日(日曜日)

第82話「畑原通」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分57秒

畑原村の名の由来は、字義通り、畑の原であったと思う。
梅雨のど真ん中ではあるものの、昨日降った土砂降りの雨が、傾斜のある溝の底をちょろちょろと流れる。
水が残らない扇状地に水田を作るのは困難なことだ。

畑原のだんじり倉庫がある平五郎稲荷大明神あたりから、畑原通が始まる。
阪急より南にある畑原市場とは離れているが、このあたり一体が畑原村であった。

天神さんの鳥居から路地を西へ抜ける。
縦筋を横切って、また路地へ。
「畑原の小径」とでも名付けたくなる、路地ワンダーランド。

空観堂は摩耶小学校の西隣にある。
空観上人を祀るお堂には、文字が書かれた大小さまざまな石が敷き詰められている。

祈祷によって人々を病から救ったという空観上人。
念ずれば通ず。願いは叶う。
石に願いを込める人々の思いを、空観上人は今も静かに受け止めている。


2009年12月27日(日曜日)

第81話「灘南通」

カテゴリー: - aiai @ 10時15分18秒

灘南通から見る摩耶山がいい。
近からず、遠からず。

六甲変動が生み出した鋭い稜線が美しい。

今は線路跡が遊歩道になってしまったが、灘南通は、臨港線の始点となった貨物東灘駅の南にある。

ならば「東灘南通」になるかと思うが、そう単純な話でもない。

『坂の上の雲』の舞台となる日露戦争が起きた1904年(明治37年)、この地に「灘信号所」が作られた。

1907年(明治40年)には、貨物線の整備に合わせて「灘聯絡所」となる。

そして現在の灘駅開業より先の1910年(明治43年)、「灘駅」の名を冠した貨物駅が設置された。

ところが、1917年(大正6年)に現在の灘駅が作られたために、その東側にあった貨物「灘駅」は「東灘駅」と名前を変えた。

戦前戦後は貨物駅としての役割を果たした。

1972年(昭和47年)には貨物取扱廃止に伴い「東灘操車場」となり、さらに「東灘信号所」と名前を変え、2003年には臨港線が廃止された。

灘に歴史あり、灘南に灘駅あり、である。(※現行の灘駅は岩屋北町です)

灘駅ができたからと、「灘駅」の名前を譲って、自ら「東灘駅」を名乗るところなど、なにやら奥ゆかしい灘区民気質ではないか(という気がする)。

そんなこんなで、灘南通は、海港都市コウベを感じる絶好の場所の位置しているのだ。

歴史を踏まえれば、西灘村に東灘駅があったのも無理からぬことのようにも思えてくる。

(※東灘区の編入は昭和25年なので、その頃から「灘の本拠地論争」は余計にややこしくなってくる・・・。)


2009年11月22日(日曜日)

第80話「灘浜東町」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分24秒

ウェブによって身近に使えるようになった衛星写真を眺めると、大阪湾の北に、一箇所だけ「赤い島」を見つけることができる。

「神戸市灘区灘浜東町」、もとい神戸製鋼所の「神戸製鉄所」である。

(※衛星写真)

昭和34年(=1959年)、新在家の海が埋め立てられてから、50年が経つ。

赤い島は、今も線材や棒鋼の生産を続けている。

十年以上前、灘区に住み始めて最初に覚えたランドマークが、神戸製鋼所の紅白煙突だった。

総出力140万キロワットの石炭火力発電所建設に伴い、120メートルの紅白煙突は輪切りにされてなくなった。

そして今度は、撞木を2本束ねたようなのような150メートルの灰色煙突がニョキニョキと生えてきた。

ところで、この赤い島には、「火喰い竜」と呼ばれる怪物が棲む。

2500度に達するという高炉の底には、「サラマンダー」(火喰い竜、もしくは火トカゲ)と呼ばれるドロドロに溶けた鉄鉱石の残渣が溜まるのだという。

数年前に行われた高炉の改修工事を追ったドキュメンタリーは、「灘浜サイエンススクエア」で見ることができる。

ナダの火喰い竜、そんな物語が灰色の煙突から吹き上がる。

世界中の自動車の2台に1台は、ナダの火喰い竜が棲む高炉から生み出された部品を使っているのだ。

日本最小で世界最高効率の高炉は、今も灘浜で熱く煮えている。


2009年7月21日(火曜日)

