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2010年4月24日(土曜日)

[報告]沖灘区訪問

カテゴリー: - nada @ 16時00分15秒

もずく取り

去る4月16日から19日まで、沖縄で行われる「清明祭(シーミー)」に
あわせて、7名の灘クミン使節団が沖灘本区を訪問した。清明祭は本土
のお盆にあたる行事で、この日は親族が集まり祖先の墓参りを行う。
沖縄の幹線道路では「清明渋滞」が起こるほどの一大行事だ。

4月16日夜に沖灘本区に到着した一行は[かんから・カン](沖灘本区
小禄)で催された歓迎レセプションに参加、沖灘区長との意見交換を
行った。沖灘区名物「豚のしっぽ」や銘酒「舞富灘」などが振る舞われ、
長峰中生が沖灘に修学旅行に来るようになった話題などに話が弾んだ。

翌17日は沖灘中部の泡瀬干潟を視察。
泡瀬干潟は昨年水道筋で開催されたイベント「泡瀬の海を見てみよう」
沖灘海人(うみんちゅ)の宮道成彦氏から報告があった豊かな自然が
残る広大な干潟だ。泡瀬干潟を守る連絡会の前川氏の案内でクビロミドロ
などの希少生物を観察した。

泡瀬干潟

泡瀬干潟を後にした一行は、本部半島へ向かった。
この時期、沖灘では潮に手足を浸して不浄を清め、健康を祈願して楽し
く遊ぶ「浜下り(ハマウイ)」という伝統行事がある。現在でも重箱を
持って家族で海へ遊びに行くピクニック行事として受け継がれている。
灘区ではこの日、思い思いの食べ物を持って摩耶山へ遊びに行く
「山上り(ムイアガリ)」行事であるリュックサックマーケットが開催
された。灘区は山へ、沖灘区は浜へ。身近な自然を大事にする両クミン
の心が通う行事が1000kmはなれた両区で同時に開催されたことは感慨深い。
灘区民たちは遠く摩耶山に思いを馳せながら、B瀬崎でモズク取りに
いそしみ沖灘のハマウイを楽しんだ。

18日は本部半島から伊江島に渡り、灘区の「なだ桜まつり」の姉妹イベ
ントである「おきなだ百合まつり」を視察した。会場の伊江島リリー
フィールド公園には一面のユリの花が咲き誇り、灘クミンは沖灘名物の
「血イリチャー(豚の血炒め)」や「伊江島牛バーガー」に舌鼓を打った。
4日間の短い滞在であったが、両区の深い絆を確かめることができた有意義
な訪沖灘であった。(おもろまち恵憲)

ゆりまつり

今回の沖灘で収穫した沖灘モズクは水道筋の沖灘料理店[通い船]で4月23、24日に
「もずく小鍋」(要予約)として、また伊江島名物のボイルジーマミ(落花生)は
4月25日に水道筋で開催される[水道筋ビートルズナイト]で供される。


2010年4月8日(木曜日)

沖灘区一行、センバツと都賀川花見を堪能

カテゴリー: - utinadanchu @ 17時52分31秒

沖灘区にある興南高校が、ついにセンバツ優勝戦に進出した。
当日は沖灘区からチャーター便が飛び、本区の灘区民の人々や
沖灘区営飲食店「通い船」のお客さんとともに、甲子園の3塁側
アルプス席で声援を送った。
区民の大声援にこたえ、興南高校は見事に紫紺の優勝旗を手に
沖灘区に凱旋した。

報徳・金村VS京商・井口の投げ合いのころからの沖灘高校野球
ファンという西域系灘区民、慈平さんは、
「あのころも興南高校はマイク仲田(その後阪神)や竹下(その後
大洋)といった好投手を擁して強かったが、決勝進出なんて夢の夢
だった。ほんまにようやった」
と満面のカザフスタンスマイルだった。
また、仕事で声援にいけなかった伊是名系灘区民、名嘉平さんは
「沖灘区から30年前に灘区に来たころは、豊見城が全盛期。
石嶺(その後阪急)や赤嶺(その後巨人)といったスターはいたが、
沖灘代表は悲壮感や同情の目で見られていた。
沖灘勢がこの10年で3回も優勝するなんて考えられない。
自分は将来沖灘区に帰ってうどん屋をするつもりだが、沖灘球児に
うまい灘のうどんを食べさせて、もっともっと強くなってほしい」
と感無量の様子だった。


ところで、沖灘区の学校栄養士、西平家さんの乗ったチャーター機が
神戸空港に着陸できないというハプニングがあった。
西平家さんは沖灘勢としてセンバツ初出場・初勝利をあげた普天間高校
のOGであることから熱烈な沖灘高校野球ファンだが、彼女が甲子園に
来ると沖灘勢は必ず負けるというジンクスがあるため、沖灘区長が
神戸空港および同機に対し着陸許可を出さなかったためだ。
案の定、彼女が搭乗したという情報が入るや否や、相手校の日大三高に
先制の3点が入り、アルプス席は重苦しい空気に。
その後、着陸制限が功を奏して興南がいったんは逆転するなど試合は
もつれ、延長戦に入った。
興南が5点を上げた延長12回表、彼女が来てもさすがに逆転されること
はないだろうと区長は判断、着陸許可が出され無事に興南は優勝、
西平家さんも閉会式を見ることができた。

 

翌日、沖灘区民一行は都賀川で花見のもてなしを受けた。
一昨年の鉄砲水で亡くなった子供や若い人たちに思いを馳せながら、
地域の人たちが守る清流に遊んだ。
聞くところによると、子どもを亡くした親たちは、いつまでも区民を
癒す場であってほしいと、事故による行政措置でこの川が閉鎖される
ことがないよう申し入れたという。

都賀川は、古くから沖灘民謡の練習のメッカだ。
かつて、川のほとりにある灘警察署で武骨な署長が、灘区を担当する
毎日新聞や神戸新聞の若い記者に
「悲惨な事件や事故の処理に追われるなかで、川から流れてくる沖灘
三線の音色にはとても心が癒される」
と語ったという。
この日も灘区民が三線や笛などを持ち寄り、桜の花びらと春風にのせ
謡い踊っていた。

三線が絶滅危惧種に指定されるほど市民から遠い存在になりつつある
沖縄と違い、灘区では三線はとても元気だ。
一行は沖縄では決して味わうことができない、ぜいたくな川遊びを
堪能して沖灘区に帰った。

沖灘区の区山「長嶺山」を背景に、清く美しい都賀川と桜

 


2010年1月28日(木曜日)

[レポート]117避難所シルモン&コナモンセッション2010

カテゴリー: - utinadanchu @ 00時32分06秒

一方、ここ沖灘区では1月17日、沖灘大や琉球大学沖灘学部、
沖灘キリスト学院大学など区内の学生たち30人が地元商店の人たちと
一緒に「マチグヮー」(商店街地域をあらわす沖灘方言)を歩き、
防災や災害時の避難について考えた。
沖灘大福祉学科から車イスや視覚障がい者用の杖を借り、障がい者、
健常者、観光客の視点で沖灘通り商店街、第一沖灘公設市場といった
沖灘区を代表する商店街区を歩いた。


スタート地点であるホテル沖灘荘の一角に阪神淡路大震災時の
六甲小学校避難所を再現し、
「1・17避難所シルモン&コナモンセッション in ナハ from ナダ」
を開催した。水・電気・都市ガスなしという状況で、災害発生時を
イメージしている。

午前10時、模擬避難所で炊き出し講座がスタート。
沖灘区学校給食センター管理栄養士の西平家夏子さん、那覇駄高校の
斜め向かいにあるお好み焼き店主で沖須磨区民の伊計田孝之さんが
アドバイスを行った。

まず豚汁炊き出し指導で、1月17日前後に沖灘区内の学校給食で
避難所での食を再現・提供する活動を行う西平家さんから、食材の
刻み方などを教わった。
肉をマチグヮーで買った時、「何に使うの?」と聞かれ今回の趣旨を
話したところ、「それならおまけしてあげる〜」と1・5倍くらいに
してくれたとか。

調理器具は、イスやブロックなどそこにあるものを利用。
左はFM−OKINADAで放送するため取材・収録中の沖灘大生リポーター、
チコタン。

阪神淡路大震災時と同じく、食器洗いしなくてよいよう食器を
ラップで包んだ。

沖須磨区民のお好み焼き店主、伊計田さんの指導でお好み焼きの
生地づくりの指導が行われた。
鉄板がないので広東鍋で代用した。

13時から、マチグヮー歩きの作戦会議。

マチグヮー歩きは、まず浮島通りコースからスタート。
商店街「サンライズ沖灘」を横断。車の往来が激しいうえ、
歩道の手前で自販機の入れ替えをする大きな車が妨げになり、
歩道に進めない。
視覚障害者の擬似体験を行っているのは、浮島通り会会長。

