▼ 戦後阪神間の沖縄県人系団体の動きを追ってみよう。
1945年11月に結成された沖縄人連盟の請願に答える形で、1946年1月2日付でマッカーサー司令部は日本政府に対し「沖縄人に関する請願書の内容を点検するに、食糧、住宅、衣料等に不足し、生活水準を低下せしめる結果、ここ二、三カ月以内に多数の死者が続出しさうな状況である」としたうえで「日本政府は窮乏せる琉球人避難民に対し、遅滞なく十分な食糧、住宅、治療、寝具、衣料等を支給すべし」と命令した。
▼ 関西でも、東京で沖縄人連盟が結成された同じ1945年11月に関西沖縄人連盟が大阪で結成され、各地の沖縄県出身者団体を支部とした。活動内容は「疎開学童、徴用工、挺身隊、引揚民、復員兵士の生活保証を要求する」「沖縄への調査員派遣許可方をマ司令部に請願する」等である。兵庫県では、尼崎の軍需工場・住友鋼管で人員整理された沖縄県出身女子挺身隊の救済をきっかけに、同じく1945年11月に尼崎市内5地域の沖縄県出身者の団体が集まり、尼崎沖縄県人会(当時、1946年8月に沖縄県人会兵庫県本部)が発足した。
▼ 神戸における沖縄出身者の中心は、のちに沖縄人連盟兵庫県本部副会長になる大城清蓮が路頭に迷う悲惨な同胞沖縄県民のため1946年1月に設置した、神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所。相談役は1923(大正12)年に大阪で関西沖縄県人会を作り、戦後に東京で全国組織の沖縄人連盟創設にも関わった活動家・井之口政雄。井之口は1947(昭和22)年4月、戦後初の国政選挙で共産党所属として兵庫2区から立候補(落選、2年後の総選挙で雪辱)している。
▼ 大城は、「東京に本部があり全国各地に支部があることはあるのですが、徒らに寄付金を集めるのみで何等仕事をしてをりません」と神戸新聞にコメントしている。少年工を中心に沖縄出身者の惨状を訴え、また生活に苦しむ人々に就職の斡旋をして悪への凋落を防ごうと、神戸在住の沖縄県人は速やかに当事務所に連絡するよう呼びかけ、「街の義人」と評されている。賀川豊彦とも連携していたようだ。賀川は、日本最大のスラムといわれた葺合区の「新川」を救済した社会運動家で、日本社会党の設立に参画、コープ神戸の設立者でもある。民間人では最初にマッカーサーと会ったといわれる。
(つづく)


(継続中) - 11月23日
11月29日