第79話「灘浜町」

カテゴリー: - aiai @ 11時21分20秒

ハードボイルドとは元来、硬く茹でた玉子のことを指す。

転じて、感情に流されず、時に冷徹で、時に無慈悲な男たちを描いた文学や映画がハードボイルドとされる。
ヘミングウェイ、ゴルゴ13、カサブランカ、舘ひろし。

灘浜町は、ハードボイルドな空気が満ちた場所だ。

マッチョな風景、とでも言い換えてもいいだろう。

岸壁、クレーン、廃棄物運搬船、赤潮、セメント工場。
広大なガソリンスタンド、コカコーラ、人造アルコール工場。
遠景には製鉄所、発電所、艀、湾岸線、コンテナ、倉庫群。

もし、灘浜のハードボイルド感を満喫したい人がいたら、
トレンチコートを着て、灘浜の岸壁を全力疾走してみたらいいと思う。

でも、君のハードボイルドに危険を感じたサビキ釣りファミリーが通報したら、
本当にハードボイルドな警官たちがやってくるかもしれない。

灘浜はすべて、昭和15年に埋め立てられた土地だ。

埋め立てという考え方自体が、ハードボイルドである。

それから70年近く経ってもなお、剥き出しのクレーンや愛想のないコンクリートが似合う町だ。


2009年7月12日(日曜日)

第78話「灘北通」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分43秒

もうすぐ7月28日がやってくる。

去年の今頃、この川には、もっとたくさんの子どもたちが遊んでいたことだろう。

まだまだ生々しい記憶や思いを持つ人たちがたくさんいる中で、自分には、紡ぐべき言葉が見つからない。

だが、川で遊ばない様になるということは、川で遊ぶ経験を持たずに育つということだ。

癒えぬ傷をまだしばらくそっとしておくこと、川の危険を知ること、そして灘っ子たちに新たな川の記憶が培われることを願わずにはいられない。

灘北通は、長い。

都賀川のある1丁目から、灘駅の向こうの10丁目まで。

長い。。。

公園には、階段のような、滑り台のような、不思議な傾斜構造物があった。

石垣の御影石と調和して、妙に味わい深い。

そして西隣には水神社。

この神社は、水害除け、災厄除けを願うものである。

海側のトンネルから抜けてきた時の景色が良かった。

5丁目、6丁目を西へ。

震災後にできた復興住宅である灘北第2住宅の高層棟の根本を西へ。

工事中の灘駅を眺めつつつ、もう少し西へ。

灘北通の西端は、天を突くような高層マンション。

その隣でプツリと灘区が終わっている。


2009年6月21日(日曜日)

第77話「長峰台」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分12秒

摩耶山の掬星台に上がって大阪方面を眺めると、そのすぐ左手にある、なだらかな長い峰を持つ山がある。標高687mの長峰山である。

峰筋をずっと市街部に下りていった尻尾の突端あたりが長峰台にあたる。護国神社から長峰坂を上がりきったところが長峰中学校だ。

ナダに坂道数多あれど、この長峰坂の名の知れ渡り方は、ちょっと不思議なくらいだ。

護国神社前の交番のある交差点から長峰中学校の門まで約550メートル。斜度や疲労感は言うに及ばず、ナダ区民不屈の精神を養う大リーグ養成ギブス的な役割を果たしてきた故の知名度であろう。

長峰中学校あたりの標高は200メートル弱なので、実際には篠原台や鶴甲団地の方が高い。実際の高さよりも高く感じることを「長峰坂効果」とでも呼んでおこう。

とは言うものの、長峰台が灘区屈指の標高を誇るエリアであることは間違いない。長峰台も、空の中の町なのだ。

長峰中学校の擁壁に、世界地図が現れていた。

そして門の前にある、石垣風の石柱。

何だろう?


