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	<title>灘区昭和館</title>
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	<description>灘区昭和館</description>
	<language>ja</language>
	<copyright>Copyright 2010</copyright>
	<pubDate>Thu, 11 Mar 2010 14:45:28 +0000</pubDate>
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		<title>奥摩耶の銀盤</title>
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		<pubDate>Tue, 09 Feb 2010 11:00:09 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;na&amp;#100;d&amp;#105;&amp;#115;t&amp;#64;&amp;#110;adata&amp;#109;a.&amp;#99;om&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=75</guid>
		<description>	まだ2月だというのにあたたかい。
やはり冬は寒くないと困る。
灘クミンとしは、バンクーバー冬季五輪よりも氷の彫刻作りが始まった「六甲山氷の祭典」が
気になる。六甲山の冬の目玉イベントだが、今まで雨や気温上昇で難度も泣かされてきた
	山上の氷を切り出して運んだ「アイスロード」という道もあるくらい六甲山と氷の縁は深い。
六甲山や摩耶山にある大小無数の池にはかつてのような分厚い氷は張らなくなったが、
かつては六甲山上の八代池、三国池、ひょうたん池などは天然のスケートリンクとして多くの
滑走客で賑わった。
シーズンになると六甲ケーブル下駅に各池の滑走の可否が表示された。
今からさかのぼること74年前の昭和11年に開催されたドイツ・ガルミッシュオリンピックの
女子フィギュアスケート日本代表、稲田悦子嬢は六甲山の八代池で練習していた。
今で言えば浅田真央が六甲山でトリプルアクセルを練習しているようなもので、
灘クミンとしては冬の五輪トピックとして記憶しておきたい。
昭和27年には、本格的なスケートリンクとして「新池スケート場」がオープン、
しかし年々暖冬になり氷の張る期間が少なくなり、次第に市街地のインドア型のスケートリンクに
客を取られていった。
	摩耶山にも小さなスケート場があった（写真上）。
昭和30年、摩耶ロープウエー開通と同時に、奥摩耶（現在の掬星台周辺）観光の目玉として
奥摩耶遊園地がオープン。自然の地形を生かした園内には様々な施設があったが、掬星台から
徒歩5分ほどの場所に「奥摩耶アイススケート場」が開設された。
オープン当初は賑わった奥摩耶遊園地もやがて来園者が減少し、ジェットコースターなどの
大型遊具もいつしか撤去された。奥摩耶スケート場も自然に戻され、摩耶自然観察園内の
「あじさい池」として第二の人生を送ることになった。
初夏になると周囲があじさいで埋め尽くされ、特に霧に覆われた時は浮世離れした幻想的な
風景が広がるあじさい池は、あじさいの名所として知られるようになったが、スケート場
時代の痕跡を見つけることができる。
	古い写真と見比べていただきたい。
「奥摩耶スケート場」という看板が設置され、客がつかまった手すりが池の周囲にひっそりと
残っている。（写真下）
完全に撤去されたわけでもなく、廃墟化したわけでもない。
思いを巡らすことのできる頃合いの昭和の痕跡が心地よい。
この池は谷間にあるので、今でも厚い氷が張る。
「あじさい池」などという名前をつけられてしまったために、冬訪れる人は少ないが
「昭和の冬」を感じることのできる貴重な場所なのだ。
池の近くには立派な氷の滝があり、ひそかに「奥摩耶滝」と名付けている。
	地球温暖化は摩耶山や六甲山から冬を奪う。
氷の張らない摩耶六甲なんて、クリープを入れないコーヒーみたいなものなのだ。
せめて今週末はキンキンに冷える昭和の六甲山が戻って「氷の祭典」が無事開催されて
欲しいと思う。
　
　
　
	写真：『写真で見る公社索道事業の歩み』（財団法人神戸市都市整備公社、昭和60年

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>まだ2月だというのにあたたかい。<br />
やはり冬は寒くないと困る。<br />
灘クミンとしは、バンクーバー冬季五輪よりも氷の彫刻作りが始まった<a href="http://www.rokkosan.com/cable/event/index.html#ca6kori" target="top">「六甲山氷の祭典」</a>が<br />
気になる。六甲山の冬の目玉イベントだが、今まで雨や気温上昇で難度も泣かされてきた</p>
	<p>山上の氷を切り出して運んだ「アイスロード」という道もあるくらい六甲山と氷の縁は深い。<br />
六甲山や摩耶山にある大小無数の池にはかつてのような分厚い氷は張らなくなったが、<br />
かつては六甲山上の八代池、三国池、ひょうたん池などは天然のスケートリンクとして多くの<br />
滑走客で賑わった。<br />
シーズンになると六甲ケーブル下駅に各池の滑走の可否が表示された。<br />
今からさかのぼること74年前の昭和11年に開催されたドイツ・ガルミッシュオリンピックの<br />
女子フィギュアスケート日本代表、稲田悦子嬢は六甲山の八代池で練習していた。<br />
今で言えば浅田真央が六甲山でトリプルアクセルを練習しているようなもので、<br />
灘クミンとしては冬の五輪トピックとして記憶しておきたい。<br />
昭和27年には、本格的なスケートリンクとして「新池スケート場」がオープン、<br />
しかし年々暖冬になり氷の張る期間が少なくなり、次第に市街地のインドア型のスケートリンクに<br />
客を取られていった。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo100209_01.jpg" alt="奥摩耶スケート場" /></p>
	<p>摩耶山にも小さなスケート場があった（写真上）。<br />
昭和30年、摩耶ロープウエー開通と同時に、奥摩耶（現在の掬星台周辺）観光の目玉として<br />
奥摩耶遊園地がオープン。自然の地形を生かした園内には様々な施設があったが、掬星台から<br />
徒歩5分ほどの場所に「奥摩耶アイススケート場」が開設された。<br />
オープン当初は賑わった奥摩耶遊園地もやがて来園者が減少し、ジェットコースターなどの<br />
大型遊具もいつしか撤去された。奥摩耶スケート場も自然に戻され、<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/摩耶自然観察園" target="top">摩耶自然観察園</a>内の<br />
「あじさい池」として第二の人生を送ることになった。<br />
初夏になると周囲があじさいで埋め尽くされ、特に霧に覆われた時は浮世離れした幻想的な<br />
風景が広がるあじさい池は、あじさいの名所として知られるようになったが、スケート場<br />
時代の痕跡を見つけることができる。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo100209_02.jpg" alt="あじさい池" /></p>
	<p>古い写真と見比べていただきたい。<br />
「奥摩耶スケート場」という看板が設置され、客がつかまった手すりが池の周囲にひっそりと<br />
残っている。（写真下）<br />
完全に撤去されたわけでもなく、廃墟化したわけでもない。<br />
思いを巡らすことのできる頃合いの昭和の痕跡が心地よい。<br />
この池は谷間にあるので、今でも厚い氷が張る。<br />
「あじさい池」などという名前をつけられてしまったために、冬訪れる人は少ないが<br />
「昭和の冬」を感じることのできる貴重な場所なのだ。<br />
池の近くには立派な氷の滝があり、ひそかに<a href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress8/index.php?p=141" target="top">「奥摩耶滝」</a>と名付けている。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo100209_03.jpg" alt="奥摩耶スケート場の手すり" /></p>
	<p>地球温暖化は摩耶山や六甲山から冬を奪う。<br />
氷の張らない摩耶六甲なんて、クリープを入れないコーヒーみたいなものなのだ。<br />
せめて今週末はキンキンに冷える昭和の六甲山が戻って「氷の祭典」が無事開催されて<br />
欲しいと思う。<br />
　<br />
　<br />
　</p>
	<p>写真：『写真で見る公社索道事業の歩み』（財団法人神戸市都市整備公社、昭和60年
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>都賀川ハードボイルド階段</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=72</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=72#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 15 Dec 2009 18:00:40 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;&amp;#110;&amp;#97;dd&amp;#105;&amp;#115;&amp;#116;&amp;#64;n&amp;#97;&amp;#100;a&amp;#116;a&amp;#109;&amp;#97;.c&amp;#111;m&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=72</guid>
		<description>	
最近階段が気になる。
階段といってもマンションの階段や、家の階段ではなく街の中にある階段。
気になるといっても「この階段、バリアフリーじゃないな」という気になり方ではなく、
むしろそれとは真逆で「上ってみるなら（下りてみるなら）上ってみろ」的な風情の
階段にワクワクする。
	もう「ここで足を踏み外しても本望」と思えるほど愛おしい階段が都賀川にある。
都賀川が山手幹線と交差するあたりにある河床へ下りる小さな階段。
その「ワル」なたたずまいにグッと来る。
おそらくこの付近だけ公園化が遅れているので、昔の階段が残ってしまった
といった感じの明らかに昭和風情の「残っちゃいました系」の階段。
今のように河川敷におりて水と親しむための階段ではなく、落ちた物を拾うとか
非常階段のようなものだったのかもしれない。
昔々に上流から流されてきた石を思わせる歴史を感じさせる肌触り、なにか城塞の階段を
思わせるワイルドさは、きれいに整備された都賀川沿いではあきらかに異質なたたずまいで、
階段面（踏みづらという）もぼこぼこして、手すりすらない。
まるで上り下りすることを拒否しているかのように思える。
安心安全的な視線でみると、明らかにキケンな「肉食系階段」で、きっとちっちゃな時から
悪階段で15で不良で呼ばれたに違いない。
だいたい人に媚びていないのがいい。
「オレに近づくとケガするぜベイベー」的なハードボイルドさにそそられる。
都賀川は親水化され、誰もが気軽に川にアクセスできるようになった。
それはとてもすばらしいなことだと思うが、川は公園ではなく自然だということを忘れては
いないだろうか。（たとえ人工的なしつらえになっても）
	そこで、このハードボイルド階段の存在が重要になってくる。
	先週、都賀川の自然を象徴するかのような素敵な記事が新聞に掲載された。
灘区在住の水中写真家、宮道成彦氏が都賀川でアユの産卵の撮影に成功した。
振り返れば昭和40年代には洗濯排水が泡立ち、自転車が捨てられ、死んだフナに蛆がわき、
足にヒルが吸い付き「でかいドブ川」とまで呼ばれた都賀川をここまで蘇らせたのは、都賀川を
守ろう会を中心とする灘クミンの「灘魂」のたまものだと思う。
そして、かつては石垣に這いつくばって下りた川へのアクセスも容易になった。
