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	<title>沖声灘語</title>
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	<description>沖声灘語</description>
	<language>ja</language>
	<copyright>Copyright 2010</copyright>
	<pubDate>Tue, 09 Jun 2026 05:56:55 +0000</pubDate>
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		<title>［報告］沖灘区訪問</title>
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		<pubDate>Sat, 24 Apr 2010 16:00:15 +0900</pubDate>
		<author>nada &lt;in&amp;#102;o&amp;#64;&amp;#110;&amp;#97;d&amp;#97;t&amp;#97;&amp;#109;a.&amp;#99;om&gt;</author>
		
	<category>カテゴリー1</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2010/04/24/post-144/</guid>
		<description>	
去る4月16日から19日まで、沖縄で行われる「清明祭（シーミー）」に
あわせて、7名の灘クミン使節団が沖灘本区を訪問した。清明祭は本土
のお盆にあたる行事で、この日は親族が集まり祖先の墓参りを行う。
沖縄の幹線道路では「清明渋滞」が起こるほどの一大行事だ。
	4月16日夜に沖灘本区に到着した一行は［かんから・カン］（沖灘本区
小禄）で催された歓迎レセプションに参加、沖灘区長との意見交換を
行った。沖灘区名物「豚のしっぽ」や銘酒「舞富灘」などが振る舞われ、
長峰中生が沖灘に修学旅行に来るようになった話題などに話が弾んだ。
	翌17日は沖灘中部の泡瀬干潟を視察。
泡瀬干潟は昨年水道筋で開催されたイベント「泡瀬の海を見てみよう」で
沖灘海人（うみんちゅ）の宮道成彦氏から報告があった豊かな自然が
残る広大な干潟だ。泡瀬干潟を守る連絡会の前川氏の案内でクビロミドロ
などの希少生物を観察した。
	泡瀬干潟を後にした一行は、本部半島へ向かった。
この時期、沖灘では潮に手足を浸して不浄を清め、健康を祈願して楽し
く遊ぶ「浜下り（ハマウイ）」という伝統行事がある。現在でも重箱を
持って家族で海へ遊びに行くピクニック行事として受け継がれている。
灘区ではこの日、思い思いの食べ物を持って摩耶山へ遊びに行く
「山上り（ムイアガリ）」行事であるリュックサックマーケットが開催
された。灘区は山へ、沖灘区は浜へ。身近な自然を大事にする両クミン
の心が通う行事が1000kmはなれた両区で同時に開催されたことは感慨深い。
灘区民たちは遠く摩耶山に思いを馳せながら、B瀬崎でモズク取りに
いそしみ沖灘のハマウイを楽しんだ。
	18日は本部半島から伊江島に渡り、灘区の「なだ桜まつり」の姉妹イベ
ントである「おきなだ百合まつり」を視察した。会場の伊江島リリー
フィールド公園には一面のユリの花が咲き誇り、灘クミンは沖灘名物の
「血イリチャー（豚の血炒め）」や「伊江島牛バーガー」に舌鼓を打った。
4日間の短い滞在であったが、両区の深い絆を確かめることができた有意義
な訪沖灘であった。（おもろまち恵憲）
	今回の沖灘で収穫した沖灘モズクは水道筋の沖灘料理店［通い船］で4月23、24日に
「もずく小鍋」（要予約）として、また伊江島名物のボイルジーマミ（落花生）は
4月25日に水道筋で開催される［水道筋ビートルズナイト］で供される。

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/oki100424_01.jpg" alt="もずく取り" /></p>
	<p>去る4月16日から19日まで、沖縄で行われる「清明祭（シーミー）」に<br />
あわせて、7名の灘クミン使節団が沖灘本区を訪問した。清明祭は本土<br />
のお盆にあたる行事で、この日は親族が集まり祖先の墓参りを行う。<br />
沖縄の幹線道路では「清明渋滞」が起こるほどの一大行事だ。</p>
	<p>4月16日夜に沖灘本区に到着した一行は<a href="http://kankara-kan.com/" target="top">［かんから・カン］</a>（沖灘本区<br />
小禄）で催された歓迎レセプションに参加、沖灘区長との意見交換を<br />
行った。沖灘区名物「豚のしっぽ」や銘酒「舞富灘」などが振る舞われ、<br />
長峰中生が沖灘に修学旅行に来るようになった話題などに話が弾んだ。</p>
	<p>翌17日は沖灘中部の泡瀬干潟を視察。<br />
泡瀬干潟は昨年水道筋で開催されたイベント<a href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2009/02/16/post-135/" target="top">「泡瀬の海を見てみよう」</a>で<br />
沖灘海人（うみんちゅ）の宮道成彦氏から報告があった豊かな自然が<br />
残る広大な干潟だ。泡瀬干潟を守る連絡会の前川氏の案内でクビロミドロ<br />
などの希少生物を観察した。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/oki100424_03.jpg" alt="泡瀬干潟" /></p>
	<p>泡瀬干潟を後にした一行は、本部半島へ向かった。<br />
この時期、沖灘では潮に手足を浸して不浄を清め、健康を祈願して楽し<br />
く遊ぶ「浜下り（ハマウイ）」という伝統行事がある。現在でも重箱を<br />
持って家族で海へ遊びに行くピクニック行事として受け継がれている。<br />
灘区ではこの日、思い思いの食べ物を持って摩耶山へ遊びに行く<br />
「山上り（ムイアガリ）」行事であるリュックサックマーケットが開催<br />
された。灘区は山へ、沖灘区は浜へ。身近な自然を大事にする両クミン<br />
の心が通う行事が1000kmはなれた両区で同時に開催されたことは感慨深い。<br />
灘区民たちは遠く摩耶山に思いを馳せながら、B瀬崎でモズク取りに<br />
いそしみ沖灘のハマウイを楽しんだ。</p>
	<p>18日は本部半島から伊江島に渡り、灘区の「なだ桜まつり」の姉妹イベ<br />
ントである「おきなだ百合まつり」を視察した。会場の伊江島リリー<br />
フィールド公園には一面のユリの花が咲き誇り、灘クミンは沖灘名物の<br />
「血イリチャー（豚の血炒め）」や「伊江島牛バーガー」に舌鼓を打った。<br />
4日間の短い滞在であったが、両区の深い絆を確かめることができた有意義<br />
な訪沖灘であった。（おもろまち恵憲）</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/oki100424_02.jpg" alt="ゆりまつり" /></p>
	<p>今回の沖灘で収穫した沖灘モズクは水道筋の沖灘料理店<a href="http://www.nadatama.com/modules/piCal2/index.php?smode=Monthly&#038;action=View&#038;event_id=0000002046&#038;caldate=2010-4-24" target="top">［通い船］</a>で4月23、24日に<br />
「もずく小鍋」（要予約）として、また伊江島名物のボイルジーマミ（落花生）は<br />
4月25日に水道筋で開催される<a href="http://www.nadatama.com/modules/piCal2/index.php?smode=Monthly&#038;action=View&#038;event_id=0000000922&#038;caldate=2010-4-25" target="top">［水道筋ビートルズナイト］</a>で供される。
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>沖灘区一行、センバツと都賀川花見を堪能</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2010/04/08/post-143/</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2010/04/08/post-143/#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 08 Apr 2010 17:52:31 +0900</pubDate>
		<author>utinadanchu &lt;&amp;#117;&amp;#116;i&amp;#110;ada&amp;#110;&amp;#99;hu&amp;#64;n&amp;#97;&amp;#100;&amp;#97;&amp;#116;&amp;#97;&amp;#109;&amp;#97;&amp;#46;&amp;#99;&amp;#111;m&gt;</author>
		
	<category>カテゴリー1</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2010/04/08/post-143/</guid>
		<description>	沖灘区にある興南高校が、ついにセンバツ優勝戦に進出した。
当日は沖灘区からチャーター便が飛び、本区の灘区民の人々や
沖灘区営飲食店「通い船」のお客さんとともに、甲子園の３塁側
アルプス席で声援を送った。
区民の大声援にこたえ、興南高校は見事に紫紺の優勝旗を手に
沖灘区に凱旋した。
	報徳・金村ＶＳ京商・井口の投げ合いのころからの沖灘高校野球
ファンという西域系灘区民、慈平さんは、
「あのころも興南高校はマイク仲田（その後阪神）や竹下（その後
大洋）といった好投手を擁して強かったが、決勝進出なんて夢の夢
だった。ほんまにようやった」
と満面のカザフスタンスマイルだった。
また、仕事で声援にいけなかった伊是名系灘区民、名嘉平さんは
「沖灘区から30年前に灘区に来たころは、豊見城が全盛期。
石嶺（その後阪急）や赤嶺（その後巨人）といったスターはいたが、
沖灘代表は悲壮感や同情の目で見られていた。
沖灘勢がこの10年で３回も優勝するなんて考えられない。
自分は将来沖灘区に帰ってうどん屋をするつもりだが、沖灘球児に
うまい灘のうどんを食べさせて、もっともっと強くなってほしい」
と感無量の様子だった。
	ところで、沖灘区の学校栄養士、西平家さんの乗ったチャーター機が
神戸空港に着陸できないというハプニングがあった。
西平家さんは沖灘勢としてセンバツ初出場・初勝利をあげた普天間高校
のＯＧであることから熱烈な沖灘高校野球ファンだが、彼女が甲子園に
来ると沖灘勢は必ず負けるというジンクスがあるため、沖灘区長が
神戸空港および同機に対し着陸許可を出さなかったためだ。
案の定、彼女が搭乗したという情報が入るや否や、相手校の日大三高に
先制の３点が入り、アルプス席は重苦しい空気に。
その後、着陸制限が功を奏して興南がいったんは逆転するなど試合は
もつれ、延長戦に入った。
興南が５点を上げた延長12回表、彼女が来てもさすがに逆転されること
はないだろうと区長は判断、着陸許可が出され無事に興南は優勝、
西平家さんも閉会式を見ることができた。
	　
	翌日、沖灘区民一行は都賀川で花見のもてなしを受けた。
一昨年の鉄砲水で亡くなった子供や若い人たちに思いを馳せながら、
地域の人たちが守る清流に遊んだ。
聞くところによると、子どもを亡くした親たちは、いつまでも区民を
癒す場であってほしいと、事故による行政措置でこの川が閉鎖される
ことがないよう申し入れたという。
	都賀川は、古くから沖灘民謡の練習のメッカだ。
かつて、川のほとりにある灘警察署で武骨な署長が、灘区を担当する
毎日新聞や神戸新聞の若い記者に
「悲惨な事件や事故の処理に追われるなかで、川から流れてくる沖灘
三線の音色にはとても心が癒される」
と語ったという。
この日も灘区民が三線や笛などを持ち寄り、桜の花びらと春風にのせ
謡い踊っていた。
	三線が絶滅危惧種に指定されるほど市民から遠い存在になりつつある
沖縄と違い、灘区では三線はとても元気だ。
一行は沖縄では決して味わうことができない、ぜいたくな川遊びを
堪能して沖灘区に帰った。
	沖灘区の区山「長嶺山」を背景に、清く美しい都賀川と桜
	　
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>沖灘区にある興南高校が、ついにセンバツ優勝戦に進出した。<br />
当日は沖灘区からチャーター便が飛び、本区の灘区民の人々や<br />
沖灘区営飲食店「通い船」のお客さんとともに、甲子園の３塁側<br />
アルプス席で声援を送った。<br />
区民の大声援にこたえ、興南高校は見事に紫紺の優勝旗を手に<br />
沖灘区に凱旋した。</p>
	<p>報徳・金村ＶＳ京商・井口の投げ合いのころからの沖灘高校野球<br />
ファンという西域系灘区民、慈平さんは、<br />
「あのころも興南高校はマイク仲田（その後阪神）や竹下（その後<br />
大洋）といった好投手を擁して強かったが、決勝進出なんて夢の夢<br />
だった。ほんまにようやった」<br />
と満面のカザフスタンスマイルだった。<br />
また、仕事で声援にいけなかった伊是名系灘区民、名嘉平さんは<br />
「沖灘区から30年前に灘区に来たころは、豊見城が全盛期。<br />
石嶺（その後阪急）や赤嶺（その後巨人）といったスターはいたが、<br />
沖灘代表は悲壮感や同情の目で見られていた。<br />