2009年4月19日(日曜日)

第76話「中原通」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分45秒

山手幹線よりもまだ上、阪急に沿って延びる中原通の名前は、
浜手と山手を分ける「中の手」の「中」に由来するという。

目と鼻の先の水道筋感を残しつつ、坂道の気配を感じさせつつ、阪急電車の音が響く。
東に行けば縦横に路地が絡まり合い、西に向かえばハイソな雰囲気の家もちらほら。

そんな中原通は、なるほどたしかに中の手の代名詞なのかもしれない。

中原通1丁目。
他人には教えない方がいいんじゃないかと思う場所の一つが、味のある路地。

「お邪魔します・・・」と呟いて玄関先に上がり込むような、
昼餉の匂いを嗅いでしまった罪悪感と幸福感が混ざり合ったような、
迷路のワクワク感と、手作りの庭先空間が同時に楽しめるような、
そんなステキな場所は秘密のままにしておきたいな、という気持ちでいっぱいになる。

最上級の路地空間から西にぷいっと吐き出されてみると、
そこは中央筋からひょいと上がったぶぎうぎロード。

ぶぎうぎが ぶぎうぎにきて ぶぎうれず ぶぎうぎかえる ぶぎうぎの声

西へ。

ひょっこりと顔を覗かせている「中原グランドキャニオン」。

アンドー先生も、このぐらいのスケール感だったらいいのに。

ふと気がつくと、祭りムードで賑わう王子公園だった。

中原通の懐は深い。


2009年3月1日(日曜日)

第75話「永手町・後編」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分57秒

レードルのドアの向こうには「貸店舗」の看板が置かれ、

その上には、無造作ではあるものの、いわくありげにエプロンがかけられていた。

誰かへのメッセージだろうか。

永手町4丁目、JR六甲道駅。

一日25000人以上が、この駅のホームから電車に乗り込む。

駅は人を吸い込み、人を吐き出す。

震災後、駅周辺の再開発は人口の急増をもたらした。

居並ぶ店舗も、群雄割拠、栄枯盛衰、生存競争。

変化のスピードに目が眩む。

人間の顔が見える町になるまで、もう少し時間がかかるのかもしれない。

夕方、駅から吐き出された人びとは、土に染みこむ水のように、

我が家へと帰って行った。


2009年2月2日(月曜日)

第74話「永手町・前編」

カテゴリー: - aiai @ 11時50分10秒

連れが「オムライスにはケチャップだよね」と言うので、

僕はカウンターに立つマスターに何気なく、本当に何気なく、

「ケチャップのオムライスってないの?」と尋ねた。

一瞥もせず、マスターは「そんなものは、どこでも食えるやろ」と言い捨てた。

翌月、再びレードルを訪れた時、あの、コピー用紙を丸めたようなメニューの中に、

「オムライス(ケチャップ)」の文字を見つけた。

その時僕は、なぜだか救われた気がした。

だがしかし。

そんな出来事の積み重ねが、傾いた喫茶店のマスターに閉店を決意させたのかと思うと、

なんとも自責の念でいっぱいだ。

永手町1丁目、「レードル」閉店の報せを耳にして以来、

あのときの出来事が繰り返し思い出されてならない。

永手町3丁目の蕎麦屋「よう」が閉店した時にも、

やはり、僕の心のざわざわという音は、しばらく鳴りやまなかった。

僕がもっとちゃんと通っていれば、店主のヨーコちゃんの愚痴を聞いてあげれば、

こんなことにならなかったかもしれない、と。

ある日気がついたら、Bar「fine」が無くなっていたときにも、

高架下にあるジャパンのオヤジのメガネが歪んでいても、

最近の六甲道を歩く時は、隙間風のような寂しさと向き合わなければならない。

(次回は永手町・後編)


