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	<title>灘区昭和館</title>
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	<description>灘区昭和館</description>
	<language>ja</language>
	<copyright>Copyright 2012</copyright>
	<pubDate>Sat, 18 Apr 2026 00:05:50 +0000</pubDate>
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		<title>無名時代の桜トンネル</title>
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		<pubDate>Tue, 10 Apr 2012 12:00:20 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;nadd&amp;#105;st&amp;#64;nad&amp;#97;t&amp;#97;ma&amp;#46;&amp;#99;o&amp;#109;&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=79</guid>
		<description>	入学式。
灘区内ではあちこちの桜の木の下で記念撮影する光景が見られる。
誰も知らないと思うが、「桜」は灘区の木に選定されている。
「え？マリーゴールドじゃなかったけ？」と思われた人もいるかもしれないが、それは灘区の「花」で、桜は「木」なのだ。さらにややこしいことに灘区には「歴史の花」というのもあって、これは菜の花。お隣の東灘区は区の花として「梅」が選ばれているだけなのに、3つも選定してしまうおっちょこちょい具合が実に灘区らしい。
	神戸市のホームページより選定理由を抜粋してみる。
	　区民公募により最多投票数を得て、区内には、王子公園・
　護国神社・トンネルなど桜の名所が多いことから平成12年
　7月に灘区の木として選定されました。
　「なだ桜まつり」など春の風物詩として区民に親しまれてい
　るイベントも多く行われています。 
	オレ、投票なんかしてねえよ！という人もいるかもしれないが、とにかくいつの間にか決まっちゃったのです。
確かに灘区は桜の名所が多い。でも昔からこんな桜が多かったかしら？いまだに「都賀川は桜やなくて柳や」という人もいるし。
大体「桜のトンネル」だって、いつからそう呼ばれるようになったのかはっきりしない。せいぜい桜並木とか桜坂とか呼ばれ、近隣の人が愛でる知られざる桜スポットにすぎなかったが、シーズンには他府県ナンバーの車も多く見かけるようになった。あげくの果てに、桜にぶつかって枝を折ったりとか。いっそのこと坂の上に料金所つくって100円とれば儲かるのになどと思ってしまう。
	この桜のトンネルの桜は、摩耶ケーブルの開通に合わせて植えられたという。大正14年に開業した摩耶ケーブルは、戦時中に金属供出で鋼索、車両などが撤去され、戦後も休止状態が続いていたが、戦後復興から高度経済成長期を迎え、世はレジャーブームに。奥摩耶開発の機運が盛り上がり、摩耶ケーブルも昭和30年に運転を再開する。
摩耶ケーブルは灘クミンにとって単なる交通機関ではない。
摩耶山と街をつなぐ大事なへその緒。当時の灘クミンの喜びはどれほどだったであろう。
	摩耶ケーブルが再開した当時の貴重な写真がある。（写真上　写真提供：寺本雅男様）
細い坂道の両側に桜が植えられているのがお分かりだろうか（注）。まだ桜のトンネルなどと呼ばれていなかったころは、ローラースケートや子どもたちが「ひこうき」と呼んだ遊具（建具の戸車を車輪にした手づくりの乗り物）で滑走するのどかな坂道だったが、今では灘区有数の桜の名所に。
当時の灘クミンは今の状況を想像できただろうか。
今年、摩耶ケーブルの車両が56年ぶりにリニューアルされる。
つまり、この坂道の桜も相当の高齢樹だ。
次の桜を育てていかないといけけない時期が来ている。
	（注）写真は昭和35年頃撮影。幹が細いので大正時代に植えられたものではないと思われる。ちなみにこの並木が神戸市の街路樹として認定されたのは昭和12年9月15日。

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>入学式。<br />
灘区内ではあちこちの桜の木の下で記念撮影する光景が見られる。<br />
誰も知らないと思うが、「桜」は灘区の木に選定されている。<br />
「え？マリーゴールドじゃなかったけ？」と思われた人もいるかもしれないが、それは灘区の「花」で、桜は「木」なのだ。さらにややこしいことに灘区には「歴史の花」というのもあって、これは菜の花。お隣の東灘区は区の花として「梅」が選ばれているだけなのに、3つも選定してしまうおっちょこちょい具合が実に灘区らしい。</p>
	<p>神戸市のホームページより選定理由を抜粋してみる。</p>
	<p>　区民公募により最多投票数を得て、区内には、王子公園・<br />
　護国神社・トンネルなど桜の名所が多いことから平成12年<br />
　7月に灘区の木として選定されました。<br />
　「なだ桜まつり」など春の風物詩として区民に親しまれてい<br />
　るイベントも多く行われています。 </p>
	<p>オレ、投票なんかしてねえよ！という人もいるかもしれないが、とにかくいつの間にか決まっちゃったのです。<br />
確かに灘区は桜の名所が多い。でも昔からこんな桜が多かったかしら？いまだに「都賀川は桜やなくて柳や」という人もいるし。<br />
大体「桜のトンネル」だって、いつからそう呼ばれるようになったのかはっきりしない。せいぜい桜並木とか桜坂とか呼ばれ、近隣の人が愛でる知られざる桜スポットにすぎなかったが、シーズンには他府県ナンバーの車も多く見かけるようになった。あげくの果てに、桜にぶつかって枝を折ったりとか。いっそのこと坂の上に料金所つくって100円とれば儲かるのになどと思ってしまう。</p>
	<p>この桜のトンネルの桜は、摩耶ケーブルの開通に合わせて植えられたという。大正14年に開業した摩耶ケーブルは、戦時中に金属供出で鋼索、車両などが撤去され、戦後も休止状態が続いていたが、戦後復興から高度経済成長期を迎え、世はレジャーブームに。奥摩耶開発の機運が盛り上がり、摩耶ケーブルも昭和30年に運転を再開する。<br />
摩耶ケーブルは灘クミンにとって単なる交通機関ではない。<br />
摩耶山と街をつなぐ大事なへその緒。当時の灘クミンの喜びはどれほどだったであろう。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo120410_01.jpg" alt="" /></p>
	<p>摩耶ケーブルが再開した当時の貴重な写真がある。（写真上　写真提供：寺本雅男様）<br />
細い坂道の両側に桜が植えられているのがお分かりだろうか（注）。まだ桜のトンネルなどと呼ばれていなかったころは、ローラースケートや子どもたちが「ひこうき」と呼んだ遊具（建具の戸車を車輪にした手づくりの乗り物）で滑走するのどかな坂道だったが、今では灘区有数の桜の名所に。<br />
当時の灘クミンは今の状況を想像できただろうか。<br />
今年、摩耶ケーブルの車両が56年ぶりにリニューアルされる。<br />
つまり、この坂道の桜も相当の高齢樹だ。<br />
次の桜を育てていかないといけけない時期が来ている。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo120410_02.jpg" alt="" /></p>
	<p>（注）写真は昭和35年頃撮影。幹が細いので大正時代に植えられたものではないと思われる。ちなみにこの並木が神戸市の街路樹として認定されたのは昭和12年9月15日。
</p>
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	</item>
		<item>
		<title>パパとママと過ごした日</title>
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		<pubDate>Mon, 04 Jul 2011 20:00:37 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;&amp;#110;&amp;#97;ddi&amp;#115;t&amp;#64;n&amp;#97;&amp;#100;atam&amp;#97;.&amp;#99;&amp;#111;&amp;#109;&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=78</guid>
		<description>	
西灘のエントリーが続きますが、ご容赦ください。
	国道2号沿い、西灘小学校の目と鼻の先にアダルトショップ「パパと
ママの店」ができたのは今から30年以上前だっただろうか。
当時界隈の子どもたちは、新しいオモチャ屋ができるのかと大騒ぎした。
しかし、この店には子どもたちが楽しめるようなオモチャはなかった。
	パパとママの店は寡黙だ。
通りから中の様子をうかがうことはできない。
見えないだけに、子どもたちの胸は期待にふくらんだ。
「あの店、コケシ売ってるねんて。電池で動くらしいで」
「コケシ？マジンガーZとかとちゃうん」
「ウルトラコケシいう名前やて」
「そんなウルトラ兄弟聞いたことないわ」
店の前で残念そうな顔をしている低学年に、高学年の兄貴分が
「ウルトラマンよりオモロいねんで」と指南した。
	西灘小学校区は灘区初のラブホテルが建設されたり、通学路にポルノ
雑誌の自動販売機が設置されたりと、灘区内では比較的「ませた」校区
で、ポルノ撲滅に血眼になっている大人たちをよそに、子どもたちは
街なかの日常の性とクールに接した。『ウィークエンダー』などで知識を
仕入れていた子どもたちは、店で売られていた「電動バイブWカリ仕上げ」
が、どういうものか薄々気づいていた。
店の北には小さな村社、猿田彦神社があり聖と俗が道一本隔てて同居し
ていた。猿田彦の天狗の面とパパとママの店で売っている天狗の面の
違いを知ることもこの地区ではマストだ。
「摩耶十三丁は馬でも越すが、越すに越されぬパパとママ」と詠われた
パパとママの店は、西灘っ子が越えなくてはならない大人の階段だった
のだ。
	艶っぽい取扱商品群とは裏腹の、円弧と直線のモダンな組み合わせが
印象的な「パパママPOP体」は、市章山のイカリマークに通じる街の
アイコンだ。遠く灘を離れた元クミンが帰省した際、あの看板を見て
初めて「灘に帰ってきた」とほっとするという。
灘東部のランドマークが「傾いた喫茶店」なら西は「パパとママの店」
と言われるほど、誰でも知っているビューポイントでもある。
タクシーに乗って行き先を告げるとき「パパとママの先を左折して
ください」などと口走ってしまい、車内が少し気まずい空気になった
という経験をした灘クミンもいるに違いない。
	「パパとママの店、閉店したらしい」
そんな噂を聞いた。
ネットショップとしてリスタートするという話もある。
看板にはツタが茂り「店」の字が消えかかって「パパとママの…」
になっていた。
切なかった。
パパとママの…
