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        <title>永遠の六甲道</title>
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        <description>永遠の六甲道</description>
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        <item>
            <title>六甲道番外地～富士映劇</title>
            <description>	六甲道から少し離れているが、前回、前々回と六甲道の映画館の話題が続いたので
ついでにここも紹介しちゃいます。
いや、「ついでに」なんていうと、きっとここで青春時代を過ごした諸先輩方から
怒られるかもしれないが。
	昔六甲道から2号線を…いや『阪神国道』を通り三宮へ向かう市バスが走っていた。
六甲道が終点になる前は現在親和女子がある旧神戸外大まで走っていたので
「外大前行き」と呼ばれていた市バス17系統。
このバスに良く乗った覚えがある。
六甲道駅南口を出たバスは八幡線を南に下り、桜口から2号線へ…いや『阪神国道』を西へ。
ここからは当時「銀バス」と呼ばれていた阪国バスと同じコースを進む。
旧県営烏帽子住宅を過ぎると右手にナダシンが見え、運転席後ろの「次止まります」
ランプが点き、やがて河原バス停に到着する。
	この河原のバス停の真ん前にあったのがご存知「富士映劇」。
バスが止まると「金曜土曜日祝日オールナイト」の看板とともに否が応でも
目に入るのがめくるめくピンク映画のポスター群だった。
『痴漢電車　車内で一発』『痴漢電車　前から後から』
など新東宝の痴漢電車シリーズが多かった記憶がある。
子ども心に「なんだかわかんないけど電車ってすげえ」と思った。
また子どもたちの間では「どうも阪神電車内の実話らしい」などといったまことしやかな
噂がかけめぐった。
ときおり映画館から出てくる客が見えた。
彼らは背中を丸め、ポケットに手をつっこみ、逃げるようにそそくさと立ち去った。
この映画館は、どう考えても「悪所」としか思えなかった。
母親などとバスに乗ったときは絶対に目をそらせた。
（とはいえチラ見していたが）
できれば河原のバス停に止まらないで欲しいとも思った。
（とはいえチラ見していたが）
このバス停にはえも言われぬ「影」があった。
末期はピンク館だった富士映劇だが、もともと神国キネマと呼ばれていた一般映画館
で、日活の渡り鳥シリーズや「シンドバッドの冒険」などの洋画もかかっていたそうだ。
また灘区内の映画館では珍しい2階席もあった。
	そんな富士映劇だが、神戸を離れているあいだに閉館していた。
現在はJAFの建物が建ち、すこぶる健全になった。
もう河原バス停でおりてもなにも恥ずかしくない。
恥ずかしくないのだが、なんか物足りない。
街に影が無くなった。
健康的で明るい場所ばかりでは街に深みが出ない。
つまり物足りない。
だからといって六甲道にストリップ劇場をつくれ、というわけではないのだが。
	話を神戸に広げてみる。
神戸はいつの間にかワクワクしないない街になってしまった。
港街特有の「影」と山の手の「明」、そしてそれをつなぐ中の手の「グレーゾーン」。
街のグラデーションや明度差が神戸の魅力だったと思う。
かつては南京町や高架下やメリケン波止場の「影」が神戸に妖しい艶を与えていたはず。
だからみんなそんな「コウベ」にワクワクしたんだと思う。
眩しいばかりの「ハイカラ・モダン」はコウベの「影」があったからこそ引き立ったんだと思う。
灘で言えば「富士映劇とその前を通過するみなとまつりの花電車のコントラスト」である。
今の神戸はコンビニの陳列棚のようで、街に影がない。
暗い外人バーはなくなり、24時間明るい宮本むなしが席巻する街。
ま、そんな「安全安心」な観光地はコンビニ世代には受けがいいのかもしれないが。
	富士映劇。
灘の街にとって大事なものを無くしたような気がする。
	富士映劇跡。
現在はJAFに。
市バスはなくなり、阪国バスも銀色ではなくなったが
バス停は今も変わらず。

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        </item>
        <item>