ただでさえ狭い歩道にも障害物が多数あり、車イスや視覚障害者には
極めて厳しい状況だ。車の往来が激しく、立ち止まってチェックする
ことのもできないほど。

平和通り商店街コースもスタート。
第一牧志公設市場の粟国さんが、状況をガイドする。

沖須磨区のお好み焼き指導者・池田さんも、震災時の被災者ルックで
当時の状況を元に情報提供した。

第一牧志公設市場に向け、左折するポイントで防災・バリアチェック。
通い船で沖縄と灘を漂流する区民にはおなじみの場所かも。

市場本通りを横切る手前、水上店舗あたり。炊き出し指導をした
西平家夏子さんの祖母がかつてここにあった生地店をやっていて、
西平家さんも小学生時代に店番をしていたそうだ。
車イス体験をしているのは、ミス琉大沖灘学部の灘玉元リーサさん。
店のおばちゃんが声をかけられ、笑顔を見せる。

このあたりはいつも点字に沿ってバイクが駐車されており、問題箇所だ。
除けてもらった。

点字の上の植栽。あっちこっちがこういう状況になっている。

40分ほどかけて、ゴールの「まちつな資料館」(牧志公設市場奥、
にぎわい広場)に到着。
沖灘区が主催する資料展「阪神淡路大震災15年 避難とボランティア」
に見入る参加者。灘区にある神戸大学の資料や避難所での経験を元に
制作したパネルを展示している。
震災時に沖灘区にあったプロ野球団「OKIX Blue Wave」で「がんばろう
NADA」のワッペンをつけて大活躍し、沖灘区民の熱狂的支持を得た
外国人主力打者、N・D選手のレプリカユニフォームも飾っている。
なお、N・D選手は球界初のイニシャル名登録された選手だ(背番号24)。

震災のときの灘区民の経験から、
「ひとりでも多く、ご近所の命を救うために
 ひとつでも災害救助ツールの常備を」
と、沖灘区民はかならず自宅に常備している災害救助ツールも
展示している。

沖東灘区からこの日のために送られた「はるかのひまわり」も配られた。
1月17日早朝に神戸・東遊園地で行われる「1・17希望の灯り」で
配られるものと同じものだ。
モデルはミス沖灘国際大学の灘玉城エリカさん。

まちつな資料館のテラスで、マチグヮー歩きのふりかえり。
予想以上に人数が多かったので、チェックしたことをマップにプロット
するのは別の機会にし、ふりかえりと情報共有を中心に進めた。
マップへの落とし込みやマチグヮー、大学での発信、そして沖灘から
沖縄への発信もこれから考えて行こうということになった。

このあと「模擬六甲小学校避難所」に戻り、一日を振り返りつつ、
午前の炊き出し指導で習ったお好み焼きを沖灘大生たちが実演した。
沖灘区旗のもと、静かなランタンの灯りの中で一緒にいただいた。

沖灘区の区旗。3つの星の意味はさまざまな説があり、
「沖縄にいる灘人のマブイ」
「灘にいる沖縄人のマブイ」
「通い船で沖縄と灘をトランスポートする漂白民族のマブイ」
を現し、沖灘人のアイデンティティーのしるしであるという説が
有力だ。
他に、壇の浦の戦いで滅んだとされる神戸ゆかりの平家一門のうち、
航海術を生かして海を渡り琉球に血を残したとされる平資盛、有盛、
行盛のマブイをあらわすという説もある。
平資盛、有盛、行盛の子孫は各島に平家部落をなし、沖灘民族の祖
とされる。

また、沖灘民族は3文字姓が多いのは、3つ星に敬意を表するため
といわれる。
(伊計田、西平家、灘玉元、灘玉城、上洲見、名嘉川、與次川、
荷伊志、嘉味井、眞安見など)

八重山の「アカマター・クロマター」に並ぶ秘密神事とされ、摩耶山の
密教行事に倣った秘密儀礼のため、地元の琉球新灘、沖灘タイムスの
区内各新聞社以外には厳しい報道規制を行っていた。
しかし、極秘裏に企画会議を行ったお好み焼き・たこ焼き店「小河」で、
たまたま居合わせた琉球新報と沖縄タイムスの記者に機密が漏洩し、
両紙の那覇版トップ記事としてスクープされた。


2010年1月18日(月曜日)

[レポート]満月の夕 117避難所セッション2010

カテゴリー: - nada @ 17時30分08秒

水道筋の路地に歌があふれた。
今年で3回目を迎えた「満月の夕 117避難所セッション in ナダ from ナハ」は、
沖灘区でも最も重要なイベントの1つである。
今年は沖縄の本区でもイベントがあるため、沖灘区長の来灘はかなわなかったが
「がんばってね〜」とエールが届いた。

午後5時開場。
沖灘区民ホール「通い船の間」には多くの在灘沖灘区民(ウチナダンチュ)が集まった。
定員7名のホールは立錐の余地もない。
会場に入れなかったクミンは、総務課が路地に用意したストーブで暖をとった。
参加者には避難所食の豚汁とおにぎりが配給された。
沖灘区民ホール自慢のオーロラビジョン「ちゅらビジョン」には15年前のNHK
ニュースが流され、壁には日本経済新聞の号外が貼られた。
そして、今回のイベントはNTV(ナダタマテレビ)によって全世界にライブ放映された。

5時30分。
2階の楽屋でぎりぎりまで練習を重ねていた沖灘区フィルハーモニー楽団
(通称へなちょこ三線同好会)のメンバーもスタンバイOKだ。
午後5時46分、沖灘区しまづくり推進課長の発声で黙祷が捧げられた後、
ゆっくりと区歌「満月の夕」のイントロが始る。

 風が吹く 港の方から 焼け跡を包むようにおどす風
 悲しくてすべてを笑う 乾く冬の夕

三線、一五一会、太鼓、ピアニカ、ウクレレ、ギター、そして歌声、手拍子。
バラバラの個性が、それぞれに干渉し合いながら1つになった。
細い路地を行く人が足を止め、演奏に耳を傾けた。
「そうか、今日は特別な日なんや…」
たまたま通りがかった、大阪から来灘中の観光客もいつしか輪に入っていた。

「震災の時、こんな雰囲気の飲み屋がたくさんありましたよね」
と、徳島から帰灘中の灘クミン氏。
そう、灘区内でも街のあちこちに見られた「あの」光景だ。
極度の悲しみの中、空き地や公園や自宅の軒先に、コンテナや廃材、ビニールシートでつくられた
即席の酒場で、人々は傷ついた心をいやした。

区歌の合唱に続いて「つる」などの沖灘民謡や、八重山民謡「月ぬかいしゃ」などが
奉納された。
そして陽気なイントロとともに「おとんじまんのプリンセスソース」が始まった。

 「なだ」とつくものなんでも好きで
 酒に市場にそうそうまで
 コロッケ買いにどこ行くの?
 ドイかミズノかフジノまで

「チコンキーナガミネ」と呼ばれた、長峰中学校卒業の長嶺暁氏の作詞による沖灘区最大の
ヒットソングで、沖灘自慢の様々なアイテムが歌詞内にちりばめられている。

 串かつかざして高々と
 ソースに託した灘ッ子の
 夢があるからおいしいねん
 おとん自慢のプリンセスソース
 おかん自慢のケンコーマヨネーズ

沖灘区民は悲しい時も嬉しい時もこの曲で乾杯する。
この日は本区から献上された島酒と、沖灘区民ホール内「灘味街」の
よしみ亭店主から灘酒、大黒正宗が振る舞われた。

 震災復興迎えた頃は
 みんなおんなじ夢を見た
 灘は昔のままでいい
 灘の未来に ほな乾杯!

午後7時。最後にもう一度心を合わせて「満月の夕」を歌ってイベントは終了した。
震災後に節目はない。
16年目も17年目もこのイベントは沖灘区民によって開催されつづけることだろう。

  ヤサホーヤ 焚き火を囲む 吐く息の白さが踊る
  解き放て いのちで笑え 満月の夕

「おとん自慢のプリンセスソース」はこちらで試聴できます。
http://www.voiceblog.jp/radio_nada/282135.html


2009年7月17日(金曜日)

沖声灘語が見る、仮面ライダー神戸版

カテゴリー: - utinadanchu @ 02時48分12秒

▼ 6月初旬、ウエブ内の沖灘映像をパトロール中、「人造人間キカイダー神戸版」「仮面ライダー神戸版」という極めて不審な映像を発見、ナダタマに通告し現場の特捜を依頼した。いったい、いつ、誰が、どのような目的でこの映像を制作したのか。彼らの狙いは何なのか。ナダタマ灘文化堂の捜査で、撮影の場所までは解明されつつある。この間、沖声灘語でも手をこまねいていたわけではない。映像に出てくる灘区内の情景がどこなのかを賢明に思い出そうとしたのだが・・・。神戸・灘を離れ沖縄に来て幾星霜。生まれ育った場所の、記憶にある風景には違いないのだが、どこなのかわからないのがもどかしい。

▼ 刑事たちが暗室でビデオを食い入るように眺め、「そこ、止めて」とかいいながら犯行現場についてとやかくいいあう刑事ドラマのように細かく映像を分析したが、残念ながら自分の記憶では灘区内と思われる場所は特定できなかった。ただ、灘文化堂の取材に答えたとおり、撮影された時代は「蒔ちゃん」という役柄で登場する女性の髪型から1987〜1991年と考えられる。上下そろいのニットの膝丈キュロットスカートに「ストレートのロング+とさか前髪+ハイヒール」は、1987〜88年が全盛だ。相方の男性の髪型が80年代前半のテクノカットの名残で、耳の上で平行に近い角度で切りそろえられていることも考えあわせると、87〜88年で間違いない。おそらく、映像に出てくる彼らはいま40代の半ばにさしかかろうとしているであろう。