しかしこの環境を守っていくためには、時にアクセスのしやすさが仇となる場合がある。
都賀川は親しい友人でもあるが、雄大な自然の一部である。
都賀川ハードボイルド階段は、そんな踏み外してはいけない人と川の一線を教えてくれている
ような気がするのだ。
	この階段もいずれはなくなるのだろう。
その前に是非足を踏み外さないように下りてみていただきたい。

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091215_01.jpg" alt="都賀川ハードボイルド階段" /></p>
	<p>最近階段が気になる。<br />
階段といってもマンションの階段や、家の階段ではなく街の中にある階段。<br />
気になるといっても「この階段、バリアフリーじゃないな」という気になり方ではなく、<br />
むしろそれとは真逆で「上ってみるなら（下りてみるなら）上ってみろ」的な風情の<br />
階段にワクワクする。</p>
	<p>もう「ここで足を踏み外しても本望」と思えるほど愛おしい階段が都賀川にある。<br />
都賀川が山手幹線と交差するあたりにある河床へ下りる小さな階段。<br />
その「ワル」なたたずまいにグッと来る。<br />
おそらくこの付近だけ公園化が遅れているので、昔の階段が残ってしまった<br />
といった感じの明らかに昭和風情の「残っちゃいました系」の階段。<br />
今のように河川敷におりて水と親しむための階段ではなく、落ちた物を拾うとか<br />
非常階段のようなものだったのかもしれない。<br />
昔々に上流から流されてきた石を思わせる歴史を感じさせる肌触り、なにか城塞の階段を<br />
思わせるワイルドさは、きれいに整備された都賀川沿いではあきらかに異質なたたずまいで、<br />
階段面（踏みづらという）もぼこぼこして、手すりすらない。<br />
まるで上り下りすることを拒否しているかのように思える。<br />
安心安全的な視線でみると、明らかにキケンな「肉食系階段」で、きっとちっちゃな時から<br />
悪階段で15で不良で呼ばれたに違いない。<br />
だいたい人に媚びていないのがいい。<br />
「オレに近づくとケガするぜベイベー」的なハードボイルドさにそそられる。<br />
都賀川は親水化され、誰もが気軽に川にアクセスできるようになった。<br />
それはとてもすばらしいなことだと思うが、川は公園ではなく自然だということを忘れては<br />
いないだろうか。（たとえ人工的なしつらえになっても）</p>
	<p>そこで、このハードボイルド階段の存在が重要になってくる。</p>
	<p>先週、都賀川の自然を象徴するかのような素敵な記事が新聞に掲載された。<br />
灘区在住の水中写真家、<a href="http://kobesea.cocolog-nifty.com/blog/" target="top">宮道成彦氏</a>が都賀川でアユの産卵の撮影に成功した。<br />
振り返れば昭和40年代には洗濯排水が泡立ち、自転車が捨てられ、死んだフナに蛆がわき、<br />
足にヒルが吸い付き「でかいドブ川」とまで呼ばれた都賀川をここまで蘇らせたのは、都賀川を<br />
守ろう会を中心とする灘クミンの「灘魂」のたまものだと思う。<br />
そして、かつては石垣に這いつくばって下りた川へのアクセスも容易になった。<br />
しかしこの環境を守っていくためには、時にアクセスのしやすさが仇となる場合がある。<br />
都賀川は親しい友人でもあるが、雄大な自然の一部である。<br />
都賀川ハードボイルド階段は、そんな踏み外してはいけない人と川の一線を教えてくれている<br />
ような気がするのだ。</p>
	<p>この階段もいずれはなくなるのだろう。<br />
その前に是非足を踏み外さないように下りてみていただきたい。
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>灘の廃線跡を行く～神戸臨港線編</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=71</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=71#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 03 Dec 2009 09:00:26 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;nad&amp;#100;&amp;#105;&amp;#115;t&amp;#64;&amp;#110;&amp;#97;d&amp;#97;&amp;#116;a&amp;#109;&amp;#97;.&amp;#99;o&amp;#109;&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=71</guid>
		<description>	
短い汽笛が「ポッ」っと寒空に響く。
あ、9時や…
実家のすぐ近くが、神戸港へ向かう臨港線の始発場所だった。
毎晩9時に港へ向かう貨物列車が発車する。
その音が時を告げる鳩時計のように暮らしにとけ込んでいた。
灘の街から臨港線が消えて8年たった。
神戸の重要な魅力の1つ「ミナト」を、アピールできる資源の1つだったので残念に思う。
観光や生活路線として再活用することはできなかったが、遊歩道化され「市道臨港線」として
生まれ変わった。
今まで歩けなかった線路敷を歩いてみることにした。
	JR灘駅の南、踏切があった場所から遊歩道が始まる。
長い長い貨物列車をやりすごした踏切。
近くの溝ではザリガニが釣れた。
残念なことに、踏切の東側に線路に立ちふさがるように無粋なマンションが建ったが、
このマンションを建てた会社は今年潰れた。
言わずもがな、である。
街の歴史に敬意を払わない報いだ。
	道路をまたぐ鉄橋も形を変えて残された。
「庄境架道橋」とかかれた橋の下を通るのは区境の道路。
きっと古くから村の境目だったのであろう。
昭和4年までこの道路から西が神戸市で、東側は武庫郡西灘村と呼ばれていた。
文字通りここから街が変わる。匂いが変わる。
男と女の間には深くて暗い川があるらしいが、子どもにとっても灘区と旧葺合区の間に
道幅以上の距離を感じたものだった。
	臨港線は灘区から旧葺合区域へ入ると、南へ大きくカーブする。
遊歩道には鉄道のキロポスト表示を模したサインもある。
またところどころホンモノの標識も残されている。
カーブの南側にバームクーヘンのような形が斬新だった神鋼病院があった。
毎週のように通った思い出の病院。
高度経済成長期、工場が林立し「灘名物の百煙突」とも揶揄された灘・葺合の海岸部は
空気も悪かった。小児喘息で苦しむ子どもも多く、私もその一人だった。
神鋼病院の小児科の待合室には毎日大勢の喘息児童があふれ、苦しそうな咳が病院内に響く。
それがいやで、診察を待つ間病棟の外に出て臨港線を眺めた。
長い貨物列車がカーブをゆっくりと通り過ぎると、ディーゼル機関車の排煙のむせるような
熱気と匂いがあたりに漂った。
現在はこのカーブのあたりに小さな線路が引かれている。
隣接する県立科学技術高校の鉄道研究会の模型蒸気機関車走行会に使われるという。
皮肉なことに臨港線がなくなって本物の蒸気機関車が走ることになったのだが、
歴史を踏まえた素敵な仕掛けだと思う。
	山側に目を向けると、かつては甍（いらか）の波ならぬ、神鋼ファウドラーの水色のトタン屋根
の波が広がっていた。
現在はマンションが林立し風景は一変してしまったが、遠くに見える摩耶山の紅葉は昔のままだ。
このあたりでは琺瑯タンクが製造されていた。おそらく灘の酒蔵でも醸造用タンクとして使われ
ただろう。この近くにある灘の地ソースメーカー「プリンセスソース」では、今でもここで造ら
れたタンクが使われている。
	いよいよこの臨港線のハイライト「脇浜拱橋」にさしかかる。
伸びやかな鉄橋で広い国道2号をまたぐ。
国道を西へ向かうとき、この橋をくぐると灘区を出たという感覚になった。
心理的な灘区の西のゲートだったのかもしれない。
橋上には架線柱も残され、かつての神鋼ファウドラーの屋根の色と呼応するかのような
懐かしいベビーブルーもまぶしく塗り直されている。
まさかここを歩いて渡れるとは思いもしなかった。
	重工業の街から新しい街へ、震災後めまぐるしく移り変る臨港線沿線だが、
脇浜拱橋を渡ると昭和のあじわいを色濃く残す懐かしい風景に出会った。
歴史を感じさせる日本香料の社屋が、軌道脇にそっとたたずんでいた。
	そのユーモラスな姿から「春日野道のゾウさん」と呼ばれた、川鉄「西山記念会館」のあたりで
遊歩道は終わるが、一部本物の鉄路が保存されていた。
枕木の間に雑草が生えている、あの懐かしい臨港線のたたずまいそのものだ。
HAT神戸方面から歩いてきた親子連れが不思議そうに線路を見つめていた。
「なんでこんなところに線路があるんかなぁ」
彼らはこの線路の上を「神戸港からヨーロッパへ向かう欧州航路の船客を乗せた特別列車が走った」
ことなど知る由もない。
線路にそっと耳をつけてみて欲しい。
もう貨物列車は走ってこないが、明治、大正、昭和とミナトコウベを支えてきた老兵のつぶやきが、
あるいは、この周辺の工場で働いていた人々の息づかいが聞こえてくるかもしれない。
	2009年12月5日（土）に、臨港線跡を探訪するツアーを開催します。
解説付きのガイドウォークです。
ふるってご参加ください。
詳しくは下記リンク先をご参照ください。
「灘まちなみ建築探訪vol.11～臨港線編」
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091203_01.jpg" alt="神戸臨港線踏切（2003年12月）" /></p>
	<p>短い汽笛が「ポッ」っと寒空に響く。<br />
あ、9時や…<br />
実家のすぐ近くが、神戸港へ向かう臨港線の始発場所だった。<br />
毎晩9時に港へ向かう貨物列車が発車する。<br />
その音が時を告げる鳩時計のように暮らしにとけ込んでいた。<br />
灘の街から<a href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress1/index.php/archives/2003/12/01/naddist031201-171good-bye/" target="top">臨港線が消えて8年</a>たった。<br />
神戸の重要な魅力の1つ「ミナト」を、アピールできる資源の1つだったので残念に思う。<br />
観光や生活路線として再活用することはできなかったが、遊歩道化され「市道臨港線」として<br />
生まれ変わった。<br />
今まで歩けなかった線路敷を歩いてみることにした。</p>
	<p>JR灘駅の南、踏切があった場所から遊歩道が始まる。<br />
長い長い貨物列車をやりすごした踏切。<br />
近くの溝ではザリガニが釣れた。<br />
残念なことに、踏切の東側に<a href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress8/index.php?p=48<br />
" target="top">線路に立ちふさがるように無粋なマンションが建ったが</a>、<br />
このマンションを建てた会社は今年潰れた。<br />
言わずもがな、である。<br />
街の歴史に敬意を払わない報いだ。</p>
	<p>道路をまたぐ鉄橋も形を変えて残された。<br />
「庄境架道橋」とかかれた橋の下を通るのは区境の道路。<br />
きっと古くから村の境目だったのであろう。<br />
昭和4年までこの道路から西が神戸市で、東側は武庫郡西灘村と呼ばれていた。<br />
文字通りここから街が変わる。匂いが変わる。<br />
男と女の間には深くて暗い川があるらしいが、子どもにとっても灘区と旧葺合区の間に<br />
道幅以上の距離を感じたものだった。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091203_02.jpg" alt="庄境架道橋" /></p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091203_03.jpg" alt="旧神鋼病院北のカーブ" /></p>
	<p>臨港線は灘区から旧葺合区域へ入ると、南へ大きくカーブする。<br />
遊歩道には鉄道のキロポスト表示を模したサインもある。<br />
またところどころホンモノの標識も残されている。<br />
