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2008年8月10日(日曜日)
第62話「曾和町」
2008年7月27日(日曜日)
第61話「千旦通」
2008年7月20日(日曜日)
第60話「水道筋6」
2008年7月13日(日曜日)
第59話「水道筋4,5」
2008年7月7日(月曜日)
第58話「水道筋3」
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2008年8月10日(日曜日)

第62話「曾和町」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分40秒

毎日、暑い日が続いている。

曾和町は、高羽小学校の北西、六甲登山口の交差点からは北東に位置する。

ソワとは、急な傾斜地や崖を指す言葉であるという。
元は、高羽村字岨。これに「曾和」の字を当てたとか。

和にして洋。
洋にして和。
それが今の曾和町の雰囲気だ。

曾和町には神戸ドイツ学院がある。
オリンピックのような絢爛たる「国際」ではなく、鬱蒼とした樹木に囲まれた物静かな「国際」は、高羽山手とも呼ぶべき、この地域の味わいを深めている。

ドイツ学院の裏手にひっそりと佇む平屋の住宅の小さな煙突が、実にいい味わいを醸している。


2008年7月27日(日曜日)

第61話「千旦通」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分29秒

灘小学校は、千旦通にある。

昭和45年に、西灘小学校から分かれて出来たということだから、「西灘の東」という意味で「灘小学校」になったのだろうか??どなたかご存じだったら教えてください。

ところで、千旦通の「千旦」は、旧地名の「千旦ノ木」に由来するという。
千旦ノ木という地名は、和歌山県にもある。和歌山のそれは、松下幸之助出生の地であるという。

センタンノキという音からは、栴檀という種類の木を想像できるが、異論が多い。大阪の中之島にかかる栴檀木橋という橋の名前も、由来は明らかではない。

和歌山の千旦がセンダと読むことから、千旦=センダ=千駄(たくさん)と読み替えてみたり、センダキ=千駄焚き=雨乞いの儀式の場所だったという説もある。

灘の旧地名の「神ノ木」「辻の木」の並びで「千旦の木」を考える方法もあるというが、どうにも答えを見いだせない。

ところで前から気になっていたのだが、ここの地蔵には、地蔵盆専用のテントが備え付けられている。先見の明というか、準備がいいというか、実に大したものだと思う。


2008年7月20日(日曜日)

第60話「水道筋6」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分22秒

水道筋6丁目ではありませんが、夏の風物詩?ということで、7月18日に行われた都賀川の川開きの様子です。Tシャツを吊しているのは学生さんのプロジェクトでしょうか?

さて、水道筋6丁目です。

つい最近、ナダさんタマさんも訪れたという「H」なコトブキ。元ハイジの建物です。

炎天下の水道筋6丁目。アーケードがないので日差しがきついです。

歩いているとプレハブの店舗が目に付きます。

阪急王子公園から上筒井線への分岐のところも、実は水道筋6丁目なんですね。

山田スタンプの様子を写真に納めようとシャッターを切ったら、その直後にシャッターを全部閉められてしましました。。。ご機嫌を損ねたのかもしれません。

アーケードがなくても、食べ物系のお店をはじめとして、とても充実した6丁目です。

先週、「アマゾン」のお題を頂いていたのですが、どのあたりにあったのか確認するのを忘れました・・・。どなたかお教え下さいませ。


2008年7月13日(日曜日)

第59話「水道筋4,5」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分33秒

水道筋の朝9時。

店が動き始める。人が動き始める。

アーケードの屋根が開いて、夏空が顔を出す。


2008年7月7日(月曜日)

第58話「水道筋3」

カテゴリー: - aiai @ 13時29分30秒

三宮方面に向かう、水道筋3丁目のバス停は、まさに水道筋3丁目にある。山手幹線の南側とはいえ、立派に水道筋なのだ。畳屋が並ぶ、あの交差点だ。

まだ7月に入ったばかりだが、それにしても暑い。太陽の存在感は日増しに強くなる。山幹を渡って、アーケードの日陰に入る。店から溢れたエアコンの冷気に包まれた商店街や市場は、まさに真夏の癒しのスポット。