▼ しかし、沖声灘語として最も問題なのは、「仮面ライダー神戸版」のエンディングのクレジットに「伊波」「金城」「兼本」の3人の沖縄姓が登場することである。ここで沖声灘語は、ウルトラセブン「ウルトラ警備隊西へ」で、神戸港でのキングジョーとセブンの死闘を演出した、あるいは六甲山中にウ警備隊の国際組織を想定し表六甲ドライブウエーにポインターを走らせた、沖縄出身で不世出のウルトラ脚本家金城哲夫(故人)を頭の片隅に思い起こさずにはいられない。「神戸版」が、シリアスではなくただのアマチュアによるパロディであることを承知しても。いや、考えようによっては、この作品のフレームとフレームの間にはとてつもないシリアスな背景があるようにも思える。

▼ いまだ姿を現さない彼ら。しかし、沖声灘語はついに、極めて短いが接触に成功した。彼らのコメントは「次回作も編集中。乞うご期待」だった。



2009年6月14日(日曜日)

灘にあった南西諸島連盟 最終章 その1

カテゴリー: - utinadanchu @ 02時06分05秒



▼ 戦後の灘にあった南西諸島連盟の実態解明を間近に迫ったところで、MacBookは割れLANは力尽き、筆者のマブイストーンも落ちていた。半年間の断筆となったが、ついに自宅に沖縄電力「ひかりふる」が開通、本日から最終章「南西諸島連盟と戦後闇市」で復活します。
 本編は沖縄大学地域研究所投稿を兼ねるため論文調・新聞調で、写真や図版もなくお読み苦しい点があるかと思いますが、ごカンベンください。

 

▼ これまでの検証で、奄美連盟や沖縄人組織の部分的解体や合従連衡などを経て、南西諸島連盟は1946年8月ごろ沖縄・奄美出身者を救済する名目で設立されたことがわかった。日本国民に配給制が敷かれる中で、米軍により故郷が占領され「第三国人」となった彼らが物資の獲得を優位に進めるため連盟を設立したことは間違いない。沖縄人連盟の請願書に基づくマッカーサー覚書によると、奄美出身者だけの「奄美連盟」では援助適用外になり、兵庫県から満足な援助物資の払い下げをされなかったと見られる。そこで、沖縄出身者も含めた包括的な支援団体という大義名分を出すことで、名目上は払い下げの適用が可能としたのだ。

 

▼ 神戸奄美会創立60年記念誌「奄美」によれば「その後、東地区に南西諸島連盟が設立された。身分証が発行され、乗りもの不足であったにも拘わらず、身分証を呈示すれば優先的に乗車券が購入でき、買い出しなどには大いに役立ったものである。奄美連盟では北海道から鰊、ジャガイモ、昆布等を調達して食糧難の会員に頒布したものだ」。また、長田区の真陽小学校東側の空地を借りて奄美出身者用のバラックを建てて引揚者や住宅困窮者への提供を行なったほか、北海道の物産を購入して出身者に配るなどしたと記されている。

 

▼ 先にあげた、島尾敏雄の回想を思い出してみたい。
「それと、身分があの当時、第三国人ということになって、物資なんかが手に入りやすかったと思います。それで金の廻りがよくなって、南西諸島連盟というのを作って、かなり羽振りをきかしたんです。ぼくはその頃神戸にいたのですが、彼らは神戸の街中を、南西諸島連盟と大書きした自動車でぶっとばしたりしていましたね」
「連盟にはいりますと、まあ物資が手に入る。第三国人にはその頃特別な配給ルートがあったんでしょうか、ぼくにはわかりませんが・・・それで家内が奄美なもんですから、はいれってかなりすすめられました」。

 

▼ 7月の神戸新聞に、「青年隊またお手柄」の見出しで「1946年5月に発足した南西諸島連盟神戸灘支部青年隊が自動車泥棒検挙に協力」の記事がある。「5月初旬発足以来警察に協力、すでに窃盗犯5件を灘署につき出すなどめざましい活動をつづけている」と記されている。ヤミ市は全盛期を迎えていたが、戦争で行政による警察力は弱体化しており、ヤミ市に関わる者は自警団を作って自前で警備にあたっていた。自警団同士の乱闘が起こるなど情勢は不安定だった。「南西諸島連盟神戸灘支部青年隊」もまた、そんなヤミ市組織の自警団だったのだろう。
(つづく)
 
 

 


2009年2月16日(月曜日)

[レポート]泡瀬の海を見てみよう

カテゴリー: - nada @ 10時00分30秒

春一番が、掃除したてのサッシの窓に埃の渦を踊らせた2月13日、灘にも南の風が吹いた。
水道筋の週末限定沖縄おでん屋「通い船」で、灘区在住、水道筋フリークの水中写真家、
宮道成彦さんによる沖縄・泡瀬干潟のスライド&トークショー
「ゆんたくサロン 泡瀬の海をみてみよう」が開催された。
宮道さんは沖縄の海だけではなく、震災を機に神戸の海の撮影にも取り組んできたオキナダンな
水中カメラマン。
そんな宮道さんが撮った泡瀬のすばらしい自然を肴に、泡盛を酌み交わし、沖縄おでんを
つつきながらユルユルとゆんたく(おしゃべり)しようというのがこのイベントの趣旨だ。
7人定員の店内に20人以上のシマの海を愛する人が集まった。
ほぼオールスタンディングのダークダックス状態。
大阪や姫路から来られた方もいた。

やがて沖縄民謡をBGMにユルユルとスライド&トークショーが始まった。
泡瀬干潟は沖縄本島南部にある南西諸島最大級の干潟だが、
つい最近、豊かな自然が残るこの干潟の埋め立て工事が始まった。
このイベントのユルさとは裏腹にシビアな問題を抱える場所なのだ。
しかし、くくっと泡盛を2杯ほどあおった宮道さんに気負いはない。
「この豊かな自然を見て、何かを感じてもらえればそれでいいんですわ」

「おお〜」
店内の壁に映し出されたサンゴの群生に会場から感嘆の声。
まるで森のようにどこまでも続くサンゴの広がりは沖縄の離島でもなかなか見られない
光景だそうだ。
こんな海が那覇からそう遠くない場所に存在している。
途中、泡瀬周辺のおいしい店情報も紹介された。
「ここの魚汁、旨いんですよ〜」
「マグロが大量のときは刺身もおかわり自由なんですよ〜」
「おお〜(歓声)」
やはりメシ話は盛り上がる。

「こんな風景もなかなかないんですよ」
サンゴの間に海草が茂っている。
普通はサンゴならサンゴだけなのだが、ここ泡瀬は海草とサンゴが共生する場所。
森だ。まさに海の森(ムイ)だ。
生き物たちのすばらしい共生の姿である。

今この海が、埋め立てによって失われようとしている。
オニヒトデではなく「人手」によって。

最後に泡瀬の子どもたち、青い空と真っ白な雲が映し出された。
「この子たちに何が残せるんでしょう」
声高に埋め立て反対を訴えるわけでもなく、終始ユルりとしたクールトークの宮道さんが
少し熱くなったような気がした。
「埋め立て『反対』ではなく、このすばらしい環境を残していくことに『賛成』なんです」
宮道さんらしい言葉でトークショーは締めくくられた。

スライドショー終了後もゆんたくは続いた。
みんな立ったまま、泡瀬のこと、沖縄のこと、海のこと。
そして遅れてきた人のためにアルコール上映…
もといアンコール上映も行われ、沖灘色に染まった水道筋の夜は更けていった。

 

 
(写真提供:沖縄・鋒山さん)

蛇足だが、灘的に(いや個人的に)興味深い映像があったことも紹介しておこう。
海中のマリモのような藻。なんでも世界でも沖縄本島の3カ所にしかいない希少な
藻だそうで「クビレミドロ」というらしい。
ご存じのようにミドロ(味泥)は、灘南部に古くからある地名である。
沖縄と灘がリンクした瞬間だった。
 そういや、味泥町のある西郷川の河口近くでヘドロ取り(泥団子の仕上げ用の超微粒砂の採取)
 に行ったときにもミドロあったよな…
 アオミドロって青味泥って書くんだと思ってたよな。
 この店の近くにあった灘松竹で『吸血鬼ゴケミドロ』も上映されていたんだよな…
美しい自然とは裏腹の様々なミドロを思い浮かべてしまった。宮道さん、ごめんなさい。

                     (報告:naddist 水中写真は宮道さん撮影)

[宮道さん情報]
●ブログ「僕にとって宝箱の海・大阪湾・神戸の海から」
水中写真満載のブログ
http://blog.zaq.ne.jp/miyamichi/

●写真展「神戸空港周辺の海の仲間」
宮道ワールドの真骨頂、神戸空港周辺の水中写真展
日時:2月7日(土)〜27日(金)
場所:神戸空港ターミナル1階到着ロビー

●「上方水中映像祭り」
プロ、アマチュアの水中写真家によるスライドショー&ムービー
日時:2月21日(土)
   午前の部 10:00開場(受付開始)
         開演10:30〜13:00
   午後の部 13:30開場(受付開始) 
         開演14:00〜16:30
場所:大阪・海遊館ホール(http://www.kaiyukan.com/access/index.htm
詳細はhttp://www5.plala.or.jp/hiro-dv/