2008年12月21日(日曜日)

第73話「中郷町」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分32秒

中郷町は、徳井村の「中ノ郷」であったという。

中郷町には、徳井会館があり、会館の裏側には徳井村の住人だったと思しき

地蔵たちが隠居生活(?)を送るひな壇がある。

どうやら徳井村はここに健在のようだ。

中郷町と大和町にまたがるかたちで、大和公園が広がる。

二つを併せれば、かなりの面積になる。

公園にはテニスコートが整備されており、緑の金網の向こうから楽しげな声が溢れてくる。南側には木漏れ日と落ち葉に包まれた「公園」がある。

落ち葉を踏みながら歩く道は直径約40mの正円を描く。

何かに行き詰まった時、この円を五周ほど歩いたら道が開けてきそうだ。

ここだけではないけれど、「徳井会館前」という名前のバス停が、モノレールでも停まりそうな雰囲気になっていた。

停まるバスは1時間に一本程度だけれども、バス停だけが未来を先走ったのかもしれない。。。


2008年12月14日(日曜日)

第72話「友田町」

カテゴリー: - aiai @ 18時00分55秒

寒空の下に響くもちつきの杵音が、年の瀬を感じさせる頃となった。

子どもたちは、クリスマスと年末年始というビッグイベントが控える冬休みを、指折り数えているだろうか。

高羽川が二号線の下を潜って、海側にひょいと出てきたあたりから友田町は始まる。
友田町の南端は昔の西国街道・・・だという。

友田町、記田町、浜田町、深田町のいずれも、旧八幡村の字名から付けられた町名なのだが、

由来についてはどうにもはっきりしていない。

二号線沿いに桜口の交差点に近づいていくと、
金融保険機関の支店が一つ、二つ、三つと並んでいることに気がつく。

ナダのウォール街・・・なんてのは言いすぎだけれど、「100年に一度」の衝撃は、

このあたりのローカルな金融システムにも大きな影響を与えているに違いない。(と想像してみる)

二号線の山側にあるイタリア広場を囲む高層建築群を映すグランド六甲のガラスの壁。

震災を経た後も、遊び場としての形を追求し続けた結果、今の姿になったのだろう。

夜遅くまで、若者たちがたむろする新しい形の「盛り場」なのだろう、と思う。


2008年12月7日(日曜日)

第71話「徳井町」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分14秒

嵐の後の冬の青空の下、灘区と東灘区の境界線に辿り着く。

公会堂を川向かいに眺めたあたりから、徳井町は始まる。

すっかり麺ロードの様相を呈している2号線沿線で、刀削麺の店構えが目を惹く。

ロードサイド系と地場系の店舗がランダムに並ぶのがこのあたり特徴か。

かつて徳井町は大工の町だったという。

灘の酒蔵建設に携わった大工の多くが徳井町に暮らしていたのだとか。

夜、徳井町の街路は青く光る。

防犯効果が云々とのことだが、クリスマスシーズンなので、赤いライトと交互に並べてみたら賑やかになって、効果抜群かもしれない。


2008年11月4日(火曜日)

第70話「寺口町」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分01秒

行事や仕事に追われて、ふと気がつけば、だいぶ深いところまで秋が来ていた。

日頃の運動不足のせいもあって、坂の多いエリアにはなかなか足が向かないのだけれども、

ここはひとつ、小さい秋でも見つけようかと、気張って寺口町に向かった。

寺口町は、巨大な陸橋ができて久しい高羽の交差点から始まる。

新幹線のボディの曲線を思わせる陸橋の足下には、「右一王山」の小さな道しるべがこっそりと佇む。

寺口町の坂道を上がったり下がったりしながら、

この町を表す言葉を考え見たけれど、どうにも思いつかない。

細い坂道を上ったあたりに新築の建物が建ち並んでいたり、

古い文化住宅が斜面にへばりついていたり、突然空き地が広がっていたりして、

独特な雰囲気を持った場所だと思うのだけれど、、

細くランダムな階段のせいで、フゥフゥと息があがるばかりで、

そのうち周りを見るのもしんどくなってきた。

とにかく寺口町には、味のある坂道や階段がたくさんあるということだけは間違いないのだけれど、

ヨソ者を受けつけない、山城のような雰囲気に包まれているような気がしてならない。

次回は徳井町の予定。


2008年10月19日(日曜日)