沖灘勢がこの10年で３回も優勝するなんて考えられない。<br />
自分は将来沖灘区に帰ってうどん屋をするつもりだが、沖灘球児に<br />
うまい灘のうどんを食べさせて、もっともっと強くなってほしい」<br />
と感無量の様子だった。</p>
	<p><object width="480" height="385"><br />
<param name="movie" value="http://www.youtube.com/v/CN92jS8YM5A&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;"></param>
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<param name="allowscriptaccess" value="always"></param><embed src="http://www.youtube.com/v/CN92jS8YM5A&#038;hl=ja_JP&#038;fs=1&#038;" type="application/x-shockwave-flash" allowscriptaccess="always" allowfullscreen="true" width="480" height="385"></embed></object></p>
	<p>ところで、沖灘区の学校栄養士、西平家さんの乗ったチャーター機が<br />
神戸空港に着陸できないというハプニングがあった。<br />
西平家さんは沖灘勢としてセンバツ初出場・初勝利をあげた普天間高校<br />
のＯＧであることから熱烈な沖灘高校野球ファンだが、彼女が甲子園に<br />
来ると沖灘勢は必ず負けるというジンクスがあるため、沖灘区長が<br />
神戸空港および同機に対し着陸許可を出さなかったためだ。<br />
案の定、彼女が搭乗したという情報が入るや否や、相手校の日大三高に<br />
先制の３点が入り、アルプス席は重苦しい空気に。<br />
その後、着陸制限が功を奏して興南がいったんは逆転するなど試合は<br />
もつれ、延長戦に入った。<br />
興南が５点を上げた延長12回表、彼女が来てもさすがに逆転されること<br />
はないだろうと区長は判断、着陸許可が出され無事に興南は優勝、<br />
西平家さんも閉会式を見ることができた。</p>
	<p>　</p>
	<p>翌日、沖灘区民一行は都賀川で花見のもてなしを受けた。<br />
一昨年の鉄砲水で亡くなった子供や若い人たちに思いを馳せながら、<br />
地域の人たちが守る清流に遊んだ。<br />
聞くところによると、子どもを亡くした親たちは、いつまでも区民を<br />
癒す場であってほしいと、事故による行政措置でこの川が閉鎖される<br />
ことがないよう申し入れたという。</p>
	<p>都賀川は、古くから沖灘民謡の練習のメッカだ。<br />
かつて、川のほとりにある灘警察署で武骨な署長が、灘区を担当する<br />
毎日新聞や神戸新聞の若い記者に<br />
「悲惨な事件や事故の処理に追われるなかで、川から流れてくる沖灘<br />
三線の音色にはとても心が癒される」<br />
と語ったという。<br />
この日も灘区民が三線や笛などを持ち寄り、桜の花びらと春風にのせ<br />
謡い踊っていた。</p>
	<p>三線が絶滅危惧種に指定されるほど市民から遠い存在になりつつある<br />
沖縄と違い、灘区では三線はとても元気だ。<br />
一行は沖縄では決して味わうことができない、ぜいたくな川遊びを<br />
堪能して沖灘区に帰った。</p>
	<p><font color="#008000">沖灘区の区山「長嶺山」を背景に、清く美しい都賀川と桜</font><br />
<img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/togagawahanami01.jpg" alt="" /><br />
　<br />
<img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/togagawahanami02.jpg" alt="" />
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>［レポート］117避難所シルモン＆コナモンセッション2010</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2010/01/28/1172010/</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2010/01/28/1172010/#comments</comments>
		<pubDate>Thu, 28 Jan 2010 00:32:06 +0900</pubDate>
		<author>utinadanchu &lt;ut&amp;#105;na&amp;#100;an&amp;#99;&amp;#104;u&amp;#64;&amp;#110;&amp;#97;d&amp;#97;t&amp;#97;&amp;#109;&amp;#97;&amp;#46;&amp;#99;&amp;#111;&amp;#109;&gt;</author>
		
	<category>カテゴリー1</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2010/01/28/1172010/</guid>
		<description>	一方、ここ沖灘区では１月１７日、沖灘大や琉球大学沖灘学部、
沖灘キリスト学院大学など区内の学生たち30人が地元商店の人たちと
一緒に「マチグヮー」（商店街地域をあらわす沖灘方言）を歩き、
防災や災害時の避難について考えた。
沖灘大福祉学科から車イスや視覚障がい者用の杖を借り、障がい者、
健常者、観光客の視点で沖灘通り商店街、第一沖灘公設市場といった
沖灘区を代表する商店街区を歩いた。
	スタート地点であるホテル沖灘荘の一角に阪神淡路大震災時の
六甲小学校避難所を再現し、
「1・17避難所シルモン＆コナモンセッション in ナハ from ナダ」
を開催した。水・電気・都市ガスなしという状況で、災害発生時を
イメージしている。
	午前１０時、模擬避難所で炊き出し講座がスタート。
沖灘区学校給食センター管理栄養士の西平家夏子さん、那覇駄高校の
斜め向かいにあるお好み焼き店主で沖須磨区民の伊計田孝之さんが
アドバイスを行った。
	まず豚汁炊き出し指導で、１月１７日前後に沖灘区内の学校給食で
避難所での食を再現・提供する活動を行う西平家さんから、食材の
刻み方などを教わった。
肉をマチグヮーで買った時、「何に使うの？」と聞かれ今回の趣旨を
話したところ、「それならおまけしてあげる～」と１・５倍くらいに
してくれたとか。
	調理器具は、イスやブロックなどそこにあるものを利用。
左はFM－OKINADAで放送するため取材・収録中の沖灘大生リポーター、
チコタン。
	阪神淡路大震災時と同じく、食器洗いしなくてよいよう食器を
ラップで包んだ。
	沖須磨区民のお好み焼き店主、伊計田さんの指導でお好み焼きの
生地づくりの指導が行われた。
鉄板がないので広東鍋で代用した。
	１３時から、マチグヮー歩きの作戦会議。
	マチグヮー歩きは、まず浮島通りコースからスタート。
 商店街「サンライズ沖灘」を横断。車の往来が激しいうえ、
歩道の手前で自販機の入れ替えをする大きな車が妨げになり、
歩道に進めない。
視覚障害者の擬似体験を行っているのは、浮島通り会会長。
	ただでさえ狭い歩道にも障害物が多数あり、車イスや視覚障害者には
極めて厳しい状況だ。車の往来が激しく、立ち止まってチェックする
ことのもできないほど。
	平和通り商店街コースもスタート。
第一牧志公設市場の粟国さんが、状況をガイドする。
	沖須磨区のお好み焼き指導者・池田さんも、震災時の被災者ルックで
当時の状況を元に情報提供した。
	第一牧志公設市場に向け、左折するポイントで防災・バリアチェック。
通い船で沖縄と灘を漂流する区民にはおなじみの場所かも。
	市場本通りを横切る手前、水上店舗あたり。炊き出し指導をした
西平家夏子さんの祖母がかつてここにあった生地店をやっていて、
西平家さんも小学生時代に店番をしていたそうだ。
車イス体験をしているのは、ミス琉大沖灘学部の灘玉元リーサさん。
店のおばちゃんが声をかけられ、笑顔を見せる。
	このあたりはいつも点字に沿ってバイクが駐車されており、問題箇所だ。
除けてもらった。
	点字の上の植栽。あっちこっちがこういう状況になっている。
	40分ほどかけて、ゴールの「まちつな資料館」（牧志公設市場奥、
にぎわい広場）に到着。
沖灘区が主催する資料展「阪神淡路大震災15年　避難とボランティア」
に見入る参加者。灘区にある神戸大学の資料や避難所での経験を元に
制作したパネルを展示している。
震災時に沖灘区にあったプロ野球団「OKIX Blue Wave」で「がんばろう
ＮＡＤＡ」のワッペンをつけて大活躍し、沖灘区民の熱狂的支持を得た
外国人主力打者、Ｎ・Ｄ選手のレプリカユニフォームも飾っている。
なお、Ｎ・Ｄ選手は球界初のイニシャル名登録された選手だ（背番号24）。
	震災のときの灘区民の経験から、
「ひとりでも多く、ご近所の命を救うために
　ひとつでも災害救助ツールの常備を」
と、沖灘区民はかならず自宅に常備している災害救助ツールも
展示している。
	沖東灘区からこの日のために送られた「はるかのひまわり」も配られた。
１月１７日早朝に神戸・東遊園地で行われる「１・１７希望の灯り」で
配られるものと同じものだ。
モデルはミス沖灘国際大学の灘玉城エリカさん。
	まちつな資料館のテラスで、マチグヮー歩きのふりかえり。
予想以上に人数が多かったので、チェックしたことをマップにプロット
するのは別の機会にし、ふりかえりと情報共有を中心に進めた。
マップへの落とし込みやマチグヮー、大学での発信、そして沖灘から
沖縄への発信もこれから考えて行こうということになった。
	このあと「模擬六甲小学校避難所」に戻り、一日を振り返りつつ、
午前の炊き出し指導で習ったお好み焼きを沖灘大生たちが実演した。
沖灘区旗のもと、静かなランタンの灯りの中で一緒にいただいた。
	沖灘区の区旗。３つの星の意味はさまざまな説があり、
「沖縄にいる灘人のマブイ」
「灘にいる沖縄人のマブイ」
「通い船で沖縄と灘をトランスポートする漂白民族のマブイ」
を現し、沖灘人のアイデンティティーのしるしであるという説が
有力だ。
他に、壇の浦の戦いで滅んだとされる神戸ゆかりの平家一門のうち、
航海術を生かして海を渡り琉球に血を残したとされる平資盛、有盛、
行盛のマブイをあらわすという説もある。
平資盛、有盛、行盛の子孫は各島に平家部落をなし、沖灘民族の祖
とされる。
	また、沖灘民族は３文字姓が多いのは、３つ星に敬意を表するため
といわれる。
（伊計田、西平家、灘玉元、灘玉城、上洲見、名嘉川、與次川、
荷伊志、嘉味井、眞安見など）
	八重山の「アカマター・クロマター」に並ぶ秘密神事とされ、摩耶山の
密教行事に倣った秘密儀礼のため、地元の琉球新灘、沖灘タイムスの
区内各新聞社以外には厳しい報道規制を行っていた。
しかし、極秘裏に企画会議を行ったお好み焼き・たこ焼き店「小河」で、
たまたま居合わせた琉球新報と沖縄タイムスの記者に機密が漏洩し、
両紙の那覇版トップ記事としてスクープされた。
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>一方、ここ沖灘区では１月１７日、沖灘大や琉球大学沖灘学部、<br />
沖灘キリスト学院大学など区内の学生たち30人が地元商店の人たちと<br />
一緒に「マチグヮー」（商店街地域をあらわす沖灘方言）を歩き、<br />
防災や災害時の避難について考えた。<br />
沖灘大福祉学科から車イスや視覚障がい者用の杖を借り、障がい者、<br />
健常者、観光客の視点で沖灘通り商店街、第一沖灘公設市場といった<br />
沖灘区を代表する商店街区を歩いた。</p>
	<p><a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/setuei.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-setuei.jpg" alt="" /></a><br />
スタート地点であるホテル沖灘荘の一角に阪神淡路大震災時の<br />
六甲小学校避難所を再現し、<br />
「1・17避難所シルモン＆コナモンセッション in ナハ from ナダ」<br />
を開催した。水・電気・都市ガスなしという状況で、災害発生時を<br />
イメージしている。</p>
	<p>午前１０時、模擬避難所で炊き出し講座がスタート。<br />
沖灘区学校給食センター管理栄養士の西平家夏子さん、那覇駄高校の<br />
斜め向かいにあるお好み焼き店主で沖須磨区民の伊計田孝之さんが<br />
アドバイスを行った。</p>
	<p>まず豚汁炊き出し指導で、１月１７日前後に沖灘区内の学校給食で<br />
避難所での食を再現・提供する活動を行う西平家さんから、食材の<br />
刻み方などを教わった。<br />
肉をマチグヮーで買った時、「何に使うの？」と聞かれ今回の趣旨を<br />
話したところ、「それならおまけしてあげる～」と１・５倍くらいに<br />
してくれたとか。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/tonjiru01.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-tonjiru01.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>調理器具は、イスやブロックなどそこにあるものを利用。<br />
