
写真は、手りゅう弾である。
mixiで読まれた方には重複して申し訳ないが、今回はこれらを灘に送ったという話。
NPOによる沖縄戦遺骨収集の手伝いをしていると、こうした沖縄戦遺品は土中や壕の遺骨とともに出てくる。現在は、沖縄都市モノレール「おもろまち」駅東側の真嘉比再開発地区で行なっている。
灘区内の学童保育に子供を通わせる女性が、小学生とその父母のためのいのちを考えるイベントを企画した。7月28日に都賀川で学童保育の子供や引率者ら5人が犠牲となった悲劇を事実として受け止め、いのちについて子供と大人で考えようという趣旨だ。8月29日午後1時半から、灘区六甲道北西500メートルにあるコミュニティ施設「風の家」で行なう。沖縄県出身の方も来られて話をされることになり、沖縄戦もいのちを考えるテーマのひとつにというので、NPOの賛同を得てこれらを送り、参加者にさわってもらうことにした。送った手りゅう弾3発はいずれも不発だったもので、真管を外し火薬を抜いて、完全に処理されている。

写真ではわからないが、真管には「四ー五秒」と刻まれていた。
押してから爆発するまでの秒数だ。
当時、沖縄で地上戦を戦った兵士は、手りゅう弾を2個持たされたという。
1個は、敵に投げるために。1個は、自分を殺すために。
捕虜になることが許されなかった日本軍では、爆雷を抱いてアメリカの戦車に突っ込んだり、いよいよ勝ち目が亡くなった時にこの手りゅう弾を使って自決していった。
沖縄のおばあや生き残った兵士達の証言では、戦争主導者に対して「バカヤロー」と罵ったり、「おかあさーん」と叫びながら次々と 「パーン」と手りゅう弾を破裂させて爆死していった。
兵士といっても、多くは17、8歳の子供だ。
沖縄県民にも渡され、捕虜になれば拷問されると教育された人々は、いよいよ米軍が目前に迫ったとき、壕の中で親が子どもを抱きしめて爆弾に点火していったという証言が多く残されている。

この手りゅう弾は棒状の構造になっているものの弾倉部分で、遠くまで投げるのに使われた。戦火に倒れた若い看護士の腰からこの手りゅう弾を拾いあげる米兵の姿が写真に残されている。手りゅう弾には、このほか陶製のものもある。

手りゅう弾と一緒に出土した時計も送った。手巻きの置き時計。遺骨の主が最後に巻いたのはいつだったのか。真っ暗な壕の中で、カチカチと時を刻み続けて、主の死のしばらく後に時計も活動を永遠に止めたはず。
これらの遺品を貸してくださったのは、NPOとして25年間遺骨収集を続けている具志堅隆松さん。
具志堅さんは、手りゅう弾には、そんな63年前の人々のメッセージが託されているという。
神戸の川で亡くなられた子供たちも、きっと何かのメッセージを遺していったはずで、 63年前の沖縄戦で兵士や親子から遺されたこれら手りゅう弾が、そんなメッセージを考えるきっかけになれば、子供たちの死の無駄にしないためになるなら、喜んで使ってほしいと貸してくれた。
「できるだけ多くの人に触ってもらい、ぼろぼろになるまで触られて、命の尊さを人の心に刻むことがこれら遺された手りゅう弾の責任だと思う。手りゅう弾に、責任を取らさなければ」と、彼は言う。
「風の家」がある六甲町界隈は神戸大空襲を描いた「火垂るの墓」の当地であり、 阪神大震災で瓦礫に挟まれた人達が、救い出そうとする人々に「僕のことはもうええから逃げてー」といって炎に包まれていった場所でもある。
一般の方も参加可能で、近隣でお時間ある方はぜひお出かけを。
これら手りゅう弾など不発弾は自衛隊が処理する他、国が企業に処理を委託して最終処理される。沖縄からは、米軍基地内に処理施設があるにも関わらず、多額の国費で北九州まで運送されて処理されている。
具志堅さんは、自身で処理技術と免許を持っており、多くの沖縄県民や兵士を殺した道具が企業の営利や防衛利権の餌になるのは許せないとして、 NPOで処理することで難病の子供を救うお金に生まれ変わらせる市民活動を行っている。
*「灘にあった南西諸島連盟」は休みます


1月17日