アーケードは、エアコンの空気を逃さない。

だが、逃さないのは温度だけではない。

七夕の笹の匂い、食べ物の匂い、そして汗臭い人間の匂いが混じった空気が逃れることなく、濃く立ち籠めている。

19世紀、パサージュと呼ばれたパリのアーケードを彷徨ったヴァルター・ベンヤミンは「雨が降れば、雨宿りの客が集まって、パサージュの店は儲かる」なんて書いているが、今年の灘の梅雨空はアーケードに潤いをもたらしただろうか。。。


2008年6月22日(日曜日)

第57話「水道筋2」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分39秒

花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは

買い物帰りの人や銭湯に向かう人たちと、ポツリポツリとすれ違う黄昏時の水道筋2丁目。

閉まっていくシャッターを眺めていたら、ふと徒然草を思い出した。

明日の朝、今日と同じように開くシャッターだからこそ、

心おきなく、一枚ずつのシャッターを味わうことができる。

シャッターは、一軒ずつのお店の、夜の表情。

つまり、お店のまぶたみたいなものだ。

雨に向かひて月を恋ひ、垂れ込めて春の行方知らぬも、なほあはれに情け深し。

弧を描く細道や、路地裏の裏に隠れた石垣の片鱗が、

水道筋に人が集まり始めたころの風景を想像させてくれる。

ところで、市場は迷路のようだと言う人がいる。

違うと思う。

迷路が市場に似ているだけの話だ。

かつてメルマガnaddistにも紹介された、市場のトイレ。

「魅惑の雪隠」

「畑原トイレ昭和アメイズ」

迷路が、市場だということを証明してくれるだろう。

もう既に、どこからアプローチしたらいいのか分からない。

こんなところや・・・

こんなところを通って・・・

途中で「川」の脇を通り抜けます。

トイレの写真は省略しますが、

どうしても水道筋2丁目〜畑原市場あたりでトイレに行きたくなったら、

市場の人に尋ねてみてください。。。

そうそう。

このマンホールの下は、「川」が流れているそうですよ。

地図を眺めたり、市場をウロウロして、幻の「川」を探してみてはいかがでしょうか。


2008年6月8日(日曜日)

第56話「水道筋1」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分43秒

「水道筋」は、地名というよりも、むしろ動詞に近い意味を持つ言葉だと思う。

実際には、地名としての水道筋が広がる範囲と、
動詞としての「水道筋」が広がる範囲は違うのだけれど。

水道筋1丁目あたりは、商店街の北側の並びは篠原南町、
南側の並びが水道筋という町名になっている。

山手幹線の南側のバス停あたりも、町名としては水道筋になっている。

地名としての水道筋には、市場のような陰影を感じることが少ない。

「エルナード」という、ちょっとよそ行きな感じの名前が付いたからだろうか?


2008年6月1日(日曜日)

第55話「水車新田」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分22秒

大石川/都賀川は阪急と交差するあたりで六甲川と杣谷川に分かれ、
六甲川をグイグイと遡って大土神社の上。

六甲ケーブル下駅の方に行く支流と、
六甲トンネルの川へ上がる本流への分かれる場所。

この場所が水車新田にあたる。

谷を吹き下ろしてきた風が冷たい。

水車新田とは言うものの、水車の面影はなく、

コンクリート製の堰堤を落ちる水音だけが響く。

江戸時代、最盛期には25基の水車が稼働していたというが、

どう頭を捻ってみても、そんな光景は想像できない。

その後、菜種絞りから精米へと転換し、灘の清酒業を支え、

明治大正と時代を経て、阪神大水害を契機に水車小屋は完全に消滅したという。

水車が稼働していた頃、鶴甲の団地や住宅街はなかったはずだから、
地形的には今とは全然違っていたのだろう。

灘にも活きのいい水車があれば、きっと楽しいに違いない。


2008年5月25日(日曜日)