第69話「鶴甲 後編 」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分43秒

鶴甲2丁目の下りのバス停から少しあがったところに、

「鶴甲山団地」と書かれた札がある。

大阪ガスの施設のようだが、詳しくは分からない。

詳しくは分からないが、鶴甲山の気配を残した貴重な表札だ。

そこから一気に、六甲ケーブル下駅から東に向かう脇道を登る。

翠光園、長寿の里、きしろ荘、鶴寿園、千山荘と鶴甲5丁目の老人ホーム団地を抜けると、

油こぶしを経由して六甲山頂方面に向かう登山道の入り口がある。

このあたりの標高は約300m前後なのだが、かつての鶴甲山の標高は327m。

山頂はちょうど神戸大の発達科学部あたりだったようなので、

ここからの景色に立ちふさがるように、鶴甲山が聳えていたのだろう。

今では木が生い茂り、すっかり景色は見えなくなってしまったのだが、

10年ほど前は、実によい眺めだったのでお気に入りの場所のひとつだった。

ケーブル下駅から昭生病院の方へ下ると大土神社がある。

水車が絞った菜種油の輸送安全を祈願するために建てられたという云われを持つ。

石垣に囲まれた独特の雰囲気を持つ神社だ。

ちょっと前まで、石垣の石を組んで作られた通り道があったのだが、

今では塞がれてしまっていて残念。

土山神社から、いったん炭山橋まで下りて「あじさいの道」の階段を上がると、

田崎真珠の「六甲台あこや工場」がある。六甲台とは言うものの、鶴甲3丁目である。

真珠を見極めるための「光」を選んだ結果、この場所に辿り着いたそうだ。

山側から入る安定した光が、真珠を見極めるのに最適だということで、

加工のための作業場はすべて山側に面しているのだとか。

最近、工場の北側にもマンションが建ってしまったが、

真珠を照らす「光」に変わりはないのだろうか。

次回は寺口町!


2008年10月5日(日曜日)

第68話「鶴甲 前編」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分00秒

鶴と甲(カメ?)という意味を採れば、実におめでたい地名だろう。

鶴甲山という山を削って造成された団地が完成したのは昭和42年。

西神ニュータウン同様、鶴甲の地下には、
削った土砂を運搬するトンネルが作られた。

そのトンネルは、今もひっそりと地中に残されているという。

以前、篠原伯母野山の記事の中で、町内の標高差について触れたことがある。

鶴甲の標高差は約150m。

鶴甲1丁目1番地は神大国際文化学部の入り口の下にある交差点あたりから、
鶴甲5丁目の老人ホームあたりの標高差がそのぐらいなのだ。

人が住んでいない摩耶六甲の山腹エリアを除けば、標高差は灘区随一だ。

鶴甲のまちが開かれた頃に設置されたと思われる、兜を模した記念碑。

そして小便小僧(?)。

ちょっとオッサン顔なのは、鶴甲団地とともに歳を重ねてきたからだろうか。

バス停の近くで、崖沿いにまっすぐ伸びる、ワイルドな歩道を見つけた。

歩きながら、かつて鶴甲山の雰囲気を想像してみたが、
坂道を駆け抜けるトラックの爆音に打ち消されてしまった。

ところどころ改修工事が進んでる神戸大のキャンパス。

部分的に、ではあるものの、何だか他所の大学に来たような、ちょっとしたヨソヨソしさを感じてしまう。

後編に続く。


2008年9月28日(日曜日)

