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2008年7月23日(水曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」 その5

カテゴリー: - utinadanchu @ 17時02分08秒


▼ 沖縄県および鹿児島県奄美群島に本籍を持つ者は、終戦により口之島を含む北緯30度以南がアメリカの統治下におかれたため、戦前からの仕事や出稼ぎ、戦時徴用工として本土やってきて終戦を迎えた者は帰る場所を失ってしまった。奄美群島出身はまだ鹿児島県があるのでよいが、沖縄県は完全に消滅したため、戦後復興にあたり本来県から施される行政サービスを沖縄県出身者は受けることができなくなった。ばかりか、米国占領により「非日本人」になってしまったため、政府によるサービスも難しくなった。

 

▼ 中国、台湾、朝鮮半島出身者で日本で終戦を迎えた者は、日本政府に対して「戦勝国民」として権利を要求できるようになった。物資などを優先的に獲得できる状況にあり、警察力が弱体化するなかで略奪行為や不法行為も見られるようになったと聞く。乏しい資金で農村に買い出しに行った者が、帰りの列車で荷物を強奪され、恨みに恨んだという話は戦後の混乱期によくあったそうだ。その恨みが、戦後の差別問題につながっているともいう。ともあれ、こうした状況がますます溝を深めることになり、憤怒の念をこめて「第三国人」と呼ぶ者もいた。沖縄出身者も立場上「戦勝国民」となったため、「第三国人」扱いとなった。

 

▼ 自分の故郷がアメリカになってしまい、帰る場所がないばかりか地獄の惨状と伝え聞く沖縄戦で実家や親族がどうなったかを知るすべもない沖縄県出身者は、路頭に迷うしかなかった。沖縄県から徴用工・女子挺身隊として本土に送り込まれ各地の軍需工場で働いた者は2万人、戦時中に本土疎開した者は6万人いた。沖縄から多くの学徒や若者を徴用した阪神間の軍需工場は、終戦とともにほとんどすべてが解雇され、学徒はみな焼け跡で孤児となり餓死しかけていた。戦前からの働き手で焼け出された者も、仕事も帰る場所も無くした。沖縄県出身の海外引き揚げ者や復員者は3万人で、舞鶴港などに上陸した後は各地区などで待機となった。彼らは本土に頼るべきものもなく、ひたすら窮乏した。

 

▼ そのため沖縄県出身者のリーダーは、生活防衛のためマッカーサー司令部に対し組織的な行動を行い、マッカーサーをもって日本政府に援護活動するよう働きかけた。1945(昭和20)年11月、東京で民俗学者・伊波普猷を主席総務委員に沖縄人連盟が結成され、占領軍総司令部に次の3点の要望を盛り込んだ請願書が出された。その内容は、(1)日本本土内に扶養義務を持たない旧沖縄県出身の老幼婦女子が速やかに郷土に帰れるよう取計らってほしい(2)沖縄および南洋(明治から多数の沖縄県民が南洋に開拓民、出稼ぎ民として渡っていた)との通信連絡、送金、救援物資の送付等に格別の配慮をしてほしい(3)沖縄在住生存者の安否及び軍閥暴虐行為の真相を調査し、沖縄人及び日本人民に報告するため、連盟より選抜した10名の派遣員の渡航を許可してほしい、というものだった。

 

▼ 当初、この請願書は「日本を祖国とする沖縄県人が占領軍当局に対して、祖国を告発することによって、何が期待できるか」と連盟でも問題になったというが、果たしてこの請願書がのちに救援物資の払い下げなどで威力を発揮することになる。1946(昭和21)年1月2日付マッカーサー司令部覚書は、請願に対する回答ともいえる形で日本政府に「沖縄人に関する請願書の内容を点検するに、食糧、住宅、衣料等に不足し、生活水準を低下せしめる結果、ここ二、三カ月以内に多数の死者が続出しさうな状況である」としたうえで「日本政府は窮乏せる琉球人避難民に対し、遅滞なく十分な食糧、住宅、治療、寝具、衣料等を支給すべし」命令した 。

 遅れて、奄美地域出身者も同じような請願をマ司令部あて行っている。同時に払い下げ物資と「ヤミ市」をめぐっての動きが活発化する。
(つづく)



灘⇔沖縄 通い船対談

vs naddist様
「『沖縄の島守』を読み歩く
一度自転車でまわってみたいと思います。
その際はガイドよろしくお願いいたします」


 ひとりでも多くの兵庫県民に、63年前にあったことを
その場を訪れることで感じとってもらえる場になればと
思っています。
 「島守の道」走訪の際は、ぜひお供させてください。
 その切は、私も走りやすい自転車を仕入れます。
 なにしろ2006年に自転車で70キロをまわった時は、
小径の折りたたみの自転車だったため炎天下で死にそうに
なりましたが、61年前の地獄はこんなもんではなかったはず
といい聞かせてがんばりました。
 しかし、糸満のとある場所を走っていて、霊的なものに
呪縛されました。魔除けの「サン」は持っていたのですが。


   By 沖灘人



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