左はFM－OKINADAで放送するため取材・収録中の沖灘大生リポーター、<br />
チコタン。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/tonjiru02.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-tonjiru02.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>阪神淡路大震災時と同じく、食器洗いしなくてよいよう食器を<br />
ラップで包んだ。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/syokki.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-syokki.jpg" alt="" /></a><br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/tonjiru03.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-tonjiru03.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>沖須磨区民のお好み焼き店主、伊計田さんの指導でお好み焼きの<br />
生地づくりの指導が行われた。<br />
鉄板がないので広東鍋で代用した。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/okonomi01.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-okonomi01.jpg" alt="" /></a><br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/okonomi02.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-okonomi02.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>１３時から、マチグヮー歩きの作戦会議。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/sakusen.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-sakusen.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>マチグヮー歩きは、まず浮島通りコースからスタート。<br />
 商店街「サンライズ沖灘」を横断。車の往来が激しいうえ、<br />
歩道の手前で自販機の入れ替えをする大きな車が妨げになり、<br />
歩道に進めない。<br />
視覚障害者の擬似体験を行っているのは、浮島通り会会長。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/ukisima01.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-ukisima01.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>ただでさえ狭い歩道にも障害物が多数あり、車イスや視覚障害者には<br />
極めて厳しい状況だ。車の往来が激しく、立ち止まってチェックする<br />
ことのもできないほど。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/ukisima02.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-ukisima02.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>平和通り商店街コースもスタート。<br />
第一牧志公設市場の粟国さんが、状況をガイドする。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/heiwa01.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-heiwa01.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>沖須磨区のお好み焼き指導者・池田さんも、震災時の被災者ルックで<br />
当時の状況を元に情報提供した。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/heiwa02.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-heiwa02.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>第一牧志公設市場に向け、左折するポイントで防災・バリアチェック。<br />
通い船で沖縄と灘を漂流する区民にはおなじみの場所かも。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/heiwa03.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-heiwa03.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>市場本通りを横切る手前、水上店舗あたり。炊き出し指導をした<br />
西平家夏子さんの祖母がかつてここにあった生地店をやっていて、<br />
西平家さんも小学生時代に店番をしていたそうだ。<br />
車イス体験をしているのは、ミス琉大沖灘学部の灘玉元リーサさん。<br />
店のおばちゃんが声をかけられ、笑顔を見せる。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/heiwa04.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-heiwa04.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>このあたりはいつも点字に沿ってバイクが駐車されており、問題箇所だ。<br />
除けてもらった。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/heiwa05.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-heiwa05.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>点字の上の植栽。あっちこっちがこういう状況になっている。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/heiwa06.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-heiwa06.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>40分ほどかけて、ゴールの「まちつな資料館」（牧志公設市場奥、<br />
にぎわい広場）に到着。<br />
沖灘区が主催する資料展「阪神淡路大震災15年　避難とボランティア」<br />
に見入る参加者。灘区にある神戸大学の資料や避難所での経験を元に<br />
制作したパネルを展示している。<br />
震災時に沖灘区にあったプロ野球団「OKIX Blue Wave」で「がんばろう<br />
ＮＡＤＡ」のワッペンをつけて大活躍し、沖灘区民の熱狂的支持を得た<br />
外国人主力打者、Ｎ・Ｄ選手のレプリカユニフォームも飾っている。<br />
なお、Ｎ・Ｄ選手は球界初のイニシャル名登録された選手だ（背番号24）。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/tenjiorix01.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-tenjiorix01.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>震災のときの灘区民の経験から、<br />
「ひとりでも多く、ご近所の命を救うために<br />
　ひとつでも災害救助ツールの常備を」<br />
と、沖灘区民はかならず自宅に常備している災害救助ツールも<br />
展示している。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/tenji02.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-tenji02.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>沖東灘区からこの日のために送られた「はるかのひまわり」も配られた。<br />
１月１７日早朝に神戸・東遊園地で行われる「１・１７希望の灯り」で<br />
配られるものと同じものだ。<br />
モデルはミス沖灘国際大学の灘玉城エリカさん。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/himawari.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-himawari.jpg" alt="" /></a><br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/himawari02.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-himawari02.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>まちつな資料館のテラスで、マチグヮー歩きのふりかえり。<br />
予想以上に人数が多かったので、チェックしたことをマップにプロット<br />
するのは別の機会にし、ふりかえりと情報共有を中心に進めた。<br />
マップへの落とし込みやマチグヮー、大学での発信、そして沖灘から<br />
沖縄への発信もこれから考えて行こうということになった。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/wark01.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-wark01.jpg" alt="" /></a><br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/wark02_01.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-wark02_01.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>このあと「模擬六甲小学校避難所」に戻り、一日を振り返りつつ、<br />
午前の炊き出し指導で習ったお好み焼きを沖灘大生たちが実演した。<br />
沖灘区旗のもと、静かなランタンの灯りの中で一緒にいただいた。<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/jituen.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-jituen.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>沖灘区の区旗。３つの星の意味はさまざまな説があり、<br />
「沖縄にいる灘人のマブイ」<br />
「灘にいる沖縄人のマブイ」<br />
「通い船で沖縄と灘をトランスポートする漂白民族のマブイ」<br />
を現し、沖灘人のアイデンティティーのしるしであるという説が<br />
有力だ。<br />
他に、壇の浦の戦いで滅んだとされる神戸ゆかりの平家一門のうち、<br />
航海術を生かして海を渡り琉球に血を残したとされる平資盛、有盛、<br />
行盛のマブイをあらわすという説もある。<br />
平資盛、有盛、行盛の子孫は各島に平家部落をなし、沖灘民族の祖<br />
とされる。</p>
	<p>また、沖灘民族は３文字姓が多いのは、３つ星に敬意を表するため<br />
といわれる。<br />
（伊計田、西平家、灘玉元、灘玉城、上洲見、名嘉川、與次川、<br />
荷伊志、嘉味井、眞安見など）<br />
<a style="margin: 0 10px 0 0;" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/okinadakuki.jpg"><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-okinadakuki.jpg" alt="" /></a></p>
	<p>八重山の「アカマター・クロマター」に並ぶ秘密神事とされ、摩耶山の<br />
密教行事に倣った秘密儀礼のため、地元の琉球新灘、沖灘タイムスの<br />
区内各新聞社以外には厳しい報道規制を行っていた。<br />
しかし、極秘裏に企画会議を行ったお好み焼き・たこ焼き店「小河」で、<br />
たまたま居合わせた琉球新報と沖縄タイムスの記者に機密が漏洩し、<br />
両紙の那覇版トップ記事としてスクープされた。<br />
<img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/simpo.jpg" alt="" />