※次回からは沖灘人さんによる通常の「沖声灘語」をお届けいたします。


2008年12月26日(金曜日)

灘にあった南西諸島連盟 第2部 その5

カテゴリー: - utinadanchu @ 23時18分50秒



▼ 沖縄人連盟兵庫県本部は、大山朝繁会長を中心に関西本部の名称変更の真意と兵庫県本部の対応策について検討を重ねた結果、南西諸島連盟への名称変更を求める関西本部の申し入れを拒絶し、同本部を脱退することを決定した。理由は、(1)南西諸島という薩南諸島から八重山群島までを総称するための組織名称では、総ての運動で主体性と迫力が著しく減退すること、(2)背後に沖縄人連盟とはまるで次元の異なる目的を持つ政治団体の加盟員とシンパの関係にある沖縄人連盟関西本部の事務局長と神戸の南西諸島連盟会長が共謀し、利権獲得と党利党略の足場作りを企んだ絶対に許せない行為であるから、というものだ。その後、大阪の南西諸島連盟関西本部は名称変更後ほどなく「南西諸島連盟」と「沖縄人連盟近畿本部」に分裂し、紛糾する。やがて東京の総本部の裁定により「沖縄人連盟近畿本部」は解散、「南西諸島連盟(大阪)」は沖縄人連盟関西本部に名称を戻すことで決着がついたという。
 一方、「所属政党」の勢力拡張を目指す「フラクション活動家」(上江洲氏の言葉から)は沖縄人連盟兵庫県本部に伸張し、1947(昭和47)年5月に社会党から尼崎市議に当選していた上江洲氏は同年7月に辞任した。1カ月後に上江洲は沖縄青年同盟兵庫県本部(沖縄県人会兵庫県本部青年部の前身)の執行委員長に推挙され、青年部組織で組織闘争が継続される。これで、沖縄県人会兵庫県本部35年史で上江洲氏が力を込めた「党利党略」「所属政党」の意味がようやく明らかになってきた。社会党から出馬した上江洲氏にとってのフラクション組織が共産党であろうことは、想像できる。

 

▼ 神戸における沖縄出身者の中心は、沖縄人連盟兵庫県本部副会長を兼ねる大城清蓮が代表を努める「神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所」だった。実は、同事務所の相談役は1923(大正12)年に大阪で関西沖縄県人会を作り、戦後に東京で全国組織の沖縄人連盟創設にも関わった沖縄出身の活動家、井之口政雄だったという。井之口は1947(昭和22)年4月、戦後初の国政選挙で共産党所属として兵庫2区から立候補(落選、2年後の総選挙で雪辱)している。一方、代表の大城は、日本最大のスラムといわれた葺合区の「新川」を救済した社会運動家で宗教家の賀川豊彦と接点があった。そう、神戸では泣く子もサンライズ(メロンパン)を食う、灘神戸生協(コープこうべ)の産みの親だ。先に挙げた1946(昭和21)年1月の神戸新聞記事「悲惨な沖縄同胞に同情 街の義人が連絡事務所を開設」で「神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所」設置に関し大城は「(沖縄人連盟は)東京に本部があり全国各地に支部があることはあるのですが、徒らに寄付金を集めるのみで何等仕事をしてをりません」と語った。そして、少年工を中心とした沖縄出身者の惨状に「賀川先生に御願ひして沖縄の事情もきき連絡をつけてやりたいと思ひます。しかし実際問題として生活に苦しむ人々に就職の斡旋をしてやり、悪への凋落を防ぎたいのです。神戸在住の沖縄県人は速やかに当事務所に連絡していただきたい」とコメントしている 。

 

▼ 当時、日本共産党は沖縄・奄美群島の米国占領を「日本からの解放」とし、占領軍を「解放軍」と捉えていた。さらに「沖縄人は日本人ではない」とする東京の全国沖縄人連盟に呼応していた。1946年2月の党大会で、日本共産党は沖縄人連盟あてに「沖縄民族の独立を祝う」というメッセージを採択している。東京の沖縄人連盟の「在日沖縄人」などの表現や共産党との関わりについては、総会でも混乱した状況にあった。しかしながら、沖縄人連盟兵庫県本部は、沖縄を日本として扱うことを主張している。一方、先にあげた神戸新聞記事で奄美大島連盟神戸支部が「親米の精神に則る」としていたように、奄美系組織にも共産党の流れがあったようだ。奄美系団体および神戸の沖縄系団体は親米派すなわち独立を目指す共産党系で、尼崎の沖縄人連盟は本土復帰派すなわち社会党系だったのか。つまり神戸の南西諸島連盟は共産党系で、この共産党系の進出により沖縄人連盟兵庫県本部は混乱に陥り、上江洲が辞任するなどの混乱があったのではないか。ちなみに占領下にある沖縄本島で1947年に発足した非合法沖縄共産党(沖縄人民党)は、日本復帰ではなく沖縄独立を掲げていた。同じ時期に結成された奄美共産党も、米国に弾圧されるまで「奄美人民共和国」の樹立を掲げた。(沖縄、奄美の共産党については諸説あり)

 

▼ 昨日12月25日クリスマスは、そんな奄美群島が沖縄より19年も早く本土復帰を果たしてから55年目の節目だった。
(つづく)
 
 

 


2008年12月20日(土曜日)

灘にあった南西諸島連盟 第2部 その4

カテゴリー: - utinadanchu @ 00時22分53秒



▼ 「問題は神戸市灘区で、南西諸島連盟という鵺(ぬえ)的組織が結成された事で始まりました。徒花のようなこの組織は看過できない重大な側面をかかえて、否応なく沖縄人連盟(大阪・兵庫)を渦中に巻き込み、組織の存立にかかる大混乱に陥れました。
 この奇怪な組織(数年も経ず消滅しましたが)は、奄美出身のNとMが共謀し、援護物資の払い下げを目的にでっちあげた組織であることは明白でした。彼らがこのような邪道に走ったのは、沖縄人連盟兵庫支部連合会(兵庫県本部)の、兵庫県からの援護物資払い下げに、目が眩んでの暴走であったのは疑う余地がありません。
 沖縄人連盟の援護物資払い下げは、日本政府宛マッカーサー覚え書に依拠して行った組織行為であり、国内に母県を持つ奄美連盟等奄美出身者の組織が、マ覚え書の適用外であったのは止むを得ないことでした。然し私利私欲の利権に目が眩んだ前記NとMやその一味は、南西諸島の呼称と被せて組織名とし、沖縄出身者も総て包含していると偽り、兵庫県に援護物資の払い下げを申請しました」。

 

▼ 上江洲によると、沖縄人連盟兵庫県本部の発足当初、奄美大島の関係者によって組織された南西諸島連盟との合流問題が持ち上がったという。敗戦後も沖縄とともに日本から行政を分離された奄美大島は沖縄と同じ運命にあり、共同歩調をとることについて異論のあろうはずはなかったが、一つの組織として合流してしまうということになると問題は別だとした。日本から行政上分離されているとはいっても立場が異なる、というのだ。沖縄は県ぐるみ無くなってしまったのだが、奄美大島の場合は鹿児島県という母県を持っている。完全に統一した運動を組みにくい。どこかで食い違いが生じるだろう。同じ組織の中で意見の食い違い、とり組みの違いが出てくるとうまくいかなくなる。分裂せざるを得なくなる。それよりは、あくまでも別の組織で、お互いを尊重し合いながら連帯して運動にとり組んだ方がより建設的である−−というのが沖縄人連盟兵庫県本部の言い分だった。

 

▼ 沖縄人連盟兵庫県本部は、神戸ではすでに東神戸、生田、西神戸の三地区に沖縄人連盟兵庫県本部の傘下支部が結成され積極活動しており、生田支部内には用地を確保して活動拠点の建設を目指していたという。県や神戸市、尼崎市をはじめ各行政機関との関係も円滑に進展しており、「局地灘区の南西諸島連盟は、もう当方には些かも妨げになる存在ではありませんでした。やがて消滅するのは明らかでしたので、同組織の存在は、完全に眼中から消えかかったのです」(上江洲)。
 ところが、大阪では沖縄人連盟は南西諸島連盟に合流してしまった。大阪沖縄県人会連合会の記録では、「こうした困難な情勢の中で県人の生活と権利を守るために県人会づくりがスタートした。昭和21年2月21日、東京都共立講堂において全国沖縄人連盟を結成、同年4月には大阪市中之島公会堂において南西諸島連盟大阪本部(資料によっては関西本部)を結成し、大阪の各地区に支部を設けた」とあり、「名称については、同じ占領下にあった奄美諸島も加入していたので、幾多の経過をたどり、今日に至った」としている 。上江洲は「神戸にあった南西諸島連盟の方は、そこで『我々は沖縄をも含めた南西諸島の団体である』というふれこみで、われわれと同じように、兵庫県庁に向けて救済物資の払下げ交渉に入ってしまった。現に、南西諸島連盟の役員に沖縄出身者がいたから、話はますますややこしくなって、兵庫では大きな混乱が生じてしまったのだった」と語っている。

