▼ 神戸での少年工を中心とした沖縄県出身者の困窮ぶりに触れておきたい。神戸新聞によると、当時35歳の大城は、終戦までは川崎造船の徴用工として妻の死もいとわず幼児を抱えて勝つために汗と油でハンマーをふるっていたが、終戦後は何とかして世のためにと心を決して復員、徴用解除、戦災などで生活のために悪の泥沼に落ちようとする人々を黙々として世話をし、同県人会の縁の下の力持ちとなり感謝されていた。
▼ 大城は1946年の初めごろ、神戸新聞に「寮長になり自ら世話 沖縄の少年工」という見出しで始まる記事を見つけた。川崎造船の福利課職員崎元待命が、長田区東山の青年学校で孤児同然になっていた同社の沖縄出身少年養成工25人を発見、「暁寮」を作って世話をしたという。大城はこの記事に共鳴し、南方引揚同胞およびすさみゆく人を救いたいと相談したところ話がまとまり、在神800人の沖縄県人に呼びかけるべく大城宅を連絡取扱事務所にしたという。
▼ 崎元は、日本最大のスラムといわれた葺合区の「新川」を救済した社会運動家でコープ神戸の設立者でもある賀川豊彦とともに行動し、貧民階級のよき友人だったという。賀川が新川を舞台にした「死線を越えて」を発表する以前から神戸の「貧民窟」で伝導を行っていた。神戸新聞では、「沖縄の少年達の心を一番に暗くするものは郷里にいる親や兄姉たちの安否であった。そこで崎元さんは米進駐軍に対し郷里の情報を得たいとお願いしているが、これも近く願ひがかなう模様である」と紹介されている。
▼ 第2次大戦で神戸は、軍需工場化した大規模工場群を市街地が取り囲んでいたこともあり、全市の6割強が焼失した。戦時動員された者以外の住民は大半が故郷に疎開できたが、沖縄県出身者や奄美出身者の多くは戦争前には帰郷できたものの、徐々に戦火が拡大し故郷自体が戦場になるにあたっては疎開すべき身寄りや資金がなく、行き場を失っていた。宝塚市の武庫川沿いにあった川西航空機工場近くに集中地域を形成していた沖縄県出身者は、爆撃に備えて西側の六甲山系甲山に身を潜めたという証言や、神戸の小学校で教鞭を取っていたが戦争も大詰めになったので長尾山(伊丹)に入り、炭を焼いて糊口をしのいだという話もある。
(つづく)