カーブの南側にバームクーヘンのような形が斬新だった神鋼病院があった。<br />
毎週のように通った思い出の病院。<br />
高度経済成長期、工場が林立し「灘名物の百煙突」とも揶揄された灘・葺合の海岸部は<br />
空気も悪かった。小児喘息で苦しむ子どもも多く、私もその一人だった。<br />
神鋼病院の小児科の待合室には毎日大勢の喘息児童があふれ、苦しそうな咳が病院内に響く。<br />
それがいやで、診察を待つ間病棟の外に出て臨港線を眺めた。<br />
長い貨物列車がカーブをゆっくりと通り過ぎると、ディーゼル機関車の排煙のむせるような<br />
熱気と匂いがあたりに漂った。<br />
現在はこのカーブのあたりに小さな線路が引かれている。<br />
隣接する県立科学技術高校の鉄道研究会の模型蒸気機関車走行会に使われるという。<br />
皮肉なことに臨港線がなくなって本物の蒸気機関車が走ることになったのだが、<br />
歴史を踏まえた素敵な仕掛けだと思う。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091203_04.jpg" alt="旧神鋼ファウドラー付近" /></p>
	<p>山側に目を向けると、かつては甍（いらか）の波ならぬ、神鋼ファウドラーの水色のトタン屋根<br />
の波が広がっていた。<br />
現在はマンションが林立し風景は一変してしまったが、遠くに見える摩耶山の紅葉は昔のままだ。<br />
このあたりでは琺瑯タンクが製造されていた。おそらく灘の酒蔵でも醸造用タンクとして使われ<br />
ただろう。この近くにある灘の地ソースメーカー「プリンセスソース」では、今でもここで造ら<br />
れたタンクが使われている。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091203_05.jpg" alt="脇浜拱橋" /></p>
	<p>いよいよこの臨港線のハイライト「脇浜拱橋」にさしかかる。<br />
伸びやかな鉄橋で広い国道2号をまたぐ。<br />
国道を西へ向かうとき、この橋をくぐると灘区を出たという感覚になった。<br />
心理的な灘区の西のゲートだったのかもしれない。<br />
橋上には架線柱も残され、かつての神鋼ファウドラーの屋根の色と呼応するかのような<br />
懐かしいベビーブルーもまぶしく塗り直されている。<br />
まさかここを歩いて渡れるとは思いもしなかった。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091203_06.jpg" alt="脇浜拱橋" /></p>
	<p>重工業の街から新しい街へ、震災後めまぐるしく移り変る臨港線沿線だが、<br />
脇浜拱橋を渡ると昭和のあじわいを色濃く残す懐かしい風景に出会った。<br />
歴史を感じさせる<a href="http://www.nky-kk.co.jp/" target="top">日本香料</a>の社屋が、軌道脇にそっとたたずんでいた。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091203_07.jpg" alt="日本香料" /></p>
	<p>そのユーモラスな姿から「春日野道のゾウさん」と呼ばれた、川鉄<a href="http://www.nishiyama-kinenkaikan.jp/" target="top">「西山記念会館」</a>のあたりで<br />
遊歩道は終わるが、一部本物の鉄路が保存されていた。<br />
枕木の間に雑草が生えている、あの懐かしい臨港線のたたずまいそのものだ。<br />
HAT神戸方面から歩いてきた親子連れが不思議そうに線路を見つめていた。<br />
「なんでこんなところに線路があるんかなぁ」<br />
彼らはこの線路の上を「神戸港からヨーロッパへ向かう欧州航路の船客を乗せた特別列車が走った」<br />
ことなど知る由もない。<br />
線路にそっと耳をつけてみて欲しい。<br />
もう貨物列車は走ってこないが、明治、大正、昭和とミナトコウベを支えてきた老兵のつぶやきが、<br />
あるいは、この周辺の工場で働いていた人々の息づかいが聞こえてくるかもしれない。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091203_08.jpg" alt="残された臨港線の線路" /></p>
	<p><font Size="1"><font Color="#800000">2009年12月5日（土）に、臨港線跡を探訪するツアーを開催します。<br />
解説付きのガイドウォークです。<br />
ふるってご参加ください。<br />
詳しくは下記リンク先をご参照ください。<br />
<a href="http://www.nadatama.com/modules/piCal/index.php?smode=Daily&#038;action=View&#038;event_id=0000000437&#038;caldate=2009-12-2" target="top">「灘まちなみ建築探訪vol.11～臨港線編」</a><br />
<font Size="2"><font Color="#000000"><br />
</font><br />
</font></font></font>
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>帰ってきた傾いた喫茶店（2）</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=70</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=70#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 17 Nov 2009 17:00:52 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;&amp;#110;&amp;#97;&amp;#100;di&amp;#115;t&amp;#64;&amp;#110;ada&amp;#116;&amp;#97;&amp;#109;a&amp;#46;&amp;#99;o&amp;#109;&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=70</guid>
		<description>	
11月14日。
イースト水道筋の一角、骨董通りの路地に、昨年末に閉店した永手町の傾いた喫茶店こと
「レードルのアレ」の甘酸っぱい芳香が漂った。
限定20皿分はすべて予約済み。
あとはお客さんを待つだけだ。
	「看板はいらんのちゃう？レードルよりミニ言うたほうが分かる人多いし」
店頭に置かれたレードル時代の看板を見てマスターが照れくさそうに笑った。
「ミニ」という名前があまり好きではなかったので店名を変えたという。
六甲模型に行くときによく目にしていた「ミニ」に、初めて行ったのは
高校生の頃、日尾町の友人宅に行った帰りに寄ったような記憶がある。
2階の窓際席で、たしかアイスレモンティを飲んだ。
1階にはアップライトのピアノ、2階にも楽器が置いてあった。
当時はしばしば店内でライブもあった。
	「あ、CD忘れた！なんか音楽ある？」とマスター。
「なんでもいいっすか？」
はて、BGMは何がいいだろう。
手元にあったiPodをブラウズして「はっぴいえんど」を選んだ。
昭和45年、市電が廃止された直後の山手幹線に姿を現した傾いた喫茶店の風情と
同時期にデビューしたはっぴいえんどの『花いちもんめ』の歌詞がリンクした。
	　ぼくらが電車通りを駆け抜けると　
　巻き起こるたつまきで街はぐらぐら　
	やがてカレーの香りに引き寄せられるかのようにお客さんが集まってきた。
メニューは1種類なので、誰もオーダーはしない。
黙って座っていると、「アレ」が出てきた。
もちろん皿もスプーンもすべてレードル時代のものだ。
14個の紅玉と14個の玉ねぎとホールトマトをじっくり煮込んだ無水カレー。
「今日は商売やないからステーキ用の肩ロースも入れてん。せっかく来てくれるねんからね」
と、寡黙なマスターがぽそり。
それ以上、会話があるわけではない。
特に復活の高揚感があるわけでもない。
寂として声無し。
みな黙々とスプーンを口に運ぶ。
一口食べると口に広がる衝撃的な甘酸っぱさと濃厚な旨味。
そしてその後にやってくるじんわりとした辛さ。
激辛ではないが、体の芯から汗が吹き出す。
味の時間差攻撃、タイムラグがこのカレーのキモだそうだ。
	午後3時、全てのカレーがなくなった。
「最初つくったときは感動したんやけど、今食べたらそうでもないな」
誰もいなくなった店内で、マスターは少し残ったカレーを食べて言った。
店の外の昭和の面影を色濃く残す路地には柔らかい秋の光が射し、レードルの
看板越しに摩耶の山並みと青い空が見える。
	　紙芝居屋が店をたたんだあとの　
　狭い路地裏はヒーローでいっぱい
	店内にはまた『花いちもんめ』が流れていた。
「でもやっぱりBGMは『シバの女王』がええな」
来年復活する時は用意しておきます。
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091117_01.jpg" alt="" /></p>
	<p>11月14日。<br />
イースト水道筋の一角、骨董通りの路地に、昨年末に閉店した永手町の傾いた喫茶店こと<br />
<a href="http://www.nadatama.com/modules/myalbum/photo.php?lid=283&#038;cid=3" target="top">「レードルのアレ」</a>の甘酸っぱい芳香が漂った。<br />
限定20皿分はすべて予約済み。<br />
あとはお客さんを待つだけだ。</p>
	<p>「看板はいらんのちゃう？レードルよりミニ言うたほうが分かる人多いし」<br />
店頭に置かれたレードル時代の看板を見てマスターが照れくさそうに笑った。<br />
「ミニ」という名前があまり好きではなかったので店名を変えたという。<br />
六甲模型に行くときによく目にしていた「ミニ」に、初めて行ったのは<br />
高校生の頃、日尾町の友人宅に行った帰りに寄ったような記憶がある。<br />
2階の窓際席で、たしかアイスレモンティを飲んだ。<br />
1階にはアップライトのピアノ、2階にも楽器が置いてあった。<br />
当時はしばしば店内でライブもあった。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091117_02.jpg" alt="" /></p>
	<p>「あ、CD忘れた！なんか音楽ある？」とマスター。<br />
「なんでもいいっすか？」<br />
はて、BGMは何がいいだろう。<br />
手元にあったiPodをブラウズして「はっぴいえんど」を選んだ。<br />
昭和45年、市電が廃止された直後の山手幹線に姿を現した傾いた喫茶店の風情と<br />
同時期にデビューしたはっぴいえんどの『花いちもんめ』の歌詞がリンクした。</p>
	<p>　ぼくらが電車通りを駆け抜けると　<br />
　巻き起こるたつまきで街はぐらぐら　</p>
	<p>やがてカレーの香りに引き寄せられるかのようにお客さんが集まってきた。<br />
メニューは1種類なので、誰もオーダーはしない。<br />
黙って座っていると、「アレ」が出てきた。<br />
もちろん皿もスプーンもすべてレードル時代のものだ。<br />
14個の紅玉と14個の玉ねぎとホールトマトをじっくり煮込んだ無水カレー。<br />
「今日は商売やないからステーキ用の肩ロースも入れてん。せっかく来てくれるねんからね」<br />
と、寡黙なマスターがぽそり。<br />
それ以上、会話があるわけではない。<br />
特に復活の高揚感があるわけでもない。<br />
寂として声無し。<br />
みな黙々とスプーンを口に運ぶ。<br />
一口食べると口に広がる衝撃的な甘酸っぱさと濃厚な旨味。<br />
そしてその後にやってくるじんわりとした辛さ。<br />
激辛ではないが、体の芯から汗が吹き出す。<br />
味の時間差攻撃、タイムラグがこのカレーのキモだそうだ。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091117_03.jpg" alt="" /></p>