第54話「新在家南町」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分39秒

酒は命の水だという。

ならば新在家南町は、命の水が生まれる場所と言える。

小泉製麻の工場あったという場所は、紆余曲折を経て、今は真新しいショッピングセンターになっている。

便利で賑やかで、明るくて楽しい場所。

前回の「新在家中町」の記事にコメントを頂いたが、
アクタスがあるサザンモールの東側の部分は、旧入船町の一部だったようだ。

震災後にできた復興住宅と、ショッピングモールの間が西国浜街道にあたる。

南には、かつてマンボウが遊びに来た運河が走る。
運河の南には、高速道路と神戸製鋼。なにやらマッチョな風景だ。

手の込んだ「酒蔵風」の自転車置き場。

新しく「古いもの」を作ったものが古くなったら、
どうなるのだろう。僕にはさっぱり分からない。

それでもソテツは立派にニョキニョキしてるし、
マツムラスポーツのカレーの味も、以前と変わっていないと信じたい。


夕暮れ時の新在家南町。

米が酒になる時の、酒になる前の匂いが漂う。

目を凝らせば、あちこちに井戸の形跡がある。


新在家南町にも、新しい宅地開発の波が押し寄せている。

米が酒に変わり、町が新しくなる。

古いままのものもあるし、新しく古いものを作ることもある。

商店街でなく、住宅地でも工業地帯でもない。

酒蔵と、製麻。

ショッピングセンターと、復興住宅。

細い路地の井戸とハウスメーカー。

新在家南町はいま、そんな町になっている。


2008年5月18日(日曜日)

第53話「新在家中町」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分14秒

前回の新在家北町編の記事に、「43号線建設で失われた新在家中町を」との提案を頂いた。

北町のスケール感を考えると、国道43号線(※)の道幅にすっぽりともう一つの町が収まっていても、
不思議ではないような気もする。

町がひとつ分、まるまる消えてしまうということは大変なことだ。

(※かつては、阪神国道(はんこく;国道2号線)の南に進延されたために第二阪神国道とも呼ばれ、そのため通称「にこく」と呼ばれた。最近では2号線が「にこく」と呼ばれてややこしく、43号線は「よんさん」の呼び名が定着しつつある・・・らしい。)

    ■  ■

新在家北町と新在家南町の間に挟まれているのだから、郵便番号的にはどうなってるのか?と思って調べてみた。

新在家北町は657-0861

新在家南町は657-0864

    ■  ■

間にある番号が欠番だったりしたら、もしやそこに幻の新在家中町が・・・と期待したが、

657-0862は浜田町、657-0863は灘浜東町だった。

灘浜東町というのは、ほぼすべてが神戸製鋼の敷地にあたる場所だ。

そもそも郵便番号の整備自体が昭和43年だし、7ケタ制になったのは最近だから、
まったく的はずれな期待だったのだけれども。。。

個人的な希望だが、「その番号は使われておりません」的な番号も
ちょっとだけ混ぜておいてくれたら、楽しいのに・・・と思う。

数字や記号に隠された謎というのは、無機質な雰囲気な故に惹かれるのかもしれない。

ちなみに、灘浜の埋め立てと43号線の整備は、昭和30年代半ばぐらいに同時並行している。

新在家中町の町名は、1967年(昭和42年)に廃止された。

    ■  ■

新在家あたりは小泉製麻の所在地として知られるが、
最初は新在家中町でスタートしたのだという。

明治23年の話だ。

それから100年以上経った現在。

記憶の中だけでなく、阪神高速と43号線の下に、新在家中町は今もそこに「在る」のだろう。

次回こそ、新在家南町。


2008年5月11日(日曜日)

第52話「新在家北町」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分44秒

新在家北町は、小さい。

阪神新在家駅と高架、高架の北側の並び。

南側は43号線まで。西に向かってわずか2ブロックほどで終わりだ。

駅の改札を出て右手には大きなスーパー。

その西側には、最近造成された宅地が並ぶ。

阪神の高架下はなぜか「南六甲プラザ」。

六甲の南?

「阪神新在家プラザ」ではダメだったのか??

こんなところに日本一が。。

色彩溢れすぎた光景に、少し息が詰まりそうになる。

次回は新在家南町。


2008年5月4日(日曜日)

第51話「城の下通」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分25秒

城の下通を、どんな言葉で表現したらいいのか、
まだうまい言葉が見あたらない。

東側には、神戸高校、そして天理教兵庫教務支庁(旧勝田邸)という大きなスケールの建物。

どちらも灘百選だそうで。

そのすぐ西側には、木造のアパート群が密集するエリア。
迷宮のような階段路地を歩けば、趣のある住宅もちらほら。

防犯を呼びかけるポスターも、実に味のある筆致。

「城の下」の城は、摩耶山に拠点を置いた赤松氏の城。
その「下」にあるから「城の下通」なんだとか。

遠目にはチョコレートに見えなくもないが、これは山に打ち込んだクサビの列。
ある意味、現代版の城の石垣ってところだろうか。ちょっと物々しい光景だけれど。。

市場の水平方向の迷宮っぽさとは、また違う雰囲気だ。

城の下通そのものが、山城のように思えてくる。
世間はすっかり黄金週間。上がって下って汗ばむ陽気だ。

次回は新在家北町。


2008年4月27日(日曜日)

