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2008年11月7日(金曜日)

灘にあった南西諸島連盟 第2部その2

カテゴリー: - utinadanchu @ 14時53分36秒



▼ 1946年3月、兵庫県奄美連盟は沖縄人連盟に合流すべく発展的解消されることになり、連絡事務所が神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所代表の大城清蓮方に置かれることになった。一方で奄美連盟は同月に連盟結成報告会を行ない、兵庫区御崎町に神戸支部を置いた。さらに奄美大島連盟神戸支部が尼崎の奄美連盟との合流を視野に「親米の精神に則り」長田区で結成された。4月になると、奄美連盟兵庫県連合結成大会が神戸市兵庫区の吉田国民学校で結成され、事業として相互援助を図るため協同組合や図書館の設置、機関誌発行を申し合わせている。この段階で、神戸市内で「奄美」を名乗る団体が少なくとも3団体はあったことが想像される。それぞれが掲げる「沖縄人連盟に合流」「親米の精神に則る」「協同組合などの事業」といった言葉に注目しておきたい。

 

▼ 4月には、奄美連盟から「急告奄美出身者へ」という案内広告で、兵庫県下在住奄美出身者は四月十九日尼崎本部に於ける決定に拠りて総て奄美連盟兵庫県連合会に結集」が呼びかけられている。この記事で特筆されるのは、「現在巷間に流通する奄美連盟マーク及び身分証明書は本連盟制定のものに非ざればその効力と認めず」という文言があることだ。なぜマークや身分証が重用視されたのか。その効力とは何だったのか?

 

▼ この奄美連盟は、帰還事業で8月に神戸新聞で「奄美大島ヘノ帰還希望者ヘ急告」という案内広告を出している。「故郷へ御帰り希望の方は帰還期日の割当の都合がありますから来る9月5日までに必ず申込下さい。帰還証明書の発行その他の帰還事務を取扱っております。奄美連盟」としたうえで、取扱所として本部(神戸市生田区三越百貨店6階)、東部支部(灘支部が解消、葺合区大日通1)、西部支部(長田区西尻池)、尼崎本部、尼崎東部本部、明石支部をあげている。この中の、「灘支部が解消」という文言も覚えておきたい。

 

▼ 沖縄人組織の動きはどうか。先に当時の「町の義人」として紹介した大城清蓮が路頭に迷う悲惨な同胞沖縄県民のため1946年1月に生田区元町7丁目の大城方に設置した神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所が、3月17日に結成大会を行なうことになったと神戸新聞は報じている。「全国大会決議事項として政府に対する請願事項である引揚人稼働者に対する賃金、要生活援護者、学生、疎開児童への支給金、県人経営中●工業諸賃金等十項目の発表を行なったのち今後の連盟事業として民主主義による平和日本建設への貢献、引揚民、避難民、学童、学徒、徴用工、復員者の生活安定、沖縄本島への帰郷出郷、通信、送金の自由、大衆に愛される治安隊ならびに挺身隊の結成等を決議し十七日その結成大会を催すことになった」。冒頭の兵庫県奄美連盟が沖縄人連盟に合流すべく連絡事務所を大城方に置くことになったのは、このときである。(●は不明の文字)
 
 

▼ 一方、やや遅れること1946年8月、県下に21支部あった沖縄県人会が尼崎に集まり、沖縄人連盟兵庫県本部を結成した。副会長に大城清蓮が就任している。大城は、神戸と尼崎の沖縄人組織の両方に絡んでいる。資料でわかる範囲では、大手とおぼしき団体は少なくとも神戸に奄美系組織が2団体、沖縄系組織が1団体、尼崎に各1団体が組織的な活動の根をおろし始めたようだ。そしてもうひとつ、奄美と沖縄のハイブリッドともいえる南西諸島連盟が中間地点の灘に発足するのだ。(つづく)

 


2008年10月17日(金曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」第2部その1

カテゴリー: - utinadanchu @ 18時22分57秒


 全国の終戦直後沖縄vs奄美闇市団結抗争史ファンのみなさん、こんばんは。掲載が所用およびネットワーク環境の不調により延び延びになってすみません。今回からは、南西諸島連盟の核心である戦後闇市およびイデオロギーをめぐる攻防編として、第2部をお届けします。

 

▼  前回の神戸在住沖縄・奄美出身青年による「治安隊」について解く前に、本隊にあたる組織の結集状況を神戸新聞の記事から見てみよう。東京の沖縄人連盟の請願書が功を奏した、1946年1月2日付マッカーサー司令部の「日本政府は窮乏せる琉球人避難民に対し、遅滞なく十分な食糧、住宅、治療、寝具、衣料等を支給すべし」という命令に遅れること2カ月、尼崎市内に組織された奄美連盟本部はマ司令部あてに同胞救済の決議文並びに請願書を提出している。

 

▼  神戸では、前回述べたように、市内に7万人が在住する奄美大島出身者に対し、兵庫県奄美連盟を発展的に解消し、地理的・歴史的・民族的・生活条件を同じくする沖縄人連盟に合流するよう各奄美連盟に呼びかけがあった。ところが、奄美連盟は県下の奄美出身者に呼びかけ、1946(昭和21)年3月に連盟結成報告会を行い、兵庫区御崎町に神戸支部、明石市に明石支部を設けるという活動も行なっている。

 

▼  一方、奄美連盟結成報告会と同じ記事に「神戸市内在住奄美大島出身者7万人を打って一丸とすべく」奄美大島連盟神戸支部が長田区で結成され、「親米の精神に則り、平和日本再建に努力し、また同島出身者の救援・帰国斡旋」を謳ったとある。「将来は尼崎の奄美連盟とも合流し、親米の精神に則り平和日本再建に努力し、また同島出身者の救援帰国斡旋に活躍することとなった」という。

 

▼ 奄美連盟を解消して旧沖縄県出身者と合流? 新たに奄美連盟神戸支部? 奄美大島連盟神戸支部として尼崎の奄美連盟と合流? 何がなんだかよくわからないが、文脈からは組織内部に分裂や対立があったことが伺える。次回はもう少し資料をあたってみよう。 
(つづく)

 


2008年9月30日(火曜日)

六甲道で「命どぅ宝」

カテゴリー: - utinadanchu @ 01時24分36秒


▼ ちょうど1カ月前になるが、学童保育の子どもたちに沖縄の文化や歴史を通じて命の尊さを学ぶ機会をと「命どぅ宝 沖縄からのメッセージ」が8月29日に神戸市灘区の地域コミュニティ施設「風の家」で行なわれた。区内の学童保育所の子ども60人と父母、学童保育所の指導員が参加した。7月末の都賀川での水難事故の傷が癒えない子どもたちを沖縄の風景や歌で元気づけ、沖縄での戦争について知って改めて命について考えるきっかけになればと、沖縄民謡を習っている父母らが企画した。ちんぴんなど沖縄のお菓子も手作りで出された。


 六甲風の郷公園にある「風の家」

▼ 与那国島出身の新城さん(姫路市在住)が唄三線で沖縄の民謡やポップスを歌い、苦しい時代を歌とともに乗り越えてきた沖縄の人たちのたくましさや明るさを話した。スライド上映では、「身近な沖縄 神戸と沖縄」と題し、神戸は花崗岩の石垣が多いが沖縄でも琉球王朝時代から伝わる高度な石垣建築の技術があることや、ウルトラマンやウルトラセブンの作品の多くが沖縄出身の金城哲夫さんによって書かれたことなど紹介された。神戸港でウルトラセブンが「金城」をもじったロボット「キングジョー」と戦ったシーン(1968年放映)では、歓声が起こった。