そう言いかけたまま、震災を乗り越えた昭和のオトナの店がまた
一つ去ろうとしている。

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo110704_01.jpg" alt="" /></p>
	<p>西灘のエントリーが続きますが、ご容赦ください。</p>
	<p>国道2号沿い、西灘小学校の目と鼻の先にアダルトショップ「パパと<br />
ママの店」ができたのは今から30年以上前だっただろうか。<br />
当時界隈の子どもたちは、新しいオモチャ屋ができるのかと大騒ぎした。<br />
しかし、この店には子どもたちが楽しめるようなオモチャはなかった。</p>
	<p>パパとママの店は寡黙だ。<br />
通りから中の様子をうかがうことはできない。<br />
見えないだけに、子どもたちの胸は期待にふくらんだ。<br />
「あの店、コケシ売ってるねんて。電池で動くらしいで」<br />
「コケシ？マジンガーZとかとちゃうん」<br />
「ウルトラコケシいう名前やて」<br />
「そんなウルトラ兄弟聞いたことないわ」<br />
店の前で残念そうな顔をしている低学年に、高学年の兄貴分が<br />
「ウルトラマンよりオモロいねんで」と指南した。</p>
	<p>西灘小学校区は灘区初のラブホテルが建設されたり、通学路にポルノ<br />
雑誌の自動販売機が設置されたりと、灘区内では比較的「ませた」校区<br />
で、ポルノ撲滅に血眼になっている大人たちをよそに、子どもたちは<br />
街なかの日常の性とクールに接した。『ウィークエンダー』などで知識を<br />
仕入れていた子どもたちは、店で売られていた「電動バイブWカリ仕上げ」<br />
が、どういうものか薄々気づいていた。<br />
店の北には小さな村社、猿田彦神社があり聖と俗が道一本隔てて同居し<br />
ていた。猿田彦の天狗の面とパパとママの店で売っている天狗の面の<br />
違いを知ることもこの地区ではマストだ。<br />
「摩耶十三丁は馬でも越すが、越すに越されぬパパとママ」と詠われた<br />
パパとママの店は、西灘っ子が越えなくてはならない大人の階段だった<br />
のだ。</p>
	<p>艶っぽい取扱商品群とは裏腹の、円弧と直線のモダンな組み合わせが<br />
印象的な<a href="http://www.nadatama.com/modules/xoopsgallery/view_photo.php?xoops_imageid=644&#038;set_albumName=album12&#038;id=font_papa_mama" target="top">「パパママPOP体」</a>は、市章山のイカリマークに通じる街の<br />
アイコンだ。遠く灘を離れた元クミンが帰省した際、あの看板を見て<br />
初めて「灘に帰ってきた」とほっとするという。<br />
灘東部のランドマークが「傾いた喫茶店」なら西は「パパとママの店」<br />
と言われるほど、誰でも知っているビューポイントでもある。<br />
タクシーに乗って行き先を告げるとき「パパとママの先を左折して<br />
ください」などと口走ってしまい、車内が少し気まずい空気になった<br />
という経験をした灘クミンもいるに違いない。</p>
	<p>「パパとママの店、閉店したらしい」<br />
そんな噂を聞いた。<br />
ネットショップとしてリスタートするという話もある。<br />
看板にはツタが茂り「店」の字が消えかかって「パパとママの…」<br />
になっていた。<br />
切なかった。<br />
パパとママの…<br />
そう言いかけたまま、震災を乗り越えた昭和のオトナの店がまた<br />
一つ去ろうとしている。<img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo110704_02.jpg" alt="" />
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>地下道慕情（2）西灘の好々爺</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=77</link>
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		<pubDate>Thu, 10 Jun 2010 12:00:52 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;&amp;#110;&amp;#97;&amp;#100;dis&amp;#116;&amp;#64;na&amp;#100;&amp;#97;&amp;#116;&amp;#97;m&amp;#97;&amp;#46;c&amp;#111;&amp;#109;&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=77</guid>
		<description>	
今年創立130周年を迎えた西灘小学校前にある西灘地下道は好々爺という言葉が相応しい。
なぜか地下道独特の陰鬱さをあまり感じない。
むしろ乾いた明るさがある。
あそうだ、ちょっと笠智衆に似ている。
「いつも子どもたち見てもらってありがとうございます」
なんて言ったらきっと
「いやあ」
なんて頭を掻きながら照れくさそうに笑うに違いない。
	西灘地下道は昭和の訪れとともに誕生した。
昭和5年に完成した西灘村耕地整理の記録写真にもその姿を見ることができる。（写真下）
左端に見える出入り口が初代西灘地下道の勇姿だ。
その後ろの建物は西灘小学校の旧校舎、正面の小さな建物は森交番、手前の道は開通したばかりの
阪神国道（国道2号）で、道路の中央には阪神国道電車の軌道敷も見える。
車もまばらで、まだ馬が牽く荷車も行き交っていた。
この交差点の少し先に西灘村の役場があった。
当時このあたりは、神戸市ではなく武庫郡西灘村と呼ばれていたのだ。
	「神戸っ子殺すにゃ刃物はいらぬ、平地に連れてきゃ狂い死ぬ」
と揶揄されるほど、坂の街に育った神戸人は他の街と比べて坂好きが多い。
日本最大のドM登坂イベント、六甲山全山縦走が大盛況なのも平地で育った
街の人には考えられないだろう。
そしてケーブルカーへの偏愛は、もはや「坂萌え」と呼んでもいいし、
灘だんじりにおける民衆の熱狂は坂があってこそだ。
坂を見るとつい登ってしまうという悲しい性を持つ灘っ子にとっては
西灘地下道の背中は気軽にのぼれる「坂」だった。
タッチの浅倉南は階段を登って大人になったが、灘っ子は坂道を登って大人になる。
地下道の急すぎず、緩すぎず、絶妙の傾斜は下校途中の子どもたちを魅了した。
スロープに寝転がって空をみたり、買ってきた串カツを食べたりした。
西灘地下道は背中に登って楽しむ「遊べる都市インフラ」だったのだ。
ザラザラとしたモルタルの背中は、グリップ力があって登りやすく、
「世界長グッピー」でもずり落ちない。公園の滑り台とは似て非なるものだ。
出入り口近くではヒヨコ売りや篠鉄砲売りなどのあやしげな露天商が店を開き、
目立ちたがり屋がてっぺんで西城秀樹を熱唱するステージにもなった。
いつも子どもたちが集う地下道は孫を背中に乗せてあやす「おじいさん」の姿そのものだった。
	しかし、平成のリニューアルで西灘地下道の姿は一変する。
腰回りにはレンガタイルが貼られたのは百歩譲ったとしても、
直角三角形フォルムからシリンダー型への改変はとうてい看過できない。
つまりですね、子どもが地下道の背中に登れなくなったわけですよ。
「背中に登られへん地下道なんか地下道ちゃうわ！」
きっと子どもたちは変わり果てた西灘地下道に激しく落胆したに違いない。
いや、一番寂しかったの背中に子どもたちの重さを感じなくなった西灘地下道自身かもしれない。

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo100610_01.jpg" alt="西灘地下道" /></p>
	<p>今年創立130周年を迎えた西灘小学校前にある西灘地下道は好々爺という言葉が相応しい。<br />
なぜか地下道独特の陰鬱さをあまり感じない。<br />
むしろ乾いた明るさがある。<br />
あそうだ、ちょっと笠智衆に似ている。<br />
「いつも子どもたち見てもらってありがとうございます」<br />
なんて言ったらきっと<br />
「いやあ」<br />
なんて頭を掻きながら照れくさそうに笑うに違いない。</p>
	<p>西灘地下道は昭和の訪れとともに誕生した。<br />
昭和5年に完成した西灘村耕地整理の記録写真にもその姿を見ることができる。（写真下）<br />
左端に見える出入り口が初代西灘地下道の勇姿だ。<br />
その後ろの建物は西灘小学校の旧校舎、正面の小さな建物は森交番、手前の道は開通したばかりの<br />
阪神国道（国道2号）で、道路の中央には阪神国道電車の軌道敷も見える。<br />
車もまばらで、まだ馬が牽く荷車も行き交っていた。<br />
この交差点の少し先に西灘村の役場があった。<br />
当時このあたりは、神戸市ではなく武庫郡西灘村と呼ばれていたのだ。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo100610_02.jpg" alt="船寺交差点（昭和5年ごろ）" /></p>
	<p>「神戸っ子殺すにゃ刃物はいらぬ、平地に連れてきゃ狂い死ぬ」<br />
と揶揄されるほど、坂の街に育った神戸人は他の街と比べて坂好きが多い。<br />
日本最大のドM登坂イベント、六甲山全山縦走が大盛況なのも平地で育った<br />
街の人には考えられないだろう。<br />
そしてケーブルカーへの偏愛は、もはや「坂萌え」と呼んでもいいし、<br />
灘だんじりにおける民衆の熱狂は坂があってこそだ。<br />
坂を見るとつい登ってしまうという悲しい性を持つ灘っ子にとっては<br />
西灘地下道の背中は気軽にのぼれる「坂」だった。<br />
タッチの浅倉南は階段を登って大人になったが、灘っ子は坂道を登って大人になる。<br />
地下道の急すぎず、緩すぎず、絶妙の傾斜は下校途中の子どもたちを魅了した。<br />
スロープに寝転がって空をみたり、買ってきた串カツを食べたりした。<br />
西灘地下道は背中に登って楽しむ「遊べる都市インフラ」だったのだ。<br />
ザラザラとしたモルタルの背中は、グリップ力があって登りやすく、<br />
「世界長グッピー」でもずり落ちない。公園の滑り台とは似て非なるものだ。<br />
出入り口近くではヒヨコ売りや篠鉄砲売りなどのあやしげな露天商が店を開き、<br />
目立ちたがり屋がてっぺんで西城秀樹を熱唱するステージにもなった。<br />
いつも子どもたちが集う地下道は孫を背中に乗せてあやす「おじいさん」の姿そのものだった。</p>
	<p>しかし、平成のリニューアルで西灘地下道の姿は一変する。<br />
腰回りにはレンガタイルが貼られたのは百歩譲ったとしても、<br />
直角三角形フォルムからシリンダー型への改変はとうてい看過できない。<br />
つまりですね、子どもが地下道の背中に登れなくなったわけですよ。<br />
「背中に登られへん地下道なんか地下道ちゃうわ！」<br />
きっと子どもたちは変わり果てた西灘地下道に激しく落胆したに違いない。<br />