	<p>午後3時、全てのカレーがなくなった。<br />
「最初つくったときは感動したんやけど、今食べたらそうでもないな」<br />
誰もいなくなった店内で、マスターは少し残ったカレーを食べて言った。<br />
店の外の昭和の面影を色濃く残す路地には柔らかい秋の光が射し、レードルの<br />
看板越しに摩耶の山並みと青い空が見える。</p>
	<p>　紙芝居屋が店をたたんだあとの　<br />
　狭い路地裏はヒーローでいっぱい</p>
	<p>店内にはまた『花いちもんめ』が流れていた。<br />
「でもやっぱりBGMは『シバの女王』がええな」<br />
来年復活する時は用意しておきます。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091117_04.jpg" alt="" />
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>帰ってきた傾いた喫茶店</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=69</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=69#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 05 Nov 2009 18:00:26 +0900</pubDate>
		<author>nada &lt;i&amp;#110;&amp;#102;o&amp;#64;n&amp;#97;da&amp;#116;ama&amp;#46;c&amp;#111;m&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=69</guid>
		<description>	ナダタマ本部には灘の遺物がたくさんある。
昔の灘中央市場や閉店した古い店舗の切り文字看板、取り壊された古い家の塀、
篠原の茅葺き屋根の家の茅、はたまた旧十国展望台のマッチ箱や六甲・凌雲荘の
ビニール袋などの小物類まで。
一般的には「ゴミ」と呼ばれるもの。
どれも私にとっては宝物なのだが、まず理解されない。
	「またそんなゴミ拾てきて！捨ててきっ！」
「いやこれは灘的には…」
「ナダ的もヒガシナダ的もないわ！このドロガメ！」
などと人生幸朗・生恵幸子ばりに叱責されるのがオチだ。
でもそれでいい。
ちょっぴり後めたい気持ちがあるくらいじゃないと、きっと歯止めがきかない。
放っておくと「灘のゴミ屋敷に周辺住民困惑」なんて、朝ズバッ！8時またぎあたりで
取り上げる恐れがある。
「いやあ、まったく理解できませんねェ」
などと、みのもんたにあしらわれたんじゃたまらない。
灘の森羅万象を愛する「灘魂思想」では、これらのゴミはすべて灘のタカラモノなのだ。
モノには街のモノガタリがある。
耳を澄ませばいろんな音が聞こえてくる（ような気がする）
目をこらせばいろんな情景が浮かんでくる（ような気がする）
なによりも、灘に存在してきた空気感（オーラ）が愛おしい。
いつか原田の森ギャラリーを借りて「大灘区至宝展」をやりたいと思っている。
もちろん至宝とは「旧臨港線の石ころ」「摩耶山茶店跡に落ちていたラムネ瓶の破片」
「ハイジの花壇に使われていたレンガ片」などだ。
総額0円の宝物に、できればものものしく警備員も配置したい。
きっとみのもんたには理解されないだろうけど。
	「看板？もういらんから持って行ってもええよ」
昨年末、閉店した「傾いた喫茶店」こと永手町の「レードル（旧ミニ）」の看板をマスターから
譲っていただいた。
ただし今回のブツは今までのコレクションとは訳が違う。
健康上の理由でやむを得ず店を畳んだマスターの寂しそうな背中を見て、ある企てを思い
ついた。
かつての記憶を今の街で生かしていくこと。&amp;#8232;ノスタルジックに浸るだけでなく、古いものに
新たな物語を積み重ねていくこと。&amp;#8232;記憶のリサイクル。&amp;#8232;
このプロジェクトは「リメインダーズ・オブ・ザ・レードル・サクセション（レードルの
残り物の継承）」コードネーム「RLサクセション」と名付けらた。
レードルで使われていた椅子は畑原市場の「チンタ本店」へ、ステンレス製の水差しは
畑原東商店街の「スタンドモンク」へ、カトラリーや食器は日曜カフェ「kakke cafe」
やパスタ屋「Tetz」、タイ・フィリピン料理の「Asian Rabbit」へ。
それぞれの店でまた物語を紡ぐことになった。
	10月のある日、レードルマスターから電話があった。
体調もだいぶ良くなったとのこと。
「そろそろカレー、つくろか？」
ハンバーグとともに傾いた喫茶店の名物メニューだったカレー。
そうか…そういやそろそろ「アレ」の季節か。
知る人ぞ知る、知らない人は知らないレードルの「アレカレー」。
秋から冬にかけてしかつくれない「アレカレー」が、今年も帰ってくる。
そんなこんなで、水道筋で一日だけの「傾いた喫茶店」を復活することになった。
その名もカレースタンド「傾いた喫茶店」。
RLサクセションプロジェクトの最終章だ。
	さて、いよいよ10ヶ月前にもらった看板の出番だ。
単なるノスタルジックなコレクションなんかじゃない。
この日のためにマスターからいただいたのだ。
六甲道で行き場を失った「昭和の看板」は、水道筋であたたかく迎え入れられるはずだ。
2009年11月14日、水道筋の路地に「手づくり料理　レードル」の文字が踊る。
	カレースタンド「帰ってきた傾いた喫茶店」11月14日（土）昼のみ水道筋で特別営業します。
※メニューはカレーのみ、仕込みの都合上20食しかご提供できませんので、
　予約優先とさせていただきます。
詳しくはこちらをクリック↓
カレースタンド「帰ってきた傾いた喫茶店」

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>ナダタマ本部には灘の遺物がたくさんある。<br />
昔の灘中央市場や閉店した古い店舗の切り文字看板、取り壊された古い家の塀、<br />
篠原の茅葺き屋根の家の茅、はたまた旧十国展望台のマッチ箱や六甲・凌雲荘の<br />
ビニール袋などの小物類まで。<br />
一般的には「ゴミ」と呼ばれるもの。<br />
どれも私にとっては宝物なのだが、まず理解されない。</p>
	<p>「またそんなゴミ拾てきて！捨ててきっ！」<br />
「いやこれは灘的には…」<br />
「ナダ的もヒガシナダ的もないわ！このドロガメ！」<br />
などと人生幸朗・生恵幸子ばりに叱責されるのがオチだ。<br />
でもそれでいい。<br />
ちょっぴり後めたい気持ちがあるくらいじゃないと、きっと歯止めがきかない。<br />
放っておくと「灘のゴミ屋敷に周辺住民困惑」なんて、朝ズバッ！8時またぎあたりで<br />
取り上げる恐れがある。<br />
「いやあ、まったく理解できませんねェ」<br />
などと、みのもんたにあしらわれたんじゃたまらない。<br />
灘の森羅万象を愛する「灘魂思想」では、これらのゴミはすべて灘のタカラモノなのだ。<br />
モノには街のモノガタリがある。<br />
耳を澄ませばいろんな音が聞こえてくる（ような気がする）<br />
目をこらせばいろんな情景が浮かんでくる（ような気がする）<br />
なによりも、灘に存在してきた空気感（オーラ）が愛おしい。<br />
いつか原田の森ギャラリーを借りて「大灘区至宝展」をやりたいと思っている。<br />
もちろん至宝とは「旧臨港線の石ころ」「摩耶山茶店跡に落ちていたラムネ瓶の破片」<br />
「ハイジの花壇に使われていたレンガ片」などだ。<br />
総額0円の宝物に、できればものものしく警備員も配置したい。<br />
きっとみのもんたには理解されないだろうけど。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091105.jpg" alt="レードル看板" /></p>
	<p>「看板？もういらんから持って行ってもええよ」<br />
昨年末、閉店した「傾いた喫茶店」こと永手町の「レードル（旧ミニ）」の看板をマスターから<br />
譲っていただいた。<br />
ただし今回のブツは今までのコレクションとは訳が違う。<br />
健康上の理由でやむを得ず店を畳んだマスターの寂しそうな背中を見て、ある企てを思い<br />
ついた。<br />
かつての記憶を今の街で生かしていくこと。&#8232;ノスタルジックに浸るだけでなく、古いものに<br />
新たな物語を積み重ねていくこと。&#8232;記憶のリサイクル。&#8232;<br />
このプロジェクトは「リメインダーズ・オブ・ザ・レードル・サクセション（レードルの<br />
残り物の継承）」コードネーム「RLサクセション」と名付けらた。<br />
レードルで使われていた椅子は畑原市場の「<a href="http://chinta1103.exblog.jp/" target="top">チンタ本店</a>」へ、ステンレス製の水差しは<br />
畑原東商店街の「スタンドモンク」へ、カトラリーや食器は日曜カフェ「<a href="http://homepage3.nifty.com/petit_oiseau/kakkecafe.html" target="top">kakke cafe</a>」<br />
やパスタ屋「<a href="http://plaza.rakuten.co.jp/onakatetsuo/diary/200903230000/" target="top">Tetz</a>」、タイ・フィリピン料理の「<a href="http://plaza.rakuten.co.jp/lanna/" target="top">Asian Rabbit</a>」へ。<br />
それぞれの店でまた物語を紡ぐことになった。</p>
	<p>10月のある日、レードルマスターから電話があった。<br />
体調もだいぶ良くなったとのこと。<br />
「そろそろカレー、つくろか？」<br />
ハンバーグとともに傾いた喫茶店の名物メニューだったカレー。<br />
そうか…そういやそろそろ「アレ」の季節か。<br />
知る人ぞ知る、知らない人は知らないレードルの「<a href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress1/index.php/archives/2000/10/10/001010-6902/" target="top">アレカレー</a>」。<br />
秋から冬にかけてしかつくれない「アレカレー」が、今年も帰ってくる。<br />
そんなこんなで、水道筋で一日だけの「傾いた喫茶店」を復活することになった。<br />
その名もカレースタンド「傾いた喫茶店」。<br />
RLサクセションプロジェクトの最終章だ。</p>
	<p>さて、いよいよ10ヶ月前にもらった看板の出番だ。<br />
単なるノスタルジックなコレクションなんかじゃない。<br />
この日のためにマスターからいただいたのだ。<br />
六甲道で行き場を失った「昭和の看板」は、水道筋であたたかく迎え入れられるはずだ。<br />
2009年11月14日、<a href="http://kayuibuni.ti-da.net/c143909.html" target="top">水道筋の路地</a>に「手づくり料理　レードル」の文字が踊る。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo091105_02.jpg" alt="アレカレー" /></p>
	<p>カレースタンド「帰ってきた傾いた喫茶店」11月14日（土）昼のみ水道筋で特別営業します。<br />
※メニューはカレーのみ、仕込みの都合上20食しかご提供できませんので、<br />
　予約優先とさせていただきます。<br />
詳しくはこちらをクリック↓<br />
<a href="http://www.nadatama.com/modules/piCal/index.php?smode=Daily&#038;action=View&#038;event_id=0000000433&#038;caldate=2009-11-5" target="top">カレースタンド「帰ってきた傾いた喫茶店」</a>