 神戸港で戦うキングジョーとウルトラセブン

▼ 後半は沖縄戦の写真が上映され、艦砲射撃で穴だらけになった街や集団自決と思われる様子、爆雷を抱えて突撃しようとして殺された少年兵の姿など、子どもらは息を飲んで見つめていた。「できるだけ多くの子どもたちに触ってもらって、命の重さや平和の重さを実感してもらえれば」と、沖声灘語が沖縄でボランティアでの遺骨収集を続ける具志堅隆松さん(那覇市在住)から預かった、遺骨とともに出土した手りゅう弾3個と置き時計が並べられた。子どもたちは、真剣な面持ちで持ったり握ったりしていた。


 沖縄から送られた、壕から出た日本軍兵士の手榴弾などに触れる子どもたち

▼ 後日、参加した子どもたち全員が作文を書き、怖いと思いながらも遺品や写真に真剣に向き合った様子などを綴った。
 「しゅりゅうだんをさわって、ぼくが兵士だったら、そんなもので人をころしたくないと思ったり、そんなものは、もちたくありません。せん死した人は、まだ先のみらいをあゆまれなくて、かなしかっただろうな、と思いました。その人たちの分も生きていこうと思いました」(小学2年生、男子)


 カチャーシーで締めた
(写真は灘区在住の薬人さん撮影)

※「灘にあった南西諸島連盟」は休みます


2008年9月4日(木曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」 その8

カテゴリー: - utinadanchu @ 20時23分41秒


▼ 1946年2月2日、連合国軍最高司令部がついに「若干の外郭地域を政治上・行政上、日本から分離することに関する覚書」いわゆる「プライス通告」を日本に通告。この日をもって「北緯30度の南にある南西諸島」、すなわち奄美群島から南の島々は本土から行政的に分離されることが決定した。

 

▼ これにより、本籍地が日本ではなくなり「第3国人」となってしまった本土在住旧沖縄県、鹿児島県奄美群島出身者は、それぞれ過酷な運命を生き抜くために連帯の輪を広げることとなった。3月初旬に「神戸在住沖縄人連絡取扱事務所」に県下支部代表者数十名が参集し、沖縄県出身者による連盟結成に関する準備委員会を開催した。東京の沖縄人連盟が行ったものと思われる全国大会決議事項の発表と、今後の連盟事業を決議して3月中旬に結成大会をすることを決定した。

 

▼ また、神戸市内に7万人が在住する奄美大島出身者は兵庫県奄美連盟を発展的に解消し、地理的・歴史的・民族的・生活条件を同じくする沖縄人連盟に合流するため各奄美連盟に呼びかけることになり、その連絡事務所を前述した神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所代表の大城清蓮方に置くことになった。

 

▼ この件を報じた神戸新聞の記事に、「今般結成の青年治安隊は沖縄人奄美大島出身青年を以て結成されることになってをり新出発を期する同連盟では進駐軍に救済物資関係調査を十八日までに提出のため十三日までに同県人の現住所、氏名、年齢、職業、性別等の申告をするやう希望している」とある。

 

▼ 神戸在住の沖縄・奄美出身青年による「治安隊」。誰の何を何のために治安する組織だったのか。ようやく本稿の核心に触れるところまできたようだ。 
(つづく)

 


2008年8月27日(水曜日)

沖縄戦の手りゅう弾、灘へ

カテゴリー: - utinadanchu @ 14時13分57秒

写真は、手りゅう弾である。
mixiで読まれた方には重複して申し訳ないが、今回はこれらを灘に送ったという話。

NPOによる沖縄戦遺骨収集の手伝いをしていると、こうした沖縄戦遺品は土中や壕の遺骨とともに出てくる。現在は、沖縄都市モノレール「おもろまち」駅東側の真嘉比再開発地区で行なっている。

 
 
灘区内の学童保育に子供を通わせる女性が、小学生とその父母のためのいのちを考えるイベントを企画した。7月28日に都賀川で学童保育の子供や引率者ら5人が犠牲となった悲劇を事実として受け止め、いのちについて子供と大人で考えようという趣旨だ。8月29日午後1時半から、灘区六甲道北西500メートルにあるコミュニティ施設「風の家」で行なう。沖縄県出身の方も来られて話をされることになり、沖縄戦もいのちを考えるテーマのひとつにというので、NPOの賛同を得てこれらを送り、参加者にさわってもらうことにした。送った手りゅう弾3発はいずれも不発だったもので、真管を外し火薬を抜いて、完全に処理されている。


写真ではわからないが、真管には「四ー五秒」と刻まれていた。
押してから爆発するまでの秒数だ。

 
当時、沖縄で地上戦を戦った兵士は、手りゅう弾を2個持たされたという。
1個は、敵に投げるために。1個は、自分を殺すために。
捕虜になることが許されなかった日本軍では、爆雷を抱いてアメリカの戦車に突っ込んだり、いよいよ勝ち目が亡くなった時にこの手りゅう弾を使って自決していった。
沖縄のおばあや生き残った兵士達の証言では、戦争主導者に対して「バカヤロー」と罵ったり、「おかあさーん」と叫びながら次々と 「パーン」と手りゅう弾を破裂させて爆死していった。
兵士といっても、多くは17、8歳の子供だ。
沖縄県民にも渡され、捕虜になれば拷問されると教育された人々は、いよいよ米軍が目前に迫ったとき、壕の中で親が子どもを抱きしめて爆弾に点火していったという証言が多く残されている。

 
 

この手りゅう弾は棒状の構造になっているものの弾倉部分で、遠くまで投げるのに使われた。戦火に倒れた若い看護士の腰からこの手りゅう弾を拾いあげる米兵の姿が写真に残されている。手りゅう弾には、このほか陶製のものもある。

 

手りゅう弾と一緒に出土した時計も送った。手巻きの置き時計。遺骨の主が最後に巻いたのはいつだったのか。真っ暗な壕の中で、カチカチと時を刻み続けて、主の死のしばらく後に時計も活動を永遠に止めたはず。

 

 
  
これらの遺品を貸してくださったのは、NPOとして25年間遺骨収集を続けている具志堅隆松さん。
具志堅さんは、手りゅう弾には、そんな63年前の人々のメッセージが託されているという。
神戸の川で亡くなられた子供たちも、きっと何かのメッセージを遺していったはずで、 63年前の沖縄戦で兵士や親子から遺されたこれら手りゅう弾が、そんなメッセージを考えるきっかけになれば、子供たちの死の無駄にしないためになるなら、喜んで使ってほしいと貸してくれた。
「できるだけ多くの人に触ってもらい、ぼろぼろになるまで触られて、命の尊さを人の心に刻むことがこれら遺された手りゅう弾の責任だと思う。手りゅう弾に、責任を取らさなければ」と、彼は言う。

  
 
「風の家」がある六甲町界隈は神戸大空襲を描いた「火垂るの墓」の当地であり、 阪神大震災で瓦礫に挟まれた人達が、救い出そうとする人々に「僕のことはもうええから逃げてー」といって炎に包まれていった場所でもある。
一般の方も参加可能で、近隣でお時間ある方はぜひお出かけを。

 
 
これら手りゅう弾など不発弾は自衛隊が処理する他、国が企業に処理を委託して最終処理される。沖縄からは、米軍基地内に処理施設があるにも関わらず、多額の国費で北九州まで運送されて処理されている。
具志堅さんは、自身で処理技術と免許を持っており、多くの沖縄県民や兵士を殺した道具が企業の営利や防衛利権の餌になるのは許せないとして、 NPOで処理することで難病の子供を救うお金に生まれ変わらせる市民活動を行っている。


*「灘にあった南西諸島連盟」は休みます


2008年8月22日(金曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」 その7

カテゴリー: - utinadanchu @ 22時00分27秒


▼ 神戸での少年工を中心とした沖縄県出身者の困窮ぶりに触れておきたい。神戸新聞によると、当時35歳の大城は、終戦までは川崎造船の徴用工として妻の死もいとわず幼児を抱えて勝つために汗と油でハンマーをふるっていたが、終戦後は何とかして世のためにと心を決して復員、徴用解除、戦災などで生活のために悪の泥沼に落ちようとする人々を黙々として世話をし、同県人会の縁の下の力持ちとなり感謝されていた。