いや、一番寂しかったの背中に子どもたちの重さを感じなくなった西灘地下道自身かもしれない。
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>地下道慕情（1）</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=76</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=76#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 19 May 2010 19:30:02 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;&amp;#110;a&amp;#100;dis&amp;#116;&amp;#64;n&amp;#97;da&amp;#116;&amp;#97;&amp;#109;a&amp;#46;com&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=76</guid>
		<description>	
その日は突然やって来た。
阪急王子公園駅前の「原田地下道」が撤去、いや、南入り口近くにあった灘区が誇る
地ソース「灘ソース」や玉子焼きの名店「たこ福」の記憶とともに地中に「埋め」られた。
	都市インフラの中でも「暗い、汚い、怖い」の3拍子揃った地下道が好きな人は少ないと思う。
でも僕は地下道が愛おしい。
神戸は大きな幹線道路が小学校の校区内を分断しているため、子どもたちは通学時に歩道橋や
地下道を利用した。
昭和という時代に、地上の交通戦争から子どもの命を守ってくれた大切なシェルターだったのだ。
同じ役割を果たしたのが歩道橋だが、歩道橋が陽とすれば地下道は陰の存在だった。
歩道橋が天地真理だとすれば、地下道は安西マリアだ。
古すぎますか？
じゃ、歩道橋が松田聖子だとすれば、地下道は中森明菜なのだ。
ちがうか。
僕は頭のさきっちょから声を張り上げて「青い珊瑚礁」を歌う松田聖子より
少しドスの効いた声で「スローモーション」を歌う中森明菜が好きだった。
…えっと、話を戻そう。
ま、とにかく地下道は歩道橋と比べてドラマチックだった。
まず、地下道を降りるときの、少し「ゾワッ」とする感じ。
何か、イケナイ世界へ誘われるような、異次元への入り口のようなワクワクする感じ。
階段の先の見えない怖さ、そして何もいなかった時の安堵感。
でも、外の音が龍の鳴き声のように聞こえる反響音にまた怖くなって走る。
そして、登り階段の先に光が見えた時の嬉しさ。
どうです。歩道橋ではこうはいかない。
ひと歩きでいくつもの楽しみがあるのが地下道なのです。
（歩道橋は歩道橋の楽しみ方があるのだけど）
	残念なことに僕らを導いてくれた地下道はどうやら廃止される運命にある。
かつての盟友、歩道橋だって撤去が進んでいる。
「ザラザラ」な昭和から「ツルツル」の平成へ。
地下道や歩道橋という「おでき」のような「ザラザラ」が街からなくなり、ツルツルの風景が
浸食して、どんどんドキドキワクワクできない街になっていくような気がする。
そんな街は、ほくろのないちあきなおみが歌う『喝采』みたいに何の味わいもない。
	地下道がなくなった王子公園駅前は妙によそよそしくなった。
原田交差点のシンボルである、阪急電車の「原田拱橋（アーチ）」が街角の仲間の最期を
静かに眺めていた。
	次回から「失われつつある昭和の道」地下道の魅力をひもといていきたいと思う。

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo100519_01.jpg" alt="" /></p>
	<p>その日は突然やって来た。<br />
阪急王子公園駅前の「原田地下道」が撤去、いや、南入り口近くにあった灘区が誇る<br />
地ソース「灘ソース」や玉子焼きの名店「たこ福」の記憶とともに地中に「埋め」られた。</p>
	<p>都市インフラの中でも「暗い、汚い、怖い」の3拍子揃った地下道が好きな人は少ないと思う。<br />
でも僕は地下道が愛おしい。<br />
神戸は大きな幹線道路が小学校の校区内を分断しているため、子どもたちは通学時に歩道橋や<br />
地下道を利用した。<br />
昭和という時代に、地上の交通戦争から子どもの命を守ってくれた大切なシェルターだったのだ。<br />
同じ役割を果たしたのが歩道橋だが、歩道橋が陽とすれば地下道は陰の存在だった。<br />
歩道橋が天地真理だとすれば、地下道は安西マリアだ。<br />
古すぎますか？<br />
じゃ、歩道橋が松田聖子だとすれば、地下道は中森明菜なのだ。<br />
ちがうか。<br />
僕は頭のさきっちょから声を張り上げて「青い珊瑚礁」を歌う松田聖子より<br />
少しドスの効いた声で「スローモーション」を歌う中森明菜が好きだった。<br />
…えっと、話を戻そう。<br />
ま、とにかく地下道は歩道橋と比べてドラマチックだった。<br />
まず、地下道を降りるときの、少し「ゾワッ」とする感じ。<br />
何か、イケナイ世界へ誘われるような、異次元への入り口のようなワクワクする感じ。<br />
階段の先の見えない怖さ、そして何もいなかった時の安堵感。<br />
でも、外の音が龍の鳴き声のように聞こえる反響音にまた怖くなって走る。<br />
そして、登り階段の先に光が見えた時の嬉しさ。<br />
どうです。歩道橋ではこうはいかない。<br />
ひと歩きでいくつもの楽しみがあるのが地下道なのです。<br />
（歩道橋は歩道橋の楽しみ方があるのだけど）</p>
	<p>残念なことに僕らを導いてくれた地下道はどうやら廃止される運命にある。<br />
かつての盟友、歩道橋だって撤去が進んでいる。<br />
「ザラザラ」な昭和から「ツルツル」の平成へ。<br />
地下道や歩道橋という「おでき」のような「ザラザラ」が街からなくなり、ツルツルの風景が<br />
浸食して、どんどんドキドキワクワクできない街になっていくような気がする。<br />
そんな街は、ほくろのないちあきなおみが歌う『喝采』みたいに何の味わいもない。</p>
	<p>地下道がなくなった王子公園駅前は妙によそよそしくなった。<br />
原田交差点のシンボルである、阪急電車の「原田拱橋（アーチ）」が街角の仲間の最期を<br />
静かに眺めていた。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo100519_02.jpg" alt="" /></p>
	<p>次回から「失われつつある昭和の道」地下道の魅力をひもといていきたいと思う。
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>奥摩耶の銀盤</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=75</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=75#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 09 Feb 2010 11:00:09 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;n&amp;#97;&amp;#100;&amp;#100;is&amp;#116;&amp;#64;&amp;#110;&amp;#97;&amp;#100;&amp;#97;&amp;#116;&amp;#97;&amp;#109;&amp;#97;.com&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=75</guid>
		<description>	まだ2月だというのにあたたかい。
やはり冬は寒くないと困る。
灘クミンとしは、バンクーバー冬季五輪よりも氷の彫刻作りが始まった「六甲山氷の祭典」が
気になる。六甲山の冬の目玉イベントだが、今まで雨や気温上昇で難度も泣かされてきた
	山上の氷を切り出して運んだ「アイスロード」という道もあるくらい六甲山と氷の縁は深い。
六甲山や摩耶山にある大小無数の池にはかつてのような分厚い氷は張らなくなったが、
かつては六甲山上の八代池、三国池、ひょうたん池などは天然のスケートリンクとして多くの
滑走客で賑わった。
シーズンになると六甲ケーブル下駅に各池の滑走の可否が表示された。
今からさかのぼること74年前の昭和11年に開催されたドイツ・ガルミッシュオリンピックの
女子フィギュアスケート日本代表、稲田悦子嬢は六甲山の八代池で練習していた。
今で言えば浅田真央が六甲山でトリプルアクセルを練習しているようなもので、
灘クミンとしては冬の五輪トピックとして記憶しておきたい。
昭和27年には、本格的なスケートリンクとして「新池スケート場」がオープン、
しかし年々暖冬になり氷の張る期間が少なくなり、次第に市街地のインドア型のスケートリンクに
客を取られていった。
	摩耶山にも小さなスケート場があった（写真上）。
昭和30年、摩耶ロープウエー開通と同時に、奥摩耶（現在の掬星台周辺）観光の目玉として
奥摩耶遊園地がオープン。自然の地形を生かした園内には様々な施設があったが、掬星台から
徒歩5分ほどの場所に「奥摩耶アイススケート場」が開設された。
オープン当初は賑わった奥摩耶遊園地もやがて来園者が減少し、ジェットコースターなどの
大型遊具もいつしか撤去された。奥摩耶スケート場も自然に戻され、摩耶自然観察園内の
「あじさい池」として第二の人生を送ることになった。
初夏になると周囲があじさいで埋め尽くされ、特に霧に覆われた時は浮世離れした幻想的な
風景が広がるあじさい池は、あじさいの名所として知られるようになったが、スケート場
時代の痕跡を見つけることができる。
	古い写真と見比べていただきたい。
「奥摩耶スケート場」という看板が設置され、客がつかまった手すりが池の周囲にひっそりと
残っている。（写真下）
完全に撤去されたわけでもなく、廃墟化したわけでもない。
思いを巡らすことのできる頃合いの昭和の痕跡が心地よい。
この池は谷間にあるので、今でも厚い氷が張る。
「あじさい池」などという名前をつけられてしまったために、冬訪れる人は少ないが
「昭和の冬」を感じることのできる貴重な場所なのだ。
池の近くには立派な氷の滝があり、ひそかに「奥摩耶滝」と名付けている。
	地球温暖化は摩耶山や六甲山から冬を奪う。
氷の張らない摩耶六甲なんて、クリープを入れないコーヒーみたいなものなのだ。
せめて今週末はキンキンに冷える昭和の六甲山が戻って「氷の祭典」が無事開催されて
欲しいと思う。
　
　
　
	写真：『写真で見る公社索道事業の歩み』（財団法人神戸市都市整備公社、昭和60年

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>まだ2月だというのにあたたかい。<br />
やはり冬は寒くないと困る。<br />
灘クミンとしは、バンクーバー冬季五輪よりも氷の彫刻作りが始まった<a href="http://www.rokkosan.com/cable/event/index.html#ca6kori" target="top">「六甲山氷の祭典」</a>が<br />