 

▼ 先の1946年8月の神戸新聞記事で奄美連盟の灘支部が解消されたこと、神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所の代表者である大城清蓮が尼崎の沖縄人連盟兵庫県本部の副会長に名を連ねていること、多くの沖縄人名士は灘南や脇濱に住んでいたことなどから、南西諸島連盟は奄美連盟から合流した一派と神戸で沖縄出身者の窓口となっていた大城らが立ち上げたのではないだろうか。特に神戸には神戸製鋼や川崎製鉄勤務者に代表される、尼崎とは異なる階層の沖縄県出身者が多くいたことで、後で述べるように南西諸島連盟が戦前からのプロレタリアートの流れを組んでいる可能性も否定できない。
 南西諸島連盟は他地域では見られない奄美と沖縄のハイブリッド組織である。神戸では、同じ中国系が多い横浜などでは絶対にありえないことだが、華僑組織や華僑学校は大陸系と台湾系のハイブリッド組織になっている。奄美と沖縄のハイブリッドも、神戸らしいボーダーレスな一面かもしれない。実際、神戸には沖縄出身者と奄美出身者が結婚して生まれた琉球ハイブリッド2世は多い。(つづく)
 
 

 


2008年11月21日(金曜日)

灘にあった南西諸島連盟 第2部 その3

カテゴリー: - utinadanchu @ 02時33分43秒



▼  1946年8月に沖縄人連盟兵庫県本部が結成される前から、沖縄県出身者は同胞の救済のため組織的に動いていた。もともと戦前から、出稼ぎ者を中心とした沖縄県出身者による互助のための組織活動は盛んで、大阪では1924年に関西沖縄県人会が設立され、大阪球陽新報社から「球陽」という在関西の県出身者向けの新聞も発行されていた。また沖縄県内の字ごとの郷友会活動も盛んで、神戸では沖縄県北部の大宜味村塩屋から川崎製鉄所や神戸製鋼所、三菱重工などに出稼ぎに来た者が多かったのか、「葺合塩屋相愛会」「兵庫塩親会」などの名前を大阪球陽新報社発行の小冊子などで確認できる。注目しておきたいのは、それら同郷会の会長等の住所に「灘南通」と「脇濱町」の地名が見えることだ。同町に住む沖縄人名士として7人が紹介されている。

 

▼  終戦後、尼崎の軍需工場だった住友鋼管で人員整理された沖縄県出身の女子挺身隊の救済をきっかけに、1945年11月に尼崎市内5地区の沖縄出身者組織が集まり「尼崎沖縄県人会」が発足した。宝塚の沖縄出身者も合流し、警察の協力を得て行なった沖縄相撲大会で「郷里への手紙を書いてGHQに届け、沖縄への輸送を依頼しよう」と決議、集まった柳行李1個分の手紙を京都のGHQ司令部に運んで沖縄に輸送するという約束を取り付けている。また、先述したように東京の沖縄人連盟による請願書で1946年1月2日に「日本政府ハ窮乏セル琉球人避難民ニ遅滞ナク十分ナ食糧、住宅、治療、寝具、衣料等ヲ支給スベシ」というマ指令をとりつけ、援護活動に動いた。行政が機能しないため、県人会は「消えた沖縄県」にかわって帰還事業など行なわざるを得なかった。これが現在も県人会の相互扶助の基盤となっている。親ぼく団体ではなく相互扶助団体である所以である。

 

▼ 「沖縄県人会兵庫県本部35年史 ここに榕樹あり」には、尼崎市を相手に先のマッカーサー司令部の司令書を示しながら交渉し、戦災で焼け残った小学校の空校舎の借用や、引揚者や生活困窮者のための救済物資の配給を受けていた。同書の中に「発足当初、奄美大島関係者によって組織された南西諸島連盟との合流問題が持ち上がった。(中略)ところが、大阪の方ではさっさと合流してしまうのである。名称も南西諸島連盟関西本部として活動した。神戸にあった南西諸島連盟の方は、そこで『我々は沖縄をも含めた南西諸島の団体である』というふれこみで、われわれと同じように、兵庫県庁に向けて救済物資の払下げ交渉に入ってしまった。現に、南西諸島連盟の役員に沖縄出身者がいたから、話はますますややこしくなって、兵庫では大きな混乱が生じてしまったのだった」という一文がある。

 

▼ 先にあげた神戸新聞の記事や島尾敏雄のコメントから、灘を本拠とした南西諸島連盟は詳細な実態は不明だが泡沫的でゲリラ的な雰囲気を感じた。一方、大阪にあった沖縄県人組織は、「沖縄人連盟関西本部」という大きな組織だ。沖縄県出身者の数も兵庫とはケタが違っていた。その大きな組織を、南西諸島連盟はいとも簡単に吸収合併してしまっていた。当時の沖縄人連盟兵庫本部執行部の上江洲久氏は、回想録で南西諸島連盟に対する苦々しい思いを綴っている。(つづく)
 
 


2008年11月7日(金曜日)

灘にあった南西諸島連盟 第2部その2

カテゴリー: - utinadanchu @ 14時53分36秒



▼ 1946年3月、兵庫県奄美連盟は沖縄人連盟に合流すべく発展的解消されることになり、連絡事務所が神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所代表の大城清蓮方に置かれることになった。一方で奄美連盟は同月に連盟結成報告会を行ない、兵庫区御崎町に神戸支部を置いた。さらに奄美大島連盟神戸支部が尼崎の奄美連盟との合流を視野に「親米の精神に則り」長田区で結成された。4月になると、奄美連盟兵庫県連合結成大会が神戸市兵庫区の吉田国民学校で結成され、事業として相互援助を図るため協同組合や図書館の設置、機関誌発行を申し合わせている。この段階で、神戸市内で「奄美」を名乗る団体が少なくとも3団体はあったことが想像される。それぞれが掲げる「沖縄人連盟に合流」「親米の精神に則る」「協同組合などの事業」といった言葉に注目しておきたい。

 

▼ 4月には、奄美連盟から「急告奄美出身者へ」という案内広告で、兵庫県下在住奄美出身者は四月十九日尼崎本部に於ける決定に拠りて総て奄美連盟兵庫県連合会に結集」が呼びかけられている。この記事で特筆されるのは、「現在巷間に流通する奄美連盟マーク及び身分証明書は本連盟制定のものに非ざればその効力と認めず」という文言があることだ。なぜマークや身分証が重用視されたのか。その効力とは何だったのか?

 

▼ この奄美連盟は、帰還事業で8月に神戸新聞で「奄美大島ヘノ帰還希望者ヘ急告」という案内広告を出している。「故郷へ御帰り希望の方は帰還期日の割当の都合がありますから来る9月5日までに必ず申込下さい。帰還証明書の発行その他の帰還事務を取扱っております。奄美連盟」としたうえで、取扱所として本部(神戸市生田区三越百貨店6階)、東部支部(灘支部が解消、葺合区大日通1)、西部支部(長田区西尻池)、尼崎本部、尼崎東部本部、明石支部をあげている。この中の、「灘支部が解消」という文言も覚えておきたい。

 

▼ 沖縄人組織の動きはどうか。先に当時の「町の義人」として紹介した大城清蓮が路頭に迷う悲惨な同胞沖縄県民のため1946年1月に生田区元町7丁目の大城方に設置した神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所が、3月17日に結成大会を行なうことになったと神戸新聞は報じている。「全国大会決議事項として政府に対する請願事項である引揚人稼働者に対する賃金、要生活援護者、学生、疎開児童への支給金、県人経営中●工業諸賃金等十項目の発表を行なったのち今後の連盟事業として民主主義による平和日本建設への貢献、引揚民、避難民、学童、学徒、徴用工、復員者の生活安定、沖縄本島への帰郷出郷、通信、送金の自由、大衆に愛される治安隊ならびに挺身隊の結成等を決議し十七日その結成大会を催すことになった」。冒頭の兵庫県奄美連盟が沖縄人連盟に合流すべく連絡事務所を大城方に置くことになったのは、このときである。(●は不明の文字)
 
 

▼ 一方、やや遅れること1946年8月、県下に21支部あった沖縄県人会が尼崎に集まり、沖縄人連盟兵庫県本部を結成した。副会長に大城清蓮が就任している。大城は、神戸と尼崎の沖縄人組織の両方に絡んでいる。資料でわかる範囲では、大手とおぼしき団体は少なくとも神戸に奄美系組織が2団体、沖縄系組織が1団体、尼崎に各1団体が組織的な活動の根をおろし始めたようだ。そしてもうひとつ、奄美と沖縄のハイブリッドともいえる南西諸島連盟が中間地点の灘に発足するのだ。(つづく)

 


2008年10月17日(金曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」第2部その1

カテゴリー: - utinadanchu @ 18時22分57秒


 全国の終戦直後沖縄vs奄美闇市団結抗争史ファンのみなさん、こんばんは。掲載が所用およびネットワーク環境の不調により延び延びになってすみません。今回からは、南西諸島連盟の核心である戦後闇市およびイデオロギーをめぐる攻防編として、第2部をお届けします。