第67話「土山町」

カテゴリー: - aiai @ 15時47分32秒

東灘区のずっと山手の方に上がっていくと、鴨子ヶ原や渦森台という地名がある。

ずいぶん遠いところのような気がするが、谷を挟んで灘区土山町が隣り合っている。

六甲病院や親和女子に向かう道を上がると、そこは山の上のマンション開発ラッシュ。

土山町は、その東側斜面を伸び上がっていく。
その一番高いところには、関西電力の新神戸変電所の敷地が広がっている。

「灘の御影」と言うと奇妙な表現かもしれない。

でも、御影山手や鴨子ヶ原と隣り合う土山町を歩くと、そんな表現がしっくりくる。

土山町なのに「プリオーレ御影山の手」なんてマンションがあったりする。

以前のゼンリン住宅地図に記載されていた「灘土山住宅」は、
大規模改修工事の末に「ヒルズ御影山手」なんて名前のマンションに変わってしまった。

石屋川の向こうにある、灘区悲喜交々。

若草幼稚園のところまで下ってくる。

橋を東側に渡っても、灘区なのだ。

土山町には旧徳井村の墓地があったという。

現在の「東明桜ヶ丘霊園」は、その名残だろうか。


2008年9月21日(日曜日)

第66話「高羽町 後編」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分39秒

高羽という地名は、平安時代の史料に現れるというから、古より伝わる由緒正しき地名である。

「鷹」にまつわる説もあるが、高=タカ=タケ=竹、羽=フ=ウ=生と読んで竹が生えた地だという説もあり、その由来は定かではない。

高羽川渓谷は、阪急と交差する南北で深みを見せる。

丹生神社は、水神が祀られているという。

高羽川沿いに建てられていて、祀神の由来や由緒は定かではないが、水が不足しがちな六甲の裾野の村々に水をもたらす神だったようだ。

だがV字に切れ込んだ高羽川の険しさを見ると、時に猛威を振るった水神を祀ったのではないかという気もしてくる。

最近改修工事が終わった高羽小学校の姿。

以下は前の校舎のお別れ会の時に撮った写真。

そして、高羽小学校すぐ西隣の高羽公園。

震災後、この公園に並んでいた仮設住宅に3年ほど通った記憶が蘇る。

だが、今はもう、何の痕跡もない。

側溝の上に店を構えていた靴と傘修理の「正直屋」さんも、跡形も無く消えてしまった。

おもろうて やがて哀しき 高羽道


2008年9月14日(日曜日)

第65話「高羽町 前編」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分11秒

石屋川と阪急、そして高羽の交差点にむかって上る山麓線に挟まれた三角地帯。

渋滞の抜け道にもならないこの場所には、孤島のような空気が漂う。

16系統の上りのバスが、阪急の橋脚すれすれに舐めるようにターンする交差点を西へ。
線路に沿って東西に伸びる路地を歩く。

古いが現役の掲示板には「高羽住田自治会」の文字が。

古い字(あざ)の名残を見かけると、宝物のように思えるのはなぜだろうか。

もう少し歩くと、「踏み切り地蔵」と名づけられた地蔵に出会う。

「高羽町 後編」に続く


2008年8月31日(日曜日)

第64話「高羽字滝ノ奥」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分27秒

「滝ノ奥」というぐらいだから、はじめはどれほど山奥なのかと思った。

かつては高羽村の入会地だったのだろう。

十善寺よりもさらに奥まった場所なのだから、表現としては間違ってはいない。

神戸大の国際文化学部脇にあるテニスコートの横を通り抜けたあたりを東に向かって橋を渡れば「高羽字滝ノ奥」なのだ。

「ごこう橋」という橋を渡ったところに、「六甲高羽アーバンライフ」というマンションだけがある。

周りを見渡せばマンションや建売住宅の開発ラッシュのようで、ゴリゴリと削られたベージュ色の岩肌が生々しい。

橋の下だけは、滝ノ奥の名にふさわしい濃い緑が覆い尽くしている。

木々に覆われた谷底に、ちょっと大き目の堰堤がある。

かつては、それが滝ノ奥の「滝」だったのかもしれない。

次回は「高羽町」。


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