 

▼ 大城は1946年の初めごろ、神戸新聞に「寮長になり自ら世話 沖縄の少年工」という見出しで始まる記事を見つけた。川崎造船の福利課職員崎元待命が、長田区東山の青年学校で孤児同然になっていた同社の沖縄出身少年養成工25人を発見、「暁寮」を作って世話をしたという。大城はこの記事に共鳴し、南方引揚同胞およびすさみゆく人を救いたいと相談したところ話がまとまり、在神800人の沖縄県人に呼びかけるべく大城宅を連絡取扱事務所にしたという。

 

▼ 崎元は、日本最大のスラムといわれた葺合区の「新川」を救済した社会運動家でコープ神戸の設立者でもある賀川豊彦とともに行動し、貧民階級のよき友人だったという。賀川が新川を舞台にした「死線を越えて」を発表する以前から神戸の「貧民窟」で伝導を行っていた。神戸新聞では、「沖縄の少年達の心を一番に暗くするものは郷里にいる親や兄姉たちの安否であった。そこで崎元さんは米進駐軍に対し郷里の情報を得たいとお願いしているが、これも近く願ひがかなう模様である」と紹介されている。

 

▼ 第2次大戦で神戸は、軍需工場化した大規模工場群を市街地が取り囲んでいたこともあり、全市の6割強が焼失した。戦時動員された者以外の住民は大半が故郷に疎開できたが、沖縄県出身者や奄美出身者の多くは戦争前には帰郷できたものの、徐々に戦火が拡大し故郷自体が戦場になるにあたっては疎開すべき身寄りや資金がなく、行き場を失っていた。宝塚市の武庫川沿いにあった川西航空機工場近くに集中地域を形成していた沖縄県出身者は、爆撃に備えて西側の六甲山系甲山に身を潜めたという証言や、神戸の小学校で教鞭を取っていたが戦争も大詰めになったので長尾山(伊丹)に入り、炭を焼いて糊口をしのいだという話もある。
(つづく)

 


2008年8月11日(月曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」 その6

カテゴリー: - utinadanchu @ 22時00分43秒


▼ 戦後阪神間の沖縄県人系団体の動きを追ってみよう。

 1945年11月に結成された沖縄人連盟の請願に答える形で、1946年1月2日付でマッカーサー司令部は日本政府に対し「沖縄人に関する請願書の内容を点検するに、食糧、住宅、衣料等に不足し、生活水準を低下せしめる結果、ここ二、三カ月以内に多数の死者が続出しさうな状況である」としたうえで「日本政府は窮乏せる琉球人避難民に対し、遅滞なく十分な食糧、住宅、治療、寝具、衣料等を支給すべし」と命令した。

 

▼ 関西でも、東京で沖縄人連盟が結成された同じ1945年11月に関西沖縄人連盟が大阪で結成され、各地の沖縄県出身者団体を支部とした。活動内容は「疎開学童、徴用工、挺身隊、引揚民、復員兵士の生活保証を要求する」「沖縄への調査員派遣許可方をマ司令部に請願する」等である。兵庫県では、尼崎の軍需工場・住友鋼管で人員整理された沖縄県出身女子挺身隊の救済をきっかけに、同じく1945年11月に尼崎市内5地域の沖縄県出身者の団体が集まり、尼崎沖縄県人会(当時、1946年8月に沖縄県人会兵庫県本部)が発足した。

 

▼ 神戸における沖縄出身者の中心は、のちに沖縄人連盟兵庫県本部副会長になる大城清蓮が路頭に迷う悲惨な同胞沖縄県民のため1946年1月に設置した、神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所。相談役は1923(大正12)年に大阪で関西沖縄県人会を作り、戦後に東京で全国組織の沖縄人連盟創設にも関わった活動家・井之口政雄。井之口は1947(昭和22)年4月、戦後初の国政選挙で共産党所属として兵庫2区から立候補(落選、2年後の総選挙で雪辱)している。

 

▼ 大城は、「東京に本部があり全国各地に支部があることはあるのですが、徒らに寄付金を集めるのみで何等仕事をしてをりません」と神戸新聞にコメントしている。少年工を中心に沖縄出身者の惨状を訴え、また生活に苦しむ人々に就職の斡旋をして悪への凋落を防ごうと、神戸在住の沖縄県人は速やかに当事務所に連絡するよう呼びかけ、「街の義人」と評されている。賀川豊彦とも連携していたようだ。賀川は、日本最大のスラムといわれた葺合区の「新川」を救済した社会運動家で、日本社会党の設立に参画、コープ神戸の設立者でもある。民間人では最初にマッカーサーと会ったといわれる。
(つづく)

 


2008年8月1日(金曜日)

沖縄タイムス1面で知る、都賀の悲報

カテゴリー: - utinadanchu @ 02時06分42秒

 都賀川の悲報にどう向き合っていいのか。言葉がない。
 またしても六甲の自然に呑み込まれた、尊い同胞のいのち。灘の土あるいは星に帰った幼い命、若い人たちの魂の冥福を、何よりも祈るばかりである。
 
 

 沖縄タイムスの1面に掲載された故郷の悲劇にぼう然としながら、石垣島の風土と精神世界を現代高校生とおばあの視点で描いた「風車祭(カジマヤー)」という小説(フィクション)を思い出していた。
 

 マブイ(沖縄でいう、魂と心の間にある、あるいは魂の前の状態にある宇宙の存在。魂魄。その人の性格や先祖関係、地霊との関係など根源的なものを含む。死ぬと魂はマブイとなりあの世に行き、魄は墓に入るという)を失った少女が、雨乞いの呪文で雨の爆風を巻き起こし、一瞬にしてアラピキ川という都賀川に似た街の川を氾濫させる。死者、行方不明者、経済損失など、島は甚大な被害を受ける。
 東京の企業が、島のリゾート用地や別荘地を買えるだけ買いあさっていた。静かな先祖の眠りがあったはずの地は重機に踏み潰され、先祖だけではなく連綿と続くマブイや祖霊さえも彷徨わせた。島人の発祥の地として信仰していた山を切り崩し、埋め立て地を作ったことで、島の地脈はすべて狂っていた。
 御嶽(ウタキ。祖霊と人間の接する場所。神社のようなもの)はすべて地脈の上にあったため、埋め立て地を沈めて御嶽を元に戻そうと、地震とともに猛烈な津波も襲ってこようとしていた。しかしながら、結果的に人間の犯した罪は命で償うしかなく、膨大な数の犠牲者が出ることを食い止めることは不可能に思われた。
 食い止めたのは、島を囲むサンゴ礁にマブイを宿した、246年間あの世に行けずに島を彷徨っていた女の魂魄だった。
 

 
 六甲では、マブイを落とした人、いや元からマブイなど持たない(企業人という意味での)東京人たちが、今も競って山裾を切り崩している。
 そうでもいわないと、僕はこの悲報を受容できないのだ。


 


*「灘にあった南西諸島連盟」は休みます


2008年7月23日(水曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」 その5

カテゴリー: - utinadanchu @ 17時02分08秒


▼ 沖縄県および鹿児島県奄美群島に本籍を持つ者は、終戦により口之島を含む北緯30度以南がアメリカの統治下におかれたため、戦前からの仕事や出稼ぎ、戦時徴用工として本土やってきて終戦を迎えた者は帰る場所を失ってしまった。奄美群島出身はまだ鹿児島県があるのでよいが、沖縄県は完全に消滅したため、戦後復興にあたり本来県から施される行政サービスを沖縄県出身者は受けることができなくなった。ばかりか、米国占領により「非日本人」になってしまったため、政府によるサービスも難しくなった。

 