 

▼  前回の神戸在住沖縄・奄美出身青年による「治安隊」について解く前に、本隊にあたる組織の結集状況を神戸新聞の記事から見てみよう。東京の沖縄人連盟の請願書が功を奏した、1946年1月2日付マッカーサー司令部の「日本政府は窮乏せる琉球人避難民に対し、遅滞なく十分な食糧、住宅、治療、寝具、衣料等を支給すべし」という命令に遅れること2カ月、尼崎市内に組織された奄美連盟本部はマ司令部あてに同胞救済の決議文並びに請願書を提出している。

 

▼  神戸では、前回述べたように、市内に7万人が在住する奄美大島出身者に対し、兵庫県奄美連盟を発展的に解消し、地理的・歴史的・民族的・生活条件を同じくする沖縄人連盟に合流するよう各奄美連盟に呼びかけがあった。ところが、奄美連盟は県下の奄美出身者に呼びかけ、1946(昭和21)年3月に連盟結成報告会を行い、兵庫区御崎町に神戸支部、明石市に明石支部を設けるという活動も行なっている。

 

▼  一方、奄美連盟結成報告会と同じ記事に「神戸市内在住奄美大島出身者7万人を打って一丸とすべく」奄美大島連盟神戸支部が長田区で結成され、「親米の精神に則り、平和日本再建に努力し、また同島出身者の救援・帰国斡旋」を謳ったとある。「将来は尼崎の奄美連盟とも合流し、親米の精神に則り平和日本再建に努力し、また同島出身者の救援帰国斡旋に活躍することとなった」という。

 

▼ 奄美連盟を解消して旧沖縄県出身者と合流? 新たに奄美連盟神戸支部? 奄美大島連盟神戸支部として尼崎の奄美連盟と合流? 何がなんだかよくわからないが、文脈からは組織内部に分裂や対立があったことが伺える。次回はもう少し資料をあたってみよう。 
(つづく)

 


2008年9月30日(火曜日)

六甲道で「命どぅ宝」

カテゴリー: - utinadanchu @ 01時24分36秒


▼ ちょうど1カ月前になるが、学童保育の子どもたちに沖縄の文化や歴史を通じて命の尊さを学ぶ機会をと「命どぅ宝 沖縄からのメッセージ」が8月29日に神戸市灘区の地域コミュニティ施設「風の家」で行なわれた。区内の学童保育所の子ども60人と父母、学童保育所の指導員が参加した。7月末の都賀川での水難事故の傷が癒えない子どもたちを沖縄の風景や歌で元気づけ、沖縄での戦争について知って改めて命について考えるきっかけになればと、沖縄民謡を習っている父母らが企画した。ちんぴんなど沖縄のお菓子も手作りで出された。


 六甲風の郷公園にある「風の家」

▼ 与那国島出身の新城さん(姫路市在住)が唄三線で沖縄の民謡やポップスを歌い、苦しい時代を歌とともに乗り越えてきた沖縄の人たちのたくましさや明るさを話した。スライド上映では、「身近な沖縄 神戸と沖縄」と題し、神戸は花崗岩の石垣が多いが沖縄でも琉球王朝時代から伝わる高度な石垣建築の技術があることや、ウルトラマンやウルトラセブンの作品の多くが沖縄出身の金城哲夫さんによって書かれたことなど紹介された。神戸港でウルトラセブンが「金城」をもじったロボット「キングジョー」と戦ったシーン(1968年放映)では、歓声が起こった。


 神戸港で戦うキングジョーとウルトラセブン

▼ 後半は沖縄戦の写真が上映され、艦砲射撃で穴だらけになった街や集団自決と思われる様子、爆雷を抱えて突撃しようとして殺された少年兵の姿など、子どもらは息を飲んで見つめていた。「できるだけ多くの子どもたちに触ってもらって、命の重さや平和の重さを実感してもらえれば」と、沖声灘語が沖縄でボランティアでの遺骨収集を続ける具志堅隆松さん(那覇市在住)から預かった、遺骨とともに出土した手りゅう弾3個と置き時計が並べられた。子どもたちは、真剣な面持ちで持ったり握ったりしていた。


 沖縄から送られた、壕から出た日本軍兵士の手榴弾などに触れる子どもたち

▼ 後日、参加した子どもたち全員が作文を書き、怖いと思いながらも遺品や写真に真剣に向き合った様子などを綴った。
 「しゅりゅうだんをさわって、ぼくが兵士だったら、そんなもので人をころしたくないと思ったり、そんなものは、もちたくありません。せん死した人は、まだ先のみらいをあゆまれなくて、かなしかっただろうな、と思いました。その人たちの分も生きていこうと思いました」(小学2年生、男子)


 カチャーシーで締めた
(写真は灘区在住の薬人さん撮影)

※「灘にあった南西諸島連盟」は休みます


2008年9月4日(木曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」 その8

カテゴリー: - utinadanchu @ 20時23分41秒


▼ 1946年2月2日、連合国軍最高司令部がついに「若干の外郭地域を政治上・行政上、日本から分離することに関する覚書」いわゆる「プライス通告」を日本に通告。この日をもって「北緯30度の南にある南西諸島」、すなわち奄美群島から南の島々は本土から行政的に分離されることが決定した。

 

▼ これにより、本籍地が日本ではなくなり「第3国人」となってしまった本土在住旧沖縄県、鹿児島県奄美群島出身者は、それぞれ過酷な運命を生き抜くために連帯の輪を広げることとなった。3月初旬に「神戸在住沖縄人連絡取扱事務所」に県下支部代表者数十名が参集し、沖縄県出身者による連盟結成に関する準備委員会を開催した。東京の沖縄人連盟が行ったものと思われる全国大会決議事項の発表と、今後の連盟事業を決議して3月中旬に結成大会をすることを決定した。

 

▼ また、神戸市内に7万人が在住する奄美大島出身者は兵庫県奄美連盟を発展的に解消し、地理的・歴史的・民族的・生活条件を同じくする沖縄人連盟に合流するため各奄美連盟に呼びかけることになり、その連絡事務所を前述した神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所代表の大城清蓮方に置くことになった。

 

▼ この件を報じた神戸新聞の記事に、「今般結成の青年治安隊は沖縄人奄美大島出身青年を以て結成されることになってをり新出発を期する同連盟では進駐軍に救済物資関係調査を十八日までに提出のため十三日までに同県人の現住所、氏名、年齢、職業、性別等の申告をするやう希望している」とある。

 

▼ 神戸在住の沖縄・奄美出身青年による「治安隊」。誰の何を何のために治安する組織だったのか。ようやく本稿の核心に触れるところまできたようだ。 
(つづく)

 


2008年8月27日(水曜日)

沖縄戦の手りゅう弾、灘へ

カテゴリー: - utinadanchu @ 14時13分57秒

写真は、手りゅう弾である。
mixiで読まれた方には重複して申し訳ないが、今回はこれらを灘に送ったという話。

NPOによる沖縄戦遺骨収集の手伝いをしていると、こうした沖縄戦遺品は土中や壕の遺骨とともに出てくる。現在は、沖縄都市モノレール「おもろまち」駅東側の真嘉比再開発地区で行なっている。

 
 
灘区内の学童保育に子供を通わせる女性が、小学生とその父母のためのいのちを考えるイベントを企画した。7月28日に都賀川で学童保育の子供や引率者ら5人が犠牲となった悲劇を事実として受け止め、いのちについて子供と大人で考えようという趣旨だ。8月29日午後1時半から、灘区六甲道北西500メートルにあるコミュニティ施設「風の家」で行なう。沖縄県出身の方も来られて話をされることになり、沖縄戦もいのちを考えるテーマのひとつにというので、NPOの賛同を得てこれらを送り、参加者にさわってもらうことにした。送った手りゅう弾3発はいずれも不発だったもので、真管を外し火薬を抜いて、完全に処理されている。


写真ではわからないが、真管には「四ー五秒」と刻まれていた。
押してから爆発するまでの秒数だ。

 
当時、沖縄で地上戦を戦った兵士は、手りゅう弾を2個持たされたという。
1個は、敵に投げるために。1個は、自分を殺すために。
捕虜になることが許されなかった日本軍では、爆雷を抱いてアメリカの戦車に突っ込んだり、いよいよ勝ち目が亡くなった時にこの手りゅう弾を使って自決していった。
沖縄のおばあや生き残った兵士達の証言では、戦争主導者に対して「バカヤロー」と罵ったり、「おかあさーん」と叫びながら次々と 「パーン」と手りゅう弾を破裂させて爆死していった。
兵士といっても、多くは17、8歳の子供だ。
沖縄県民にも渡され、捕虜になれば拷問されると教育された人々は、いよいよ米軍が目前に迫ったとき、壕の中で親が子どもを抱きしめて爆弾に点火していったという証言が多く残されている。

 
 

この手りゅう弾は棒状の構造になっているものの弾倉部分で、遠くまで投げるのに使われた。戦火に倒れた若い看護士の腰からこの手りゅう弾を拾いあげる米兵の姿が写真に残されている。手りゅう弾には、このほか陶製のものもある。