            <title>52日目　桜口の映画館、六甲映画劇場</title>
            <description>	前回のエントリー「六甲東映」に、多くの諸先輩方のコメントが寄せられた。
ありがとうございます。
	灘区から最後の映画館が消えて4年がたった。
先日第4期が開講した灘大学。
１回目の講座は「水道筋学」だったのだが、学生から当時の映画館のエピソード
に関する発言もいくつかあった。
灘クミンの中の映画館はまだ健在なのだ。
	僕にとって映画館は不思議な施設だった。
そんなに頻繁に行かなくとも、映画館が我が街にあるだけで、
自分の住んでいる街に、毎日カタカタと音を立ててまわる映写機があるだけで、
なんとなく安心だった。
それは毎日乗らずとも、摩耶山や六甲山で黙々と動き続けているケーブルカーや
ロープウェーに対する感情に近い。
そういった安心感は、それらを動かし続けている街の力強さ、いや街の余力から
来るものだったのかもしれない。
今の灘区は、むんむんとむせるような街の力強さは影を潜めた。
新しい街になって一見活気があるような六甲道でもそう思う。
いや、もう街の余力にたよる時代ではない。
ケーブルカーを動かしたいのなら、映画館が欲しいのなら、灘クミン自ら企画し運営する。
きっとそんなフェーズに入って来たのだと思う。
「昔は良かったね」だけではあまりにも寂しすぎる。
	さて、実は六甲道には六甲東映の他にもう一軒映画館があった。
大阪万博あたりまであったそうだが、これに関しては全く記憶がない。
場所は駅の南側、桜口交差点北、現在の灘区役所あたり。
ちょうど御旅所の南、三和銀行があった場所に「六甲映画劇場」があった。
昭和35年10月20日の神戸新聞朝刊に掲載された映画案内を見てみると、
このとき上映されていたのは
・白子屋駒子
・がめつい奴
・爆発娘罷り通る
東宝系の三本立て。
てことは、ゴジラとかもやっていたのだろうか？
	（S35.10.20神戸新聞朝刊映画案内）
	またここは「火事のあった映画館」として記憶している灘クミンも多い。
「六甲映画劇場な、小林旭の映画見てたら火事になってなぁ」
という証言もある。
ん？小林旭ってその当時日活では？
どうやら封切館ではなく二番館、三番館だったようである。
	とにかく、またまた諸先輩方の記憶にたよるしかない。
六甲映画劇場体験のある方。
またそのたたずまい等を覚えていらっしゃる方。
コメントよろしくお願いいたします。
	六甲映画劇場跡。現在はWeLv4番街1番館のビルがそびえる。
正面にあった八幡市場はパニエに。

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        </item>
        <item>
            <title>51日目　ええとこええとこ六甲東映</title>
            <description>	先月7月26日に水道筋商店街で「水道筋アーケード劇場」というイベント
が開催された。
「スクリーンがあった街・水道筋」を真夏の夜に復活させる、もう今年で
5回目か6回目かの水道筋の夏の定番イベントだ。
今年もお手伝いをさせていただいたのだが、なかなかの好企画だと思う。
アーケードに設置された巨大な特設スクリーンに映る「アンパンマン」を
食い入るように見つめる子どもたちを見ていると、ふと子どもの頃を思い
出した。
	今のような大画面TVもなく、まだ白黒TVも現役で、せいぜいキドカラー
やパナカラーの18型程度の、のぞき穴くらいの画面を「のぞいて」いた僕ら
にとっては映画館のスクリーンはあまりにも広大だった。
春休み、夏休み、冬休み前になると小学校前で、インチキくさい計算尺や
学研の勧誘、篠鉄砲売り、色付きひよこ売りなどに混じって「東映まんが
まつり」や「東宝チャンピオンまつり」などのいわゆる「まつり系映画」
の割引券が子どもたちに大量にばらまかれた。
それを握りしめて水道筋へ走った。
ゴジラ以外はほとんどTV番組を無理やり映画化したものだったが、それでも
大画面で見る仮面ライダーや、「ポニョ」の原型とも言われる宮崎アニメ
「パンダコパンダ」は迫力があった。
しかも「豪華6本立て！」みたいな、これでもかっ！て感じの怒濤のプログ
ラムだったのだが、母親が水道筋で買い物をしている間しか見ることができ
なかったので、たいてい半分くらいしか見ることができなかった記憶がある。