▼ 中国、台湾、朝鮮半島出身者で日本で終戦を迎えた者は、日本政府に対して「戦勝国民」として権利を要求できるようになった。物資などを優先的に獲得できる状況にあり、警察力が弱体化するなかで略奪行為や不法行為も見られるようになったと聞く。乏しい資金で農村に買い出しに行った者が、帰りの列車で荷物を強奪され、恨みに恨んだという話は戦後の混乱期によくあったそうだ。その恨みが、戦後の差別問題につながっているともいう。ともあれ、こうした状況がますます溝を深めることになり、憤怒の念をこめて「第三国人」と呼ぶ者もいた。沖縄出身者も立場上「戦勝国民」となったため、「第三国人」扱いとなった。

 

▼ 自分の故郷がアメリカになってしまい、帰る場所がないばかりか地獄の惨状と伝え聞く沖縄戦で実家や親族がどうなったかを知るすべもない沖縄県出身者は、路頭に迷うしかなかった。沖縄県から徴用工・女子挺身隊として本土に送り込まれ各地の軍需工場で働いた者は2万人、戦時中に本土疎開した者は6万人いた。沖縄から多くの学徒や若者を徴用した阪神間の軍需工場は、終戦とともにほとんどすべてが解雇され、学徒はみな焼け跡で孤児となり餓死しかけていた。戦前からの働き手で焼け出された者も、仕事も帰る場所も無くした。沖縄県出身の海外引き揚げ者や復員者は3万人で、舞鶴港などに上陸した後は各地区などで待機となった。彼らは本土に頼るべきものもなく、ひたすら窮乏した。

 

▼ そのため沖縄県出身者のリーダーは、生活防衛のためマッカーサー司令部に対し組織的な行動を行い、マッカーサーをもって日本政府に援護活動するよう働きかけた。1945(昭和20)年11月、東京で民俗学者・伊波普猷を主席総務委員に沖縄人連盟が結成され、占領軍総司令部に次の3点の要望を盛り込んだ請願書が出された。その内容は、(1)日本本土内に扶養義務を持たない旧沖縄県出身の老幼婦女子が速やかに郷土に帰れるよう取計らってほしい(2)沖縄および南洋(明治から多数の沖縄県民が南洋に開拓民、出稼ぎ民として渡っていた)との通信連絡、送金、救援物資の送付等に格別の配慮をしてほしい(3)沖縄在住生存者の安否及び軍閥暴虐行為の真相を調査し、沖縄人及び日本人民に報告するため、連盟より選抜した10名の派遣員の渡航を許可してほしい、というものだった。

 

▼ 当初、この請願書は「日本を祖国とする沖縄県人が占領軍当局に対して、祖国を告発することによって、何が期待できるか」と連盟でも問題になったというが、果たしてこの請願書がのちに救援物資の払い下げなどで威力を発揮することになる。1946(昭和21)年1月2日付マッカーサー司令部覚書は、請願に対する回答ともいえる形で日本政府に「沖縄人に関する請願書の内容を点検するに、食糧、住宅、衣料等に不足し、生活水準を低下せしめる結果、ここ二、三カ月以内に多数の死者が続出しさうな状況である」としたうえで「日本政府は窮乏せる琉球人避難民に対し、遅滞なく十分な食糧、住宅、治療、寝具、衣料等を支給すべし」命令した 。

 遅れて、奄美地域出身者も同じような請願をマ司令部あて行っている。同時に払い下げ物資と「ヤミ市」をめぐっての動きが活発化する。
(つづく)



灘⇔沖縄 通い船対談

vs naddist様
「『沖縄の島守』を読み歩く
一度自転車でまわってみたいと思います。
その際はガイドよろしくお願いいたします」


 ひとりでも多くの兵庫県民に、63年前にあったことを
その場を訪れることで感じとってもらえる場になればと
思っています。
 「島守の道」走訪の際は、ぜひお供させてください。
 その切は、私も走りやすい自転車を仕入れます。
 なにしろ2006年に自転車で70キロをまわった時は、
小径の折りたたみの自転車だったため炎天下で死にそうに
なりましたが、61年前の地獄はこんなもんではなかったはず
といい聞かせてがんばりました。
 しかし、糸満のとある場所を走っていて、霊的なものに
呪縛されました。魔除けの「サン」は持っていたのですが。


   By 沖灘人



2008年7月17日(木曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」 その4

カテゴリー: - utinadanchu @ 11時38分03秒


▼ これまで神戸新聞記事および島尾敏雄の「ヤポネシア考」から、戦後まもなくの灘に「南西諸島連盟」という団体があることを見てきた。
 島尾の一文、「連盟にはいりますと、まあ物資が手に入る。第三国人にはその頃特別な配給ルートがあったんでしょうか」の部分の検討に入りたい。その前に、「第三国人」について知っておかねばなるまい。

 

▼ 敗戦後の南西諸島出身者、つまり沖縄県および鹿児島県奄美群島出身者をとりまく情勢は、一般の神戸市民とは大きく異なっていた。第2次世界大戦における太平洋戦争で沖縄県は唯一の地上戦の舞台となり、約10万から15万人の沖縄県在住民間人を含む約20〜25万人の犠牲者を出した激しい戦闘の後、米軍に占領された。犠牲者数に大きな誤差があるのは、住民票や戸籍を元にした数と収集された遺骨や米軍への収容者数などから政府が出した数とに大きな乖離があるからだ。

 

▼ ポツダム宣言を受諾して敗戦国となった後は、北緯30度以南(口之島を含む)、すなわち奄美群島から南にある南西諸島は米国の統治下に置かれることになった。戦時中の徴用工や女子挺身隊を含む本土に出稼ぎに来ていた者や本土への疎開者、海外から引き揚げてきた沖縄県および奄美群島出身者は行き場を失い、また戦前から移住していた同郷者たちも故郷を失ったことから、物心両面に過酷な苦難を強いられることになった。

 

▼ 敗戦後、まもなく沖縄県および奄美群島出身者の間で、同胞救済を目的とした同郷組織作りが進められている。マッカーサー司令部による南西諸島帰還許可に前後して、帰還者や残留者により組織再編が行われた。その際、沖縄県および奄美群島出身者は中国・朝鮮・台湾省などと同じく、制度上「非日本人」の立場に置かれた。これがいわゆる「第三国人」である。少し前、石原都知事が「第三国人」という言葉を差別的な意味で使ったとして非難されたことがあったが、戦後の混乱期では闇市などを舞台に横行を繰り広げた主役として「第三国人」は差別的な意志で使われたという。

 この「闇市」と「第三国人」が、南西諸島連盟に深く関わっていた。



灘⇔沖縄 通い船対談

vs MJ様
「島田叡という人物を知ったのは、貝原氏が震災後『犠牲者に対する知事の責任』に言及する中で、たびたびその名を挙げたからでした。任期途中の退任表明時にも、やはり『島田知事のように県土の一木一草まで責任を持ちたい』と語っていたのを思い出します。後世の県民や他県の知事にまで、これほど慕われ、尊敬される知事も珍しいですよね、たぶん。
同じく神戸→沖縄の道を辿ったうちなだんちゅさんが、島田氏の足跡を訪ね歩くルポ、読んでみたいです」


 MJさま、ありがとうございます。
 私もかつていた新聞社で貝原知事の会見を取材した際、何度か島田知事の話が出たのを覚えています。中でも印象的だったのは、将棋の谷川名人(当時)の祝賀会でスピーチされた時、引退間近だった貝原さんが沖縄戦時下での島田知事の奮闘に触れながら、震災での県政がどうあるべきだったかということなど悔恨の情も含ませながら語っておられたことでした。

 昨年、沖縄本土復帰の日にあたる5月15日から島田知事が亡くなったとされる7月初旬まで、お世話になっている田村洋三氏の著作からの引用を中心に時系列で追ったものをブログ化しています。今後、大幅に肉付けして、「島守の道を歩く」というような紀行/ガイド的なものにしていくつもりです。
 『沖縄の島守』を読み歩く http://simamori.ti-da.net/