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>［レポート］満月の夕　117避難所セッション2010</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2010/01/18/1172010/</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2010/01/18/1172010/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 18 Jan 2010 17:30:08 +0900</pubDate>
		<author>nada &lt;&amp;#105;&amp;#110;&amp;#102;&amp;#111;&amp;#64;n&amp;#97;d&amp;#97;t&amp;#97;m&amp;#97;.&amp;#99;o&amp;#109;&gt;</author>
		
	<category>カテゴリー1</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2010/01/18/1172010/</guid>
		<description>	
水道筋の路地に歌があふれた。
今年で3回目を迎えた「満月の夕　117避難所セッション in ナダ from ナハ」は、
沖灘区でも最も重要なイベントの1つである。
今年は沖縄の本区でもイベントがあるため、沖灘区長の来灘はかなわなかったが
「がんばってね～」とエールが届いた。
	午後5時開場。
沖灘区民ホール「通い船の間」には多くの在灘沖灘区民（ウチナダンチュ）が集まった。
定員7名のホールは立錐の余地もない。
会場に入れなかったクミンは、総務課が路地に用意したストーブで暖をとった。
参加者には避難所食の豚汁とおにぎりが配給された。
沖灘区民ホール自慢のオーロラビジョン「ちゅらビジョン」には15年前のNHK
ニュースが流され、壁には日本経済新聞の号外が貼られた。
そして、今回のイベントはNTV（ナダタマテレビ）によって全世界にライブ放映された。
	5時30分。
2階の楽屋でぎりぎりまで練習を重ねていた沖灘区フィルハーモニー楽団
（通称へなちょこ三線同好会）のメンバーもスタンバイOKだ。
午後5時46分、沖灘区しまづくり推進課長の発声で黙祷が捧げられた後、
ゆっくりと区歌「満月の夕」のイントロが始る。
	　風が吹く　港の方から　焼け跡を包むようにおどす風
　悲しくてすべてを笑う　乾く冬の夕
	三線、一五一会、太鼓、ピアニカ、ウクレレ、ギター、そして歌声、手拍子。
バラバラの個性が、それぞれに干渉し合いながら1つになった。
細い路地を行く人が足を止め、演奏に耳を傾けた。
「そうか、今日は特別な日なんや…」
たまたま通りがかった、大阪から来灘中の観光客もいつしか輪に入っていた。
	「震災の時、こんな雰囲気の飲み屋がたくさんありましたよね」
と、徳島から帰灘中の灘クミン氏。
そう、灘区内でも街のあちこちに見られた「あの」光景だ。
極度の悲しみの中、空き地や公園や自宅の軒先に、コンテナや廃材、ビニールシートでつくられた
即席の酒場で、人々は傷ついた心をいやした。
	区歌の合唱に続いて「つる」などの沖灘民謡や、八重山民謡「月ぬかいしゃ」などが
奉納された。
そして陽気なイントロとともに「おとんじまんのプリンセスソース」が始まった。
	　「なだ」とつくものなんでも好きで
　酒に市場にそうそうまで
　コロッケ買いにどこ行くの？
　ドイかミズノかフジノまで
	「チコンキーナガミネ」と呼ばれた、長峰中学校卒業の長嶺暁氏の作詞による沖灘区最大の
ヒットソングで、沖灘自慢の様々なアイテムが歌詞内にちりばめられている。
	　串かつかざして高々と
　ソースに託した灘ッ子の
　夢があるからおいしいねん
　おとん自慢のプリンセスソース
　おかん自慢のケンコーマヨネーズ
	沖灘区民は悲しい時も嬉しい時もこの曲で乾杯する。
この日は本区から献上された島酒と、沖灘区民ホール内「灘味街」の
よしみ亭店主から灘酒、大黒正宗が振る舞われた。
	　震災復興迎えた頃は
　みんなおんなじ夢を見た
　灘は昔のままでいい
　灘の未来に　ほな乾杯！
	午後7時。最後にもう一度心を合わせて「満月の夕」を歌ってイベントは終了した。
震災後に節目はない。
16年目も17年目もこのイベントは沖灘区民によって開催されつづけることだろう。
	　　ヤサホーヤ　焚き火を囲む　吐く息の白さが踊る
　　解き放て　いのちで笑え　満月の夕
	「おとん自慢のプリンセスソース」はこちらで試聴できます。
http://www.voiceblog.jp/radio_nada/282135.html

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/oki100118_01.jpg" alt="" /></p>
	<p>水道筋の路地に歌があふれた。<br />
今年で3回目を迎えた<a href="http://www.nadatama.com/modules/piCal/index.php?smode=Monthly&#038;action=View&#038;event_id=0000000853&#038;caldate=2010-1-17" target="top">「満月の夕　117避難所セッション in ナダ from ナハ」</a>は、<br />
沖灘区でも最も重要なイベントの1つである。<br />
今年は沖縄の本区でもイベントがあるため、沖灘区長の来灘はかなわなかったが<br />
「がんばってね～」とエールが届いた。</p>
	<p>午後5時開場。<br />
沖灘区民ホール「通い船の間」には多くの在灘沖灘区民（ウチナダンチュ）が集まった。<br />
定員7名のホールは立錐の余地もない。<br />
会場に入れなかったクミンは、総務課が路地に用意したストーブで暖をとった。<br />
参加者には避難所食の豚汁とおにぎりが配給された。<br />
沖灘区民ホール自慢のオーロラビジョン「ちゅらビジョン」には15年前のNHK<br />
ニュースが流され、壁には日本経済新聞の号外が貼られた。<br />
そして、今回のイベントは<a href="http://www.ustream.tv/channel/nadatama<br />
" target="top">NTV（ナダタマテレビ）</a>によって全世界にライブ放映された。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/oki100118_02.jpg" alt="" /></p>
	<p>5時30分。<br />
2階の楽屋でぎりぎりまで練習を重ねていた沖灘区フィルハーモニー楽団<br />
（通称へなちょこ三線同好会）のメンバーもスタンバイOKだ。<br />
午後5時46分、沖灘区しまづくり推進課長の発声で黙祷が捧げられた後、<br />
ゆっくりと区歌「満月の夕」のイントロが始る。</p>
	<p>　風が吹く　港の方から　焼け跡を包むようにおどす風<br />
　悲しくてすべてを笑う　乾く冬の夕</p>
	<p>三線、一五一会、太鼓、ピアニカ、ウクレレ、ギター、そして歌声、手拍子。<br />
バラバラの個性が、それぞれに干渉し合いながら1つになった。<br />
細い路地を行く人が足を止め、演奏に耳を傾けた。<br />
「そうか、今日は特別な日なんや…」<br />
たまたま通りがかった、大阪から来灘中の観光客もいつしか輪に入っていた。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/oki100118_03.jpg" alt="" /></p>
	<p>「震災の時、こんな雰囲気の飲み屋がたくさんありましたよね」<br />
と、徳島から帰灘中の灘クミン氏。<br />
そう、灘区内でも街のあちこちに見られた「あの」光景だ。<br />
極度の悲しみの中、空き地や公園や自宅の軒先に、コンテナや廃材、ビニールシートでつくられた<br />
即席の酒場で、人々は傷ついた心をいやした。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/oki100118_05.jpg" alt="" /></p>
	<p>区歌の合唱に続いて「つる」などの沖灘民謡や、八重山民謡「月ぬかいしゃ」などが<br />
奉納された。<br />
そして陽気なイントロとともに「おとんじまんのプリンセスソース」が始まった。</p>
	<p>　「なだ」とつくものなんでも好きで<br />
　酒に市場にそうそうまで<br />
　コロッケ買いにどこ行くの？<br />
　ドイかミズノかフジノまで</p>
	<p>「チコンキーナガミネ」と呼ばれた、長峰中学校卒業の長嶺暁氏の作詞による沖灘区最大の<br />
ヒットソングで、沖灘自慢の様々なアイテムが歌詞内にちりばめられている。</p>
	<p>　串かつかざして高々と<br />
　ソースに託した灘ッ子の<br />
　夢があるからおいしいねん<br />
　おとん自慢のプリンセスソース<br />
　おかん自慢のケンコーマヨネーズ</p>
	<p>沖灘区民は悲しい時も嬉しい時もこの曲で乾杯する。<br />
この日は本区から献上された島酒と、沖灘区民ホール内「灘味街」の<br />
<a href="http://www.nadatama.com/modules/myalbum/photo.php?lid=290&#038;cid=2<br />
" target="top">よしみ亭</a>店主から灘酒、大黒正宗が振る舞われた。</p>
	<p>　震災復興迎えた頃は<br />
　みんなおんなじ夢を見た<br />
　灘は昔のままでいい<br />
　灘の未来に　ほな乾杯！</p>
	<p>午後7時。最後にもう一度心を合わせて「満月の夕」を歌ってイベントは終了した。<br />
震災後に節目はない。<br />
16年目も17年目もこのイベントは沖灘区民によって開催されつづけることだろう。</p>
	<p>　　ヤサホーヤ　焚き火を囲む　吐く息の白さが踊る<br />
　　解き放て　いのちで笑え　満月の夕</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/oki100118_04.jpg" alt="" /></p>
	<p>「おとん自慢のプリンセスソース」はこちらで試聴できます。<br />
http://www.voiceblog.jp/radio_nada/282135.html
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>沖声灘語が見る、仮面ライダー神戸版</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2009/07/17/post-137/</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2009/07/17/post-137/#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 17 Jul 2009 02:48:12 +0900</pubDate>
		<author>utinadanchu &lt;u&amp;#116;&amp;#105;n&amp;#97;&amp;#100;a&amp;#110;c&amp;#104;u&amp;#64;n&amp;#97;&amp;#100;at&amp;#97;&amp;#109;&amp;#97;.&amp;#99;o&amp;#109;&gt;</author>
		
	<category>カテゴリー1</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2009/07/17/post-137/</guid>
		<description>	▼ ６月初旬、ウエブ内の沖灘映像をパトロール中、「人造人間キカイダー神戸版」「仮面ライダー神戸版」という極めて不審な映像を発見、ナダタマに通告し現場の特捜を依頼した。いったい、いつ、誰が、どのような目的でこの映像を制作したのか。彼らの狙いは何なのか。ナダタマ灘文化堂の捜査で、撮影の場所までは解明されつつある。この間、沖声灘語でも手をこまねいていたわけではない。映像に出てくる灘区内の情景がどこなのかを賢明に思い出そうとしたのだが・・・。神戸・灘を離れ沖縄に来て幾星霜。生まれ育った場所の、記憶にある風景には違いないのだが、どこなのかわからないのがもどかしい。
	▼ 刑事たちが暗室でビデオを食い入るように眺め、「そこ、止めて」とかいいながら犯行現場についてとやかくいいあう刑事ドラマのように細かく映像を分析したが、残念ながら自分の記憶では灘区内と思われる場所は特定できなかった。ただ、灘文化堂の取材に答えたとおり、撮影された時代は「蒔ちゃん」という役柄で登場する女性の髪型から1987～1991年と考えられる。上下そろいのニットの膝丈キュロットスカートに「ストレートのロング+とさか前髪+ハイヒール」は、1987～88年が全盛だ。相方の男性の髪型が80年代前半のテクノカットの名残で、耳の上で平行に近い角度で切りそろえられていることも考えあわせると、87～88年で間違いない。おそらく、映像に出てくる彼らはいま40代の半ばにさしかかろうとしているであろう。
	▼ しかし、沖声灘語として最も問題なのは、「仮面ライダー神戸版」のエンディングのクレジットに「伊波」「金城」「兼本」の３人の沖縄姓が登場することである。ここで沖声灘語は、ウルトラセブン「ウルトラ警備隊西へ」で、神戸港でのキングジョーとセブンの死闘を演出した、あるいは六甲山中にウ警備隊の国際組織を想定し表六甲ドライブウエーにポインターを走らせた、沖縄出身で不世出のウルトラ脚本家金城哲夫（故人）を頭の片隅に思い起こさずにはいられない。「神戸版」が、シリアスではなくただのアマチュアによるパロディであることを承知しても。いや、考えようによっては、この作品のフレームとフレームの間にはとてつもないシリアスな背景があるようにも思える。