 

手りゅう弾と一緒に出土した時計も送った。手巻きの置き時計。遺骨の主が最後に巻いたのはいつだったのか。真っ暗な壕の中で、カチカチと時を刻み続けて、主の死のしばらく後に時計も活動を永遠に止めたはず。

 

 
  
これらの遺品を貸してくださったのは、NPOとして25年間遺骨収集を続けている具志堅隆松さん。
具志堅さんは、手りゅう弾には、そんな63年前の人々のメッセージが託されているという。
神戸の川で亡くなられた子供たちも、きっと何かのメッセージを遺していったはずで、 63年前の沖縄戦で兵士や親子から遺されたこれら手りゅう弾が、そんなメッセージを考えるきっかけになれば、子供たちの死の無駄にしないためになるなら、喜んで使ってほしいと貸してくれた。
「できるだけ多くの人に触ってもらい、ぼろぼろになるまで触られて、命の尊さを人の心に刻むことがこれら遺された手りゅう弾の責任だと思う。手りゅう弾に、責任を取らさなければ」と、彼は言う。

  
 
「風の家」がある六甲町界隈は神戸大空襲を描いた「火垂るの墓」の当地であり、 阪神大震災で瓦礫に挟まれた人達が、救い出そうとする人々に「僕のことはもうええから逃げてー」といって炎に包まれていった場所でもある。
一般の方も参加可能で、近隣でお時間ある方はぜひお出かけを。

 
 
これら手りゅう弾など不発弾は自衛隊が処理する他、国が企業に処理を委託して最終処理される。沖縄からは、米軍基地内に処理施設があるにも関わらず、多額の国費で北九州まで運送されて処理されている。
具志堅さんは、自身で処理技術と免許を持っており、多くの沖縄県民や兵士を殺した道具が企業の営利や防衛利権の餌になるのは許せないとして、 NPOで処理することで難病の子供を救うお金に生まれ変わらせる市民活動を行っている。


*「灘にあった南西諸島連盟」は休みます


2008年8月22日(金曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」 その7

カテゴリー: - utinadanchu @ 22時00分27秒


▼ 神戸での少年工を中心とした沖縄県出身者の困窮ぶりに触れておきたい。神戸新聞によると、当時35歳の大城は、終戦までは川崎造船の徴用工として妻の死もいとわず幼児を抱えて勝つために汗と油でハンマーをふるっていたが、終戦後は何とかして世のためにと心を決して復員、徴用解除、戦災などで生活のために悪の泥沼に落ちようとする人々を黙々として世話をし、同県人会の縁の下の力持ちとなり感謝されていた。

 

▼ 大城は1946年の初めごろ、神戸新聞に「寮長になり自ら世話 沖縄の少年工」という見出しで始まる記事を見つけた。川崎造船の福利課職員崎元待命が、長田区東山の青年学校で孤児同然になっていた同社の沖縄出身少年養成工25人を発見、「暁寮」を作って世話をしたという。大城はこの記事に共鳴し、南方引揚同胞およびすさみゆく人を救いたいと相談したところ話がまとまり、在神800人の沖縄県人に呼びかけるべく大城宅を連絡取扱事務所にしたという。

 

▼ 崎元は、日本最大のスラムといわれた葺合区の「新川」を救済した社会運動家でコープ神戸の設立者でもある賀川豊彦とともに行動し、貧民階級のよき友人だったという。賀川が新川を舞台にした「死線を越えて」を発表する以前から神戸の「貧民窟」で伝導を行っていた。神戸新聞では、「沖縄の少年達の心を一番に暗くするものは郷里にいる親や兄姉たちの安否であった。そこで崎元さんは米進駐軍に対し郷里の情報を得たいとお願いしているが、これも近く願ひがかなう模様である」と紹介されている。

 

▼ 第2次大戦で神戸は、軍需工場化した大規模工場群を市街地が取り囲んでいたこともあり、全市の6割強が焼失した。戦時動員された者以外の住民は大半が故郷に疎開できたが、沖縄県出身者や奄美出身者の多くは戦争前には帰郷できたものの、徐々に戦火が拡大し故郷自体が戦場になるにあたっては疎開すべき身寄りや資金がなく、行き場を失っていた。宝塚市の武庫川沿いにあった川西航空機工場近くに集中地域を形成していた沖縄県出身者は、爆撃に備えて西側の六甲山系甲山に身を潜めたという証言や、神戸の小学校で教鞭を取っていたが戦争も大詰めになったので長尾山(伊丹)に入り、炭を焼いて糊口をしのいだという話もある。
(つづく)

 


2008年8月11日(月曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」 その6

カテゴリー: - utinadanchu @ 22時00分43秒


▼ 戦後阪神間の沖縄県人系団体の動きを追ってみよう。

 1945年11月に結成された沖縄人連盟の請願に答える形で、1946年1月2日付でマッカーサー司令部は日本政府に対し「沖縄人に関する請願書の内容を点検するに、食糧、住宅、衣料等に不足し、生活水準を低下せしめる結果、ここ二、三カ月以内に多数の死者が続出しさうな状況である」としたうえで「日本政府は窮乏せる琉球人避難民に対し、遅滞なく十分な食糧、住宅、治療、寝具、衣料等を支給すべし」と命令した。

 

▼ 関西でも、東京で沖縄人連盟が結成された同じ1945年11月に関西沖縄人連盟が大阪で結成され、各地の沖縄県出身者団体を支部とした。活動内容は「疎開学童、徴用工、挺身隊、引揚民、復員兵士の生活保証を要求する」「沖縄への調査員派遣許可方をマ司令部に請願する」等である。兵庫県では、尼崎の軍需工場・住友鋼管で人員整理された沖縄県出身女子挺身隊の救済をきっかけに、同じく1945年11月に尼崎市内5地域の沖縄県出身者の団体が集まり、尼崎沖縄県人会(当時、1946年8月に沖縄県人会兵庫県本部)が発足した。

 

▼ 神戸における沖縄出身者の中心は、のちに沖縄人連盟兵庫県本部副会長になる大城清蓮が路頭に迷う悲惨な同胞沖縄県民のため1946年1月に設置した、神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所。相談役は1923(大正12)年に大阪で関西沖縄県人会を作り、戦後に東京で全国組織の沖縄人連盟創設にも関わった活動家・井之口政雄。井之口は1947(昭和22)年4月、戦後初の国政選挙で共産党所属として兵庫2区から立候補(落選、2年後の総選挙で雪辱)している。

 

▼ 大城は、「東京に本部があり全国各地に支部があることはあるのですが、徒らに寄付金を集めるのみで何等仕事をしてをりません」と神戸新聞にコメントしている。少年工を中心に沖縄出身者の惨状を訴え、また生活に苦しむ人々に就職の斡旋をして悪への凋落を防ごうと、神戸在住の沖縄県人は速やかに当事務所に連絡するよう呼びかけ、「街の義人」と評されている。賀川豊彦とも連携していたようだ。賀川は、日本最大のスラムといわれた葺合区の「新川」を救済した社会運動家で、日本社会党の設立に参画、コープ神戸の設立者でもある。民間人では最初にマッカーサーと会ったといわれる。
(つづく)

 


2008年8月1日(金曜日)

沖縄タイムス1面で知る、都賀の悲報

カテゴリー: - utinadanchu @ 02時06分42秒

 都賀川の悲報にどう向き合っていいのか。言葉がない。
 またしても六甲の自然に呑み込まれた、尊い同胞のいのち。灘の土あるいは星に帰った幼い命、若い人たちの魂の冥福を、何よりも祈るばかりである。
 
 

 沖縄タイムスの1面に掲載された故郷の悲劇にぼう然としながら、石垣島の風土と精神世界を現代高校生とおばあの視点で描いた「風車祭(カジマヤー)」という小説(フィクション)を思い出していた。
 

 マブイ(沖縄でいう、魂と心の間にある、あるいは魂の前の状態にある宇宙の存在。魂魄。その人の性格や先祖関係、地霊との関係など根源的なものを含む。死ぬと魂はマブイとなりあの世に行き、魄は墓に入るという)を失った少女が、雨乞いの呪文で雨の爆風を巻き起こし、一瞬にしてアラピキ川という都賀川に似た街の川を氾濫させる。死者、行方不明者、経済損失など、島は甚大な被害を受ける。
 東京の企業が、島のリゾート用地や別荘地を買えるだけ買いあさっていた。静かな先祖の眠りがあったはずの地は重機に踏み潰され、先祖だけではなく連綿と続くマブイや祖霊さえも彷徨わせた。島人の発祥の地として信仰していた山を切り崩し、埋め立て地を作ったことで、島の地脈はすべて狂っていた。
 御嶽(ウタキ。祖霊と人間の接する場所。神社のようなもの)はすべて地脈の上にあったため、埋め立て地を沈めて御嶽を元に戻そうと、地震とともに猛烈な津波も襲ってこようとしていた。しかしながら、結果的に人間の犯した罪は命で償うしかなく、膨大な数の犠牲者が出ることを食い止めることは不可能に思われた。
 食い止めたのは、島を囲むサンゴ礁にマブイを宿した、246年間あの世に行けずに島を彷徨っていた女の魂魄だった。
 