第50話「城内通」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分57秒

第50話まで来たようです。

城内通は「シロノウチドオリ」である。

ジョウナイでもシロウチでもない。

城はなくても、豪壮な屋敷があったことが由来とのこと。
街路の入り組み方から、原田村の気配は強く感じることができる。

村の気配は、地蔵の多さからも窺い知ることができそうだ。

稗田地下道も味わい深いが、原田地下道もなかなかだと思う。

水族園の水中トンネルのようでもある。
この「青」、どうだろうか。

屋根の向こうに観覧車が見えて、その向こうに摩耶山が見えるのもステキだ。

阪急高架下のお店たち。

開かなくなった扉も、いつかまた誰かがひょいと開いたりして、
いろいろな人やモノや思い出が出入りする場所になってくれることを祈りたい。

市場や商店街の端っこだったり、高架下だったり。
そういう場所から醸し出される魅力に、いつもクラクラしてしまうのだ。

六甲道-JRの高架下も、こんな空気を思い出してくれればいいのに。

斜めの歩道に、ベンチを平らに置いてくれる心意気。

一升瓶入りのプリンセスソースが、やっぱり一升瓶のケースに入ってる。
そんな良さがある、城内通。


2008年4月20日(日曜日)

第49話「将軍通」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分39秒

将軍通は、水道筋につながる町だ。

灘に暮らし始めたとき、「灘区には将軍とか王子とか、妙に偉そうな名前が多いのはなぜだろう?」と思ったりしたものだが、

最近では特に疑問を持たなくなった。それだけ馴染んだということか。

この将軍通というのが、名前のわりに庶民的というか、下町っぽい雰囲気なのだ。

都賀川を挟んで西から水道筋商店街が始まるという、このロケーションが、

「商店街じゃないけど、ここも庶民の町だよ」的な雰囲気を生み出しているのかもしれない。

山手幹線の拡張工事で、最後の砦のように残った数軒が目を惹く。

たこ焼き屋さんと床屋さんが並んで営業していた頃の「昭和な風景」が妙に懐かしいような。

とはいえ、数年前までは灘区役所が目の前だったわけだし、

今も区民ホール、灘ケーサツ、金沢病院なんかの大きな建物のすぐ近所なわけで、

これはどうにも立地的に将軍通あたりが灘区の要になっているというだけでなくて、

「将軍通」という名前の成せる業なのかもしれないと思ったり思わなかったり。

でも、将軍通は思いの外小さいエリアに収まっている。

将軍通の郵便局あたりで始まって、都賀川の東側まで、実にコンパクトだ。

関電の変電施設(「南灘変電所」という看板が出ている)が偉容を誇り、 交差点を渡ってちょっと歩けば、もう都賀川に出てしまう。

将軍通だからといって、暴れん坊将軍が白い馬に乗って駆け抜けていったり、大河ドラマの篤姫が草むらから出てきたりすることはなさそうだ。


2008年4月6日(日曜日)

第48話「下河原通」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分15秒

下河原通は、鈴木薄荷のあたりからはじまる。

ハッカの強い香りはちょっと苦手だが、遠くからほんのり香る鈴木薄荷から漂う匂いには、

どことなく甘味があって、ほんのり漂う桜の花の香りと混ざると、実によい。

生クリームにバニラエッセンスを一滴垂らすとか、そんな程度のさじ加減が大事なのだろう。

風向き次第で偶然に楽しめるというのも、ステキだと思う。

ナダタマでは匂いが届けられないので残念!

