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2008年8月27日(水曜日)

沖縄戦の手りゅう弾、灘へ

カテゴリー: - utinadanchu @ 14時13分57秒

写真は、手りゅう弾である。
mixiで読まれた方には重複して申し訳ないが、今回はこれらを灘に送ったという話。

NPOによる沖縄戦遺骨収集の手伝いをしていると、こうした沖縄戦遺品は土中や壕の遺骨とともに出てくる。現在は、沖縄都市モノレール「おもろまち」駅東側の真嘉比再開発地区で行なっている。

 
 
灘区内の学童保育に子供を通わせる女性が、小学生とその父母のためのいのちを考えるイベントを企画した。7月28日に都賀川で学童保育の子供や引率者ら5人が犠牲となった悲劇を事実として受け止め、いのちについて子供と大人で考えようという趣旨だ。8月29日午後1時半から、灘区六甲道北西500メートルにあるコミュニティ施設「風の家」で行なう。沖縄県出身の方も来られて話をされることになり、沖縄戦もいのちを考えるテーマのひとつにというので、NPOの賛同を得てこれらを送り、参加者にさわってもらうことにした。送った手りゅう弾3発はいずれも不発だったもので、真管を外し火薬を抜いて、完全に処理されている。


写真ではわからないが、真管には「四ー五秒」と刻まれていた。
押してから爆発するまでの秒数だ。

 
当時、沖縄で地上戦を戦った兵士は、手りゅう弾を2個持たされたという。
1個は、敵に投げるために。1個は、自分を殺すために。
捕虜になることが許されなかった日本軍では、爆雷を抱いてアメリカの戦車に突っ込んだり、いよいよ勝ち目が亡くなった時にこの手りゅう弾を使って自決していった。
沖縄のおばあや生き残った兵士達の証言では、戦争主導者に対して「バカヤロー」と罵ったり、「おかあさーん」と叫びながら次々と 「パーン」と手りゅう弾を破裂させて爆死していった。
兵士といっても、多くは17、8歳の子供だ。
沖縄県民にも渡され、捕虜になれば拷問されると教育された人々は、いよいよ米軍が目前に迫ったとき、壕の中で親が子どもを抱きしめて爆弾に点火していったという証言が多く残されている。

 
 

この手りゅう弾は棒状の構造になっているものの弾倉部分で、遠くまで投げるのに使われた。戦火に倒れた若い看護士の腰からこの手りゅう弾を拾いあげる米兵の姿が写真に残されている。手りゅう弾には、このほか陶製のものもある。

 

手りゅう弾と一緒に出土した時計も送った。手巻きの置き時計。遺骨の主が最後に巻いたのはいつだったのか。真っ暗な壕の中で、カチカチと時を刻み続けて、主の死のしばらく後に時計も活動を永遠に止めたはず。

 

 
  
これらの遺品を貸してくださったのは、NPOとして25年間遺骨収集を続けている具志堅隆松さん。
具志堅さんは、手りゅう弾には、そんな63年前の人々のメッセージが託されているという。
神戸の川で亡くなられた子供たちも、きっと何かのメッセージを遺していったはずで、 63年前の沖縄戦で兵士や親子から遺されたこれら手りゅう弾が、そんなメッセージを考えるきっかけになれば、子供たちの死の無駄にしないためになるなら、喜んで使ってほしいと貸してくれた。
「できるだけ多くの人に触ってもらい、ぼろぼろになるまで触られて、命の尊さを人の心に刻むことがこれら遺された手りゅう弾の責任だと思う。手りゅう弾に、責任を取らさなければ」と、彼は言う。

  
 
「風の家」がある六甲町界隈は神戸大空襲を描いた「火垂るの墓」の当地であり、 阪神大震災で瓦礫に挟まれた人達が、救い出そうとする人々に「僕のことはもうええから逃げてー」といって炎に包まれていった場所でもある。
一般の方も参加可能で、近隣でお時間ある方はぜひお出かけを。

 
 