	そして、高校生くらいでまた映画館通いが始まるのだが、そのころになると
8軒ほどあった水道筋の映画館もほとんどが閉館していたので、三宮方面の
阪急文化や新聞会館にあったスカイシネマ、三劇、ビッグ、アサヒ（うーん
これも全部閉館だ）などに行った。
	で、灘区の映画館でも気になる映画館があった。
河原の「富士映劇」と、六甲道の「六甲東映」（やっと六甲道が出た）だった。
両方ともいわゆる「ピンク館」だったわけです。
当時の高校生的には美保純などのにっかつ系が人気だったので、独立系の富士や
六甲はどうしても敬遠され、なかなか足が向かなかった。
（正確にいうと、美保純はあまり見たくなかったのだが、当時その手の映画は
数名で見に行くのが常だったので、いつも多数決で負けたのだ）
	でも、六甲道の北にあった映画館「六甲東映」は僕の17才の地図にもしっかり
プロットされたいた。
ヌーベル六甲の貸しレコード屋でレコードを借り、六甲道の南天荘書店まで
おりる途中、六甲本通商店街から少し西に入ったところにひっそりとたたずん
でいた六甲東映（正式名称は六甲宮前映画劇場）。
今のスーパードライな六甲道ではなく、まだ六甲道らしい翳りと湿り気が残っ
ていた通りだったと思う。
東映と名がつくが東映とは無縁で「東映まんがまつり」ではなく「団鬼六緊縛
まつり」や「谷ナオミ（SM女王）まつり」などがかかり、「ピンクのカーテン」
などのアイドルポルノに辟易していた高校生には魅力的な小屋だった。
	がしかし、やはりハードルが高かった。
人目を気にしながら少し逡巡し、その場を立ち去るというのがいつものパターンだ。
	と、ここまで延々と書いたが、結局この「六甲道の映画館」には入れずじまい
だったのである。
あとは諸先輩方の六甲東映体験コメントに期待したいと思います。
よろしくお願いいたします。
	六甲東映跡。現在はマンションになっている。
周辺にも高層マンションが増えたが、アーケード手前のトタン屋根の家がかろうじて
昔の面影を残す。しかしもはや「六甲道の裏筋」の風情はない。

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        </item>
        <item>
            <title>50日目　日の出「と」もり家</title>
            <description>	
六甲道から南におり、阪神新在家にほど近いところにある灘区が誇るメガ食堂
「日の出もり家」。
昔なつかしのデパートの大食堂然とした店内風情と怒濤のメニュー群に圧倒
されたクミンも多いと思う。
寿司もあればうどんもある、そしてお好み焼き、そば焼、明石焼といった
鉄板焼きメニュー群。そして中華丼やラーメンまでも。
寿司と鉄板焼と中華丼ですぜ。
一見相反するメニュー群のダイナミックな並列、そして融合。
	太陽神戸、三菱東京UFJ、石川島播磨、コニカミノルタ、阪急阪神HD、
ヒデとロザンナ、じゅんとネネ、へドバとダビデ、爆風スランプetc…
最近ではgoogleとyahoo!など世にあふれる合併モノ。
しかし灘区的に合併といえば、やはり「日の出もり家」である。
ご存知の方も多いと思うが、もともとここは「日の出食堂」と「もり家」
という別々の店が合併してできた店である。
「もり家」はもともと六甲道駅の東の高架下、現在TSUTAYAのある
あたりにあったお好み焼き店。
かなりの人気店だったようだが震災で閉店。
震災後、もともと今の場所でやっていたご親戚の「日の出食堂」と
バロムクロス的に合併して再出発したのが「日の出もり家」。
さしづめ「日の出もり家HD（ホールディングス）」ってとこか？
その際、日の出の定食系メニューともり家の鉄板系メニューの統廃合を
行わなかったので、おそらく今のような怒濤のメニュー構成になったかと。
ともかく灘的には「華麗なる一族」を超える合併。
いや「華麗なるメニュー」か。
あ、もちろんカレーもあります。
	この店、メニューの豊富さに目を奪われがちだが、もちろんメシも美味い。
そのあたりに関しては世にゴマンといるグルメ系ブロガー（笑）の皆さんに
まかせるとして、やはり「永遠の六甲道」的には店内外の空気感を伝えたい。
今の六甲道で失われつつある空気感。
もう少し南の「ぐいぐい酒場樫本」に通じる居心地の良さ。
なんかこう、だだっ広いのにあったかい感じ。
広いと言ってもファミレスとは全く違う空気。