	▼ いまだ姿を現さない彼ら。しかし、沖声灘語はついに、極めて短いが接触に成功した。彼らのコメントは「次回作も編集中。乞うご期待」だった。
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p>▼ ６月初旬、ウエブ内の沖灘映像をパトロール中、「人造人間キカイダー神戸版」「仮面ライダー神戸版」という極めて不審な映像を発見、ナダタマに通告し現場の特捜を依頼した。いったい、いつ、誰が、どのような目的でこの映像を制作したのか。彼らの狙いは何なのか。ナダタマ灘文化堂の捜査で、撮影の場所までは解明されつつある。この間、沖声灘語でも手をこまねいていたわけではない。映像に出てくる灘区内の情景がどこなのかを賢明に思い出そうとしたのだが・・・。神戸・灘を離れ沖縄に来て幾星霜。生まれ育った場所の、記憶にある風景には違いないのだが、どこなのかわからないのがもどかしい。</p>
	<p>▼ 刑事たちが暗室でビデオを食い入るように眺め、「そこ、止めて」とかいいながら犯行現場についてとやかくいいあう刑事ドラマのように細かく映像を分析したが、残念ながら自分の記憶では灘区内と思われる場所は特定できなかった。ただ、灘文化堂の取材に答えたとおり、撮影された時代は「蒔ちゃん」という役柄で登場する女性の髪型から1987～1991年と考えられる。上下そろいのニットの膝丈キュロットスカートに「ストレートのロング+とさか前髪+ハイヒール」は、1987～88年が全盛だ。相方の男性の髪型が80年代前半のテクノカットの名残で、耳の上で平行に近い角度で切りそろえられていることも考えあわせると、87～88年で間違いない。おそらく、映像に出てくる彼らはいま40代の半ばにさしかかろうとしているであろう。</p>
	<p>▼ しかし、沖声灘語として最も問題なのは、「仮面ライダー神戸版」のエンディングのクレジットに「伊波」「金城」「兼本」の３人の沖縄姓が登場することである。ここで沖声灘語は、ウルトラセブン「ウルトラ警備隊西へ」で、神戸港でのキングジョーとセブンの死闘を演出した、あるいは六甲山中にウ警備隊の国際組織を想定し表六甲ドライブウエーにポインターを走らせた、沖縄出身で不世出のウルトラ脚本家金城哲夫（故人）を頭の片隅に思い起こさずにはいられない。「神戸版」が、シリアスではなくただのアマチュアによるパロディであることを承知しても。いや、考えようによっては、この作品のフレームとフレームの間にはとてつもないシリアスな背景があるようにも思える。</p>
	<p>▼ いまだ姿を現さない彼ら。しかし、沖声灘語はついに、極めて短いが接触に成功した。彼らのコメントは「次回作も編集中。乞うご期待」だった。</p>
	<p><object width="425" height="344"><br />
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</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>灘にあった南西諸島連盟　最終章　その１</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2009/06/14/post-136/</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2009/06/14/post-136/#comments</comments>
		<pubDate>Sun, 14 Jun 2009 02:06:05 +0900</pubDate>
		<author>utinadanchu &lt;&amp;#117;ti&amp;#110;ad&amp;#97;nchu&amp;#64;nada&amp;#116;&amp;#97;ma.&amp;#99;o&amp;#109;&gt;</author>
		
	<category>カテゴリー1</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2009/06/14/post-136/</guid>
		<description>	
▼　戦後の灘にあった南西諸島連盟の実態解明を間近に迫ったところで、MacBookは割れＬＡＮは力尽き、筆者のマブイストーンも落ちていた。半年間の断筆となったが、ついに自宅に沖縄電力「ひかりふる」が開通、本日から最終章「南西諸島連盟と戦後闇市」で復活します。
　本編は沖縄大学地域研究所投稿を兼ねるため論文調・新聞調で、写真や図版もなくお読み苦しい点があるかと思いますが、ごカンベンください。
	　
	▼　これまでの検証で、奄美連盟や沖縄人組織の部分的解体や合従連衡などを経て、南西諸島連盟は１９４６年８月ごろ沖縄・奄美出身者を救済する名目で設立されたことがわかった。日本国民に配給制が敷かれる中で、米軍により故郷が占領され「第三国人」となった彼らが物資の獲得を優位に進めるため連盟を設立したことは間違いない。沖縄人連盟の請願書に基づくマッカーサー覚書によると、奄美出身者だけの「奄美連盟」では援助適用外になり、兵庫県から満足な援助物資の払い下げをされなかったと見られる。そこで、沖縄出身者も含めた包括的な支援団体という大義名分を出すことで、名目上は払い下げの適用が可能としたのだ。
	　
	▼　神戸奄美会創立60年記念誌「奄美」によれば「その後、東地区に南西諸島連盟が設立された。身分証が発行され、乗りもの不足であったにも拘わらず、身分証を呈示すれば優先的に乗車券が購入でき、買い出しなどには大いに役立ったものである。奄美連盟では北海道から鰊、ジャガイモ、昆布等を調達して食糧難の会員に頒布したものだ」。また、長田区の真陽小学校東側の空地を借りて奄美出身者用のバラックを建てて引揚者や住宅困窮者への提供を行なったほか、北海道の物産を購入して出身者に配るなどしたと記されている。
	　
	▼　先にあげた、島尾敏雄の回想を思い出してみたい。
「それと、身分があの当時、第三国人ということになって、物資なんかが手に入りやすかったと思います。それで金の廻りがよくなって、南西諸島連盟というのを作って、かなり羽振りをきかしたんです。ぼくはその頃神戸にいたのですが、彼らは神戸の街中を、南西諸島連盟と大書きした自動車でぶっとばしたりしていましたね」
「連盟にはいりますと、まあ物資が手に入る。第三国人にはその頃特別な配給ルートがあったんでしょうか、ぼくにはわかりませんが・・・それで家内が奄美なもんですから、はいれってかなりすすめられました」。
	　
	▼　７月の神戸新聞に、「青年隊またお手柄」の見出しで「1946年5月に発足した南西諸島連盟神戸灘支部青年隊が自動車泥棒検挙に協力」の記事がある。「５月初旬発足以来警察に協力、すでに窃盗犯５件を灘署につき出すなどめざましい活動をつづけている」と記されている。ヤミ市は全盛期を迎えていたが、戦争で行政による警察力は弱体化しており、ヤミ市に関わる者は自警団を作って自前で警備にあたっていた。自警団同士の乱闘が起こるなど情勢は不安定だった。「南西諸島連盟神戸灘支部青年隊」もまた、そんなヤミ市組織の自警団だったのだろう。
（つづく）
　
　
	　
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><font Color="#800000"></font><font Color="#000000"><br />
<font Size="2"><br />
<font Size="2"></p>
	<p>▼　戦後の灘にあった南西諸島連盟の実態解明を間近に迫ったところで、MacBookは割れＬＡＮは力尽き、筆者のマブイストーンも落ちていた。半年間の断筆となったが、ついに自宅に沖縄電力「ひかりふる」が開通、本日から最終章「南西諸島連盟と戦後闇市」で復活します。<br />
　本編は沖縄大学地域研究所投稿を兼ねるため論文調・新聞調で、写真や図版もなくお読み苦しい点があるかと思いますが、ごカンベンください。</p>
	<p>　<br />
<font Size="2"></p>
	<p>▼　これまでの検証で、奄美連盟や沖縄人組織の部分的解体や合従連衡などを経て、南西諸島連盟は１９４６年８月ごろ沖縄・奄美出身者を救済する名目で設立されたことがわかった。日本国民に配給制が敷かれる中で、米軍により故郷が占領され「第三国人」となった彼らが物資の獲得を優位に進めるため連盟を設立したことは間違いない。沖縄人連盟の請願書に基づくマッカーサー覚書によると、奄美出身者だけの「奄美連盟」では援助適用外になり、兵庫県から満足な援助物資の払い下げをされなかったと見られる。そこで、沖縄出身者も含めた包括的な支援団体という大義名分を出すことで、名目上は払い下げの適用が可能としたのだ。</p>
	<p>　<br />
<font Size="2"></p>
	<p>▼　神戸奄美会創立60年記念誌「奄美」によれば「その後、東地区に南西諸島連盟が設立された。身分証が発行され、乗りもの不足であったにも拘わらず、身分証を呈示すれば優先的に乗車券が購入でき、買い出しなどには大いに役立ったものである。奄美連盟では北海道から鰊、ジャガイモ、昆布等を調達して食糧難の会員に頒布したものだ」。また、長田区の真陽小学校東側の空地を借りて奄美出身者用のバラックを建てて引揚者や住宅困窮者への提供を行なったほか、北海道の物産を購入して出身者に配るなどしたと記されている。</p>
	<p>　<br />
<font Size="2"></p>
	<p>▼　先にあげた、島尾敏雄の回想を思い出してみたい。<br />
「それと、身分があの当時、第三国人ということになって、物資なんかが手に入りやすかったと思います。それで金の廻りがよくなって、南西諸島連盟というのを作って、かなり羽振りをきかしたんです。ぼくはその頃神戸にいたのですが、彼らは神戸の街中を、南西諸島連盟と大書きした自動車でぶっとばしたりしていましたね」<br />
「連盟にはいりますと、まあ物資が手に入る。第三国人にはその頃特別な配給ルートがあったんでしょうか、ぼくにはわかりませんが・・・それで家内が奄美なもんですから、はいれってかなりすすめられました」。</p>
	<p>　<br />
<font Size="2"></p>
	<p>▼　７月の神戸新聞に、「青年隊またお手柄」の見出しで「1946年5月に発足した南西諸島連盟神戸灘支部青年隊が自動車泥棒検挙に協力」の記事がある。「５月初旬発足以来警察に協力、すでに窃盗犯５件を灘署につき出すなどめざましい活動をつづけている」と記されている。ヤミ市は全盛期を迎えていたが、戦争で行政による警察力は弱体化しており、ヤミ市に関わる者は自警団を作って自前で警備にあたっていた。自警団同士の乱闘が起こるなど情勢は不安定だった。「南西諸島連盟神戸灘支部青年隊」もまた、そんなヤミ市組織の自警団だったのだろう。<br />
（つづく）<br />
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	</item>
		<item>
		<title>［レポート］泡瀬の海を見てみよう</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2009/02/16/post-135/</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2009/02/16/post-135/#comments</comments>
		<pubDate>Mon, 16 Feb 2009 10:00:30 +0900</pubDate>
		<author>nada &lt;i&amp;#110;f&amp;#111;&amp;#64;&amp;#110;adat&amp;#97;&amp;#109;&amp;#97;.c&amp;#111;&amp;#109;&gt;</author>
		
	<category>カテゴリー1</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2009/02/16/post-135/</guid>
		<description>	
春一番が、掃除したてのサッシの窓に埃の渦を踊らせた2月13日、灘にも南の風が吹いた。
水道筋の週末限定沖縄おでん屋「通い船」で、灘区在住、水道筋フリークの水中写真家、
宮道成彦さんによる沖縄・泡瀬干潟のスライド＆トークショー
「ゆんたくサロン　泡瀬の海をみてみよう」が開催された。
宮道さんは沖縄の海だけではなく、震災を機に神戸の海の撮影にも取り組んできたオキナダンな
水中カメラマン。
そんな宮道さんが撮った泡瀬のすばらしい自然を肴に、泡盛を酌み交わし、沖縄おでんを
つつきながらユルユルとゆんたく（おしゃべり）しようというのがこのイベントの趣旨だ。
7人定員の店内に20人以上のシマの海を愛する人が集まった。
ほぼオールスタンディングのダークダックス状態。
大阪や姫路から来られた方もいた。
	やがて沖縄民謡をBGMにユルユルとスライド＆トークショーが始まった。
泡瀬干潟は沖縄本島南部にある南西諸島最大級の干潟だが、
つい最近、豊かな自然が残るこの干潟の埋め立て工事が始まった。
このイベントのユルさとは裏腹にシビアな問題を抱える場所なのだ。
しかし、くくっと泡盛を2杯ほどあおった宮道さんに気負いはない。
「この豊かな自然を見て、何かを感じてもらえればそれでいいんですわ」
	「おお～」
店内の壁に映し出されたサンゴの群生に会場から感嘆の声。
まるで森のようにどこまでも続くサンゴの広がりは沖縄の離島でもなかなか見られない
光景だそうだ。
こんな海が那覇からそう遠くない場所に存在している。
途中、泡瀬周辺のおいしい店情報も紹介された。
「ここの魚汁、旨いんですよ～」
「マグロが大量のときは刺身もおかわり自由なんですよ～」
「おお～（歓声）」
やはりメシ話は盛り上がる。
	「こんな風景もなかなかないんですよ」
サンゴの間に海草が茂っている。