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>ゆく橋、くる橋［灘駅跨線橋］</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=68</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=68#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 23 Sep 2009 10:10:21 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;&amp;#110;&amp;#97;ddist&amp;#64;na&amp;#100;&amp;#97;&amp;#116;am&amp;#97;&amp;#46;com&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=68</guid>
		<description>	
2009年9月22日、昭和の生き証人がまた一つ灘から消えた。
80余年の間、灘の南北をつないできた橋がその役目を終える。
昭和初期にかけられた灘駅跨線橋は新しい自由通路の完成によって
解体撤去される。
三宮から一駅、都心の駅の建造物とは思えないその風情は貴重な風景だった。
前日に開催された当サイト主催のイベント「灘駅跨線橋渡り納めツアー」には
多くの参加者が集まった。
	岩屋の自宅から水道筋の市場にあった店まで毎日この橋を自由通路として
往復した鮮魚商の大将は、愛おしそうに橋を触った。
重い荷物を持ってこの橋を毎日毎日上り下りしたという。
「懐かしい思い出の橋やから、お別れに来てん」
駅を通り抜けるときに発行された通行許可証も橋と一緒になくなる。
	「この橋から僕らの生活が始まった」
故郷を出て、神戸に来た沖永良部出身のSさんは懐かしそうに古い橋を眺めた。
「永良部人（えらぶんちゅ）は、灘駅には特別な思いがあるねんで。
僕らにとっての『あゝ上野駅』や」
『あゝ上野駅』は集団就職の少年たちをテーマにした井沢八郎のヒット曲だが
灘駅周辺に多く住む奄美・沖永良部の人たちは、悲喜こもごもの出会いと別れが
繰り広げられた上野駅を灘駅と重ね合わせたのだろう。
	「いやあ、最後の最後間に合いました！」
切り絵作家の成田一徹さんが南口で跨線橋をカメラに収めていた。
成田さんはかつて「昭和の残り香」として灘駅を切り絵にした。
水道筋の酒場で跨線橋解体のことを聞き、急遽駆けつけたという。
少し上気した顔で、子どものようにシャッターを切っていた。
	2004年に開催したイベント「灘駅で本を読む日」で灘駅で本を読んだ朗読家の甲斐祐子さんは
この日ホームの端で小さな小さな朗読会を行った。
甲斐さんが「古い橋」に向けて最後に読んだ作品は、灘駅前、原田の森にあった関西学院出身の詩人、
竹中郁の「伝言板」だった。
	――先にゆく　二時間も待った　Ａ
恋人どうしか　ただの友達どうしか
――先にゆく　先にゆく
おれも　なにかを待っていたが
とうとう　この歳になっても　来なかったものがある
名声でもない　革命でもない　もちろん金銭でもない
口で云えない何かを待った
いま広大無辺な大空に書く
白い白い雲の羽根ペンで書く
――先にゆく　と
	灘駅は先にゆき、残されたクミンの心には、何度も何度もペンキが塗り重ねられた人の皮膚の
ような壁の手触りと、人が通るたび音を立てる木の階段のゴトゴトという音が消せないシミの
ように残った。
新しくできる自由通路は灘駅で分断された南北の街の人の悲願だったことはよく分かる。
分かるのだが、なにか釈然としないものが残る。
古いものを残しつつ新しい自由通路を確保することはできなかったのだろうか。
灘駅の建造物は水害も、戦災も、震災もくぐり抜けて来た貴重な歴史遺産だったはずだ。
もう2度と作ることはできない。
新しい自由通路には前の駅舎にあった窓をモチーフにしたデザインが施された。
こんなものはあくまでも「イメージ」でしかない。
この駅に蓄積された無数の記憶や手触りは再現することはできない。
	新しい橋（自由通路）を見て唖然とした。
南口にまるで天上寺参道のような長大な階段が聳えていた。
58段あった。
古い跨線橋は37段。
21段も階段が増えている。
もちろんエスカレータはない。
これではバリアフリーの名の下に壊された古い橋が浮かばれない。
	今日から新しい橋は新しい記憶を積み重ねて行く。
この新しい橋が、古い橋のように愛される橋になるかどうかは
灘クミン次第なのだ。
	最終電車が来る少し前、線路際で小さなイタチが跨線橋を見つめていた。
彼らの遊び場も今日でなくなる。
新しい橋にイタチは寄り付くまい。
さようなら、そしてありがとう灘駅跨線橋。
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_01.jpg" alt="" /></p>
	<p>2009年9月22日、昭和の生き証人がまた一つ灘から消えた。<br />
80余年の間、灘の南北をつないできた橋がその役目を終える。<br />
昭和初期にかけられた灘駅跨線橋は新しい自由通路の完成によって<br />
解体撤去される。<br />
三宮から一駅、都心の駅の建造物とは思えないその風情は貴重な風景だった。<br />
前日に開催された当サイト主催のイベント<a href="http://www.nadatama.com/modules/piCal/index.php?smode=Monthly&#038;action=View&#038;event_id=0000000419&#038;caldate=2009-9-21" target="top">「灘駅跨線橋渡り納めツアー」</a>には<br />
多くの参加者が集まった。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_02.jpg" alt="" /></p>
	<p>岩屋の自宅から水道筋の市場にあった店まで毎日この橋を自由通路として<br />
往復した鮮魚商の大将は、愛おしそうに橋を触った。<br />
重い荷物を持ってこの橋を毎日毎日上り下りしたという。<br />
「懐かしい思い出の橋やから、お別れに来てん」<br />
駅を通り抜けるときに発行された通行許可証も橋と一緒になくなる。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_03.jpg" alt="" /></p>
	<p>「この橋から僕らの生活が始まった」<br />
故郷を出て、神戸に来た沖永良部出身のSさんは懐かしそうに古い橋を眺めた。<br />
「永良部人（えらぶんちゅ）は、灘駅には特別な思いがあるねんで。<br />
僕らにとっての『あゝ上野駅』や」<br />
『あゝ上野駅』は集団就職の少年たちをテーマにした井沢八郎のヒット曲だが<br />
灘駅周辺に多く住む奄美・沖永良部の人たちは、悲喜こもごもの出会いと別れが<br />
繰り広げられた上野駅を灘駅と重ね合わせたのだろう。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_04.jpg" alt="" /></p>
	<p>「いやあ、最後の最後間に合いました！」<br />
<a href="http://www.sio-site.or.jp/event/060211.htm" target="top">切り絵作家の成田一徹さん</a>が南口で跨線橋をカメラに収めていた。<br />
成田さんはかつて「昭和の残り香」として灘駅を切り絵にした。<br />
水道筋の酒場で跨線橋解体のことを聞き、急遽駆けつけたという。<br />
少し上気した顔で、子どものようにシャッターを切っていた。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_05.jpg" alt="" /></p>
	<p>2004年に開催したイベント<a href="http://www.mediapicnic.com/nadabook/" target="top">「灘駅で本を読む日」</a>で灘駅で本を読んだ朗読家の甲斐祐子さんは<br />
この日ホームの端で小さな小さな朗読会を行った。<br />
甲斐さんが「古い橋」に向けて最後に読んだ作品は、灘駅前、原田の森にあった関西学院出身の詩人、<br />
竹中郁の「伝言板」だった。</p>
	<p>――先にゆく　二時間も待った　Ａ<br />
恋人どうしか　ただの友達どうしか<br />
――先にゆく　先にゆく<br />
おれも　なにかを待っていたが<br />
とうとう　この歳になっても　来なかったものがある<br />
名声でもない　革命でもない　もちろん金銭でもない<br />
口で云えない何かを待った<br />
いま広大無辺な大空に書く<br />
白い白い雲の羽根ペンで書く<br />
――先にゆく　と</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_06.jpg" alt="" /></p>
	<p>灘駅は先にゆき、残されたクミンの心には、何度も何度もペンキが塗り重ねられた人の皮膚の<br />
ような壁の手触りと、人が通るたび音を立てる木の階段のゴトゴトという音が消せないシミの<br />
ように残った。<br />
新しくできる自由通路は灘駅で分断された南北の街の人の悲願だったことはよく分かる。<br />
分かるのだが、なにか釈然としないものが残る。<br />
古いものを残しつつ新しい自由通路を確保することはできなかったのだろうか。<br />
灘駅の建造物は水害も、戦災も、震災もくぐり抜けて来た貴重な歴史遺産だったはずだ。<br />
もう2度と作ることはできない。<br />
新しい自由通路には前の駅舎にあった窓をモチーフにしたデザインが施された。<br />
こんなものはあくまでも「イメージ」でしかない。<br />
この駅に蓄積された無数の記憶や手触りは再現することはできない。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_07.jpg" alt="" /></p>
	<p>新しい橋（自由通路）を見て唖然とした。<br />
南口にまるで天上寺参道のような長大な階段が聳えていた。<br />
58段あった。<br />
古い跨線橋は37段。<br />
21段も階段が増えている。<br />
もちろんエスカレータはない。<br />
これではバリアフリーの名の下に壊された古い橋が浮かばれない。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_09.jpg" alt="" /></p>
	<p>今日から新しい橋は新しい記憶を積み重ねて行く。<br />
この新しい橋が、古い橋のように愛される橋になるかどうかは<br />
灘クミン次第なのだ。</p>
	<p>最終電車が来る少し前、線路際で小さなイタチが跨線橋を見つめていた。<br />
彼らの遊び場も今日でなくなる。<br />
新しい橋にイタチは寄り付くまい。<br />
さようなら、そしてありがとう灘駅跨線橋。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090923_08.jpg" alt="" />
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>下町の小さな山</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=67</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=67#comments</comments>
		<pubDate>Wed, 26 Aug 2009 09:00:10 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;&amp;#110;&amp;#97;dd&amp;#105;&amp;#115;t&amp;#64;&amp;#110;&amp;#97;da&amp;#116;a&amp;#109;a&amp;#46;&amp;#99;&amp;#111;m&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=67</guid>
		<description>	灘区の山と言えばほとんどの人が六甲山、摩耶山の名前をあげると思う。
あるいは長峰中出身なら長峰山とか。
とにかく灘区の北側はすべて山で、六甲ケーブルに摩耶ケーブル、ロープウェー、そして
有馬へ抜ける六甲有馬ロープウェーと実に4路線ものケーブル、ロープウェーネットワーク
がある日本有数の山の街なのだが、そんな背山とはひと味もふた味も違う、街の中にひっそり
とたたずむ山がある。