気になる。六甲山の冬の目玉イベントだが、今まで雨や気温上昇で難度も泣かされてきた</p>
	<p>山上の氷を切り出して運んだ「アイスロード」という道もあるくらい六甲山と氷の縁は深い。<br />
六甲山や摩耶山にある大小無数の池にはかつてのような分厚い氷は張らなくなったが、<br />
かつては六甲山上の八代池、三国池、ひょうたん池などは天然のスケートリンクとして多くの<br />
滑走客で賑わった。<br />
シーズンになると六甲ケーブル下駅に各池の滑走の可否が表示された。<br />
今からさかのぼること74年前の昭和11年に開催されたドイツ・ガルミッシュオリンピックの<br />
女子フィギュアスケート日本代表、稲田悦子嬢は六甲山の八代池で練習していた。<br />
今で言えば浅田真央が六甲山でトリプルアクセルを練習しているようなもので、<br />
灘クミンとしては冬の五輪トピックとして記憶しておきたい。<br />
昭和27年には、本格的なスケートリンクとして「新池スケート場」がオープン、<br />
しかし年々暖冬になり氷の張る期間が少なくなり、次第に市街地のインドア型のスケートリンクに<br />
客を取られていった。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo100209_01.jpg" alt="奥摩耶スケート場" /></p>
	<p>摩耶山にも小さなスケート場があった（写真上）。<br />
昭和30年、摩耶ロープウエー開通と同時に、奥摩耶（現在の掬星台周辺）観光の目玉として<br />
奥摩耶遊園地がオープン。自然の地形を生かした園内には様々な施設があったが、掬星台から<br />
徒歩5分ほどの場所に「奥摩耶アイススケート場」が開設された。<br />
オープン当初は賑わった奥摩耶遊園地もやがて来園者が減少し、ジェットコースターなどの<br />
大型遊具もいつしか撤去された。奥摩耶スケート場も自然に戻され、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/摩耶自然観察園" target="top">摩耶自然観察園</a>内の<br />
「あじさい池」として第二の人生を送ることになった。<br />
初夏になると周囲があじさいで埋め尽くされ、特に霧に覆われた時は浮世離れした幻想的な<br />
風景が広がるあじさい池は、あじさいの名所として知られるようになったが、スケート場<br />
時代の痕跡を見つけることができる。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo100209_02.jpg" alt="あじさい池" /></p>
	<p>古い写真と見比べていただきたい。<br />
「奥摩耶スケート場」という看板が設置され、客がつかまった手すりが池の周囲にひっそりと<br />
残っている。（写真下）<br />
完全に撤去されたわけでもなく、廃墟化したわけでもない。<br />
思いを巡らすことのできる頃合いの昭和の痕跡が心地よい。<br />
この池は谷間にあるので、今でも厚い氷が張る。<br />
「あじさい池」などという名前をつけられてしまったために、冬訪れる人は少ないが<br />
「昭和の冬」を感じることのできる貴重な場所なのだ。<br />
池の近くには立派な氷の滝があり、ひそかに<a href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress8/index.php?p=141" target="top">「奥摩耶滝」</a>と名付けている。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo100209_03.jpg" alt="奥摩耶スケート場の手すり" /></p>
	<p>地球温暖化は摩耶山や六甲山から冬を奪う。<br />
氷の張らない摩耶六甲なんて、クリープを入れないコーヒーみたいなものなのだ。<br />
せめて今週末はキンキンに冷える昭和の六甲山が戻って「氷の祭典」が無事開催されて<br />
欲しいと思う。<br />
　<br />
　<br />
　</p>
	<p>写真：『写真で見る公社索道事業の歩み』（財団法人神戸市都市整備公社、昭和60年
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>都賀川ハードボイルド階段</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=72</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=72#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 15 Dec 2009 18:00:40 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;&amp;#110;add&amp;#105;&amp;#115;&amp;#116;&amp;#64;n&amp;#97;d&amp;#97;t&amp;#97;ma&amp;#46;com&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=72</guid>
		<description>	
最近階段が気になる。
階段といってもマンションの階段や、家の階段ではなく街の中にある階段。
気になるといっても「この階段、バリアフリーじゃないな」という気になり方ではなく、
むしろそれとは真逆で「上ってみるなら（下りてみるなら）上ってみろ」的な風情の
階段にワクワクする。
	もう「ここで足を踏み外しても本望」と思えるほど愛おしい階段が都賀川にある。
都賀川が山手幹線と交差するあたりにある河床へ下りる小さな階段。
その「ワル」なたたずまいにグッと来る。
おそらくこの付近だけ公園化が遅れているので、昔の階段が残ってしまった
といった感じの明らかに昭和風情の「残っちゃいました系」の階段。
今のように河川敷におりて水と親しむための階段ではなく、落ちた物を拾うとか
非常階段のようなものだったのかもしれない。
昔々に上流から流されてきた石を思わせる歴史を感じさせる肌触り、なにか城塞の階段を
思わせるワイルドさは、きれいに整備された都賀川沿いではあきらかに異質なたたずまいで、
階段面（踏みづらという）もぼこぼこして、手すりすらない。
まるで上り下りすることを拒否しているかのように思える。
安心安全的な視線でみると、明らかにキケンな「肉食系階段」で、きっとちっちゃな時から
悪階段で15で不良で呼ばれたに違いない。
だいたい人に媚びていないのがいい。
「オレに近づくとケガするぜベイベー」的なハードボイルドさにそそられる。
都賀川は親水化され、誰もが気軽に川にアクセスできるようになった。
それはとてもすばらしいなことだと思うが、川は公園ではなく自然だということを忘れては
いないだろうか。（たとえ人工的なしつらえになっても）
	そこで、このハードボイルド階段の存在が重要になってくる。
	先週、都賀川の自然を象徴するかのような素敵な記事が新聞に掲載された。
灘区在住の水中写真家、宮道成彦氏が都賀川でアユの産卵の撮影に成功した。
振り返れば昭和40年代には洗濯排水が泡立ち、自転車が捨てられ、死んだフナに蛆がわき、
足にヒルが吸い付き「でかいドブ川」とまで呼ばれた都賀川をここまで蘇らせたのは、都賀川を
守ろう会を中心とする灘クミンの「灘魂」のたまものだと思う。
そして、かつては石垣に這いつくばって下りた川へのアクセスも容易になった。
しかしこの環境を守っていくためには、時にアクセスのしやすさが仇となる場合がある。
都賀川は親しい友人でもあるが、雄大な自然の一部である。
都賀川ハードボイルド階段は、そんな踏み外してはいけない人と川の一線を教えてくれている
ような気がするのだ。
	この階段もいずれはなくなるのだろう。
その前に是非足を踏み外さないように下りてみていただきたい。

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091215_01.jpg" alt="都賀川ハードボイルド階段" /></p>
	<p>最近階段が気になる。<br />
階段といってもマンションの階段や、家の階段ではなく街の中にある階段。<br />
気になるといっても「この階段、バリアフリーじゃないな」という気になり方ではなく、<br />
むしろそれとは真逆で「上ってみるなら（下りてみるなら）上ってみろ」的な風情の<br />
階段にワクワクする。</p>
	<p>もう「ここで足を踏み外しても本望」と思えるほど愛おしい階段が都賀川にある。<br />
都賀川が山手幹線と交差するあたりにある河床へ下りる小さな階段。<br />
その「ワル」なたたずまいにグッと来る。<br />
おそらくこの付近だけ公園化が遅れているので、昔の階段が残ってしまった<br />
といった感じの明らかに昭和風情の「残っちゃいました系」の階段。<br />
今のように河川敷におりて水と親しむための階段ではなく、落ちた物を拾うとか<br />
非常階段のようなものだったのかもしれない。<br />
昔々に上流から流されてきた石を思わせる歴史を感じさせる肌触り、なにか城塞の階段を<br />
思わせるワイルドさは、きれいに整備された都賀川沿いではあきらかに異質なたたずまいで、<br />
階段面（踏みづらという）もぼこぼこして、手すりすらない。<br />
まるで上り下りすることを拒否しているかのように思える。<br />
安心安全的な視線でみると、明らかにキケンな「肉食系階段」で、きっとちっちゃな時から<br />
悪階段で15で不良で呼ばれたに違いない。<br />
だいたい人に媚びていないのがいい。<br />
「オレに近づくとケガするぜベイベー」的なハードボイルドさにそそられる。<br />
都賀川は親水化され、誰もが気軽に川にアクセスできるようになった。<br />
それはとてもすばらしいなことだと思うが、川は公園ではなく自然だということを忘れては<br />
いないだろうか。（たとえ人工的なしつらえになっても）</p>
	<p>そこで、このハードボイルド階段の存在が重要になってくる。</p>
	<p>先週、都賀川の自然を象徴するかのような素敵な記事が新聞に掲載された。<br />
灘区在住の水中写真家、<a href="http://kobesea.cocolog-nifty.com/blog/" target="top">宮道成彦氏</a>が都賀川でアユの産卵の撮影に成功した。<br />
振り返れば昭和40年代には洗濯排水が泡立ち、自転車が捨てられ、死んだフナに蛆がわき、<br />
足にヒルが吸い付き「でかいドブ川」とまで呼ばれた都賀川をここまで蘇らせたのは、都賀川を<br />
守ろう会を中心とする灘クミンの「灘魂」のたまものだと思う。<br />
そして、かつては石垣に這いつくばって下りた川へのアクセスも容易になった。<br />
しかしこの環境を守っていくためには、時にアクセスのしやすさが仇となる場合がある。<br />
都賀川は親しい友人でもあるが、雄大な自然の一部である。<br />
都賀川ハードボイルド階段は、そんな踏み外してはいけない人と川の一線を教えてくれている<br />
ような気がするのだ。</p>