普通はサンゴならサンゴだけなのだが、ここ泡瀬は海草とサンゴが共生する場所。
森だ。まさに海の森（ムイ）だ。
生き物たちのすばらしい共生の姿である。
	今この海が、埋め立てによって失われようとしている。
オニヒトデではなく「人手」によって。
	最後に泡瀬の子どもたち、青い空と真っ白な雲が映し出された。
「この子たちに何が残せるんでしょう」
声高に埋め立て反対を訴えるわけでもなく、終始ユルりとしたクールトークの宮道さんが
少し熱くなったような気がした。
「埋め立て『反対』ではなく、このすばらしい環境を残していくことに『賛成』なんです」
宮道さんらしい言葉でトークショーは締めくくられた。
	スライドショー終了後もゆんたくは続いた。
みんな立ったまま、泡瀬のこと、沖縄のこと、海のこと。
そして遅れてきた人のためにアルコール上映…
もといアンコール上映も行われ、沖灘色に染まった水道筋の夜は更けていった。
	&amp;nbsp;
	&amp;nbsp;
（写真提供：沖縄・鋒山さん）
	蛇足だが、灘的に（いや個人的に）興味深い映像があったことも紹介しておこう。
海中のマリモのような藻。なんでも世界でも沖縄本島の3カ所にしかいない希少な
藻だそうで「クビレミドロ」というらしい。
ご存じのようにミドロ（味泥）は、灘南部に古くからある地名である。
沖縄と灘がリンクした瞬間だった。
　そういや、味泥町のある西郷川の河口近くでヘドロ取り（泥団子の仕上げ用の超微粒砂の採取）
　に行ったときにもミドロあったよな…
　アオミドロって青味泥って書くんだと思ってたよな。
　この店の近くにあった灘松竹で『吸血鬼ゴケミドロ』も上映されていたんだよな…
美しい自然とは裏腹の様々なミドロを思い浮かべてしまった。宮道さん、ごめんなさい。
	　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（報告：naddist　水中写真は宮道さん撮影）
	［宮道さん情報］
●ブログ「僕にとって宝箱の海・大阪湾・神戸の海から」
水中写真満載のブログ
http://blog.zaq.ne.jp/miyamichi/
	●写真展「神戸空港周辺の海の仲間」
宮道ワールドの真骨頂、神戸空港周辺の水中写真展
日時：２月７日（土）～２７日（金）
場所：神戸空港ターミナル1階到着ロビー
	●「上方水中映像祭り」
プロ、アマチュアの水中写真家によるスライドショー＆ムービー
日時：２月21日（土）
　　　午前の部　１０：００開場（受付開始）
　　　　　　　　 開演１０：３０～１３：００
　　　午後の部　１３：３０開場（受付開始）　
　　　　　　　　 開演１４：００～１６：３０
場所：大阪・海遊館ホール（http://www.kaiyukan.com/access/index.htm）
詳細はhttp://www5.plala.or.jp/hiro-dv/
	※次回からは沖灘人さんによる通常の「沖声灘語」をお届けいたします。

 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/oki090216_05.jpg" alt="" /></p>
	<p>春一番が、掃除したてのサッシの窓に埃の渦を踊らせた2月13日、灘にも南の風が吹いた。<br />
水道筋の週末限定沖縄おでん屋「通い船」で、灘区在住、水道筋フリークの水中写真家、<br />
宮道成彦さんによる沖縄・泡瀬干潟のスライド＆トークショー<br />
<a href="http://www.nadatama.com/modules/piCal/index.php?smode=Monthly&#038;action=View&#038;event_id=0000000384&#038;caldate=2009-2-13" target="top">「ゆんたくサロン　泡瀬の海をみてみよう」</a>が開催された。<br />
宮道さんは沖縄の海だけではなく、震災を機に神戸の海の撮影にも取り組んできたオキナダンな<br />
水中カメラマン。<br />
そんな宮道さんが撮った泡瀬のすばらしい自然を肴に、泡盛を酌み交わし、沖縄おでんを<br />
つつきながらユルユルとゆんたく（おしゃべり）しようというのがこのイベントの趣旨だ。<br />
7人定員の店内に20人以上のシマの海を愛する人が集まった。<br />
ほぼオールスタンディングのダークダックス状態。<br />
大阪や姫路から来られた方もいた。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/oki090216_04.jpg" alt="" /></p>
	<p>やがて沖縄民謡をBGMにユルユルとスライド＆トークショーが始まった。<br />
泡瀬干潟は沖縄本島南部にある南西諸島最大級の干潟だが、<br />
つい最近、豊かな自然が残るこの干潟の埋め立て工事が始まった。<br />
このイベントのユルさとは裏腹にシビアな問題を抱える場所なのだ。<br />
しかし、くくっと泡盛を2杯ほどあおった宮道さんに気負いはない。<br />
「この豊かな自然を見て、何かを感じてもらえればそれでいいんですわ」</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/oki090216_01.jpg" alt="" /></p>
	<p>「おお～」<br />
店内の壁に映し出されたサンゴの群生に会場から感嘆の声。<br />
まるで森のようにどこまでも続くサンゴの広がりは沖縄の離島でもなかなか見られない<br />
光景だそうだ。<br />
こんな海が那覇からそう遠くない場所に存在している。<br />
途中、泡瀬周辺のおいしい店情報も紹介された。<br />
「ここの魚汁、旨いんですよ～」<br />
「マグロが大量のときは刺身もおかわり自由なんですよ～」<br />
「おお～（歓声）」<br />
やはりメシ話は盛り上がる。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/oki090216_02.jpg" alt="" /></p>
	<p>「こんな風景もなかなかないんですよ」<br />
サンゴの間に海草が茂っている。<br />
普通はサンゴならサンゴだけなのだが、ここ泡瀬は海草とサンゴが共生する場所。<br />
森だ。まさに海の森（ムイ）だ。<br />
生き物たちのすばらしい共生の姿である。</p>
	<p>今この海が、埋め立てによって失われようとしている。<br />
オニヒトデではなく「人手」によって。</p>
	<p>最後に泡瀬の子どもたち、青い空と真っ白な雲が映し出された。<br />
「この子たちに何が残せるんでしょう」<br />
声高に埋め立て反対を訴えるわけでもなく、終始ユルりとしたクールトークの宮道さんが<br />
少し熱くなったような気がした。<br />
「埋め立て『反対』ではなく、このすばらしい環境を残していくことに『賛成』なんです」<br />
宮道さんらしい言葉でトークショーは締めくくられた。</p>
	<p><img src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/oki090216_06.jpg" alt="" /></p>
	<p>スライドショー終了後もゆんたくは続いた。<br />
みんな立ったまま、泡瀬のこと、沖縄のこと、海のこと。<br />
そして遅れてきた人のためにアルコール上映…<br />
もといアンコール上映も行われ、沖灘色に染まった水道筋の夜は更けていった。</p>
	<p><a href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/oki090216_07.jpg"><img alt="" src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-oki090216_07.jpg"/></a>&nbsp;</p>
	<p><a href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/oki090216_031.jpg"><img alt="" src="http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/attach/thumb-oki090216_031.jpg"/></a>&nbsp;<br />
（写真提供：沖縄・鋒山さん）</p>
	<p>蛇足だが、灘的に（いや個人的に）興味深い映像があったことも紹介しておこう。<br />
海中のマリモのような藻。なんでも世界でも沖縄本島の3カ所にしかいない希少な<br />
藻だそうで「クビレミドロ」というらしい。<br />
ご存じのようにミドロ（味泥）は、灘南部に古くからある地名である。<br />
沖縄と灘がリンクした瞬間だった。<br />
　そういや、味泥町のある西郷川の河口近くでヘドロ取り（泥団子の仕上げ用の超微粒砂の採取）<br />
　に行ったときにもミドロあったよな…<br />
　アオミドロって青味泥って書くんだと思ってたよな。<br />
　この店の近くにあった灘松竹で『吸血鬼ゴケミドロ』も上映されていたんだよな…<br />
美しい自然とは裏腹の様々なミドロを思い浮かべてしまった。宮道さん、ごめんなさい。</p>
	<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（報告：naddist　水中写真は宮道さん撮影）</p>
	<p>［宮道さん情報］<br />
●ブログ「僕にとって宝箱の海・大阪湾・神戸の海から」<br />
水中写真満載のブログ<br />
<a href="http://blog.zaq.ne.jp/miyamichi/" target="top">http://blog.zaq.ne.jp/miyamichi/</a></p>
	<p>●写真展「神戸空港周辺の海の仲間」<br />
宮道ワールドの真骨頂、神戸空港周辺の水中写真展<br />
日時：２月７日（土）～２７日（金）<br />
場所：神戸空港ターミナル1階到着ロビー</p>
	<p>●「上方水中映像祭り」<br />
プロ、アマチュアの水中写真家によるスライドショー＆ムービー<br />
日時：２月21日（土）<br />
　　　午前の部　１０：００開場（受付開始）<br />
　　　　　　　　 開演１０：３０～１３：００<br />
　　　午後の部　１３：３０開場（受付開始）　<br />
　　　　　　　　 開演１４：００～１６：３０<br />
場所：大阪・海遊館ホール（<a href="http://www.kaiyukan.com/access/index.htm" target="top">http://www.kaiyukan.com/access/index.htm</a>）<br />
詳細は<a href="http://www5.plala.or.jp/hiro-dv/" target="top">http://www5.plala.or.jp/hiro-dv/</a></p>
	<p>※次回からは沖灘人さんによる通常の「沖声灘語」をお届けいたします。
</p>
]]></content:encoded>
	</item>
		<item>
		<title>灘にあった南西諸島連盟 第2部 その5</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2008/12/26/2-5/</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2008/12/26/2-5/#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 26 Dec 2008 23:18:50 +0900</pubDate>
		<author>utinadanchu &lt;u&amp;#116;inad&amp;#97;&amp;#110;&amp;#99;&amp;#104;&amp;#117;&amp;#64;na&amp;#100;atama.c&amp;#111;m&gt;</author>
		
	<category>カテゴリー1</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2008/12/26/2-5/</guid>
		<description>	
▼　沖縄人連盟兵庫県本部は、大山朝繁会長を中心に関西本部の名称変更の真意と兵庫県本部の対応策について検討を重ねた結果、南西諸島連盟への名称変更を求める関西本部の申し入れを拒絶し、同本部を脱退することを決定した。理由は、(1)南西諸島という薩南諸島から八重山群島までを総称するための組織名称では、総ての運動で主体性と迫力が著しく減退すること、(2)背後に沖縄人連盟とはまるで次元の異なる目的を持つ政治団体の加盟員とシンパの関係にある沖縄人連盟関西本部の事務局長と神戸の南西諸島連盟会長が共謀し、利権獲得と党利党略の足場作りを企んだ絶対に許せない行為であるから、というものだ。その後、大阪の南西諸島連盟関西本部は名称変更後ほどなく「南西諸島連盟」と「沖縄人連盟近畿本部」に分裂し、紛糾する。やがて東京の総本部の裁定により「沖縄人連盟近畿本部」は解散、「南西諸島連盟（大阪）」は沖縄人連盟関西本部に名称を戻すことで決着がついたという。
　一方、「所属政党」の勢力拡張を目指す「フラクション活動家」（上江洲氏の言葉から）は沖縄人連盟兵庫県本部に伸張し、1947（昭和47）年5月に社会党から尼崎市議に当選していた上江洲氏は同年７月に辞任した。１カ月後に上江洲は沖縄青年同盟兵庫県本部（沖縄県人会兵庫県本部青年部の前身）の執行委員長に推挙され、青年部組織で組織闘争が継続される。これで、沖縄県人会兵庫県本部35年史で上江洲氏が力を込めた「党利党略」「所属政党」の意味がようやく明らかになってきた。社会党から出馬した上江洲氏にとってのフラクション組織が共産党であろうことは、想像できる。
	　