しかもすぐ南には国道43号線が走り、北を阪神特急がけたたましく駆け抜ける灘の下町に。
	灘区の浜手の街、都通。
阪神西灘駅から南へ3分ほど歩くと、標高7～8mの小さな山「大塚山」がある。
正式名称は西求女塚古墳。灘が誇る前方後方墳だ。
三角縁神獣鏡が出土し、世紀の発見として一躍脚光を浴びたのも記憶に新しい。
	しかし地元の古老たちはこの古墳を「大塚山」と呼ぶ。
昭和初期、大塚山には大きな屋敷があった。
屋敷には釜風呂をひっくり返したような屋根の茶室や、
中国風の奇妙な門、そして山を囲むように観音様が配置され
八十八カ所巡りができたという。
摩耶山や一王山とまったく同じような「ミニ八十八カ所巡りスポット」が浜手にあったと
いうことは興味深い。
ここは子どもたちにとっても格好の遊び場で、ガキ大将たちが山に登り周りの街を見渡した。
彼らにとってはここが「Top Of The World」だったに違いない。
やがて戦争になり、大塚山の屋敷も灰燼に帰した。
戦後、大塚山はまた山に戻る。
昭和36年大塚山は公園として整備され、子どもたちの歓声が戻ったが
子どもたちは公園とは呼ばず、やはり大塚山と呼んだ。
	 昭和初期の大塚山（写真協力：本田様）
	大塚山の南東角にはたくさんの観音様が無造作に安置されている。
それぞれには番号がふられている。
八十八カ所巡り時代の観音様たちだ。
通常公園内に地蔵や観音様が安置されることはない。
宗教云々っていうやつだ。
ふざけんなといいたい。
お地蔵さんや観音様はここが神戸市に編入されるずっと前からこの地にいるのだ。
摩耶山もそうだ。
旧天上寺が延焼し、敷地が公に移管されたとたん摩耶山中の野仏たちは
全て撤去された。
過去を振り向かない神戸らしい対応ともいえるのだが、過去へ礼をつくさない
実に味気ない態度だ。
（しかも残しておけば観光スポットになったかもしれないのだ）
	大塚山は違った。
公園化されても石仏は撤去されずに残された。
地域の人の強い思いがあったのだろうか。
あるいは撤去できない「なにか」があったのかもしれない。
8月23、24日には大塚山では地蔵盆が行われる。
深い歴史を刻んだ昭和の証人たちが地元の人々の提灯で彩られ、
子どもたちがそっと手を合わせる。
	草に覆われた大塚山の頂上に登ってみた。
すぐ南を大型トレーラーが行き交ってるとは思えないエアポケットのような空間。
かつてはここから、雄々しい摩耶の山並みや、白砂青松の美しい砂浜が見えたのだろう。
今は頭上に青い空がぽっかりと見える。
下町の知られざる山、大塚山。
是非この山に登って、ひっそりと残る足下の歴史を味わって欲しい。
	 大塚山（求女塚西公園）
神戸市灘区都通3-1
アクセス：阪神西灘駅より徒歩3分
	大きな地図で見る

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>灘区の山と言えばほとんどの人が六甲山、摩耶山の名前をあげると思う。<br />
あるいは長峰中出身なら長峰山とか。<br />
とにかく灘区の北側はすべて山で、六甲ケーブルに摩耶ケーブル、ロープウェー、そして<br />
有馬へ抜ける六甲有馬ロープウェーと実に4路線ものケーブル、ロープウェーネットワーク<br />
がある日本有数の山の街なのだが、そんな背山とはひと味もふた味も違う、街の中にひっそり<br />
とたたずむ山がある。<br />
しかもすぐ南には国道43号線が走り、北を阪神特急がけたたましく駆け抜ける灘の下町に。</p>
	<p>灘区の浜手の街、都通。<br />
阪神西灘駅から南へ3分ほど歩くと、標高7～8mの小さな山「大塚山」がある。<br />
正式名称は西求女塚古墳。灘が誇る前方後方墳だ。<br />
三角縁神獣鏡が出土し、世紀の発見として一躍脚光を浴びたのも記憶に新しい。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090826_03.jpg" alt="" /></p>
	<p>しかし地元の古老たちはこの古墳を「大塚山」と呼ぶ。<br />
昭和初期、大塚山には大きな屋敷があった。<br />
屋敷には釜風呂をひっくり返したような屋根の茶室や、<br />
中国風の奇妙な門、そして山を囲むように観音様が配置され<br />
八十八カ所巡りができたという。<br />
摩耶山や一王山とまったく同じような「ミニ八十八カ所巡りスポット」が浜手にあったと<br />
いうことは興味深い。<br />
ここは子どもたちにとっても格好の遊び場で、ガキ大将たちが山に登り周りの街を見渡した。<br />
彼らにとってはここが「Top Of The World」だったに違いない。<br />
やがて戦争になり、大塚山の屋敷も灰燼に帰した。<br />
戦後、大塚山はまた山に戻る。<br />
昭和36年大塚山は公園として整備され、子どもたちの歓声が戻ったが<br />
子どもたちは公園とは呼ばず、やはり大塚山と呼んだ。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090826_06.jpg" alt="" /><br />
<font Color="#465daa"><br />
<font Size="1"> 昭和初期の大塚山（写真協力：本田様）<br />
<font Size="2"><font Color="#000000"></p>
	<p>大塚山の南東角にはたくさんの観音様が無造作に安置されている。<br />
それぞれには番号がふられている。<br />
八十八カ所巡り時代の観音様たちだ。<br />
通常公園内に地蔵や観音様が安置されることはない。<br />
宗教云々っていうやつだ。<br />
ふざけんなといいたい。<br />
お地蔵さんや観音様はここが神戸市に編入されるずっと前からこの地にいるのだ。<br />
摩耶山もそうだ。<br />
旧天上寺が延焼し、敷地が公に移管されたとたん摩耶山中の野仏たちは<br />
全て撤去された。<br />
過去を振り向かない神戸らしい対応ともいえるのだが、過去へ礼をつくさない<br />
実に味気ない態度だ。<br />
（しかも残しておけば観光スポットになったかもしれないのだ）</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090826_02.jpg" alt="" /></p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090826_05.jpg" alt="" /></p>
	<p>大塚山は違った。<br />
公園化されても石仏は撤去されずに残された。<br />
地域の人の強い思いがあったのだろうか。<br />
あるいは撤去できない「なにか」があったのかもしれない。<br />
8月23、24日には大塚山では地蔵盆が行われる。<br />
深い歴史を刻んだ昭和の証人たちが地元の人々の提灯で彩られ、<br />
子どもたちがそっと手を合わせる。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/bon_motome.jpg" alt="" /></p>
	<p>草に覆われた大塚山の頂上に登ってみた。<br />
すぐ南を大型トレーラーが行き交ってるとは思えないエアポケットのような空間。<br />
かつてはここから、雄々しい摩耶の山並みや、白砂青松の美しい砂浜が見えたのだろう。<br />
今は頭上に青い空がぽっかりと見える。<br />
下町の知られざる山、大塚山。<br />
是非この山に登って、ひっそりと残る足下の歴史を味わって欲しい。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090826_04.jpg" alt="" /></font></font></font></font></p>
	<p><font Color="#000080"><br />
<font Size="1"> 大塚山（求女塚西公園）<br />
神戸市灘区都通3-1<br />
アクセス：阪神西灘駅より徒歩3分</p>
	<p><iframe width="425" height="350" frameborder="0" scrolling="no" marginheight="0" marginwidth="0" src="http://maps.google.co.jp/maps?f=q&amp;source=s_q&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=%E6%B1%82%E5%A5%B3%E5%A1%9A%E8%A5%BF%E5%85%AC%E5%9C%92&amp;sll=34.705264,135.224791&amp;sspn=0.008053,0.007038&amp;ie=UTF8&amp;ll=34.705107,135.226505&amp;spn=0.022015,0.038418&amp;output=embed"></iframe><br /><small><a href="http://maps.google.co.jp/maps?f=q&amp;source=embed&amp;hl=ja&amp;geocode=&amp;q=%E6%B1%82%E5%A5%B3%E5%A1%9A%E8%A5%BF%E5%85%AC%E5%9C%92&amp;sll=34.705264,135.224791&amp;sspn=0.008053,0.007038&amp;ie=UTF8&amp;ll=34.705107,135.226505&amp;spn=0.022015,0.038418" style="color:#0000FF;text-align:left">大きな地図で見る</a></small></font></font>
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>マヤ遺跡群</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=65</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=65#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 13 Aug 2009 19:00:38 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;&amp;#110;&amp;#97;d&amp;#100;&amp;#105;s&amp;#116;&amp;#64;&amp;#110;a&amp;#100;&amp;#97;&amp;#116;&amp;#97;&amp;#109;a.c&amp;#111;&amp;#109;&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=65</guid>
		<description>	蒸し暑い日が続く。
心配ない。灘区には山がある。
下界との温度差5°
まだクーラーがなかった昭和の初め、灘クミンは摩耶山の天然クーラーで涼をとった。
電鉄系の施設が多く「よそいきの避暑地」として開発が進んだ六甲山に比べ
摩耶山は天上寺を中心とした「地元の避暑地」としてにぎわった。
普段ならケーブル、ロープウェーを乗り継いで上がる摩耶山だが、
夏は是非ケーブル虹の駅で下車し、昭和の避暑地をたどっていただきたい。
	まやビューラインの中間駅「虹の駅」から旧天上寺までの参道には今も昭和が残っている。
いわゆる「マヤ遺跡群」だ。
昭和初期はまだロープウェーもなく、ここが摩耶山上駅だった。
駅前にはかつて「摩耶一茶」という茶店があった。
「ここのうどんはおいしかった！」というクミンは私だけではあるまい。
摩耶ロープウェー虹の駅までの間には、ほかに5～6軒の茶店や射的場がならんだ
天上寺門前街といった風情だった。
	 摩耶一茶跡
	両側に草が生い茂った石段をのぼり、小さなほこら「高尾明神社」を過ぎ、
しばらく行くと「摩耶花壇」と呼ばれる廃屋が残っている。
サウナ風呂や入院施設のあった療養所だったそうだ。
摩耶の清々しい空気を吸いながら、患者たちは英気を養ったのだろうか。
	 摩耶花壇跡
	このあたりは旧天上寺の塔頭跡の構造物が草の下で静かに横たわっている、
上野道への分岐点に地蔵の祠があるが、このあたりに「下のアメヤ」と呼ばれる茶店があった。
おはぎ、ぜんさい、きな粉餅、焼きとうきびなどの甘味などがあったが、なんといっても
ここの名物は「ネコのフン」だ。