 島田知事のたどった道のガイドに関し、個別にメールをくださったみなさん、どうもありがとうございます。

   By 沖灘人



2008年7月10日(木曜日)

沖縄で今も慕われる、神戸出身の知事

カテゴリー: - utinadanchu @ 14時04分21秒


「島守之塔」にある慰霊碑

今年もこの日がやってきた。年に一度、「島守之塔」へのお参りの日。私たち沖縄の神戸人、兵庫県系人にとって、とても大切な日である。7月6日、沖縄本島南部、摩文仁の丘の中央に立つ「島守の塔」を訪れた。沖縄戦で殉職した戦前最後の沖縄県知事・島田叡とその麾下にあった県職員を慰霊する塔だ。7月初旬、島田は沖縄本島南部の戦場にあって、行政の長としてあるいは民間人として職に殉じた。長くなるが、やはりナダタマにはこのことは毎年書いておかねばならない。


島田叡の座右の銘だった「断じて敢行すれば鬼神も之を避く」。
兵庫高校の同窓会によって今夏建てられた。

島田叡は、神戸人である。
米軍が沖縄に迫る昭和20年初め、沖縄県知事の席は前任者で山梨県出身の泉守紀が政治力を使って本土に「逃亡」したため、1カ月以上空席になっていた。泉は地上戦が近付いているにも関わらず沖縄の行政に不熱心で、前年の那覇十・十空襲では逃げまどう市民をしり目に黒塗りの乗用車でこっそり那覇を脱出し、多くの県庁職員を那覇に残して本島中部の普天間に自分だけ勝手に県庁を移して居座るという体たらくだった。本土への脱出を試みてか、在任1年半の3分の1近くにわたって沖縄を留守にしていた。この泉知事のため、沖縄には軍により危うく戒厳令が敷かれるところだった。

当時の県知事は公選ではなく内務省の人事異動によって決定された。もはや悲惨な戦場化の運命が決した沖縄県の後任知事に任命されたのが、当時大阪府の総務部長だった島田叡だった。須磨の開業医の子息。神戸二中(現兵庫高校)から三高(現京大)、東京帝大に進み、行政マンとなった。沖縄県知事への任命に際し、「自分が行かなければ、誰かが行って死ななければならない」と、大阪に妻子と「断」の文字を残し沖縄に発った。島田の義理の弟が沖縄県人の医師であり、妹の夫の故郷を見捨て難いという思いもあったかもしれない。

島田は、沖縄の県土の草木1本1本にまで責任を持つ気概で、行政を行なった。海上封鎖され県民の食糧難の危機が想定されたため、アメリカの潜水艦や偵察機がうようよする中を自ら台湾に渡って総督府に頭を下げ、3000石の米を沖縄に輸送した。戦場化が避けられない沖縄でせめて県民に楽しみをと、戦時体制化で全国的に禁止の風にあった歌舞音楽を開放し、自ら酒を持って農村の民の輪に加わることもあったという。一方で、軍に住民保護など要望したバーターとして、住民や学徒の戦闘協力の要請を受けるなど辛い選択も行なっている。


「島守之塔」の裏側

米軍による3月末の上陸前空襲、4月1日以降の「鉄の暴風」「耕す戦法」によるすざまじい攻撃で県庁が破壊された後も、壕で行政を執った。地獄の中での住民の疎開誘導、夜間食糧の増産、避難民は食糧をどの畑からでもとってよいとする通達など行なった。5月27日、島田の猛反対にも関わらず第32軍司令部が首里城地下の巨大な司令壕を放棄して多数の住民が避難している南部撤退を行なってからは、島田および県庁も南部の壕を転々とした。軍に対して厳しい態度で臨む知事である一方、壕にあっても穏やかでユーモアあふれる人柄と、柔らかい神戸弁が印象的だったという証言が残されている。

米軍の記録に「この世にあるどんな地獄よりも悲惨な地獄」とある阿鼻叫喚の戦場と化した沖縄本島南部で6月23日、ついに牛島司令官と長参謀長が摩文仁の断崖にある司令部壕で自決。島田と側近も司令部壕の北側、軍医部壕にいたが、民間人は軍人と最期を共にすべきではないとの軍の指示で島田と荒井警察部長は壕を出た。今、島守の塔が立つ場所が、この軍医部壕の前である。証言者によると、2人はこれだけの県民を死なせておいて生き残ることはできないと、なお断末魔の戦場を北東方向の具志頭方面に向かった。側近の県職員には、生き残って戦後の復興に尽くすよう指示したという。

その後の証言で、具志頭の海岸の洞窟で負傷して横たわる島田らしき人物に敗残兵が出会っていることがわかっている。敗残兵は、壕に残された食糧を探している時に島田と出会い、名刺と黒糖をもらったという。後日、この敗残兵が黒糖のお礼にと、海岸に流れ着いた米軍の小麦粉に黒糖をまぶした団子を作って持っていったところ、島田らしき人物は亡くなっていた。拳銃が落ちており、自決したようだったという。7月初旬のできごとだ。筆者は何度かこの地を訪れたが、海岸沿いに点在する琉球石灰岩の壕は亜熱帯の草木の覆われ、当時を伺い知ることはできなかった。ところどころに火炎放射器に焼かれた跡があるだけだ。


島田知事が最期を迎えた具志頭の海岸。琉球石灰岩の地形により、
断崖には大小多くの洞窟がある。今は草木で覆われる

これらの話は、私たち沖縄の神戸人にも、本土の神戸や兵庫でもあまり知られていない。だが、前兵庫県知事の貝原氏はことあるごとに島田の「県土の草木一本にまで責任を持つ」という言葉を引用し、島田を手本にしていた。また、島守の塔の真裏にある兵庫県出身の沖縄戦没者慰霊碑には、戦後50年の平成7年に戦争の否定と住民を守る決意を明記している。

「奇しくも本年、故郷兵庫では、阪神・淡路大震災が発生し、多くの尊い生命が失われました。戦争や災害による悲劇が二度と繰り返されることのないよう、人々が安心して暮らせる共生社会の実現をめざして、県民こぞってたゆまぬ努力を続けてまいります」

ちなみに、他県の慰霊塔が軒並み「散華」などの美辞麗句で自県戦没者を賛歌している中で、兵庫と京都だけは沖縄県民の心情をくんだ言葉が列ねられているというのが沖縄での評価である。

 「のじぎくの塔」にある貝原前兵庫県知事の言葉

****

● 年輩の沖縄県民からは、こちらから水を向けるわけではないのに、島田知事を慕う声を多く伺います。県庁では、沖縄の神戸出身者はやはり特別な存在であり、島田知事のことを次世代に伝えてほしいという声も聞きました。「島守之塔」は、そんな県民の浄財によって昭和26年に建てられたものです。島田知事が神戸二中、三高の野球部出身のスポーツマンだったことで、今も沖縄県高校野球新人大会は「島田杯」が命名されています。一昨年から始まった沖縄−兵庫高校テニス選抜大会も島田杯の名が冠されています。なにより、沖縄県系人が兵庫に多く住むこともあって、友愛県として両県のつながりは続いていることは承知のとおりです。沖縄では、沖縄戦での日本軍の残虐な行為や戦前から収奪されてきた経験が本土出身者に対して厳しい見方をさせることも多いですが、島田知事は沖縄で慕われる数少ない本土出身者といえます。

● 私ごとながら、2002年に「島守之塔」に関することを知ってから毎年この時期に訪れ、当時の県民の4分の1にあたる15万人もの沖縄県民の犠牲者および島田ら県外出身の民間人の冥福を祈っています。島田知事を追った「沖縄の島守」(中央公論新社)の著者で、現在70歳を越えてなお精力的に沖縄戦関連の取材執筆活動を続けておられる元読売新聞記者の田村洋三さんにもおつきあいいただきながら、「沖縄の島田」を追っています。2003年には、島田一行が6月半ばの梅雨真っ盛りの泥濘の中で壕を求めてさまよった経路約70キロを、炎天下のもと2日間かけて歩きました。2006年には自転車で同じ経路をまわりました。