	先代の「もり家」からののれん？
メガ店舗に不釣り合いな小さなのれん。
たまりません。
	このイスから普通のイスに移行するのが大人への
第一歩だったかも。
	なんだか神戸港っぽい船の絵。新港突堤あたりだろうか？
なんだかキングジョーが現れそうな静けさ。
	そして、やっぱり一番ステキなのが大テーブル。
テーブル上にはマヨネーズ、ソース、そして生花に混じって焼酎の瓶などまで。
いい感じのカオス具合。
	&amp;nbsp;　&amp;nbsp;
	1つのテーブルを知らない人と共有するってのがいい。
つながってないんだけどつながってる雰囲気。
一人で行っても、みんながいるような一体感。
でも別に隣同士ベタベタするわけではなく、それぞれ勝手に飯を食ってる。
「ちんまりとしたカフェ」あるいは「だたっぴろいだけのファミレス」との違いは
この大テーブルの、つかず離れずの微妙な距離感がもたらすコモンスペース風情ではないかと。
そしてこのテーブルの状態こそが六甲道、いや灘区が目指すべき街の姿かもしれない…
大貝のそば焼で瓶ビールを飲りながら、ふとそんなことを考えてしまいました。
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        <item>
            <title>49日目　県営烏帽子団地</title>
            <description>	団地という言葉をすっかり聞かなくなった。
団地族、団地妻…高度経済成長期を代表する言葉だった団地。
システムキッチンやダストシュートなどの近未来ライフスタイルを
予感させる住宅設備は人々の羨望の的であったという。
団地は街でもある。
廊下はいわば立体路地であり、階段は子どもたちの格好の遊び場になった。
そこでの遊びは団地ルールなるローカルルールが存在し、それが団地外
に住む人間の目にはとても新鮮に映った。
敷地周辺や中庭には植栽が施されていた。
想定外に大きくなった樹木。
勝手に生える雑草。
鳥が運んでくる花の種。
住民たちが勝手に植えたのであろうネギなどの小野菜。
それらが渾然となって独特の庭世界が構築されていた。
いわゆる「団地ガーデン」である。
最近のマンションのような業者任せで画一的な、格好ばかりの
中庭などとは違ういきいきとした風景があった。
	六甲道南の桜口交差点の西、烏帽子中学の北にあるレトロな小団地
「県営烏帽子団地」がついに解体された。
建設されたのは昭和36年。
まだ国道2号には阪神国道電車がガタゴトと走り、八幡電停近くには
六甲映画館があった時代である。
震災も乗り越え間もなく四半世紀を迎えようとしていた烏帽子団地は
界隈でも独特の存在感を誇った。
2号線の排気ガスで黒くすすけたファサードはこの地で生きてきた
古老の肌のようであり、陰影のある階段室は、街に何かを語りかける口
のようであり、ひさしのついた窓はこの街を眺め続ける憂いのある瞳の
ように見えた。
モダンなライフスタイルを指向した現代建築が年を経て、有機的な表情を
見せているのは皮肉なものである。
	少しでも2号線との緩衝にと作られたのであろうか、ささやかな植込みが
設けられ、いろんな植物がいろんな風に育ち建物と一体化していた。
落ち葉の掃除が面倒くさいからと街路樹がバシバシと切られている
国道2号沿道では貴重な緑の景であり、鎮守の森とまではいかないが
摩耶や六甲の緑に呼応する「街の緑」であったと思う。
	建物の表情の経年変化や緑の風情を見ていると、この団地自らが
意思を持ちこの街にとけ込もうとしているように思えてならなかった。
はす向かいにある、いつまでもピカピカで自己主張の強すぎる
WeLvのファサードやイタリア広場とは対照的な態度である。
	県営烏帽子団地がなくなって六甲道の「しわ」がまた一つなくなった。
果たして六甲道に林立する集合住宅群は50年後どうなっているだろうか。
県営烏帽子団地のようにいい年の取り方ができるであろうか。
	残念なことがもう一つある。
烏帽子団地には毎年、春にきれいな桜が咲き
住民だけでなく国道のドライバーの目も楽しませてくれた。
桜がなくなった桜口では唯一の桜だったが、もう見ることはできない。
できれば養生されてこの地に戻ってきてくれることを願うばかりである。
	（撮影：2007年4月）

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        </item>