	<p>この階段もいずれはなくなるのだろう。<br />
その前に是非足を踏み外さないように下りてみていただきたい。
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>灘の廃線跡を行く～神戸臨港線編</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=71</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=71#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 03 Dec 2009 09:00:26 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;&amp;#110;&amp;#97;&amp;#100;&amp;#100;is&amp;#116;&amp;#64;&amp;#110;a&amp;#100;a&amp;#116;&amp;#97;m&amp;#97;&amp;#46;&amp;#99;&amp;#111;&amp;#109;&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=71</guid>
		<description>	
短い汽笛が「ポッ」っと寒空に響く。
あ、9時や…
実家のすぐ近くが、神戸港へ向かう臨港線の始発場所だった。
毎晩9時に港へ向かう貨物列車が発車する。
その音が時を告げる鳩時計のように暮らしにとけ込んでいた。
灘の街から臨港線が消えて8年たった。
神戸の重要な魅力の1つ「ミナト」を、アピールできる資源の1つだったので残念に思う。
観光や生活路線として再活用することはできなかったが、遊歩道化され「市道臨港線」として
生まれ変わった。
今まで歩けなかった線路敷を歩いてみることにした。
	JR灘駅の南、踏切があった場所から遊歩道が始まる。
長い長い貨物列車をやりすごした踏切。
近くの溝ではザリガニが釣れた。
残念なことに、踏切の東側に線路に立ちふさがるように無粋なマンションが建ったが、
このマンションを建てた会社は今年潰れた。
言わずもがな、である。
街の歴史に敬意を払わない報いだ。
	道路をまたぐ鉄橋も形を変えて残された。
「庄境架道橋」とかかれた橋の下を通るのは区境の道路。
きっと古くから村の境目だったのであろう。
昭和4年までこの道路から西が神戸市で、東側は武庫郡西灘村と呼ばれていた。
文字通りここから街が変わる。匂いが変わる。
男と女の間には深くて暗い川があるらしいが、子どもにとっても灘区と旧葺合区の間に
道幅以上の距離を感じたものだった。
	臨港線は灘区から旧葺合区域へ入ると、南へ大きくカーブする。
遊歩道には鉄道のキロポスト表示を模したサインもある。
またところどころホンモノの標識も残されている。
カーブの南側にバームクーヘンのような形が斬新だった神鋼病院があった。
毎週のように通った思い出の病院。
高度経済成長期、工場が林立し「灘名物の百煙突」とも揶揄された灘・葺合の海岸部は
空気も悪かった。小児喘息で苦しむ子どもも多く、私もその一人だった。
神鋼病院の小児科の待合室には毎日大勢の喘息児童があふれ、苦しそうな咳が病院内に響く。
それがいやで、診察を待つ間病棟の外に出て臨港線を眺めた。
長い貨物列車がカーブをゆっくりと通り過ぎると、ディーゼル機関車の排煙のむせるような
熱気と匂いがあたりに漂った。
現在はこのカーブのあたりに小さな線路が引かれている。
隣接する県立科学技術高校の鉄道研究会の模型蒸気機関車走行会に使われるという。
皮肉なことに臨港線がなくなって本物の蒸気機関車が走ることになったのだが、
歴史を踏まえた素敵な仕掛けだと思う。
	山側に目を向けると、かつては甍（いらか）の波ならぬ、神鋼ファウドラーの水色のトタン屋根
の波が広がっていた。
現在はマンションが林立し風景は一変してしまったが、遠くに見える摩耶山の紅葉は昔のままだ。
このあたりでは琺瑯タンクが製造されていた。おそらく灘の酒蔵でも醸造用タンクとして使われ
ただろう。この近くにある灘の地ソースメーカー「プリンセスソース」では、今でもここで造ら
れたタンクが使われている。
	いよいよこの臨港線のハイライト「脇浜拱橋」にさしかかる。
伸びやかな鉄橋で広い国道2号をまたぐ。
国道を西へ向かうとき、この橋をくぐると灘区を出たという感覚になった。
心理的な灘区の西のゲートだったのかもしれない。
橋上には架線柱も残され、かつての神鋼ファウドラーの屋根の色と呼応するかのような
懐かしいベビーブルーもまぶしく塗り直されている。
まさかここを歩いて渡れるとは思いもしなかった。
	重工業の街から新しい街へ、震災後めまぐるしく移り変る臨港線沿線だが、
脇浜拱橋を渡ると昭和のあじわいを色濃く残す懐かしい風景に出会った。
歴史を感じさせる日本香料の社屋が、軌道脇にそっとたたずんでいた。
	そのユーモラスな姿から「春日野道のゾウさん」と呼ばれた、川鉄「西山記念会館」のあたりで
遊歩道は終わるが、一部本物の鉄路が保存されていた。
枕木の間に雑草が生えている、あの懐かしい臨港線のたたずまいそのものだ。
HAT神戸方面から歩いてきた親子連れが不思議そうに線路を見つめていた。
「なんでこんなところに線路があるんかなぁ」
彼らはこの線路の上を「神戸港からヨーロッパへ向かう欧州航路の船客を乗せた特別列車が走った」
ことなど知る由もない。
線路にそっと耳をつけてみて欲しい。
もう貨物列車は走ってこないが、明治、大正、昭和とミナトコウベを支えてきた老兵のつぶやきが、
あるいは、この周辺の工場で働いていた人々の息づかいが聞こえてくるかもしれない。
	2009年12月5日（土）に、臨港線跡を探訪するツアーを開催します。
解説付きのガイドウォークです。
ふるってご参加ください。
詳しくは下記リンク先をご参照ください。
「灘まちなみ建築探訪vol.11～臨港線編」
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091203_01.jpg" alt="神戸臨港線踏切（2003年12月）" /></p>
	<p>短い汽笛が「ポッ」っと寒空に響く。<br />
あ、9時や…<br />
実家のすぐ近くが、神戸港へ向かう臨港線の始発場所だった。<br />
毎晩9時に港へ向かう貨物列車が発車する。<br />
その音が時を告げる鳩時計のように暮らしにとけ込んでいた。<br />
灘の街から<a href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress1/index.php/archives/2003/12/01/naddist031201-171good-bye/" target="top">臨港線が消えて8年</a>たった。<br />
神戸の重要な魅力の1つ「ミナト」を、アピールできる資源の1つだったので残念に思う。<br />
観光や生活路線として再活用することはできなかったが、遊歩道化され「市道臨港線」として<br />
生まれ変わった。<br />
今まで歩けなかった線路敷を歩いてみることにした。</p>
	<p>JR灘駅の南、踏切があった場所から遊歩道が始まる。<br />
長い長い貨物列車をやりすごした踏切。<br />
近くの溝ではザリガニが釣れた。<br />
残念なことに、踏切の東側に<a href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress8/index.php?p=48<br />
" target="top">線路に立ちふさがるように無粋なマンションが建ったが</a>、<br />
このマンションを建てた会社は今年潰れた。<br />
言わずもがな、である。<br />
街の歴史に敬意を払わない報いだ。</p>
	<p>道路をまたぐ鉄橋も形を変えて残された。<br />
「庄境架道橋」とかかれた橋の下を通るのは区境の道路。<br />
きっと古くから村の境目だったのであろう。<br />
昭和4年までこの道路から西が神戸市で、東側は武庫郡西灘村と呼ばれていた。<br />
文字通りここから街が変わる。匂いが変わる。<br />
男と女の間には深くて暗い川があるらしいが、子どもにとっても灘区と旧葺合区の間に<br />
道幅以上の距離を感じたものだった。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091203_02.jpg" alt="庄境架道橋" /></p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091203_03.jpg" alt="旧神鋼病院北のカーブ" /></p>
	<p>臨港線は灘区から旧葺合区域へ入ると、南へ大きくカーブする。<br />
遊歩道には鉄道のキロポスト表示を模したサインもある。<br />
またところどころホンモノの標識も残されている。<br />
カーブの南側にバームクーヘンのような形が斬新だった神鋼病院があった。<br />
毎週のように通った思い出の病院。<br />
高度経済成長期、工場が林立し「灘名物の百煙突」とも揶揄された灘・葺合の海岸部は<br />
空気も悪かった。小児喘息で苦しむ子どもも多く、私もその一人だった。<br />
神鋼病院の小児科の待合室には毎日大勢の喘息児童があふれ、苦しそうな咳が病院内に響く。<br />
それがいやで、診察を待つ間病棟の外に出て臨港線を眺めた。<br />
長い貨物列車がカーブをゆっくりと通り過ぎると、ディーゼル機関車の排煙のむせるような<br />
熱気と匂いがあたりに漂った。<br />
現在はこのカーブのあたりに小さな線路が引かれている。<br />
隣接する県立科学技術高校の鉄道研究会の模型蒸気機関車走行会に使われるという。<br />
皮肉なことに臨港線がなくなって本物の蒸気機関車が走ることになったのだが、<br />
歴史を踏まえた素敵な仕掛けだと思う。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091203_04.jpg" alt="旧神鋼ファウドラー付近" /></p>
	<p>山側に目を向けると、かつては甍（いらか）の波ならぬ、神鋼ファウドラーの水色のトタン屋根<br />
の波が広がっていた。<br />
現在はマンションが林立し風景は一変してしまったが、遠くに見える摩耶山の紅葉は昔のままだ。<br />
このあたりでは琺瑯タンクが製造されていた。おそらく灘の酒蔵でも醸造用タンクとして使われ<br />
ただろう。この近くにある灘の地ソースメーカー「プリンセスソース」では、今でもここで造ら<br />
れたタンクが使われている。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091203_05.jpg" alt="脇浜拱橋" /></p>
	<p>いよいよこの臨港線のハイライト「脇浜拱橋」にさしかかる。<br />
伸びやかな鉄橋で広い国道2号をまたぐ。<br />
国道を西へ向かうとき、この橋をくぐると灘区を出たという感覚になった。<br />
心理的な灘区の西のゲートだったのかもしれない。<br />
橋上には架線柱も残され、かつての神鋼ファウドラーの屋根の色と呼応するかのような<br />
懐かしいベビーブルーもまぶしく塗り直されている。<br />