芋飴の中に煎った大豆が入った姿が猫のソレに似ていることから名付けられた
伝統の「摩耶スイーツ」である。
下のアメヤでは他にもおはぎ、ぜんざい、きな粉餅、焼きとうきび、昆布菓子など
山歩きに適した甘味が供されていた。
	 下のアメヤ跡
	参詣者に「ほうけんどう」と呼ばれていた宝筐印塔（ほうきょういんとう）を過ぎると、
つづれ折りの坂道になり、いよいよ山岳寺院の趣が深まる。
青谷道との分岐を右に行くと小さな踊り場のようなスペースがある。
「ヤメア」と書かれたコンクリート製の構造物が残っている。
これは右からアメヤと読む。
つまり、ここにアメヤ（茶店）があったことを示している昭和の遺構だ。
ここには「上のアメヤ」と呼ばれた茶店があった。
「ししおどしもあったなあ」と天上寺の伊藤貫主。
	 今でも残るラムネ冷やし台
	夏は引いてきた山水を、さきほどのコンクリート製の水槽にためて、ラムネなどの飲み物の他
トマトや摩耶山で採れたアケビなどを冷やして売っていた。
なんとも風流な「山カフェ」である。
ラムネでのどを潤し、涼しげなヒグラシの声を聞きながら一息ついて見上げれば、
うっそうとした森の中に仁王門がたたずむ。
「さあ、もう一息や」
ここから参詣客は300余段の階段を上り、天上寺を目指した。
	8月15日と22日の両日、仁王門下の「上のアメヤ」で数十年ぶりにラムネを売るイベントを
開催します。
当時の古い写真も展示しているので、昭和の参詣客になった気分で摩耶山に涼みにきてください。
	「摩耶山ラムネ茶屋～帰ってきた上のアメヤ」
平成21年8月15日（土）・22日（土）
12:00~16:00
場所：旧摩耶山天上寺仁王門前(摩耶ケーブル虹の駅より徒歩15分)
主催：摩耶ビューラインサポーターズクラブ（仮）
協力：灘百選の会・灘区役所
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>蒸し暑い日が続く。<br />
心配ない。灘区には山がある。<br />
下界との温度差5°<br />
まだクーラーがなかった昭和の初め、灘クミンは摩耶山の天然クーラーで涼をとった。<br />
電鉄系の施設が多く「よそいきの避暑地」として開発が進んだ六甲山に比べ<br />
摩耶山は天上寺を中心とした「地元の避暑地」としてにぎわった。<br />
普段ならケーブル、ロープウェーを乗り継いで上がる摩耶山だが、<br />
夏は是非ケーブル虹の駅で下車し、昭和の避暑地をたどっていただきたい。</p>
	<p>まやビューラインの中間駅「虹の駅」から旧天上寺までの参道には今も昭和が残っている。<br />
いわゆる「マヤ遺跡群」だ。<br />
昭和初期はまだロープウェーもなく、ここが摩耶山上駅だった。<br />
駅前にはかつて「摩耶一茶」という茶店があった。<br />
「ここのうどんはおいしかった！」というクミンは私だけではあるまい。<br />
摩耶ロープウェー虹の駅までの間には、ほかに5～6軒の茶店や射的場がならんだ<br />
天上寺門前街といった風情だった。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090813_01.jpg" alt="摩耶一茶跡" /><br />
<font Color="#465daa"><br />
<font Size="1"> 摩耶一茶跡<br />
<font Size="2"><font Color="#000000"></p>
	<p>両側に草が生い茂った石段をのぼり、小さなほこら「高尾明神社」を過ぎ、<br />
しばらく行くと「摩耶花壇」と呼ばれる廃屋が残っている。<br />
サウナ風呂や入院施設のあった療養所だったそうだ。<br />
摩耶の清々しい空気を吸いながら、患者たちは英気を養ったのだろうか。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090813_02.jpg" alt="摩耶花壇跡" /><br />
<font Color="#465daa"><br />
<font Size="1"> 摩耶花壇跡<br />
<font Size="2"><font Color="#000000"></p>
	<p>このあたりは旧天上寺の塔頭跡の構造物が草の下で静かに横たわっている、<br />
上野道への分岐点に地蔵の祠があるが、このあたりに「下のアメヤ」と呼ばれる茶店があった。<br />
おはぎ、ぜんさい、きな粉餅、焼きとうきびなどの甘味などがあったが、なんといっても<br />
ここの名物は「ネコのフン」だ。<br />
芋飴の中に煎った大豆が入った姿が猫のソレに似ていることから名付けられた<br />
伝統の「摩耶スイーツ」である。<br />
下のアメヤでは他にもおはぎ、ぜんざい、きな粉餅、焼きとうきび、昆布菓子など<br />
山歩きに適した甘味が供されていた。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090813_03.jpg" alt="下のアメヤ跡" /><br />
<font Color="#465daa"><br />
<font Size="1"> 下のアメヤ跡<br />
<font Size="2"><font Color="#000000"></p>
	<p>参詣者に「ほうけんどう」と呼ばれていた宝筐印塔（ほうきょういんとう）を過ぎると、<br />
つづれ折りの坂道になり、いよいよ山岳寺院の趣が深まる。<br />
青谷道との分岐を右に行くと小さな踊り場のようなスペースがある。<br />
「ヤメア」と書かれたコンクリート製の構造物が残っている。<br />
これは右からアメヤと読む。<br />
つまり、ここにアメヤ（茶店）があったことを示している昭和の遺構だ。<br />
ここには「上のアメヤ」と呼ばれた茶店があった。<br />
「ししおどしもあったなあ」と天上寺の伊藤貫主。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090813_05.jpg" alt="" /><br />
<font Color="#465daa"><br />
<font Size="1"> 今でも残るラムネ冷やし台<br />
<font Size="2"><font Color="#000000"></p>
	<p>夏は引いてきた山水を、さきほどのコンクリート製の水槽にためて、ラムネなどの飲み物の他<br />
トマトや摩耶山で採れたアケビなどを冷やして売っていた。<br />
なんとも風流な「山カフェ」である。<br />
ラムネでのどを潤し、涼しげなヒグラシの声を聞きながら一息ついて見上げれば、<br />
うっそうとした森の中に仁王門がたたずむ。<br />
「さあ、もう一息や」<br />
ここから参詣客は300余段の階段を上り、天上寺を目指した。</p>
	<p>8月15日と22日の両日、仁王門下の「上のアメヤ」で数十年ぶりにラムネを売るイベントを<br />
開催します。<br />
当時の古い写真も展示しているので、昭和の参詣客になった気分で摩耶山に涼みにきてください。</p>
	<p>「摩耶山ラムネ茶屋～帰ってきた上のアメヤ」<br />
平成21年8月15日（土）・22日（土）<br />
12:00~16:00<br />
場所：旧摩耶山天上寺仁王門前(摩耶ケーブル虹の駅より徒歩15分)<br />
主催：摩耶ビューラインサポーターズクラブ（仮）<br />
協力：灘百選の会・灘区役所</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090813.jpg" alt="摩耶山ラムネ茶屋" /></p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090813_06.jpg" alt="摩耶山ラムネ茶屋地図" /></font></font></font></font></font></font></font></font></font></font></font></font></font></font></font></font>
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>水害と地蔵</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=64</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=64#comments</comments>
		<pubDate>Tue, 28 Jul 2009 12:00:35 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;n&amp;#97;&amp;#100;dis&amp;#116;&amp;#64;na&amp;#100;&amp;#97;ta&amp;#109;a&amp;#46;c&amp;#111;m&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=64</guid>
		<description>	
いにしえの六甲道に思いを巡らせる「永遠の六甲道」を今回から灘区全域を対象に、
昭和の残り香を訪ねる「灘区昭和館」としてリニューアルしましたのでよろしくお願いします。
	都賀川の事故から1年経った7月28日、「都賀川を守ろう会」による慰霊式典が行われた。
いつもはおだやかな、摩耶六甲の山並みも、都賀川のせせらぎも、一度牙を剥けば
恐ろしい自然だということを、灘クミンは肝に銘じなければならない。
先週から今週にかけて各地で起こっている土石流災害などの豪雨被害。
昔から山津波に見舞われてきた灘クミンにとっても決してひとごとではない。
神戸はおよそ30年周期で大きな水害に見舞われてきた。前回の水害が昭和42年だから、
かれこれ40年以上。いつ六甲山が街に牙をむいてもおかしくない。
	街の中にひっそりとたたずむ地蔵。
実は水と格闘してきた記憶を今に伝える生き証人でもある。
都賀川下流の大石南町でユーモラスな笑みを浮かべる「太郎八地蔵尊」は、1765年7月16日の
台風で都賀川上流から流されてきた。大石の太郎八という人が拾い上げ、この地に安置したので
太郎八地蔵と呼ばれるようになったと伝えられている。
流されてきた日を命日にしたのでここの地蔵盆は多地区の地蔵盆より１月以上早く行われる。
	上野通にある観音寺という字名は、かつて観音堂があったことから名付けられた地名だが、
この観音堂の観音様は摩耶山中から大水で流れてきたものを安置したといわれている。
摩耶山の観音様も水害の被害者だったのだ。
	そして昭和13年7月5日、一度牙を剥いた自然を止めることはできなかった。
六甲山からの山津波は大地を震撼させながら、一瞬のうちに家屋を飲み込んでいった。
忌まわしい阪神大水害は灘区だけで死者127人を出した。
荒れ狂った六甲川と杣谷川は都賀川で合流し、その被害は凄惨を極めた。
合流点の川幅、いや土石流の幅は200mにも及んだという。
濁流は水道筋を越え、旧灘警察と区役所を直撃、省線（現JR）を越え、浜手の町を襲った。
実家の近くに流れていた観音寺川には石や木に混じって、上流にあった湊川女学校（福住通）
の女学生も流れてきたという話も、夏になると近所の古老から聞かされた。
浜手の下河原通に「復興地蔵」と名付けられた地蔵尊がある。
阪神大水害からの復興を願って名付けられたという。
普段、地蔵名は表記されていないが、地蔵盆のときだけ「復興地蔵尊」と書かれた
提灯が揺れる。
	他にも灘区内には水難にあったお地蔵さんが多数まつられている。
彼らのつぶやきに耳を澄ませてみよう。
灘区は水と戦ってきた街だということを教えてくれるはずだ。
彼らは記念碑や慰霊碑ではなく、街の生き証人なのだから。
	［告知］
今年も8/23に地蔵盆を巡る探訪イベント「灘区地蔵盆ラリー」を開催します
詳しくはこちら

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090728_04.jpg" alt="" /></p>
	<p>いにしえの六甲道に思いを巡らせる「永遠の六甲道」を今回から灘区全域を対象に、<br />
昭和の残り香を訪ねる「灘区昭和館」としてリニューアルしましたのでよろしくお願いします。</p>
	<p>都賀川の事故から1年経った7月28日、「都賀川を守ろう会」による慰霊式典が行われた。<br />
いつもはおだやかな、摩耶六甲の山並みも、都賀川のせせらぎも、一度牙を剥けば<br />
恐ろしい自然だということを、灘クミンは肝に銘じなければならない。<br />