	▼　神戸における沖縄出身者の中心は、沖縄人連盟兵庫県本部副会長を兼ねる大城清蓮が代表を努める「神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所」だった。実は、同事務所の相談役は1923（大正12）年に大阪で関西沖縄県人会を作り、戦後に東京で全国組織の沖縄人連盟創設にも関わった沖縄出身の活動家、井之口政雄だったという。井之口は1947（昭和22）年4月、戦後初の国政選挙で共産党所属として兵庫２区から立候補（落選、2年後の総選挙で雪辱）している。一方、代表の大城は、日本最大のスラムといわれた葺合区の「新川」を救済した社会運動家で宗教家の賀川豊彦と接点があった。そう、神戸では泣く子もサンライズ（メロンパン）を食う、灘神戸生協（コープこうべ）の産みの親だ。先に挙げた1946（昭和21）年１月の神戸新聞記事「悲惨な沖縄同胞に同情　街の義人が連絡事務所を開設」で「神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所」設置に関し大城は「（沖縄人連盟は）東京に本部があり全国各地に支部があることはあるのですが、徒らに寄付金を集めるのみで何等仕事をしてをりません」と語った。そして、少年工を中心とした沖縄出身者の惨状に「賀川先生に御願ひして沖縄の事情もきき連絡をつけてやりたいと思ひます。しかし実際問題として生活に苦しむ人々に就職の斡旋をしてやり、悪への凋落を防ぎたいのです。神戸在住の沖縄県人は速やかに当事務所に連絡していただきたい」とコメントしている 。
	　
	▼　当時、日本共産党は沖縄・奄美群島の米国占領を「日本からの解放」とし、占領軍を「解放軍」と捉えていた。さらに「沖縄人は日本人ではない」とする東京の全国沖縄人連盟に呼応していた。1946年２月の党大会で、日本共産党は沖縄人連盟あてに「沖縄民族の独立を祝う」というメッセージを採択している。東京の沖縄人連盟の「在日沖縄人」などの表現や共産党との関わりについては、総会でも混乱した状況にあった。しかしながら、沖縄人連盟兵庫県本部は、沖縄を日本として扱うことを主張している。一方、先にあげた神戸新聞記事で奄美大島連盟神戸支部が「親米の精神に則る」としていたように、奄美系組織にも共産党の流れがあったようだ。奄美系団体および神戸の沖縄系団体は親米派すなわち独立を目指す共産党系で、尼崎の沖縄人連盟は本土復帰派すなわち社会党系だったのか。つまり神戸の南西諸島連盟は共産党系で、この共産党系の進出により沖縄人連盟兵庫県本部は混乱に陥り、上江洲が辞任するなどの混乱があったのではないか。ちなみに占領下にある沖縄本島で1947年に発足した非合法沖縄共産党（沖縄人民党）は、日本復帰ではなく沖縄独立を掲げていた。同じ時期に結成された奄美共産党も、米国に弾圧されるまで「奄美人民共和国」の樹立を掲げた。（沖縄、奄美の共産党については諸説あり）
	　
	▼　昨日12月25日クリスマスは、そんな奄美群島が沖縄より19年も早く本土復帰を果たしてから55年目の節目だった。
（つづく）
　
　
	　
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><font Color="#800000"></font><font Color="#000000"><br />
<font Size="2"><br />
<font Size="2"></p>
	<p>▼　沖縄人連盟兵庫県本部は、大山朝繁会長を中心に関西本部の名称変更の真意と兵庫県本部の対応策について検討を重ねた結果、南西諸島連盟への名称変更を求める関西本部の申し入れを拒絶し、同本部を脱退することを決定した。理由は、(1)南西諸島という薩南諸島から八重山群島までを総称するための組織名称では、総ての運動で主体性と迫力が著しく減退すること、(2)背後に沖縄人連盟とはまるで次元の異なる目的を持つ政治団体の加盟員とシンパの関係にある沖縄人連盟関西本部の事務局長と神戸の南西諸島連盟会長が共謀し、利権獲得と党利党略の足場作りを企んだ絶対に許せない行為であるから、というものだ。その後、大阪の南西諸島連盟関西本部は名称変更後ほどなく「南西諸島連盟」と「沖縄人連盟近畿本部」に分裂し、紛糾する。やがて東京の総本部の裁定により「沖縄人連盟近畿本部」は解散、「南西諸島連盟（大阪）」は沖縄人連盟関西本部に名称を戻すことで決着がついたという。<br />
　一方、「所属政党」の勢力拡張を目指す「フラクション活動家」（上江洲氏の言葉から）は沖縄人連盟兵庫県本部に伸張し、1947（昭和47）年5月に社会党から尼崎市議に当選していた上江洲氏は同年７月に辞任した。１カ月後に上江洲は沖縄青年同盟兵庫県本部（沖縄県人会兵庫県本部青年部の前身）の執行委員長に推挙され、青年部組織で組織闘争が継続される。これで、沖縄県人会兵庫県本部35年史で上江洲氏が力を込めた「党利党略」「所属政党」の意味がようやく明らかになってきた。社会党から出馬した上江洲氏にとってのフラクション組織が共産党であろうことは、想像できる。</p>
	<p>　<br />
<font Size="2"></p>
	<p>▼　神戸における沖縄出身者の中心は、沖縄人連盟兵庫県本部副会長を兼ねる大城清蓮が代表を努める「神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所」だった。実は、同事務所の相談役は1923（大正12）年に大阪で関西沖縄県人会を作り、戦後に東京で全国組織の沖縄人連盟創設にも関わった沖縄出身の活動家、井之口政雄だったという。井之口は1947（昭和22）年4月、戦後初の国政選挙で共産党所属として兵庫２区から立候補（落選、2年後の総選挙で雪辱）している。一方、代表の大城は、日本最大のスラムといわれた葺合区の「新川」を救済した社会運動家で宗教家の賀川豊彦と接点があった。そう、神戸では泣く子もサンライズ（メロンパン）を食う、灘神戸生協（コープこうべ）の産みの親だ。先に挙げた1946（昭和21）年１月の神戸新聞記事「悲惨な沖縄同胞に同情　街の義人が連絡事務所を開設」で「神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所」設置に関し大城は「（沖縄人連盟は）東京に本部があり全国各地に支部があることはあるのですが、徒らに寄付金を集めるのみで何等仕事をしてをりません」と語った。そして、少年工を中心とした沖縄出身者の惨状に「賀川先生に御願ひして沖縄の事情もきき連絡をつけてやりたいと思ひます。しかし実際問題として生活に苦しむ人々に就職の斡旋をしてやり、悪への凋落を防ぎたいのです。神戸在住の沖縄県人は速やかに当事務所に連絡していただきたい」とコメントしている 。</p>
	<p>　<br />
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	<p>▼　当時、日本共産党は沖縄・奄美群島の米国占領を「日本からの解放」とし、占領軍を「解放軍」と捉えていた。さらに「沖縄人は日本人ではない」とする東京の全国沖縄人連盟に呼応していた。1946年２月の党大会で、日本共産党は沖縄人連盟あてに「沖縄民族の独立を祝う」というメッセージを採択している。東京の沖縄人連盟の「在日沖縄人」などの表現や共産党との関わりについては、総会でも混乱した状況にあった。しかしながら、沖縄人連盟兵庫県本部は、沖縄を日本として扱うことを主張している。一方、先にあげた神戸新聞記事で奄美大島連盟神戸支部が「親米の精神に則る」としていたように、奄美系組織にも共産党の流れがあったようだ。奄美系団体および神戸の沖縄系団体は親米派すなわち独立を目指す共産党系で、尼崎の沖縄人連盟は本土復帰派すなわち社会党系だったのか。つまり神戸の南西諸島連盟は共産党系で、この共産党系の進出により沖縄人連盟兵庫県本部は混乱に陥り、上江洲が辞任するなどの混乱があったのではないか。ちなみに占領下にある沖縄本島で1947年に発足した非合法沖縄共産党（沖縄人民党）は、日本復帰ではなく沖縄独立を掲げていた。同じ時期に結成された奄美共産党も、米国に弾圧されるまで「奄美人民共和国」の樹立を掲げた。（沖縄、奄美の共産党については諸説あり）</p>
	<p>　<br />
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	<p>▼　昨日12月25日クリスマスは、そんな奄美群島が沖縄より19年も早く本土復帰を果たしてから55年目の節目だった。<br />
（つづく）<br />
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	</item>
		<item>
		<title>灘にあった南西諸島連盟　第2部 その4</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2008/12/20/2-4/</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2008/12/20/2-4/#comments</comments>
		<pubDate>Sat, 20 Dec 2008 00:22:53 +0900</pubDate>
		<author>utinadanchu &lt;&amp;#117;tin&amp;#97;&amp;#100;an&amp;#99;hu&amp;#64;&amp;#110;&amp;#97;dat&amp;#97;&amp;#109;&amp;#97;.&amp;#99;&amp;#111;&amp;#109;&gt;</author>
		
	<category>カテゴリー1</category>		<guid isPermaLink="true">http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2008/12/20/2-4/</guid>
		<description>	
▼　「問題は神戸市灘区で、南西諸島連盟という鵺（ぬえ）的組織が結成された事で始まりました。徒花のようなこの組織は看過できない重大な側面をかかえて、否応なく沖縄人連盟（大阪・兵庫）を渦中に巻き込み、組織の存立にかかる大混乱に陥れました。
　この奇怪な組織（数年も経ず消滅しましたが）は、奄美出身のNとMが共謀し、援護物資の払い下げを目的にでっちあげた組織であることは明白でした。彼らがこのような邪道に走ったのは、沖縄人連盟兵庫支部連合会（兵庫県本部）の、兵庫県からの援護物資払い下げに、目が眩んでの暴走であったのは疑う余地がありません。
　沖縄人連盟の援護物資払い下げは、日本政府宛マッカーサー覚え書に依拠して行った組織行為であり、国内に母県を持つ奄美連盟等奄美出身者の組織が、マ覚え書の適用外であったのは止むを得ないことでした。然し私利私欲の利権に目が眩んだ前記NとMやその一味は、南西諸島の呼称と被せて組織名とし、沖縄出身者も総て包含していると偽り、兵庫県に援護物資の払い下げを申請しました」。
	　
	▼　上江洲によると、沖縄人連盟兵庫県本部の発足当初、奄美大島の関係者によって組織された南西諸島連盟との合流問題が持ち上がったという。敗戦後も沖縄とともに日本から行政を分離された奄美大島は沖縄と同じ運命にあり、共同歩調をとることについて異論のあろうはずはなかったが、一つの組織として合流してしまうということになると問題は別だとした。日本から行政上分離されているとはいっても立場が異なる、というのだ。沖縄は県ぐるみ無くなってしまったのだが、奄美大島の場合は鹿児島県という母県を持っている。完全に統一した運動を組みにくい。どこかで食い違いが生じるだろう。同じ組織の中で意見の食い違い、とり組みの違いが出てくるとうまくいかなくなる。分裂せざるを得なくなる。それよりは、あくまでも別の組織で、お互いを尊重し合いながら連帯して運動にとり組んだ方がより建設的である－－というのが沖縄人連盟兵庫県本部の言い分だった。
	　
	▼　沖縄人連盟兵庫県本部は、神戸ではすでに東神戸、生田、西神戸の三地区に沖縄人連盟兵庫県本部の傘下支部が結成され積極活動しており、生田支部内には用地を確保して活動拠点の建設を目指していたという。県や神戸市、尼崎市をはじめ各行政機関との関係も円滑に進展しており、「局地灘区の南西諸島連盟は、もう当方には些かも妨げになる存在ではありませんでした。やがて消滅するのは明らかでしたので、同組織の存在は、完全に眼中から消えかかったのです」（上江洲）。
　ところが、大阪では沖縄人連盟は南西諸島連盟に合流してしまった。大阪沖縄県人会連合会の記録では、「こうした困難な情勢の中で県人の生活と権利を守るために県人会づくりがスタートした。昭和21年2月21日、東京都共立講堂において全国沖縄人連盟を結成、同年4月には大阪市中之島公会堂において南西諸島連盟大阪本部（資料によっては関西本部）を結成し、大阪の各地区に支部を設けた」とあり、「名称については、同じ占領下にあった奄美諸島も加入していたので、幾多の経過をたどり、今日に至った」としている 。上江洲は「神戸にあった南西諸島連盟の方は、そこで『我々は沖縄をも含めた南西諸島の団体である』というふれこみで、われわれと同じように、兵庫県庁に向けて救済物資の払下げ交渉に入ってしまった。現に、南西諸島連盟の役員に沖縄出身者がいたから、話はますますややこしくなって、兵庫では大きな混乱が生じてしまったのだった」と語っている。
	　
	▼　先の１９４６年８月の神戸新聞記事で奄美連盟の灘支部が解消されたこと、神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所の代表者である大城清蓮が尼崎の沖縄人連盟兵庫県本部の副会長に名を連ねていること、多くの沖縄人名士は灘南や脇濱に住んでいたことなどから、南西諸島連盟は奄美連盟から合流した一派と神戸で沖縄出身者の窓口となっていた大城らが立ち上げたのではないだろうか。特に神戸には神戸製鋼や川崎製鉄勤務者に代表される、尼崎とは異なる階層の沖縄県出身者が多くいたことで、後で述べるように南西諸島連盟が戦前からのプロレタリアートの流れを組んでいる可能性も否定できない。