まさかここを歩いて渡れるとは思いもしなかった。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091203_06.jpg" alt="脇浜拱橋" /></p>
	<p>重工業の街から新しい街へ、震災後めまぐるしく移り変る臨港線沿線だが、<br />
脇浜拱橋を渡ると昭和のあじわいを色濃く残す懐かしい風景に出会った。<br />
歴史を感じさせる<a href="http://www.nky-kk.co.jp/" target="top">日本香料</a>の社屋が、軌道脇にそっとたたずんでいた。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091203_07.jpg" alt="日本香料" /></p>
	<p>そのユーモラスな姿から「春日野道のゾウさん」と呼ばれた、川鉄<a href="http://www.nishiyama-kinenkaikan.jp/" target="top">「西山記念会館」</a>のあたりで<br />
遊歩道は終わるが、一部本物の鉄路が保存されていた。<br />
枕木の間に雑草が生えている、あの懐かしい臨港線のたたずまいそのものだ。<br />
HAT神戸方面から歩いてきた親子連れが不思議そうに線路を見つめていた。<br />
「なんでこんなところに線路があるんかなぁ」<br />
彼らはこの線路の上を「神戸港からヨーロッパへ向かう欧州航路の船客を乗せた特別列車が走った」<br />
ことなど知る由もない。<br />
線路にそっと耳をつけてみて欲しい。<br />
もう貨物列車は走ってこないが、明治、大正、昭和とミナトコウベを支えてきた老兵のつぶやきが、<br />
あるいは、この周辺の工場で働いていた人々の息づかいが聞こえてくるかもしれない。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091203_08.jpg" alt="残された臨港線の線路" /></p>
	<p><font Size="1"><font Color="#800000">2009年12月5日（土）に、臨港線跡を探訪するツアーを開催します。<br />
解説付きのガイドウォークです。<br />
ふるってご参加ください。<br />
詳しくは下記リンク先をご参照ください。<br />
<a href="http://www.nadatama.com/modules/piCal/index.php?smode=Daily&#038;action=View&#038;event_id=0000000437&#038;caldate=2009-12-2" target="top">「灘まちなみ建築探訪vol.11～臨港線編」</a><br />
<font Size="2"><font Color="#000000"><br />
</font><br />
</font></font></font>
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>帰ってきた傾いた喫茶店（2）</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=70</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=70#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 17 Nov 2009 17:00:52 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;nad&amp;#100;&amp;#105;s&amp;#116;&amp;#64;n&amp;#97;datam&amp;#97;.&amp;#99;o&amp;#109;&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=70</guid>
		<description>	
11月14日。
イースト水道筋の一角、骨董通りの路地に、昨年末に閉店した永手町の傾いた喫茶店こと
「レードルのアレ」の甘酸っぱい芳香が漂った。
限定20皿分はすべて予約済み。
あとはお客さんを待つだけだ。
	「看板はいらんのちゃう？レードルよりミニ言うたほうが分かる人多いし」
店頭に置かれたレードル時代の看板を見てマスターが照れくさそうに笑った。
「ミニ」という名前があまり好きではなかったので店名を変えたという。
六甲模型に行くときによく目にしていた「ミニ」に、初めて行ったのは
高校生の頃、日尾町の友人宅に行った帰りに寄ったような記憶がある。
2階の窓際席で、たしかアイスレモンティを飲んだ。
1階にはアップライトのピアノ、2階にも楽器が置いてあった。
当時はしばしば店内でライブもあった。
	「あ、CD忘れた！なんか音楽ある？」とマスター。
「なんでもいいっすか？」
はて、BGMは何がいいだろう。
手元にあったiPodをブラウズして「はっぴいえんど」を選んだ。
昭和45年、市電が廃止された直後の山手幹線に姿を現した傾いた喫茶店の風情と
同時期にデビューしたはっぴいえんどの『花いちもんめ』の歌詞がリンクした。
	　ぼくらが電車通りを駆け抜けると　
　巻き起こるたつまきで街はぐらぐら　
	やがてカレーの香りに引き寄せられるかのようにお客さんが集まってきた。
メニューは1種類なので、誰もオーダーはしない。
黙って座っていると、「アレ」が出てきた。
もちろん皿もスプーンもすべてレードル時代のものだ。
14個の紅玉と14個の玉ねぎとホールトマトをじっくり煮込んだ無水カレー。
「今日は商売やないからステーキ用の肩ロースも入れてん。せっかく来てくれるねんからね」
と、寡黙なマスターがぽそり。
それ以上、会話があるわけではない。
特に復活の高揚感があるわけでもない。
寂として声無し。
みな黙々とスプーンを口に運ぶ。
一口食べると口に広がる衝撃的な甘酸っぱさと濃厚な旨味。
そしてその後にやってくるじんわりとした辛さ。
激辛ではないが、体の芯から汗が吹き出す。
味の時間差攻撃、タイムラグがこのカレーのキモだそうだ。
	午後3時、全てのカレーがなくなった。
「最初つくったときは感動したんやけど、今食べたらそうでもないな」
誰もいなくなった店内で、マスターは少し残ったカレーを食べて言った。
店の外の昭和の面影を色濃く残す路地には柔らかい秋の光が射し、レードルの
看板越しに摩耶の山並みと青い空が見える。
	　紙芝居屋が店をたたんだあとの　
　狭い路地裏はヒーローでいっぱい
	店内にはまた『花いちもんめ』が流れていた。
「でもやっぱりBGMは『シバの女王』がええな」
来年復活する時は用意しておきます。
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091117_01.jpg" alt="" /></p>
	<p>11月14日。<br />
イースト水道筋の一角、骨董通りの路地に、昨年末に閉店した永手町の傾いた喫茶店こと<br />
<a href="http://www.nadatama.com/modules/myalbum/photo.php?lid=283&#038;cid=3" target="top">「レードルのアレ」</a>の甘酸っぱい芳香が漂った。<br />
限定20皿分はすべて予約済み。<br />
あとはお客さんを待つだけだ。</p>
	<p>「看板はいらんのちゃう？レードルよりミニ言うたほうが分かる人多いし」<br />
店頭に置かれたレードル時代の看板を見てマスターが照れくさそうに笑った。<br />
「ミニ」という名前があまり好きではなかったので店名を変えたという。<br />
六甲模型に行くときによく目にしていた「ミニ」に、初めて行ったのは<br />
高校生の頃、日尾町の友人宅に行った帰りに寄ったような記憶がある。<br />
2階の窓際席で、たしかアイスレモンティを飲んだ。<br />
1階にはアップライトのピアノ、2階にも楽器が置いてあった。<br />
当時はしばしば店内でライブもあった。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091117_02.jpg" alt="" /></p>
	<p>「あ、CD忘れた！なんか音楽ある？」とマスター。<br />
「なんでもいいっすか？」<br />
はて、BGMは何がいいだろう。<br />
手元にあったiPodをブラウズして「はっぴいえんど」を選んだ。<br />
昭和45年、市電が廃止された直後の山手幹線に姿を現した傾いた喫茶店の風情と<br />
同時期にデビューしたはっぴいえんどの『花いちもんめ』の歌詞がリンクした。</p>
	<p>　ぼくらが電車通りを駆け抜けると　<br />
　巻き起こるたつまきで街はぐらぐら　</p>
	<p>やがてカレーの香りに引き寄せられるかのようにお客さんが集まってきた。<br />
メニューは1種類なので、誰もオーダーはしない。<br />
黙って座っていると、「アレ」が出てきた。<br />
もちろん皿もスプーンもすべてレードル時代のものだ。<br />
14個の紅玉と14個の玉ねぎとホールトマトをじっくり煮込んだ無水カレー。<br />
「今日は商売やないからステーキ用の肩ロースも入れてん。せっかく来てくれるねんからね」<br />
と、寡黙なマスターがぽそり。<br />
それ以上、会話があるわけではない。<br />
特に復活の高揚感があるわけでもない。<br />
寂として声無し。<br />
みな黙々とスプーンを口に運ぶ。<br />
一口食べると口に広がる衝撃的な甘酸っぱさと濃厚な旨味。<br />
そしてその後にやってくるじんわりとした辛さ。<br />
激辛ではないが、体の芯から汗が吹き出す。<br />
味の時間差攻撃、タイムラグがこのカレーのキモだそうだ。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091117_03.jpg" alt="" /></p>
	<p>午後3時、全てのカレーがなくなった。<br />
「最初つくったときは感動したんやけど、今食べたらそうでもないな」<br />
誰もいなくなった店内で、マスターは少し残ったカレーを食べて言った。<br />
店の外の昭和の面影を色濃く残す路地には柔らかい秋の光が射し、レードルの<br />
看板越しに摩耶の山並みと青い空が見える。</p>
	<p>　紙芝居屋が店をたたんだあとの　<br />
　狭い路地裏はヒーローでいっぱい</p>
	<p>店内にはまた『花いちもんめ』が流れていた。<br />
「でもやっぱりBGMは『シバの女王』がええな」<br />
来年復活する時は用意しておきます。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091117_04.jpg" alt="" />
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>帰ってきた傾いた喫茶店</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=69</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=69#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 05 Nov 2009 18:00:26 +0900</pubDate>