● 兵庫県から筆者の元を訪れる方には、島田知事の南下ルートや行政を執った壕の内部への案内など、できるだけガイドするようにしています。島田知事を通じて、沖縄戦で民間人がどういう行動を強いられたのか、行政マンたちがどのような判断を行なったのか、考えるきっかけになればと思っています。関心がおありの方は、気軽にお声かけくだされば幸いです。


*「灘にあった南西諸島連盟」はまたまた休みます


2008年7月3日(木曜日)

灘にあった壕を想う その2

カテゴリー: - utinadanchu @ 11時58分35秒


▼ 灘の壕話を続ける。
 昭和40年代、大人たちから戦時防空壕跡だとを聞かされた、神大農学部前から六甲ケーブルに至るバス道沿いにいくつかあった花崗岩質の壕。小学校低学年だった自分たちには、とても大きな洞窟に見えたものだ。ちょうどウルトラマン第8話「怪獣無法地帯」で、多々良島でピグモンが測候所員を介抱していた、あるいはレッドキングが現れた洞窟を思い起こさせた。余談ながら、「怪獣無法地帯」の脚本を書いたのは金城哲夫・上原正三の沖縄出身コンビだ。

 

▼ 鶴甲行き36系統のバスが神大理工学部方面に向かって右折する山側、かつて(今もあるかもしれないが)CASAがあった場所にも壕らしき穴があった。CASAができる前はセミがやかましく鳴く小さな森で、御影塚町の酒造会社「福寿」(現「神戸酒心館」)の安福さんの敷地だと聞いていた。壕の前を通る時、真夏の炎天下でもひんやりした空気が体にあたった。壕で亡くなった人の霊気かもしれないと思いつつ、「天然のクーラーや」と阪神電車か灘神戸生協くらいしか冷房を知らなかった僕らは、喜んで霊気にあたりにいった。思えば、このときの憑依がいま沖縄で役に立っている。

 

▼ 壕の中でした遊びで代表的なのは、なんといっても火遊び。小学校で配られた夏休みのしおりには「壕跡にはマムシや野犬がいるので入ってはいけません」などのほか、「火遊びは絶対いけません」などとくどくど書かれていた。大人が禁止すればするほど、当時の小学生は使命感に燃えたもの。学校から盗んだ(持ち出した)アルコールランプや、「手りゅう弾」というシャレにならない花火で「洞窟実験」を行なった。友人のコニシ君たちは油コブシ山で火遊びをして山火事になり、神戸新聞に載った。こうして僕らはイケナイこととヨイことの区別を覚えたものだった。

 

*「灘にあった南西諸島連盟」はまたまた休みます



灘⇔沖縄 通い船対談

vs naddist 様
「6月23日は灘的にも重要な日です。
神戸出身の元沖縄県知事、島田氏の慰霊碑も建立するそうですね。

防空壕は長峰ダムの南、杣谷川沿いに一つ確認できます。
写真撮影可能です」

 

次号は島田氏の命日(と考えられる日)に近いので、
糸満市に建てられた島田氏の慰霊碑を含めレポートしようと
思っています。 

防空壕跡、杣谷川沿いにもありますね。
現在登山道になっている六甲山南面の山道には
壕とおぼしき穴がいくつかありました。
由来とか研究されている方はいないのでしょうか。
by 沖灘人
 


2008年6月25日(水曜日)

慰霊の日。灘にあった壕を想う

カテゴリー: - utinadanchu @ 02時58分41秒

▼ 昨日6月23日は、沖縄県では沖縄戦の「慰霊の日」として官公庁や学校は休日となり、平和を祈るさまざまな行事が行なわれる。沖灘区事務所のある那覇新港や泊埠頭では、正午に停泊中の船が一斉に汽笛を鳴らし、黙祷を捧げた。63年前のこの日は住民15万人を地獄に引きづりこんだ旧日本軍の沖縄守備隊を指揮した第32軍司令部の最高司令官である牛島長官と長参謀長が沖縄本島南端の壕で自決した日であって、決して沖縄戦が終結した日ではないことに注意しなければならない。沖縄県民にとっては、組織的戦闘が終わったことを知らずに隠れていた壕に入り込んできた敗残日本兵による虐殺虐待で、この後も悲惨な地獄絵図は続いた。


 牛島長官らが自決した沖縄本島南端、摩文仁の壕

▼ 慰霊の日に前日、沖縄区事務所にほど近い那覇市真嘉比の再開発地域で、おそらく那覇市で最後の現場になるであろうという沖縄戦遺骨収集作業を手伝った。沖縄戦当時は墓が点在する森で、西側はシュガーローフと呼ばれる沖縄戦最大の激戦地だ。ここでの戦闘で、アメリカ兵には1289人の精神病患者が出た。県立一中の鉄血勤皇隊など学徒兵を含む旧日本軍兵士は、墓を拡張した壕や森に隠れながら爆弾を背負っての体当たり攻撃という邪道の用兵で死んでいった。現地を掘ると、遺骨や日本軍の武器弾薬が出た。ほぼ完全な形で埋まった兵士の一体もあった。ポケットを思われるあたりに、小さな銅製の観音像があった。遺骨の中には、灘出身者もいるかもしれない。ちなみに沖縄県にはまだ18万ともいわれる遺骨が埋もれたままになっている。アメリカでは、亡くなった人は必ず本国に連れて帰るので、残されているのはほぼ全部が日本兵および沖縄県民である。


 沖灘区の東、那覇市真嘉比で行われた遺骨収集作業

▼ ところで、灘にも壕は数多くあった。昭和40年代、自分がはっきり覚えているのは、神大農学部前から六甲ケーブルに至る26系統のバス道沿いにいくつかあったものだ。大きかったのは道の東側、六甲団地の崖下にあった2つだ。大土神社あたりにもあったかもしれない。そのころはまだ封鎖されておらず、学校からは夏休みのしおりなどに「マムシや野犬がいるので絶対に入らないように」などと書かれ、入ることを厳禁されていた。入るなといわれたら子供としては入らざるをえないので、荒ゴミなどが投げ込まれている中を負けずに入って遊んだ。誰かに聞いた話では、神戸大学の地下から神戸製鋼の方まで戦時用の秘密の地下通路がつながっているとか、地下に軍事工場があったというが、本当だろうか。
 あの壕の入口は、今思えば牛島長官と長参謀長が自決した摩文仁の壕の入口に似ている気がする。写真に撮っていなかったのが残念だ。


 墓を拡張した壕から出た日本軍兵士の水筒、銃剣、手榴弾など


※「灘にあった南西諸島連盟」は休みます


2008年6月17日(火曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」その3

カテゴリー: - utinadanchu @ 15時00分00秒


▼ 島尾敏雄の回想を続ける。(*1)

「それから市場などを作って、南西諸島市場なんていう名前になっていて、そこに行くと島の様子がそのまま出ているので、ぼくはなつかしくて時々行きました。あの頃は物資の出廻りが悪かったでしょう。さつまいもの葉っぱですか。ああいうものまで食べていた時でしたけれども、連盟にはいりますと、まあ物資が手に入る。第三国人にはその頃特別な配給ルートがあったんでしょうか、ぼくにはわかりませんが・・・それで家内が奄美なもんですから、はいれってかなりすすめられました。

 
 そのうちに復帰運動ということになって、それは自然に潰れていったようです。分離された直後の頼りない状況があったことと、物資がわりあい手に入ったことで、一時は景気がよかったという面もありましたが、そのうちに、世の中がだんだん落着く方に向いていく。それから復帰運動というのが起こってくる。島の中だけではなくて、島外に出ている島の出身者の間にも、東京だとか、あるいは大阪を拠点にしてそういう動きが出てきますと、南西諸島連盟というようなものは必要ありませんから消えていったんじゃないかと思います」