これら手りゅう弾など不発弾は自衛隊が処理する他、国が企業に処理を委託して最終処理される。沖縄からは、米軍基地内に処理施設があるにも関わらず、多額の国費で北九州まで運送されて処理されている。
具志堅さんは、自身で処理技術と免許を持っており、多くの沖縄県民や兵士を殺した道具が企業の営利や防衛利権の餌になるのは許せないとして、 NPOで処理することで難病の子供を救うお金に生まれ変わらせる市民活動を行っている。


*「灘にあった南西諸島連盟」は休みます


2008年8月22日(金曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」 その7

カテゴリー: - utinadanchu @ 22時00分27秒


▼ 神戸での少年工を中心とした沖縄県出身者の困窮ぶりに触れておきたい。神戸新聞によると、当時35歳の大城は、終戦までは川崎造船の徴用工として妻の死もいとわず幼児を抱えて勝つために汗と油でハンマーをふるっていたが、終戦後は何とかして世のためにと心を決して復員、徴用解除、戦災などで生活のために悪の泥沼に落ちようとする人々を黙々として世話をし、同県人会の縁の下の力持ちとなり感謝されていた。

 

▼ 大城は1946年の初めごろ、神戸新聞に「寮長になり自ら世話 沖縄の少年工」という見出しで始まる記事を見つけた。川崎造船の福利課職員崎元待命が、長田区東山の青年学校で孤児同然になっていた同社の沖縄出身少年養成工25人を発見、「暁寮」を作って世話をしたという。大城はこの記事に共鳴し、南方引揚同胞およびすさみゆく人を救いたいと相談したところ話がまとまり、在神800人の沖縄県人に呼びかけるべく大城宅を連絡取扱事務所にしたという。

 

▼ 崎元は、日本最大のスラムといわれた葺合区の「新川」を救済した社会運動家でコープ神戸の設立者でもある賀川豊彦とともに行動し、貧民階級のよき友人だったという。賀川が新川を舞台にした「死線を越えて」を発表する以前から神戸の「貧民窟」で伝導を行っていた。神戸新聞では、「沖縄の少年達の心を一番に暗くするものは郷里にいる親や兄姉たちの安否であった。そこで崎元さんは米進駐軍に対し郷里の情報を得たいとお願いしているが、これも近く願ひがかなう模様である」と紹介されている。

 

▼ 第2次大戦で神戸は、軍需工場化した大規模工場群を市街地が取り囲んでいたこともあり、全市の6割強が焼失した。戦時動員された者以外の住民は大半が故郷に疎開できたが、沖縄県出身者や奄美出身者の多くは戦争前には帰郷できたものの、徐々に戦火が拡大し故郷自体が戦場になるにあたっては疎開すべき身寄りや資金がなく、行き場を失っていた。宝塚市の武庫川沿いにあった川西航空機工場近くに集中地域を形成していた沖縄県出身者は、爆撃に備えて西側の六甲山系甲山に身を潜めたという証言や、神戸の小学校で教鞭を取っていたが戦争も大詰めになったので長尾山(伊丹)に入り、炭を焼いて糊口をしのいだという話もある。
(つづく)

 


2008年8月11日(月曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」 その6

カテゴリー: - utinadanchu @ 22時00分43秒


▼ 戦後阪神間の沖縄県人系団体の動きを追ってみよう。

 1945年11月に結成された沖縄人連盟の請願に答える形で、1946年1月2日付でマッカーサー司令部は日本政府に対し「沖縄人に関する請願書の内容を点検するに、食糧、住宅、衣料等に不足し、生活水準を低下せしめる結果、ここ二、三カ月以内に多数の死者が続出しさうな状況である」としたうえで「日本政府は窮乏せる琉球人避難民に対し、遅滞なく十分な食糧、住宅、治療、寝具、衣料等を支給すべし」と命令した。

 