        <item>
            <title>48日目　大きな瓢箪の中で</title>
            <description>	最近すっかり大バコ居酒屋にいかなくなってしまいました。
なんせ、あのワイワイガヤガヤとした音圧が耐えられない。
	酔っぱらうにしたがってヒートアップするグループ客の嬌声。
「ここだけの話やで！…って…ねんて～！」
「え～？何て？聞こえへん！」
うるさくて成立しない会話。
	心臓に悪い爆笑。
「ドハッハッハッハ～～！！」
ユニゾンする爆発音のような笑い声。
	傍若無人な拍手。
「では3本締めで！ヨォ～ッ！」
頼むから、せめて1本締めにしてよ。
	すっかり生きる気力を吸い取られてしまうわけです。
もうね。疲れるんですよ。こういう場所。
	同じ大バコのうるささでも「心地よいうるささ」というのもあります。
先日大バコとしての使命を終えた六甲道を南に下った「ぐいぐい酒場樫本」は
まさにそういうハコでした。
心地よいざわめきというか、身を委ねていてもそんなにいやじゃない喧騒、
バラバラでありつつグルーブ感のあるノイズ。
	そして「許せるうるささ」というのもあります。
六甲道のネイティブ系大バコ「ふくべ」。
八幡線沿いの本店は昭和33年の開店なので六甲道で50年の老舗。
唯一「うるさくてもいい」いや「ずっとうるさくあって欲しい」
と思える大バコです。
	&amp;nbsp;　&amp;nbsp;
	逆にここで静かに飲めたら六甲道もいよいよ終わりではないかと思うわけです。
半世紀の「六甲道宴会DNA」が、この空間には凝縮されています。
新歓コンパ、忘年会に新年会、歓送迎会に同窓会。
さまざまな悲喜こもごものドラマが繰り広げられてきた大バコ。
それは六甲道の歴史でもあります。
	典型的なふくべ宴会の図です。
	いい風景です。
１グループなのに、それぞれがバラバラに盛り上がっています。
なにかこう、画面のそこここに小さな物語がありそうな。
そう、ここは街なのです。
爆笑、嗚咽、沈黙、酩酊
策略、謀略、脱線、沈没
目の前の八幡線は拡幅されようと、ここでは変わらない情景が
繰り広げられています。
	「ふくべ」というのは瓢箪の別名だそうです。
瓢箪から飛び出す、まさにめくるめくという表現がぴったりのメニュー群と
心地よい「うるささ」に包まれ、今宵も「永遠の六甲道な」夜が更けていきます。

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        </item>
        <item>
            <title>47日目　愛すべき喫茶店</title>
            <description>	「街の待ち話」３話目は喫茶店です。
街の「待ちスポット」といえば、やはり喫茶店を忘れるわけにはいきません。
あ、壁が白かったり、スタイリッシュなソファがあったり、ボサノバが
流れているような「カフェ」じゃないですよ。
もちろん１時間なんぼの「マン喫」でもありません。
純喫茶です、純喫茶。
有線が流れてて、珈琲１杯で何時間も粘れる。
ひまつぶしにテーブルの上にある卓上おみくじ機をひいてみたり、
永遠に水を飲み続ける「平和鳥」をぼんやり眺めたりできた店。
	でも、なんか数が減ったような気がしませんかね？
六甲道の喫茶店。
	北口：アイン、ブリンカップ、ひとみ、オルフェ、パーム、ホープ…
南口：ヒスイ、シャネル、ジュネ、ホリデー、わが町、ひで乃、山麓…
昭和49年ころに六甲道駅周辺にあった喫茶店名です。
今残っているのは「わが町」くらいでしょうか？
	以前紹介した「傾いた喫茶店」のマスター曰く
「最近は『喫茶』のお客さんがすっかり減った」
とのこと。なぜなら
「やっぱり携帯電話やね。どこかでじっと『待っている』必要がなくなったしね」
携帯電話がこの街から「待ち」を奪い去ったというわけです。
「あと、商談客がほとんどいなくなったな」
これもやはり、携帯電話やメールが普及したせいでしょうか。
	「それと…学生が全然来なくなった」
六甲道～六甲界隈は曲がりなりにも学生街。
学生たちは「街」にいたわけです。
「フォークのギターをひいて時の流れを見つめてる」マスターがいる
喫茶店（注1）で「訳もなくお茶を飲み話した」り（注2）、
「ぼくの街でもう一度だけ熱いコーヒー飲みませんか」（注3）
なんてこと言ってたわけです。