 

▼ 「南西諸島市場」という名称が見える。先に上げた1946年9月29日付神戸新聞「南西諸島帰還者に告ぐ」の広告にあった「灘支部 神戸市灘区畑原市場内 前田久吉方」の記述、あるいは「葺合支部」「長田支部」の場所がその後商店街として発展したエリアであることから、当時の市場、というより市場の前身である闇市には、南西諸島連盟が深く関与したことが連想される。今は衰退した西灘市場は、「神戸市小売市場連合会20年史」(*2)によると1947年12月に「奄美廉売市場」として発足している。また、東畑原市場はかつて奄美市場と呼ばれていたという証言もある。

 

▼ 次回は、島尾の「連盟にはいりますと、まあ物資が手に入る。第三国人にはその頃特別な配給ルートがあったんでしょうか」という供述に注目してみたい。(つづく)

 

*1 島尾敏雄『ヤポネシア考 島尾敏雄対談集』葦書房、1977
*2 naddsit氏所蔵


2008年6月10日(火曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」その2

カテゴリー: - utinadanchu @ 18時53分30秒


▼ 戦後まもなくの混乱期、篠原南町3丁目にあった「南西諸島連盟」とは、どういう団体か。「畑原市場内」にあった支部とは、何の拠点だったのか。そもそも数次にわたる大空襲で焼け野原になり、極端な物資不足で配給制が敷かれていた中で、「畑原市場」は市場として存在したのだろうか。そこには、現在の市場とは全く異なる磁場やアンダーグラウンドなにおいを感じずにはいられない。
 当時、神戸市外国語大学で教鞭をとっていた作家、島尾敏雄が「ヤポネシア考 島尾敏雄対談集」で次のように回想している。

 

▼ 「戦後、奄美群島は日本から分離された。けれども、奄美は軍事的にみてあまり価値がないので、アメリカは経済的に力を入れない。復帰運動というのも当初は出なかったんです。それは、しばらく期間をおいて、じょじょに動きが出てきている。そういう敗戦直後の空白みたいな状況の中で、本土の方に南西諸島連盟というのができたんですね。関西に来ていた奄美の人たちなど、まあ非常に頼りなかったわけでしょう。
 
 それと、身分があの当時、第三国人ということになって、物資なんかが手に入りやすかったと思います。それで金の廻りがよくなって、南西諸島連盟というのを作って、かなり羽振りをきかしたんです。ぼくはその頃神戸にいたのですが、彼らは神戸の街中を、南西諸島連盟と大書きした自動車でぶっとばしたりしていましたね」*

 

▼ 横浜で貿易商の子弟として生まれた島尾敏雄は、横浜尋常小学校2年の時に関東大震災で西灘村(当時)稗田に転居し、西灘尋常小学校(現稗田小学校)に転校する。自宅はその後葺合と生田に移ったが、県立第1神戸商業学校(現在の海星女子学院大学の地にあった)から長崎高商、九州帝大に進んだころ実家は再び灘に戻り、篠原北町1丁目1番地に住んでいる。昭和19年に横須賀などで水雷、魚雷艇の訓練を受け、秋に奄美大島の南、加計呂麻島の基地で出撃を待った。そのまま終戦となり、六甲に帰って大学に勤めながら創作活動を始めている。(つづく)

 

*島尾敏雄『ヤポネシア考 島尾敏雄対談集』1977
 


灘⇔沖縄 通い船対談

vs naddist 様
「いよいよ「南西諸島連盟(南諸連)」のナゾに迫るワケですね!
楽しみです」


かなりコアで難解でヘンコな話題ですが、のんびり取り組んでいきます。
すでに孤高なブログですが、さらに目指すは「灘建築夜話」の至高の世界です。
書ける話と書けない話があり、書けない話は酒場で口伝します。



2008年6月5日(木曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」 その1

カテゴリー: - utinadanchu @ 20時15分04秒


▼ 終戦翌年の1946(昭和21)年4月29日付神戸新聞に、次のような広告が掲載されている。

「南西諸島帰還者へ告ぐ 帰還者にして兵庫県在住沖縄・大島人は左記連絡事務所へ申し込まれたし。南西諸島連盟  

 兵庫県本部 神戸市灘区篠原南町三丁目一七 但し市電将軍通終点二丁上ル  
 長田支部 神戸市長田区久保町二丁目三六  
 中部支部 神戸市生田区中山手通1丁目九五ノ三、生田神社前喫茶店アンデス武 哲義方  
 葺合支部 神戸市葺合区宮本通三丁目九 碇山久輝方  
 灘支部 神戸市灘区畑原市場内 前田久吉方  
 西宮支部 西宮市高木字石訳四一 老山?人方  

 但し、芦屋・御影・住吉・本山・魚崎・淡路・明石方面在住者は直接、兵庫県連合会へ連絡相成度」

 

▼ 南西諸島連盟!なんと強引なネーミング。本部は灘区篠原南町3丁目17、市電の将軍通駅を2丁上がったところとあるから、春日神社を西に行って六甲登山口から将軍通交差点に伸びる広い道と交差するあたり。校区では六甲小−長峰中校区で、たしかに昔から人情や顔だちに南のにおいが香るエリアだ。ちなみに、このタテの道は戦前にはすでに今の広さに整備されていた。

 

▼ 灘の篠原で南西諸島が連盟していた。なんだか血湧き肉踊る話だ。「灘支部 神戸市灘区畑原市場内 前田久吉方」というのも、「沖声灘語」の読者でその筋の人には非常に気になるところだろう。都市社会学的で堅い話になるだろうが、次回からは「南西諸島連盟」のナゾを中心に、戦前戦後の灘および神戸で繰り広げられた南西諸島出身者や沖灘人の風雲録を、ぼちぼち追っかけていく。

 

※沖灘区事務所のネット環境にトラブルが発生しているため、掲載が遅れたことをお詫びいたします。
 


灘⇔沖縄 通い船対談

vs よねちゃん 様
今年の夏休みは琉球エクスプレスに乗って沖灘区の事務所に行くぞ!!!


沖灘区事務所は極めてアナログな環境で、いつどんな生態系トラブルが
発生するかわかりませんが、ぜひぜひお越しください。
安謝新港にて、紅型に花笠姿でお待ちしております。 by 沖灘人



2008年5月29日(木曜日)

四川の同胞の冥福を祈る

カテゴリー: - utinadanchu @ 01時04分17秒


▼ ここ沖縄の沖灘区事務所から中国四川省までの距離は、東京までとそう変わらない。古くから中国と交流があった沖縄県民および沖灘区民としては、四川大震災のあまりの状況に声を失うばかりである。沖縄県庁前で声をからして義援金の呼びかけと感謝の声をあげている中国人留学生に募金を渡しながら「加油(がんばれ)」といおうとして、不意に13年前のことが頭をよぎり声が詰まった。

 

▼ ところで沖縄は、平年より14日遅く梅雨入りした。観測史上3番目の遅さというが、梅雨入り前にも後にも雨らしい雨は降っていない。日中は暑いが夜は比較的涼しく、むしろ沖縄では年間で最も快適な気候だ。一方で、きょう四国が平年より7日も早く梅雨入りしたという。天気予報などの気温を見ていると、明らかに本土都市の気温が沖縄の気温を上回ることが多くなった。おそらく、体感温度は本土の方が高いに違いない。

 

▼ 先日、沖灘区事務所近くの外壁でゴキブリが大発生した。こちらのゴキブリはワモンゴキブリという茶色い大型種で、屋外にもけっこういる。下水溝などでよく繁殖するらしい。昨日は、沖縄の庭木でポピュラーなイヌマキという木につくキオビエダジャクという蛾の幼虫が大発生していると新聞に載った。ところが、野良猫や野良犬は最近急に減ってしまった気がする。

 