▼ 関西でも、東京で沖縄人連盟が結成された同じ1945年11月に関西沖縄人連盟が大阪で結成され、各地の沖縄県出身者団体を支部とした。活動内容は「疎開学童、徴用工、挺身隊、引揚民、復員兵士の生活保証を要求する」「沖縄への調査員派遣許可方をマ司令部に請願する」等である。兵庫県では、尼崎の軍需工場・住友鋼管で人員整理された沖縄県出身女子挺身隊の救済をきっかけに、同じく1945年11月に尼崎市内5地域の沖縄県出身者の団体が集まり、尼崎沖縄県人会(当時、1946年8月に沖縄県人会兵庫県本部)が発足した。

 

▼ 神戸における沖縄出身者の中心は、のちに沖縄人連盟兵庫県本部副会長になる大城清蓮が路頭に迷う悲惨な同胞沖縄県民のため1946年1月に設置した、神戸在住沖縄県人連絡取扱事務所。相談役は1923(大正12)年に大阪で関西沖縄県人会を作り、戦後に東京で全国組織の沖縄人連盟創設にも関わった活動家・井之口政雄。井之口は1947(昭和22)年4月、戦後初の国政選挙で共産党所属として兵庫2区から立候補(落選、2年後の総選挙で雪辱)している。

 

▼ 大城は、「東京に本部があり全国各地に支部があることはあるのですが、徒らに寄付金を集めるのみで何等仕事をしてをりません」と神戸新聞にコメントしている。少年工を中心に沖縄出身者の惨状を訴え、また生活に苦しむ人々に就職の斡旋をして悪への凋落を防ごうと、神戸在住の沖縄県人は速やかに当事務所に連絡するよう呼びかけ、「街の義人」と評されている。賀川豊彦とも連携していたようだ。賀川は、日本最大のスラムといわれた葺合区の「新川」を救済した社会運動家で、日本社会党の設立に参画、コープ神戸の設立者でもある。民間人では最初にマッカーサーと会ったといわれる。
(つづく)

 


2008年8月1日(金曜日)

沖縄タイムス1面で知る、都賀の悲報

カテゴリー: - utinadanchu @ 02時06分42秒

 都賀川の悲報にどう向き合っていいのか。言葉がない。
 またしても六甲の自然に呑み込まれた、尊い同胞のいのち。灘の土あるいは星に帰った幼い命、若い人たちの魂の冥福を、何よりも祈るばかりである。
 
 

 沖縄タイムスの1面に掲載された故郷の悲劇にぼう然としながら、石垣島の風土と精神世界を現代高校生とおばあの視点で描いた「風車祭(カジマヤー)」という小説(フィクション)を思い出していた。
 

 マブイ(沖縄でいう、魂と心の間にある、あるいは魂の前の状態にある宇宙の存在。魂魄。その人の性格や先祖関係、地霊との関係など根源的なものを含む。死ぬと魂はマブイとなりあの世に行き、魄は墓に入るという)を失った少女が、雨乞いの呪文で雨の爆風を巻き起こし、一瞬にしてアラピキ川という都賀川に似た街の川を氾濫させる。死者、行方不明者、経済損失など、島は甚大な被害を受ける。
 東京の企業が、島のリゾート用地や別荘地を買えるだけ買いあさっていた。静かな先祖の眠りがあったはずの地は重機に踏み潰され、先祖だけではなく連綿と続くマブイや祖霊さえも彷徨わせた。島人の発祥の地として信仰していた山を切り崩し、埋め立て地を作ったことで、島の地脈はすべて狂っていた。
 御嶽(ウタキ。祖霊と人間の接する場所。神社のようなもの)はすべて地脈の上にあったため、埋め立て地を沈めて御嶽を元に戻そうと、地震とともに猛烈な津波も襲ってこようとしていた。しかしながら、結果的に人間の犯した罪は命で償うしかなく、膨大な数の犠牲者が出ることを食い止めることは不可能に思われた。
 食い止めたのは、島を囲むサンゴ礁にマブイを宿した、246年間あの世に行けずに島を彷徨っていた女の魂魄だった。
 

 
 六甲では、マブイを落とした人、いや元からマブイなど持たない(企業人という意味での)東京人たちが、今も競って山裾を切り崩している。
 そうでもいわないと、僕はこの悲報を受容できないのだ。


 


*「灘にあった南西諸島連盟」は休みます


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