	『神戸青春街図』（プレイガイドジャーナル編著　1977）
	誰かを待ったり、あいた時間をぼんやりと道行く人を眺めながら過ごす。
そんなゆったりとした時間が街や人を熟成させる「麹菌」のような役割を担って
いたのかもしれません。
	そして今の六甲道。
駅前のセルフ系コーヒーショップチェーンで、携帯電話を覗き込みながら、
せっかちにメールチェックする人たち。
いつも前傾姿勢。前のめりの街。待てない街。
新しい街に生まれ変わった六甲道ですが、今後、街として熟成していくのに
必要なものは、かつての喫茶店にあった「麹菌のような時間」ではないかと
思う今日このごろであります。
	注1）『コーヒーショップで』：あべ静江
注2）『学生街の喫茶店』：ガロ
注3）『私鉄沿線』：野口五郎
	［参考］少し懐かしい六甲道界隈の喫茶店の点描
[naddist001110-72]喫茶Ｌの常連のひとびと【さら灘05】

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        </item>
        <item>
            <title>46日目　幸せな渋滞</title>
            <description>	前回に続きまして「開かずの踏切」です。
今回は渋滞中の様子。
おそらく現在のフォレスタ北東角あたりから南側を眺めた画です。
バスだらけ。なかなか壮観です。
当時はまだ六甲道駅南北とも駅前ロータリーがなかったので、乗り降りの際も
道路を占有していたのではないかと思われます。
当時の八幡線は両側にびっしりと店舗や住宅が並んでいました。
軒先で延々自動車に排気ガスを浴びせられるのですから沿道の皆さんは
さぞ大変だったことでしょう。
今は無き「外大前行」のバスも走っていた頃。
17系統でしたっけ？
そう、灘区に市立神戸外国語大学があった頃です。
「ガイダイ」という音の響きに不思議なカッコ良さを感じたものです。
	ともかく渋滞です。
渋滞は通常、ネガティブな事象としてとらえられます。
できれば排除したい。
人間として当たり前の欲求であります。
だから国鉄（JR）は高架になり、開かずの踏切は解消されたのでしょう。
でも当時は待てたのですね。今の灘クミンには無理かもしれませんがね。
	開かずの踏切がなくなって俄然六甲道周辺は便利になりました。
と同時に六甲道周辺にただよっていた「澱み」もなくなったような気もします。
もちろん地元としては悲願だったと思いますが。
その後ご存知のように六甲道は神戸の東の副都心としてまつり上げられて行きます。
自分の意のままにならないものを「待つ」ことができない人々によって、より「便利」に、
より「都合良く」せっかちにつくられていく街。
「まちづくり」などという麗句に隠された不遜な態度が街をつまらなくしていくような
気がしてなりません。
	開かずの踏切渋滞が解消された今、六甲道の少し南の国道43号あたりで
ちょこちょこと小渋滞が起きています。
旧ブリコ跡にできた某スーパーの駐車場へ入る車の渋滞です。
わずらわしくなく、待たずに買い物ができる便利なはずのスーパーで起こっている
皮肉な「待ち」の風景です。
	写真：『灘のうつりかわり』（灘区勢振興会）より

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        </item>
        <item>
            <title>45日目　待ちのある街</title>
            <description>	現代は「待てない」時代だそうです。
なんでもかんでも手っ取り早くすませたい。
待たされるとキレたりする。
	六甲道名物「開かずの踏切」がなくなって35年ほど経ちました。
その名の通り、人も車も延々待たされた踏切。
JRが高架化されてなくなって便利になったわけです。
	「でもな、開かずの踏切、ええこともあってんで」
と六甲道暦50余年のクミン。
「踏切が閉まっとうあいだ、好きな子とな、しゃべれるねん」
つまりですね。
淡い恋心を寄せていた女の子と過ごす踏切待ちの時間が楽しみだったらしいのですね。
声をかけて呼び止めるわけでもなく、自然と隣同士になれる。
お互い前を向いているので視線が交錯しない。
などの「踏切効果」により、自然なコミュニケーションが生まれる場であった
というわけです。
	で、この踏切、なかなか開かない。