　南西諸島連盟は他地域では見られない奄美と沖縄のハイブリッド組織である。神戸では、同じ中国系が多い横浜などでは絶対にありえないことだが、華僑組織や華僑学校は大陸系と台湾系のハイブリッド組織になっている。奄美と沖縄のハイブリッドも、神戸らしいボーダーレスな一面かもしれない。実際、神戸には沖縄出身者と奄美出身者が結婚して生まれた琉球ハイブリッド２世は多い。（つづく）
　
　
	　
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><font Color="#800000"></font><font Color="#000000"><br />
<font Size="2"><br />
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	<p>▼　「問題は神戸市灘区で、南西諸島連盟という鵺（ぬえ）的組織が結成された事で始まりました。徒花のようなこの組織は看過できない重大な側面をかかえて、否応なく沖縄人連盟（大阪・兵庫）を渦中に巻き込み、組織の存立にかかる大混乱に陥れました。<br />
　この奇怪な組織（数年も経ず消滅しましたが）は、奄美出身のNとMが共謀し、援護物資の払い下げを目的にでっちあげた組織であることは明白でした。彼らがこのような邪道に走ったのは、沖縄人連盟兵庫支部連合会（兵庫県本部）の、兵庫県からの援護物資払い下げに、目が眩んでの暴走であったのは疑う余地がありません。<br />
　沖縄人連盟の援護物資払い下げは、日本政府宛マッカーサー覚え書に依拠して行った組織行為であり、国内に母県を持つ奄美連盟等奄美出身者の組織が、マ覚え書の適用外であったのは止むを得ないことでした。然し私利私欲の利権に目が眩んだ前記NとMやその一味は、南西諸島の呼称と被せて組織名とし、沖縄出身者も総て包含していると偽り、兵庫県に援護物資の払い下げを申請しました」。</p>
	<p>　<br />
<font Size="2"></p>
	<p>▼　上江洲によると、沖縄人連盟兵庫県本部の発足当初、奄美大島の関係者によって組織された南西諸島連盟との合流問題が持ち上がったという。敗戦後も沖縄とともに日本から行政を分離された奄美大島は沖縄と同じ運命にあり、共同歩調をとることについて異論のあろうはずはなかったが、一つの組織として合流してしまうということになると問題は別だとした。日本から行政上分離されているとはいっても立場が異なる、というのだ。沖縄は県ぐるみ無くなってしまったのだが、奄美大島の場合は鹿児島県という母県を持っている。完全に統一した運動を組みにくい。どこかで食い違いが生じるだろう。同じ組織の中で意見の食い違い、とり組みの違いが出てくるとうまくいかなくなる。分裂せざるを得なくなる。それよりは、あくまでも別の組織で、お互いを尊重し合いながら連帯して運動にとり組んだ方がより建設的である－－というのが沖縄人連盟兵庫県本部の言い分だった。</p>
	<p>　<br />
<font Size="2"></p>
	<p>▼　沖縄人連盟兵庫県本部は、神戸ではすでに東神戸、生田、西神戸の三地区に沖縄人連盟兵庫県本部の傘下支部が結成され積極活動しており、生田支部内には用地を確保して活動拠点の建設を目指していたという。県や神戸市、尼崎市をはじめ各行政機関との関係も円滑に進展しており、「局地灘区の南西諸島連盟は、もう当方には些かも妨げになる存在ではありませんでした。やがて消滅するのは明らかでしたので、同組織の存在は、完全に眼中から消えかかったのです」（上江洲）。<br />
　ところが、大阪では沖縄人連盟は南西諸島連盟に合流してしまった。大阪沖縄県人会連合会の記録では、「こうした困難な情勢の中で県人の生活と権利を守るために県人会づくりがスタートした。昭和21年2月21日、東京都共立講堂において全国沖縄人連盟を結成、同年4月には大阪市中之島公会堂において南西諸島連盟大阪本部（資料によっては関西本部）を結成し、大阪の各地区に支部を設けた」とあり、「名称については、同じ占領下にあった奄美諸島も加入していたので、幾多の経過をたどり、今日に至った」としている 。上江洲は「神戸にあった南西諸島連盟の方は、そこで『我々は沖縄をも含めた南西諸島の団体である』というふれこみで、われわれと同じように、兵庫県庁に向けて救済物資の払下げ交渉に入ってしまった。現に、南西諸島連盟の役員に沖縄出身者がいたから、話はますますややこしくなって、兵庫では大きな混乱が生じてしまったのだった」と語っている。</p>
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	<p>▼　先の１９４６年８月の神戸新聞記事で奄美連盟の灘支部が解消されたこと、神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所の代表者である大城清蓮が尼崎の沖縄人連盟兵庫県本部の副会長に名を連ねていること、多くの沖縄人名士は灘南や脇濱に住んでいたことなどから、南西諸島連盟は奄美連盟から合流した一派と神戸で沖縄出身者の窓口となっていた大城らが立ち上げたのではないだろうか。特に神戸には神戸製鋼や川崎製鉄勤務者に代表される、尼崎とは異なる階層の沖縄県出身者が多くいたことで、後で述べるように南西諸島連盟が戦前からのプロレタリアートの流れを組んでいる可能性も否定できない。<br />
　南西諸島連盟は他地域では見られない奄美と沖縄のハイブリッド組織である。神戸では、同じ中国系が多い横浜などでは絶対にありえないことだが、華僑組織や華僑学校は大陸系と台湾系のハイブリッド組織になっている。奄美と沖縄のハイブリッドも、神戸らしいボーダーレスな一面かもしれない。実際、神戸には沖縄出身者と奄美出身者が結婚して生まれた琉球ハイブリッド２世は多い。（つづく）<br />
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	</item>
		<item>
		<title>灘にあった南西諸島連盟 第2部 その3</title>
		<link>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2008/11/21/2-3/</link>
		<comments>http://www.nadatama.com/modules/wordpress6/index.php/archives/2008/11/21/2-3/#comments</comments>
		<pubDate>Fri, 21 Nov 2008 02:33:43 +0900</pubDate>
		<author>utinadanchu &lt;&amp;#117;ti&amp;#110;&amp;#97;&amp;#100;&amp;#97;nc&amp;#104;u&amp;#64;n&amp;#97;&amp;#100;&amp;#97;&amp;#116;&amp;#97;ma.com&gt;</author>
		
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▼ 　１９４６年８月に沖縄人連盟兵庫県本部が結成される前から、沖縄県出身者は同胞の救済のため組織的に動いていた。もともと戦前から、出稼ぎ者を中心とした沖縄県出身者による互助のための組織活動は盛んで、大阪では１９２４年に関西沖縄県人会が設立され、大阪球陽新報社から「球陽」という在関西の県出身者向けの新聞も発行されていた。また沖縄県内の字ごとの郷友会活動も盛んで、神戸では沖縄県北部の大宜味村塩屋から川崎製鉄所や神戸製鋼所、三菱重工などに出稼ぎに来た者が多かったのか、「葺合塩屋相愛会」「兵庫塩親会」などの名前を大阪球陽新報社発行の小冊子などで確認できる。注目しておきたいのは、それら同郷会の会長等の住所に「灘南通」と「脇濱町」の地名が見えることだ。同町に住む沖縄人名士として７人が紹介されている。
	　
	▼ 　終戦後、尼崎の軍需工場だった住友鋼管で人員整理された沖縄県出身の女子挺身隊の救済をきっかけに、１９４５年１１月に尼崎市内５地区の沖縄出身者組織が集まり「尼崎沖縄県人会」が発足した。宝塚の沖縄出身者も合流し、警察の協力を得て行なった沖縄相撲大会で「郷里への手紙を書いてGHQに届け、沖縄への輸送を依頼しよう」と決議、集まった柳行李１個分の手紙を京都のGHQ司令部に運んで沖縄に輸送するという約束を取り付けている。また、先述したように東京の沖縄人連盟による請願書で１９４６年１月２日に「日本政府ハ窮乏セル琉球人避難民ニ遅滞ナク十分ナ食糧、住宅、治療、寝具、衣料等ヲ支給スベシ」というマ指令をとりつけ、援護活動に動いた。行政が機能しないため、県人会は「消えた沖縄県」にかわって帰還事業など行なわざるを得なかった。これが現在も県人会の相互扶助の基盤となっている。親ぼく団体ではなく相互扶助団体である所以である。
	　
	▼　「沖縄県人会兵庫県本部３５年史　ここに榕樹あり」には、尼崎市を相手に先のマッカーサー司令部の司令書を示しながら交渉し、戦災で焼け残った小学校の空校舎の借用や、引揚者や生活困窮者のための救済物資の配給を受けていた。同書の中に「発足当初、奄美大島関係者によって組織された南西諸島連盟との合流問題が持ち上がった。（中略）ところが、大阪の方ではさっさと合流してしまうのである。名称も南西諸島連盟関西本部として活動した。神戸にあった南西諸島連盟の方は、そこで『我々は沖縄をも含めた南西諸島の団体である』というふれこみで、われわれと同じように、兵庫県庁に向けて救済物資の払下げ交渉に入ってしまった。現に、南西諸島連盟の役員に沖縄出身者がいたから、話はますますややこしくなって、兵庫では大きな混乱が生じてしまったのだった」という一文がある。
	　
	▼　先にあげた神戸新聞の記事や島尾敏雄のコメントから、灘を本拠とした南西諸島連盟は詳細な実態は不明だが泡沫的でゲリラ的な雰囲気を感じた。一方、大阪にあった沖縄県人組織は、「沖縄人連盟関西本部」という大きな組織だ。沖縄県出身者の数も兵庫とはケタが違っていた。その大きな組織を、南西諸島連盟はいとも簡単に吸収合併してしまっていた。当時の沖縄人連盟兵庫本部執行部の上江洲久氏は、回想録で南西諸島連盟に対する苦々しい思いを綴っている。（つづく）
　
　
 </description>
		<content:encoded><![CDATA[	<p><font Color="#800000"></font><font Color="#000000"><br />
<font Size="2"><br />
<font Size="2"></p>
	<p>▼ 　１９４６年８月に沖縄人連盟兵庫県本部が結成される前から、沖縄県出身者は同胞の救済のため組織的に動いていた。もともと戦前から、出稼ぎ者を中心とした沖縄県出身者による互助のための組織活動は盛んで、大阪では１９２４年に関西沖縄県人会が設立され、大阪球陽新報社から「球陽」という在関西の県出身者向けの新聞も発行されていた。また沖縄県内の字ごとの郷友会活動も盛んで、神戸では沖縄県北部の大宜味村塩屋から川崎製鉄所や神戸製鋼所、三菱重工などに出稼ぎに来た者が多かったのか、「葺合塩屋相愛会」「兵庫塩親会」などの名前を大阪球陽新報社発行の小冊子などで確認できる。注目しておきたいのは、それら同郷会の会長等の住所に「灘南通」と「脇濱町」の地名が見えることだ。同町に住む沖縄人名士として７人が紹介されている。</p>
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	<p>▼ 　終戦後、尼崎の軍需工場だった住友鋼管で人員整理された沖縄県出身の女子挺身隊の救済をきっかけに、１９４５年１１月に尼崎市内５地区の沖縄出身者組織が集まり「尼崎沖縄県人会」が発足した。宝塚の沖縄出身者も合流し、警察の協力を得て行なった沖縄相撲大会で「郷里への手紙を書いてGHQに届け、沖縄への輸送を依頼しよう」と決議、集まった柳行李１個分の手紙を京都のGHQ司令部に運んで沖縄に輸送するという約束を取り付けている。また、先述したように東京の沖縄人連盟による請願書で１９４６年１月２日に「日本政府ハ窮乏セル琉球人避難民ニ遅滞ナク十分ナ食糧、住宅、治療、寝具、衣料等ヲ支給スベシ」というマ指令をとりつけ、援護活動に動いた。行政が機能しないため、県人会は「消えた沖縄県」にかわって帰還事業など行なわざるを得なかった。これが現在も県人会の相互扶助の基盤となっている。親ぼく団体ではなく相互扶助団体である所以である。</p>
	<p>　<br />
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	<p>▼　「沖縄県人会兵庫県本部３５年史　ここに榕樹あり」には、尼崎市を相手に先のマッカーサー司令部の司令書を示しながら交渉し、戦災で焼け残った小学校の空校舎の借用や、引揚者や生活困窮者のための救済物資の配給を受けていた。同書の中に「発足当初、奄美大島関係者によって組織された南西諸島連盟との合流問題が持ち上がった。（中略）ところが、大阪の方ではさっさと合流してしまうのである。名称も南西諸島連盟関西本部として活動した。神戸にあった南西諸島連盟の方は、そこで『我々は沖縄をも含めた南西諸島の団体である』というふれこみで、われわれと同じように、兵庫県庁に向けて救済物資の払下げ交渉に入ってしまった。現に、南西諸島連盟の役員に沖縄出身者がいたから、話はますますややこしくなって、兵庫では大きな混乱が生じてしまったのだった」という一文がある。</p>
	<p>　<br />
<font Size="2"></p>
	<p>▼　先にあげた神戸新聞の記事や島尾敏雄のコメントから、灘を本拠とした南西諸島連盟は詳細な実態は不明だが泡沫的でゲリラ的な雰囲気を感じた。一方、大阪にあった沖縄県人組織は、「沖縄人連盟関西本部」という大きな組織だ。沖縄県出身者の数も兵庫とはケタが違っていた。その大きな組織を、南西諸島連盟はいとも簡単に吸収合併してしまっていた。当時の沖縄人連盟兵庫本部執行部の上江洲久氏は、回想録で南西諸島連盟に対する苦々しい思いを綴っている。（つづく）<br />
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