 
 六甲では、マブイを落とした人、いや元からマブイなど持たない(企業人という意味での)東京人たちが、今も競って山裾を切り崩している。
 そうでもいわないと、僕はこの悲報を受容できないのだ。


 


*「灘にあった南西諸島連盟」は休みます


2008年7月23日(水曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」 その5

カテゴリー: - utinadanchu @ 17時02分08秒


▼ 沖縄県および鹿児島県奄美群島に本籍を持つ者は、終戦により口之島を含む北緯30度以南がアメリカの統治下におかれたため、戦前からの仕事や出稼ぎ、戦時徴用工として本土やってきて終戦を迎えた者は帰る場所を失ってしまった。奄美群島出身はまだ鹿児島県があるのでよいが、沖縄県は完全に消滅したため、戦後復興にあたり本来県から施される行政サービスを沖縄県出身者は受けることができなくなった。ばかりか、米国占領により「非日本人」になってしまったため、政府によるサービスも難しくなった。

 

▼ 中国、台湾、朝鮮半島出身者で日本で終戦を迎えた者は、日本政府に対して「戦勝国民」として権利を要求できるようになった。物資などを優先的に獲得できる状況にあり、警察力が弱体化するなかで略奪行為や不法行為も見られるようになったと聞く。乏しい資金で農村に買い出しに行った者が、帰りの列車で荷物を強奪され、恨みに恨んだという話は戦後の混乱期によくあったそうだ。その恨みが、戦後の差別問題につながっているともいう。ともあれ、こうした状況がますます溝を深めることになり、憤怒の念をこめて「第三国人」と呼ぶ者もいた。沖縄出身者も立場上「戦勝国民」となったため、「第三国人」扱いとなった。

 

▼ 自分の故郷がアメリカになってしまい、帰る場所がないばかりか地獄の惨状と伝え聞く沖縄戦で実家や親族がどうなったかを知るすべもない沖縄県出身者は、路頭に迷うしかなかった。沖縄県から徴用工・女子挺身隊として本土に送り込まれ各地の軍需工場で働いた者は2万人、戦時中に本土疎開した者は6万人いた。沖縄から多くの学徒や若者を徴用した阪神間の軍需工場は、終戦とともにほとんどすべてが解雇され、学徒はみな焼け跡で孤児となり餓死しかけていた。戦前からの働き手で焼け出された者も、仕事も帰る場所も無くした。沖縄県出身の海外引き揚げ者や復員者は3万人で、舞鶴港などに上陸した後は各地区などで待機となった。彼らは本土に頼るべきものもなく、ひたすら窮乏した。

 

▼ そのため沖縄県出身者のリーダーは、生活防衛のためマッカーサー司令部に対し組織的な行動を行い、マッカーサーをもって日本政府に援護活動するよう働きかけた。1945(昭和20)年11月、東京で民俗学者・伊波普猷を主席総務委員に沖縄人連盟が結成され、占領軍総司令部に次の3点の要望を盛り込んだ請願書が出された。その内容は、(1)日本本土内に扶養義務を持たない旧沖縄県出身の老幼婦女子が速やかに郷土に帰れるよう取計らってほしい(2)沖縄および南洋(明治から多数の沖縄県民が南洋に開拓民、出稼ぎ民として渡っていた)との通信連絡、送金、救援物資の送付等に格別の配慮をしてほしい(3)沖縄在住生存者の安否及び軍閥暴虐行為の真相を調査し、沖縄人及び日本人民に報告するため、連盟より選抜した10名の派遣員の渡航を許可してほしい、というものだった。

 

▼ 当初、この請願書は「日本を祖国とする沖縄県人が占領軍当局に対して、祖国を告発することによって、何が期待できるか」と連盟でも問題になったというが、果たしてこの請願書がのちに救援物資の払い下げなどで威力を発揮することになる。1946(昭和21)年1月2日付マッカーサー司令部覚書は、請願に対する回答ともいえる形で日本政府に「沖縄人に関する請願書の内容を点検するに、食糧、住宅、衣料等に不足し、生活水準を低下せしめる結果、ここ二、三カ月以内に多数の死者が続出しさうな状況である」としたうえで「日本政府は窮乏せる琉球人避難民に対し、遅滞なく十分な食糧、住宅、治療、寝具、衣料等を支給すべし」命令した 。

 遅れて、奄美地域出身者も同じような請願をマ司令部あて行っている。同時に払い下げ物資と「ヤミ市」をめぐっての動きが活発化する。
(つづく)



灘⇔沖縄 通い船対談

vs naddist様
「『沖縄の島守』を読み歩く
一度自転車でまわってみたいと思います。
その際はガイドよろしくお願いいたします」


 ひとりでも多くの兵庫県民に、63年前にあったことを
その場を訪れることで感じとってもらえる場になればと
思っています。
 「島守の道」走訪の際は、ぜひお供させてください。
 その切は、私も走りやすい自転車を仕入れます。
 なにしろ2006年に自転車で70キロをまわった時は、
小径の折りたたみの自転車だったため炎天下で死にそうに
なりましたが、61年前の地獄はこんなもんではなかったはず
といい聞かせてがんばりました。
 しかし、糸満のとある場所を走っていて、霊的なものに
呪縛されました。魔除けの「サン」は持っていたのですが。


   By 沖灘人



2008年7月17日(木曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」 その4

カテゴリー: - utinadanchu @ 11時38分03秒


▼ これまで神戸新聞記事および島尾敏雄の「ヤポネシア考」から、戦後まもなくの灘に「南西諸島連盟」という団体があることを見てきた。
 島尾の一文、「連盟にはいりますと、まあ物資が手に入る。第三国人にはその頃特別な配給ルートがあったんでしょうか」の部分の検討に入りたい。その前に、「第三国人」について知っておかねばなるまい。

 

▼ 敗戦後の南西諸島出身者、つまり沖縄県および鹿児島県奄美群島出身者をとりまく情勢は、一般の神戸市民とは大きく異なっていた。第2次世界大戦における太平洋戦争で沖縄県は唯一の地上戦の舞台となり、約10万から15万人の沖縄県在住民間人を含む約20〜25万人の犠牲者を出した激しい戦闘の後、米軍に占領された。犠牲者数に大きな誤差があるのは、住民票や戸籍を元にした数と収集された遺骨や米軍への収容者数などから政府が出した数とに大きな乖離があるからだ。

 

▼ ポツダム宣言を受諾して敗戦国となった後は、北緯30度以南(口之島を含む)、すなわち奄美群島から南にある南西諸島は米国の統治下に置かれることになった。戦時中の徴用工や女子挺身隊を含む本土に出稼ぎに来ていた者や本土への疎開者、海外から引き揚げてきた沖縄県および奄美群島出身者は行き場を失い、また戦前から移住していた同郷者たちも故郷を失ったことから、物心両面に過酷な苦難を強いられることになった。

 

▼ 敗戦後、まもなく沖縄県および奄美群島出身者の間で、同胞救済を目的とした同郷組織作りが進められている。マッカーサー司令部による南西諸島帰還許可に前後して、帰還者や残留者により組織再編が行われた。その際、沖縄県および奄美群島出身者は中国・朝鮮・台湾省などと同じく、制度上「非日本人」の立場に置かれた。これがいわゆる「第三国人」である。少し前、石原都知事が「第三国人」という言葉を差別的な意味で使ったとして非難されたことがあったが、戦後の混乱期では闇市などを舞台に横行を繰り広げた主役として「第三国人」は差別的な意志で使われたという。

 この「闇市」と「第三国人」が、南西諸島連盟に深く関わっていた。



灘⇔沖縄 通い船対談

vs MJ様
「島田叡という人物を知ったのは、貝原氏が震災後『犠牲者に対する知事の責任』に言及する中で、たびたびその名を挙げたからでした。任期途中の退任表明時にも、やはり『島田知事のように県土の一木一草まで責任を持ちたい』と語っていたのを思い出します。後世の県民や他県の知事にまで、これほど慕われ、尊敬される知事も珍しいですよね、たぶん。
同じく神戸→沖縄の道を辿ったうちなだんちゅさんが、島田氏の足跡を訪ね歩くルポ、読んでみたいです」


 MJさま、ありがとうございます。
 私もかつていた新聞社で貝原知事の会見を取材した際、何度か島田知事の話が出たのを覚えています。中でも印象的だったのは、将棋の谷川名人(当時)の祝賀会でスピーチされた時、引退間近だった貝原さんが沖縄戦時下での島田知事の奮闘に触れながら、震災での県政がどうあるべきだったかということなど悔恨の情も含ませながら語っておられたことでした。

 昨年、沖縄本土復帰の日にあたる5月15日から島田知事が亡くなったとされる7月初旬まで、お世話になっている田村洋三氏の著作からの引用を中心に時系列で追ったものをブログ化しています。今後、大幅に肉付けして、「島守の道を歩く」というような紀行/ガイド的なものにしていくつもりです。
 『沖縄の島守』を読み歩く http://simamori.ti-da.net/


 島田知事のたどった道のガイドに関し、個別にメールをくださったみなさん、どうもありがとうございます。

   By 沖灘人



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