メトロノームのようにリズムを刻む警報機にシンクロする胸の鼓動。
貨物列車がガタンゴトンゆっくり通り過ぎるのを待ちながら、ドキドキしながら
延々待つわけですね。
つまり延々しゃべり続けるわけです。
下手したら20分くらい。
「俺は踏切で会話テクを磨いたんや」
街のネガティブな面を逆に利用して自らをスキルアップさせる。
不便なものをあるがままに受け入れ、ポジティブに反転していく。
これぞ街達人です。
街で暮らす、学んでいくとはこういうことなんだろうなと。
その後も彼の「踏切トーク」は途切れることなく延々1時間続きました。
これでは、踏切で話しかけられた彼女も大変だったでしょう。
	待つことによって熟成されること。
待てた街。
街には「待ち」の要素がなければきっと熟成しない。
「春を待つ」ライブハウスや踏切が消えた六甲道を便利さのみが優先される
コクのない街にしないためには「待ち」が必要かと。
え？
みんな回転寿司屋の前で待ってるって？携帯メールしながら？
そこに「開かずの踏切待ち」のような豊かな時間はあるんですかね？
	写真：『灘のうつりかわり』（灘区勢振興会）より

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            <title>44日目　950118桜口</title>
            <description>	震災翌日の1995年1月18日の22：30。
当時住んでいた東京から持てるだけの救援物資を背負い込み、西宮北口から
歩くこと4時間。実家へ向かう道すがら、私は桜口の交差点にいました。
西宮、芦屋、そして神戸市内に入っても東灘区あたりではまるで人ごとのように
歩いていた身体に変化が表れたのは、石屋川を越えて桜口にさしかかるころ。
猛烈に涙が止まらない。
普通、涙がでるときは感情が伴うはずなのですが、不思議なことに悲しいとか、
悔しいとか、つらいとかまったく感じなかったように思います。
むしろ目にゴミが入って涙が止まらなくなるような、そんな感じに近かった
かもしれません。
	十数年振りに訪れた桜口交差点周辺には、漆黒の闇の中につんのめった亀の
ような「コトブキ」と、波に打ち上げられた鯨のような「八幡市場」が横た
わっていました。
それまで無機的であった灘区という街が、１つの大きな生命体に見えた瞬間
でもありました。奇しくも震災よって、今まで気づかなかった街の生命に
気づかされたのかもしれません。
その生命が目の前で息も絶え絶えに横たわっている。
建物一つ一つ、信号機１本、店の看板１つ、路傍の１握りの土塊まで愛おしい。
六甲道で生まれ育ったわけではないのになぜか狂おしく愛おしい。
メルマガ「naddist」や「ナダタマ」開設の原点となる風景が桜口にあった
といっても過言ではありません。
	今、巨大な六甲道南公園で遊ぶ子どもたちは震災を知らないだろうし、その
両親もこの街がどういう街だったか気にも留めていないように見えます。
この新しい街が、どういう街の上にできあがっているかをこの「永遠の六甲道」
で少しでも伝えられればいいなと。
ただし、単なるノスタルジックブログにはしたくないと思っています。
「懐かしいね」「昔は良かったね」では、震災前の六甲道が浮かばれないし、
今この街で暮らす新クミンの皆さんに対しても失礼です。
新しくて巨大で無機的な六甲道が「建物一つ一つ、信号機１本、店の看板１つ、
路傍の１握りの土塊まで愛おしい有機的な生命体」になりうるかどうかを
過去を参照しながら見いだし、見極め、伝えていくのが「永遠の六甲道」の
テーマだと思っています。
	今年もおつきあいの程、よろしくお願いいたします。
	震災によってこの街でなくなられた方のご冥福をお祈りいたします。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　合掌
	（写真：『ウェルブ竣工記念誌　We love We Live』より）

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            <link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress9/index.php?p=52</link>
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