先週から今週にかけて各地で起こっている土石流災害などの豪雨被害。<br />
昔から山津波に見舞われてきた灘クミンにとっても決してひとごとではない。<br />
神戸はおよそ30年周期で大きな水害に見舞われてきた。前回の水害が昭和42年だから、<br />
かれこれ40年以上。いつ六甲山が街に牙をむいてもおかしくない。</p>
	<p>街の中にひっそりとたたずむ地蔵。<br />
実は水と格闘してきた記憶を今に伝える生き証人でもある。<br />
都賀川下流の大石南町でユーモラスな笑みを浮かべる「太郎八地蔵尊」は、1765年7月16日の<br />
台風で都賀川上流から流されてきた。大石の太郎八という人が拾い上げ、この地に安置したので<br />
太郎八地蔵と呼ばれるようになったと伝えられている。<br />
流されてきた日を命日にしたのでここの地蔵盆は多地区の地蔵盆より１月以上早く行われる。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090728_01.jpg" alt="太郎八地蔵尊" /></p>
	<p>上野通にある観音寺という字名は、かつて観音堂があったことから名付けられた地名だが、<br />
この観音堂の観音様は摩耶山中から大水で流れてきたものを安置したといわれている。<br />
摩耶山の観音様も水害の被害者だったのだ。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090728_02.jpg" alt="観音寺バス停" /></p>
	<p>そして昭和13年7月5日、一度牙を剥いた自然を止めることはできなかった。<br />
六甲山からの山津波は大地を震撼させながら、一瞬のうちに家屋を飲み込んでいった。<br />
忌まわしい阪神大水害は灘区だけで死者127人を出した。<br />
荒れ狂った六甲川と杣谷川は都賀川で合流し、その被害は凄惨を極めた。<br />
合流点の川幅、いや土石流の幅は200mにも及んだという。<br />
濁流は水道筋を越え、旧灘警察と区役所を直撃、省線（現JR）を越え、浜手の町を襲った。<br />
実家の近くに流れていた観音寺川には石や木に混じって、上流にあった湊川女学校（福住通）<br />
の女学生も流れてきたという話も、夏になると近所の古老から聞かされた。<br />
浜手の下河原通に「復興地蔵」と名付けられた地蔵尊がある。<br />
阪神大水害からの復興を願って名付けられたという。<br />
普段、地蔵名は表記されていないが、地蔵盆のときだけ「復興地蔵尊」と書かれた<br />
提灯が揺れる。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/syo090728_03.jpg" alt="復興地蔵尊" /></p>
	<p>他にも灘区内には水難にあったお地蔵さんが多数まつられている。<br />
彼らのつぶやきに耳を澄ませてみよう。<br />
灘区は水と戦ってきた街だということを教えてくれるはずだ。<br />
彼らは記念碑や慰霊碑ではなく、街の生き証人なのだから。</p>
	<p>［告知］<br />
今年も8/23に地蔵盆を巡る探訪イベント「灘区地蔵盆ラリー」を開催します<br />
詳しくは<a href="http://www.nadatama.com/modules/piCal/index.php?smode=Daily&#038;action=View&#038;event_id=0000000411&#038;caldate=2009-7-28" target="top">こちら</a>
</p>
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	</item>
		<item>
		<title>傾いた喫茶店よ永遠に（2）</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=63</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=63#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 05 Feb 2009 12:00:11 +0900</pubDate>
		<author>naddist &lt;&amp;#110;add&amp;#105;st&amp;#64;&amp;#110;&amp;#97;da&amp;#116;am&amp;#97;&amp;#46;c&amp;#111;&amp;#109;&gt;</author>
		
	<category>ちょっとなつかしい</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=63</guid>
		<description>	
閉店したレードルのマスター曰く、
「どうせ捨てるねんから、店のものでいるもんあったら持っていってな」
閉店したとはいえ店内にはまだレードルの残り香がたくさん残っていた。
マンガも旧式の冷蔵庫も古いランプシェードも、けなげに客を待っているかの
ように佇んでいた。
	僕はマッチをもらった。
レードルではなく「ミニ」時代の貴重なものだ。
ちゃんと傾いた建物が表現され、しかもミニの「M」の文字が建物のシルエットに
なっているところなどなかなかのデザイン。
喫茶店と言えばやはりマッチはつきもの。
これで火をつければまるでマッチ売りの少女のごとく、マッチの暖かい炎とともに
レードルの煮込みハンバーグや甘辛カレーが現れるかもしれない。
いや、まてよ。
もっと多くのクミンとレードルの記憶を共有できないだろうか？
そして小さなプロジェクトを思いついた。
その小さなプロジェクトとは
「リメインダーズ・オブ・ザ・レードル・サクセション（レードルの残り物の継承）」
コードネーム「RLサクセション」である。
	まずは旧灘温泉の番台のリユースで実績のあるチンタのマスターに声をかけた。
1月4日に畑原市場にあるチンタ宵酔食堂はチンタ本店としてリニューアルオープンした。
本店があるのなら支店はどこなのか？などという無粋な詮索はここではやめておこう。
店内のインテリアも、以前の立ち飲み風の高いカウンターからゆったりとくつろげる
タイル張りのカウンターへ大きく変わった。
このニューチンタのカウンターに、閉店したレードルの椅子が組み合わされた。
そう、現在レードルの椅子は畑原市場にあるのだ。
座ってみた。
ああ、この感触。
レードルの椅子だ。
固くもなく柔らかくもなく。
奇をてらう事なく、客を支えてきた
永遠の六甲道の椅子が、今水道筋の酔客の体を支えている。
ピカピカの六甲道では行き場を失った椅子を、水道筋は優しく迎え入れた。
まるで前からここにあったかのように。
チンタに様子を見に来たレードルのマスターがぽつりと言った。
「面白い場所や、水道筋は」
	もう一つ、レードルものが水道筋にある。
チンタからほど近い畑原東商店街のスタンドモンク。
この店のステンレス製の水差しもレードルから譲り受けたもの。
あの特辛カレーにはかかせなかった水差しである。
長い間の使用で年季の入った業務用の水差しが暗い店内で鈍い光を放つ。
モンクのカウンターは旧灘温泉の番台のリユースだが、あらたに灘の老兵が加わったことになる。
「長い間ご苦労でしたな」
「いやいやおたくほどでもないですわ」
カウンターと水差しの会話が聞こえてくるような気がした。
	歴史をムダにするのは実にもったいない。
かつての記憶を今の街で生かしていくこと。
ノスタルジックに浸るだけでなく、新たな物語を積み重ねていくこと。
記憶のリサイクルと言ったら言い過ぎだろうか。
こうしてレードルの記憶の一部は、水道筋で生き続ける事になった。
そしてRLサクセションプロジェクトはまだまだ始まったばかり。
モノだけではなく味も継承したい。
そう、次はカレーだ。（続く）
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/rok090205_04.jpg" alt="" /></p>
	<p>閉店したレードルのマスター曰く、<br />
「どうせ捨てるねんから、店のものでいるもんあったら持っていってな」<br />
閉店したとはいえ店内にはまだレードルの残り香がたくさん残っていた。<br />
マンガも旧式の冷蔵庫も古いランプシェードも、けなげに客を待っているかの<br />
ように佇んでいた。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/rok090205_01.jpg" alt="" /></p>
	<p>僕はマッチをもらった。<br />
レードルではなく「ミニ」時代の貴重なものだ。<br />
ちゃんと傾いた建物が表現され、しかもミニの「M」の文字が建物のシルエットに<br />
なっているところなどなかなかのデザイン。<br />
喫茶店と言えばやはりマッチはつきもの。<br />
これで火をつければまるでマッチ売りの少女のごとく、マッチの暖かい炎とともに<br />
レードルの煮込みハンバーグや甘辛カレーが現れるかもしれない。<br />
いや、まてよ。<br />
もっと多くのクミンとレードルの記憶を共有できないだろうか？<br />
そして小さなプロジェクトを思いついた。<br />
その小さなプロジェクトとは<br />
「リメインダーズ・オブ・ザ・レードル・サクセション（レードルの残り物の継承）」<br />
コードネーム「RLサクセション」である。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/rok090205_05.jpg" alt="" /></p>
	<p>まずは旧灘温泉の番台のリユースで実績のあるチンタのマスターに声をかけた。<br />
1月4日に畑原市場にあるチンタ宵酔食堂はチンタ本店としてリニューアルオープンした。<br />
本店があるのなら支店はどこなのか？などという無粋な詮索はここではやめておこう。<br />
店内のインテリアも、以前の立ち飲み風の高いカウンターからゆったりとくつろげる<br />
タイル張りのカウンターへ大きく変わった。<br />
このニューチンタのカウンターに、閉店したレードルの椅子が組み合わされた。<br />
そう、現在レードルの椅子は畑原市場にあるのだ。<br />
座ってみた。<br />
ああ、この感触。<br />
レードルの椅子だ。<br />
固くもなく柔らかくもなく。<br />
奇をてらう事なく、客を支えてきた<br />
永遠の六甲道の椅子が、今水道筋の酔客の体を支えている。<br />
ピカピカの六甲道では行き場を失った椅子を、水道筋は優しく迎え入れた。<br />
まるで前からここにあったかのように。<br />
チンタに様子を見に来たレードルのマスターがぽつりと言った。<br />
「面白い場所や、水道筋は」</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/rok090205_02.jpg" alt="" /></p>
	<p>もう一つ、レードルものが水道筋にある。<br />
チンタからほど近い畑原東商店街のスタンドモンク。<br />
この店のステンレス製の水差しもレードルから譲り受けたもの。<br />
あの特辛カレーにはかかせなかった水差しである。<br />
長い間の使用で年季の入った業務用の水差しが暗い店内で鈍い光を放つ。<br />
モンクのカウンターは旧灘温泉の番台のリユースだが、あらたに灘の老兵が加わったことになる。<br />
「長い間ご苦労でしたな」<br />
「いやいやおたくほどでもないですわ」<br />
カウンターと水差しの会話が聞こえてくるような気がした。</p>
	<p>歴史をムダにするのは実にもったいない。<br />
かつての記憶を今の街で生かしていくこと。<br />
ノスタルジックに浸るだけでなく、新たな物語を積み重ねていくこと。<br />
記憶のリサイクルと言ったら言い過ぎだろうか。<br />
こうしてレードルの記憶の一部は、水道筋で生き続ける事になった。<br />
そしてRLサクセションプロジェクトはまだまだ始まったばかり。<br />
モノだけではなく味も継承したい。<br />
そう、次はカレーだ。（続く）</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/attach/rok090205_03.jpg" alt="" />
</p>
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