		<author>nada &lt;&amp;#105;nf&amp;#111;&amp;#64;nad&amp;#97;t&amp;#97;&amp;#109;&amp;#97;&amp;#46;&amp;#99;&amp;#111;&amp;#109;&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=69</guid>
		<description>	ナダタマ本部には灘の遺物がたくさんある。
昔の灘中央市場や閉店した古い店舗の切り文字看板、取り壊された古い家の塀、
篠原の茅葺き屋根の家の茅、はたまた旧十国展望台のマッチ箱や六甲・凌雲荘の
ビニール袋などの小物類まで。
一般的には「ゴミ」と呼ばれるもの。
どれも私にとっては宝物なのだが、まず理解されない。
	「またそんなゴミ拾てきて！捨ててきっ！」
「いやこれは灘的には…」
「ナダ的もヒガシナダ的もないわ！このドロガメ！」
などと人生幸朗・生恵幸子ばりに叱責されるのがオチだ。
でもそれでいい。
ちょっぴり後めたい気持ちがあるくらいじゃないと、きっと歯止めがきかない。
放っておくと「灘のゴミ屋敷に周辺住民困惑」なんて、朝ズバッ！8時またぎあたりで
取り上げる恐れがある。
「いやあ、まったく理解できませんねェ」
などと、みのもんたにあしらわれたんじゃたまらない。
灘の森羅万象を愛する「灘魂思想」では、これらのゴミはすべて灘のタカラモノなのだ。
モノには街のモノガタリがある。
耳を澄ませばいろんな音が聞こえてくる（ような気がする）
目をこらせばいろんな情景が浮かんでくる（ような気がする）
なによりも、灘に存在してきた空気感（オーラ）が愛おしい。
いつか原田の森ギャラリーを借りて「大灘区至宝展」をやりたいと思っている。
もちろん至宝とは「旧臨港線の石ころ」「摩耶山茶店跡に落ちていたラムネ瓶の破片」
「ハイジの花壇に使われていたレンガ片」などだ。
総額0円の宝物に、できればものものしく警備員も配置したい。
きっとみのもんたには理解されないだろうけど。
	「看板？もういらんから持って行ってもええよ」
昨年末、閉店した「傾いた喫茶店」こと永手町の「レードル（旧ミニ）」の看板をマスターから
譲っていただいた。
ただし今回のブツは今までのコレクションとは訳が違う。
健康上の理由でやむを得ず店を畳んだマスターの寂しそうな背中を見て、ある企てを思い
ついた。
かつての記憶を今の街で生かしていくこと。&amp;#8232;ノスタルジックに浸るだけでなく、古いものに
新たな物語を積み重ねていくこと。&amp;#8232;記憶のリサイクル。&amp;#8232;
このプロジェクトは「リメインダーズ・オブ・ザ・レードル・サクセション（レードルの
残り物の継承）」コードネーム「RLサクセション」と名付けらた。
レードルで使われていた椅子は畑原市場の「チンタ本店」へ、ステンレス製の水差しは
畑原東商店街の「スタンドモンク」へ、カトラリーや食器は日曜カフェ「kakke cafe」
やパスタ屋「Tetz」、タイ・フィリピン料理の「Asian Rabbit」へ。
それぞれの店でまた物語を紡ぐことになった。
	10月のある日、レードルマスターから電話があった。
体調もだいぶ良くなったとのこと。
「そろそろカレー、つくろか？」
ハンバーグとともに傾いた喫茶店の名物メニューだったカレー。
そうか…そういやそろそろ「アレ」の季節か。
知る人ぞ知る、知らない人は知らないレードルの「アレカレー」。
秋から冬にかけてしかつくれない「アレカレー」が、今年も帰ってくる。
そんなこんなで、水道筋で一日だけの「傾いた喫茶店」を復活することになった。
その名もカレースタンド「傾いた喫茶店」。
RLサクセションプロジェクトの最終章だ。
	さて、いよいよ10ヶ月前にもらった看板の出番だ。
単なるノスタルジックなコレクションなんかじゃない。
この日のためにマスターからいただいたのだ。
六甲道で行き場を失った「昭和の看板」は、水道筋であたたかく迎え入れられるはずだ。
2009年11月14日、水道筋の路地に「手づくり料理　レードル」の文字が踊る。
	カレースタンド「帰ってきた傾いた喫茶店」11月14日（土）昼のみ水道筋で特別営業します。
※メニューはカレーのみ、仕込みの都合上20食しかご提供できませんので、
　予約優先とさせていただきます。
詳しくはこちらをクリック↓
カレースタンド「帰ってきた傾いた喫茶店」

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>ナダタマ本部には灘の遺物がたくさんある。<br />
昔の灘中央市場や閉店した古い店舗の切り文字看板、取り壊された古い家の塀、<br />
篠原の茅葺き屋根の家の茅、はたまた旧十国展望台のマッチ箱や六甲・凌雲荘の<br />
ビニール袋などの小物類まで。<br />
一般的には「ゴミ」と呼ばれるもの。<br />
どれも私にとっては宝物なのだが、まず理解されない。</p>
	<p>「またそんなゴミ拾てきて！捨ててきっ！」<br />
「いやこれは灘的には…」<br />
「ナダ的もヒガシナダ的もないわ！このドロガメ！」<br />
などと人生幸朗・生恵幸子ばりに叱責されるのがオチだ。<br />
でもそれでいい。<br />
ちょっぴり後めたい気持ちがあるくらいじゃないと、きっと歯止めがきかない。<br />
放っておくと「灘のゴミ屋敷に周辺住民困惑」なんて、朝ズバッ！8時またぎあたりで<br />
取り上げる恐れがある。<br />
「いやあ、まったく理解できませんねェ」<br />
などと、みのもんたにあしらわれたんじゃたまらない。<br />
灘の森羅万象を愛する「灘魂思想」では、これらのゴミはすべて灘のタカラモノなのだ。<br />
モノには街のモノガタリがある。<br />
耳を澄ませばいろんな音が聞こえてくる（ような気がする）<br />
目をこらせばいろんな情景が浮かんでくる（ような気がする）<br />
なによりも、灘に存在してきた空気感（オーラ）が愛おしい。<br />
いつか原田の森ギャラリーを借りて「大灘区至宝展」をやりたいと思っている。<br />
もちろん至宝とは「旧臨港線の石ころ」「摩耶山茶店跡に落ちていたラムネ瓶の破片」<br />
「ハイジの花壇に使われていたレンガ片」などだ。<br />
総額0円の宝物に、できればものものしく警備員も配置したい。<br />
きっとみのもんたには理解されないだろうけど。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091105.jpg" alt="レードル看板" /></p>
	<p>「看板？もういらんから持って行ってもええよ」<br />
昨年末、閉店した「傾いた喫茶店」こと永手町の「レードル（旧ミニ）」の看板をマスターから<br />
譲っていただいた。<br />
ただし今回のブツは今までのコレクションとは訳が違う。<br />
健康上の理由でやむを得ず店を畳んだマスターの寂しそうな背中を見て、ある企てを思い<br />
ついた。<br />
かつての記憶を今の街で生かしていくこと。&#8232;ノスタルジックに浸るだけでなく、古いものに<br />
新たな物語を積み重ねていくこと。&#8232;記憶のリサイクル。&#8232;<br />
このプロジェクトは「リメインダーズ・オブ・ザ・レードル・サクセション（レードルの<br />
残り物の継承）」コードネーム「RLサクセション」と名付けらた。<br />
レードルで使われていた椅子は畑原市場の「<a href="http://chinta1103.exblog.jp/" target="top">チンタ本店</a>」へ、ステンレス製の水差しは<br />
畑原東商店街の「スタンドモンク」へ、カトラリーや食器は日曜カフェ「<a href="http://homepage3.nifty.com/petit_oiseau/kakkecafe.html" target="top">kakke cafe</a>」<br />
やパスタ屋「<a href="http://plaza.rakuten.co.jp/onakatetsuo/diary/200903230000/" target="top">Tetz</a>」、タイ・フィリピン料理の「<a href="http://plaza.rakuten.co.jp/lanna/" target="top">Asian Rabbit</a>」へ。<br />
それぞれの店でまた物語を紡ぐことになった。</p>
	<p>10月のある日、レードルマスターから電話があった。<br />
体調もだいぶ良くなったとのこと。<br />
「そろそろカレー、つくろか？」<br />
ハンバーグとともに傾いた喫茶店の名物メニューだったカレー。<br />
そうか…そういやそろそろ「アレ」の季節か。<br />
知る人ぞ知る、知らない人は知らないレードルの「<a href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress1/index.php/archives/2000/10/10/001010-6902/" target="top">アレカレー</a>」。<br />
秋から冬にかけてしかつくれない「アレカレー」が、今年も帰ってくる。<br />
そんなこんなで、水道筋で一日だけの「傾いた喫茶店」を復活することになった。<br />
その名もカレースタンド「傾いた喫茶店」。<br />
RLサクセションプロジェクトの最終章だ。</p>
	<p>さて、いよいよ10ヶ月前にもらった看板の出番だ。<br />
単なるノスタルジックなコレクションなんかじゃない。<br />
この日のためにマスターからいただいたのだ。<br />
六甲道で行き場を失った「昭和の看板」は、水道筋であたたかく迎え入れられるはずだ。<br />
2009年11月14日、<a href="http://kayuibuni.ti-da.net/c143909.html" target="top">水道筋の路地</a>に「手づくり料理　レードル」の文字が踊る。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091105_02.jpg" alt="アレカレー" /></p>
	<p>カレースタンド「帰ってきた傾いた喫茶店」11月14日（土）昼のみ水道筋で特別営業します。<br />
※メニューはカレーのみ、仕込みの都合上20食しかご提供できませんので、<br />
　予約優先とさせていただきます。<br />
詳しくはこちらをクリック↓<br />
<a href="http://www.nadatama.com/modules/piCal/index.php?smode=Daily&#038;action=View&#038;event_id=0000000433&#038;caldate=2009-11-5" target="top">カレースタンド「帰ってきた傾いた喫茶店」</a>