夕暮れ時の下河原公園にも、めいっぱいの桜。

春は、どの場所にも平等にやってくる。

静岡で過ごした高校時代、毎日のように自転車で渡っていた安倍川。

南アルプスから生まれ出で、駿河湾に流れ下る一級河川だ。

その源流部では、かつて砂金が採れたという。

きな粉を砂金に見立てて餅にまぶし、時の権力者・徳川家康に献上したところ、

たいそう喜んだ家康が「安倍川もち」と名付けた・・・という言い伝えが残っている。

マルセル・プルーストは、一杯の紅茶とマドレーヌから記憶の大伽藍を呼び起こしたが、
柔らかく、優しい味わいのナダシンの「安倍川もち」を頬張ったら、家康の話を思い出した。



そういえば、安倍川もち発祥の地で育った私が餅つきデビューしたのは、この灘区だった。

もし、どこかの公園やまちかどで餅を搗く学生の姿を見かけたことがあるとしたら、

それは私だったかもしれないし、私の餅つき仲間たちかもしれない。

餅つきにちょっとウルサい大学生が出没するまち、というのも悪くないんじゃないだろうか。

それにしても、ナダシンの餅は美味い。

灘は餅つきの聖地なんじゃないか、という気分になる。

第23話の「上河原通」にも書いた、例の銅像も、すっかり春めいた雰囲気になっている。

次回は「将軍通」の予定。


2008年3月30日(日曜日)

第47話「篠原南町」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分01秒

桜の木々が一斉に咲き始める直前、桜色を凝縮したような蕾の色が好きだ。

来週あたり、都賀川を彩る桜並木では、さぞ賑やかな光景が見られることだろう。

この季節、ナダ全体が浮ついた感じになるのだけれど、
年に一度ぐらい、こういう時期があってもいいと思う。

長い冬を耐えてきた、草木たちを讃える気持ちも込めて。

篠原南町は、神前の春日神社の山側からはじまる。

縦横に幅広い道路が通るが、実は路地の町でもある。

篠原温泉の足湯は、重油高騰につき当面の間お休みとのことで、寂しい限り。

川沿いに咲く桜もいいが、近くまで来たら、橋を飾るガラスの桜も愛でてほしい。

ところで、つい先日ナダさんとタマさんも訪れたグランビア灘

この「G」のエンブレム、今まで全然気づかなかった・・・。
煉瓦の雰囲気に合わせたのだろう。
隣の「D」より断然、粋だ。

篠原南町6丁目は、水道筋-市場エリアへの導入の役割を果たす場所だ。住宅地と商業地が混ざり合うような、混沌とした雰囲気がいい。

商店街から見れば少し外側になるけれど、こういう場所だからこそ、何か新しい力が生まれてきそうなワクワク感があるのかもしれない。


2008年3月9日(日曜日)

第46話「篠原本町」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分36秒

篠原本町は、さすがに「本町」と付くだけあって、かつての篠原村の気配をそこかしこに感じられる。

「本町」が付くのは、灘区では篠原本町だけだ。村の歴史は文禄年間(17世紀末頃)まで遡るという。

太いのにうねうねと蛇行する道路。そこからひょいと細い路地に吸い込まれる。

かつては、屋敷と付けられた字(あざ)がいくつもあった。

今もなお、豪邸というよりは「屋敷」と呼ぶべき邸宅が残る。

不意に、イカナゴを炊く香りに包まれて、白いご飯が恋しくなった。


2008年2月24日(日曜日)

第45話「篠原中町」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分52秒

篠原中町は思いの他大きく、少々篠原中町を見くびっていたようだ。

篠原中町は、六甲登山口を南に下り、阪急の高架をくぐるところから始まる。

線路沿いに西に向かえば、都賀川を渡り、都温泉の北側あたりまで篠原中町なのだ。

篠原中町というのは、大邸宅もあるし庶民的な雰囲気もあるというような、いろいろな雰囲気が渾然としていて、ナダ区の縮小版のような町なんじゃないかという気がする。

六甲川と杣谷川が合流する場所。
印象的なかたちの石垣。そして三角形の公園。

階段脇にある滑り台。
少しザラザラしていてるので、たぶん滑りにくいと思う。

諏訪山公園の滑り台ほどの傾斜もなく、王子動物園にあるゾウ型滑り台ほどの愛嬌もない。質実剛健に、「傾斜を利用した遊戯構造物」然として存在しているわけだが、最近の灘っ子たちはこの滑り台をどんな風に評価してるのだろうか。