▼ 異常気象によるものかもしれない。そうであれば、まだよいのだ。阪神淡路大震災の直前、動物の動きに変化があることに気づいていた。地震がないといわれ、東京から大企業のデータセンターが移ってきたりしている沖縄だが、すぐ東側に琉球海溝があり、なにより隆起石灰岩でできた島だ。四川省の地震を引き金にした地殻の大変動が東アジアに起こらないことを願いつつ、中国の同胞の冥福を祈る。

 

▼ 先週、FM沖縄でも「幸せ運べるように」が流れた。「地震にも負けない 強い絆を作り 亡くなった方々の分も 毎日を大切に行きてゆこう」に、また涙。

  

  


灘⇔沖縄 通い船対談

vs naddist 様
沖縄神戸文庫の貴重な蔵書の数々、驚きました。
灘でもほとんどお目にかかれないものが沖縄で見られるのも
なんだか楽しいですね。


この状況は、今は那覇では聞くことができない沖縄方言が
移民先のブラジルや出稼ぎ先の尼崎で残っていることと
共通するものがあるでしょう。
移出先では、濃縮された形で残るものと、クレオールとして
融合した形で残るものがありますが、沖灘区では両方とも
顕著ですね。 by 沖灘人



2008年5月21日(水曜日)

沖灘区事務所移転の巻2

カテゴリー: - utinadanchu @ 01時27分51秒


 沖灘区事務所にあるビワの木

▼ 敷地の片隅に、1本のビワの木がある。震災で全壊した、灘区桜口町4丁目にあった祖父母宅にもビワの木があった。子供のころ、木によじ登って取っては食べたもの。数十年後、沖縄でビワを取って食べることになろうとは。ちょっと懐かしい、沖灘の家だ。


 沖灘区事務所にある沖縄神戸文庫

▼ 懐かしいといえは、事務所内には沖縄にも関わらず神戸関係の古くて懐かしい本が結構ある。70−80年代の「ワンダフルコウベ」や「神戸からの手紙」「YELLOW PAGE KOBE」など。大阪の大正区に「関西沖縄文庫」があるが、ここは小さいながらも「沖縄神戸文庫」だ。


 神戸・六甲アイランドから安謝の沖灘区事務所に向かう琉球エクスプレス

▼ 沖灘区事務所へは、12:40に阪神御影から沖縄行きバスに乗り、六甲アイランドを14時に出て翌々日の朝8:30に安謝新港に着き、歩いて10分程度だ。月6−7便が運行している。現在は2等で2万円だ。かつては中突堤から関西汽船などが神戸−那覇を運行したが、現在はマルエーフェリー琉球エクスプレス(奄美海運)だけだ。


2008年5月13日(火曜日)

沖灘区事務所、神戸航路の桟橋近くに移転の巻1

カテゴリー: - utinadanchu @ 08時00分00秒



中央の白い屋根が新しい沖灘区事務所


▼ 沖声灘語は、沖縄県那覇市で書かれている。正確にいえば、摩耶埠頭沖1000キロにある沖灘区事務所だ。naddist氏が「沖灘区は、沖縄の灘区、灘区の沖縄。 そこには県境も国境もない。欲望も飢えもない、もちろん米軍基地もない、ユートピア。殺したり、死んだりすることもない平和な場所」と静かに沖灘宣言した、摩耶埠頭の南西方向にあるノンマルトの世界である。そういえばnaddist氏はきょう、ノンマルトの世界をウルトラセブンで著した故・金城哲夫氏のご実家である牛鍋屋店ですき焼きを食べたはずだ。

 
沖縄戦後の規格住宅だが、内部は洋間にリフォームされている

▼ その沖灘区事務所が5月1日、那覇市銘苅から安謝に移転した。古い平屋の一軒家で、沖縄戦後に建てられたセメント瓦の規格住宅だったようだ。来沖灘する灘区民が増えたため、年中無休で灘区民や沖灘区民が交流できる区民スペースを設けた(ただしスタッフが灘区に出張中はお休み)。キッチンでは、同じく5月に水道筋東側の東畑原市場界隈に常設店として約1年ぶりに再オープンする沖縄おでんサロン「通い船」(ただしレギュラーオープンは週末だけ)の沖灘安謝店として、沖灘の食を楽しめる。

 
室内には、灘区の方向を示す矢印が設置されている。灘への礼拝は万全だ。
東畑原市場近くにオープンする「通い船」では、逆向きのものが設置される予定。
室内のシーサーも、方位磁石を睨みながら、正確に灘の方向を向いている。
壁にかかっているのは灘区の山々の絵と、川西英氏の版画「摩耶山天上寺」。
水道筋ミュージックストリートのTシャツも掲げられている。

▼ 神戸港から来るフェリーの終着港、安謝新港が近い。明治から昭和の高度成長期まで、沖縄からたくさんの出稼ぎ者や戦時徴用工、集団就職者を乗せて神戸港に向かった船の末裔だ。まさに「通い船」だった。灘区民や沖灘区民が船で来沖灘した場合、上陸してまずは沖灘区事務所でパスポートチェックを受ける。それから安謝漁港のパヤオから仕入れた魚に大黒正宗で、無事の航海を祝ってまず一杯ということになろう。ちなみにこの界隈は、地元自治会の区分で「住吉区」という。近くに天久宮という室町時代創建の神社(拝所)がある。当時琉球と往来があった兵庫津から船に乗ってやってきた京都五山系の坊さんが、神仏習合で建てたと思われる。

 実は住吉区という名で呼ばれている



灘⇔沖縄 通い船対談

vs naddist 様
(ブラジル移民に関して)
「小学校の頃、ブラジルから転校してくる子が何人かいました。
彼らはミドルネームを持っていました。
野球は下手だけど、サッカーがうまかったなぁ」


今は東灘の青木にペルー人集落があるとか。
リオデジャネイロと姉妹都市であると、子どものころから
聞かされ続けてきた記憶があります。
クラスに南米系に似た子が必ずひとりはいて、
そういう子はだいたい「マルカーノ」とかのあだ名を
つけられていました。 by 沖灘人


2008年5月7日(水曜日)

灘の清明祭とブラジル移民

カテゴリー: - utinadanchu @ 20時00分46秒


 
イッペーの花


▼ 前回、4月27日に行なわれた都賀川シーミー(清明祭)を書いた。二十四節気の清明にあたる新暦4月5日に沖縄本島を中心に行なわれる行事で、台湾や香港でもこの風習が残るという。考えてみれば、古き灘でも行なわれていたのではないかと思いあたるフシがある。子供のころ、毎年4月初旬の日曜日に現在は区役所になってしまった桜口町4丁目の祖父母宅に親戚一堂が集まって会食をしていた。当時は旧暦でひなまつりをすると説明された記憶があるが、もしかしたら清明祭の名残りではないか。我が家系では、行事には法事の菓子類に混じって月餅が出されていた。

▼ 明治初年にどこからか神戸に流れ着いて貿易商を始めた家系なので、福建か広東系の可能性はある。こうした、国内外の南西方面からさまざまな家系が集まって現在の灘人が生まれたことはたしかだろう。そんな明治時代は、神戸から海外に出る人も多かった。ちょうど100年前の4月28日、神戸港からブラジルに向けて「笠戸丸」が出航した。コーヒー農園と雇用契約してブラジル移民第1号として旅立った781人のうち、324人は「ソテツ地獄」と呼ばれる厳しい経済事情にあった沖縄県出身者だ。

▼ 桜口で「清明」に従姉妹たちと大騒ぎしていた昭和40年代、赤坂通出身の伯父は南米移民船「アルゼンチナ丸」の乗組員として大平洋を渡っていた。春先には旅立つ移民船といれ違いに、沖縄や奄美から大勢の集団就職者を乗せた関西汽船が連日神戸港に入ってきた。
 この時期、沖縄でも、神戸の移民収容所跡地でも、ブラジルの国花「イッペー」の黄色い花が咲いている。


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