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>ゆく橋、くる橋［灘駅跨線橋］</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=68</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=68#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 23 Sep 2009 10:10:21 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;&amp;#110;a&amp;#100;&amp;#100;is&amp;#116;&amp;#64;&amp;#110;a&amp;#100;&amp;#97;&amp;#116;a&amp;#109;&amp;#97;&amp;#46;&amp;#99;o&amp;#109;&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=68</guid>
		<description>	
2009年9月22日、昭和の生き証人がまた一つ灘から消えた。
80余年の間、灘の南北をつないできた橋がその役目を終える。
昭和初期にかけられた灘駅跨線橋は新しい自由通路の完成によって
解体撤去される。
三宮から一駅、都心の駅の建造物とは思えないその風情は貴重な風景だった。
前日に開催された当サイト主催のイベント「灘駅跨線橋渡り納めツアー」には
多くの参加者が集まった。
	岩屋の自宅から水道筋の市場にあった店まで毎日この橋を自由通路として
往復した鮮魚商の大将は、愛おしそうに橋を触った。
重い荷物を持ってこの橋を毎日毎日上り下りしたという。
「懐かしい思い出の橋やから、お別れに来てん」
駅を通り抜けるときに発行された通行許可証も橋と一緒になくなる。
	「この橋から僕らの生活が始まった」
故郷を出て、神戸に来た沖永良部出身のSさんは懐かしそうに古い橋を眺めた。
「永良部人（えらぶんちゅ）は、灘駅には特別な思いがあるねんで。
僕らにとっての『あゝ上野駅』や」
『あゝ上野駅』は集団就職の少年たちをテーマにした井沢八郎のヒット曲だが
灘駅周辺に多く住む奄美・沖永良部の人たちは、悲喜こもごもの出会いと別れが
繰り広げられた上野駅を灘駅と重ね合わせたのだろう。
	「いやあ、最後の最後間に合いました！」
切り絵作家の成田一徹さんが南口で跨線橋をカメラに収めていた。
成田さんはかつて「昭和の残り香」として灘駅を切り絵にした。
水道筋の酒場で跨線橋解体のことを聞き、急遽駆けつけたという。
少し上気した顔で、子どものようにシャッターを切っていた。
	2004年に開催したイベント「灘駅で本を読む日」で灘駅で本を読んだ朗読家の甲斐祐子さんは
この日ホームの端で小さな小さな朗読会を行った。
甲斐さんが「古い橋」に向けて最後に読んだ作品は、灘駅前、原田の森にあった関西学院出身の詩人、
竹中郁の「伝言板」だった。
	――先にゆく　二時間も待った　Ａ
恋人どうしか　ただの友達どうしか
――先にゆく　先にゆく
おれも　なにかを待っていたが
とうとう　この歳になっても　来なかったものがある
名声でもない　革命でもない　もちろん金銭でもない
口で云えない何かを待った
いま広大無辺な大空に書く
白い白い雲の羽根ペンで書く
――先にゆく　と
	灘駅は先にゆき、残されたクミンの心には、何度も何度もペンキが塗り重ねられた人の皮膚の
ような壁の手触りと、人が通るたび音を立てる木の階段のゴトゴトという音が消せないシミの
ように残った。
新しくできる自由通路は灘駅で分断された南北の街の人の悲願だったことはよく分かる。
分かるのだが、なにか釈然としないものが残る。
古いものを残しつつ新しい自由通路を確保することはできなかったのだろうか。
灘駅の建造物は水害も、戦災も、震災もくぐり抜けて来た貴重な歴史遺産だったはずだ。
もう2度と作ることはできない。
新しい自由通路には前の駅舎にあった窓をモチーフにしたデザインが施された。
こんなものはあくまでも「イメージ」でしかない。
この駅に蓄積された無数の記憶や手触りは再現することはできない。
	新しい橋（自由通路）を見て唖然とした。
南口にまるで天上寺参道のような長大な階段が聳えていた。
58段あった。
古い跨線橋は37段。
21段も階段が増えている。
もちろんエスカレータはない。
これではバリアフリーの名の下に壊された古い橋が浮かばれない。
	今日から新しい橋は新しい記憶を積み重ねて行く。
この新しい橋が、古い橋のように愛される橋になるかどうかは
灘クミン次第なのだ。
	最終電車が来る少し前、線路際で小さなイタチが跨線橋を見つめていた。
彼らの遊び場も今日でなくなる。
新しい橋にイタチは寄り付くまい。
さようなら、そしてありがとう灘駅跨線橋。
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_01.jpg" alt="" /></p>
	<p>2009年9月22日、昭和の生き証人がまた一つ灘から消えた。<br />
80余年の間、灘の南北をつないできた橋がその役目を終える。<br />
昭和初期にかけられた灘駅跨線橋は新しい自由通路の完成によって<br />
解体撤去される。<br />
三宮から一駅、都心の駅の建造物とは思えないその風情は貴重な風景だった。<br />
前日に開催された当サイト主催のイベント<a href="http://www.nadatama.com/modules/piCal/index.php?smode=Monthly&#038;action=View&#038;event_id=0000000419&#038;caldate=2009-9-21" target="top">「灘駅跨線橋渡り納めツアー」</a>には<br />
多くの参加者が集まった。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_02.jpg" alt="" /></p>
	<p>岩屋の自宅から水道筋の市場にあった店まで毎日この橋を自由通路として<br />
往復した鮮魚商の大将は、愛おしそうに橋を触った。<br />
重い荷物を持ってこの橋を毎日毎日上り下りしたという。<br />
「懐かしい思い出の橋やから、お別れに来てん」<br />
駅を通り抜けるときに発行された通行許可証も橋と一緒になくなる。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_03.jpg" alt="" /></p>
	<p>「この橋から僕らの生活が始まった」<br />
故郷を出て、神戸に来た沖永良部出身のSさんは懐かしそうに古い橋を眺めた。<br />
「永良部人（えらぶんちゅ）は、灘駅には特別な思いがあるねんで。<br />
僕らにとっての『あゝ上野駅』や」<br />
『あゝ上野駅』は集団就職の少年たちをテーマにした井沢八郎のヒット曲だが<br />
灘駅周辺に多く住む奄美・沖永良部の人たちは、悲喜こもごもの出会いと別れが<br />
繰り広げられた上野駅を灘駅と重ね合わせたのだろう。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_04.jpg" alt="" /></p>
	<p>「いやあ、最後の最後間に合いました！」<br />
<a href="http://www.sio-site.or.jp/event/060211.htm" target="top">切り絵作家の成田一徹さん</a>が南口で跨線橋をカメラに収めていた。<br />
成田さんはかつて「昭和の残り香」として灘駅を切り絵にした。<br />
水道筋の酒場で跨線橋解体のことを聞き、急遽駆けつけたという。<br />
少し上気した顔で、子どものようにシャッターを切っていた。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_05.jpg" alt="" /></p>
	<p>2004年に開催したイベント<a href="http://www.mediapicnic.com/nadabook/" target="top">「灘駅で本を読む日」</a>で灘駅で本を読んだ朗読家の甲斐祐子さんは<br />
この日ホームの端で小さな小さな朗読会を行った。<br />
甲斐さんが「古い橋」に向けて最後に読んだ作品は、灘駅前、原田の森にあった関西学院出身の詩人、<br />
竹中郁の「伝言板」だった。</p>
	<p>――先にゆく　二時間も待った　Ａ<br />
恋人どうしか　ただの友達どうしか<br />
――先にゆく　先にゆく<br />
おれも　なにかを待っていたが<br />
とうとう　この歳になっても　来なかったものがある<br />
名声でもない　革命でもない　もちろん金銭でもない<br />
口で云えない何かを待った<br />
いま広大無辺な大空に書く<br />
白い白い雲の羽根ペンで書く<br />
――先にゆく　と</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_06.jpg" alt="" /></p>
	<p>灘駅は先にゆき、残されたクミンの心には、何度も何度もペンキが塗り重ねられた人の皮膚の<br />
ような壁の手触りと、人が通るたび音を立てる木の階段のゴトゴトという音が消せないシミの<br />
ように残った。<br />
新しくできる自由通路は灘駅で分断された南北の街の人の悲願だったことはよく分かる。<br />
分かるのだが、なにか釈然としないものが残る。<br />
古いものを残しつつ新しい自由通路を確保することはできなかったのだろうか。<br />
灘駅の建造物は水害も、戦災も、震災もくぐり抜けて来た貴重な歴史遺産だったはずだ。<br />
もう2度と作ることはできない。<br />
新しい自由通路には前の駅舎にあった窓をモチーフにしたデザインが施された。<br />
こんなものはあくまでも「イメージ」でしかない。<br />
この駅に蓄積された無数の記憶や手触りは再現することはできない。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_07.jpg" alt="" /></p>
	<p>新しい橋（自由通路）を見て唖然とした。<br />
南口にまるで天上寺参道のような長大な階段が聳えていた。<br />
58段あった。<br />
古い跨線橋は37段。<br />
21段も階段が増えている。<br />
もちろんエスカレータはない。<br />
これではバリアフリーの名の下に壊された古い橋が浮かばれない。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_09.jpg" alt="" /></p>
	<p>今日から新しい橋は新しい記憶を積み重ねて行く。<br />
この新しい橋が、古い橋のように愛される橋になるかどうかは<br />
灘クミン次第なのだ。</p>
	<p>最終電車が来る少し前、線路際で小さなイタチが跨線橋を見つめていた。<br />
彼らの遊び場も今日でなくなる。<br />
新しい橋にイタチは寄り付くまい。<br />
さようなら、そしてありがとう灘駅跨線橋。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_08.jpg" alt="" />
</p>
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