そしてグランドの北側には「灘公設市場」の文字が残る。

春はもう、すぐそこまで来てるはず。

次回は篠原本町の予定。


2008年2月17日(日曜日)

第44話「篠原台」

カテゴリー: - aiai @ 09時00分49秒

ナダに中心と周縁があるとしたら、篠原台は周縁の空気を色濃く帯びた地域だ。

昭和53年に「篠原台」の名前が付けられたという。

その名の通り篠原の高台に位置しているが、
整然とした住宅地の部分と、混沌とした部分があるように思う。

町名が付けられた昭和53年までに、既にかなり開発が進められていたはずだ。
神戸大の学生が棲んでいそうな「〜館」「〜荘」も、篠原台ではバリバリの現役だ。
他の多くの学生は「大学に上がる」と表現するのに、
この町に暮す学生たちだけは、「大学に下りる」と表現するのだ。

坂の町は、他にもたくさんある。
でも、篠原台の家々からは「斜面地に住む」という強い意志が滲み出ている気がする。

具体的に言えば、表札の出た玄関から果てしなく登る階段。

そもそも、住宅自体が階段状になっているのだけれど。

白い息を吐きながらフゥフゥと坂を登っていたら、雪が舞い始めた。
雪が積もり始めれば、タクシーすらこの町には上がってきてくれない。
炭山橋を渡ったところで、「ここから上は無理」と下ろされてしまう。
決死の覚悟で凍り付いた雪道を登って帰宅した話を聞くことが多い。

周縁では、自然の力が勝ることが多いのかもしれない。


2008年2月10日(日曜日)

第43話「篠原北町」後編

カテゴリー: - aiai @ 09時00分38秒

兵庫県には、二つの護国神社がある。

姫路にある護国神社は県西部担当。そして、篠原北町にある護国神社は県東部の担当だ。

もとは兵庫区の会下山に造られたものだが、戦前に王子町(関学跡地)に移転した。

さらに戦災で焼失し、昭和34年にこの地で再建されることとなった。

護国神社は、明治維新前後から後に「国家のために殉難した者」を祀るために造られた

招魂社と呼ばれる施設がルーツであるという。東京にあったものは靖国神社となり、

地方に造られた招魂社は護国神社と呼ばれるようになったのが昭和14年なので、

会下山から灘に移ってきた時期と一致する。

戦後は一時期、GHQの指導で護国神社の名称が使えなかったこともあったという。

いずれにせよ、日本という国のあり方を考える場としては実に重要な施設なのだ。

護国神社の境内は、もちろんのこと慰霊の場であるのだが、

ある意味で「記憶装置」のようなもので満たされているとも言える。

昭和34年に再建とは言うものの、戦前からのものを引き継いできているため、

あたかもこの場所に、ずっと昔から建っていたような気がしてくるから不思議だ。

とは言うものの、子ども頃近所に住んでいたという後輩に聞けば、

護国神社の境内や境内は格好の遊び場だったというし、

いたずらして神主にこっぴどく怒られた思い出など、

いい具合に記憶に満ち溢れた場所でもあるようだ。

交番の上にある展望台(?)からの眺めも、「交番の上」というロケーションが、

景色に妙なスパイスを加えているような気がして、これはこれで味があると思う。

(それにしても、公園にある子供用の「のりものおきば」って・・・。)

春には桜が満開となるし、毎月第4日曜日には「バザールin六甲」というフリーマーケットが

開催されており、ここ数年来は、毎回神戸大学のちんどん屋サークルも出没しているので、

閑静な灘の山手界隈が賑やかな空気に包まれる。

ところで、護国神社から少し上がったあたり、長峰台の手前あたりの急坂の住宅街は、

どこか他の地域とも違う雰囲気で、何というか芦屋的というか、そんな感じがした。

坂の突き当たりの手前にはロイ・スミス館という古い邸宅があったりして、

このあたりだけ、時間の流れ方が違っているんじゃないかという気分になってくる。

※1936年建築のロイ・スミス館は現在、神戸大関連の法人が所有しており、海外から神戸大に来る教員の宿舎として使われているそうです。設計したのは灘区出身の清水栄二という人で、御影公会堂や甲南漬資料館の設計者としても知られています。興味を持たれた方はぜひ検索してみてください。)


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