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2008年7月10日(木曜日)

沖縄で今も慕われる、神戸出身の知事

カテゴリー: - utinadanchu @ 14時04分21秒


「島守之塔」にある慰霊碑

今年もこの日がやってきた。年に一度、「島守之塔」へのお参りの日。私たち沖縄の神戸人、兵庫県系人にとって、とても大切な日である。7月6日、沖縄本島南部、摩文仁の丘の中央に立つ「島守の塔」を訪れた。沖縄戦で殉職した戦前最後の沖縄県知事・島田叡とその麾下にあった県職員を慰霊する塔だ。7月初旬、島田は沖縄本島南部の戦場にあって、行政の長としてあるいは民間人として職に殉じた。長くなるが、やはりナダタマにはこのことは毎年書いておかねばならない。


島田叡の座右の銘だった「断じて敢行すれば鬼神も之を避く」。
兵庫高校の同窓会によって今夏建てられた。

島田叡は、神戸人である。
米軍が沖縄に迫る昭和20年初め、沖縄県知事の席は前任者で山梨県出身の泉守紀が政治力を使って本土に「逃亡」したため、1カ月以上空席になっていた。泉は地上戦が近付いているにも関わらず沖縄の行政に不熱心で、前年の那覇十・十空襲では逃げまどう市民をしり目に黒塗りの乗用車でこっそり那覇を脱出し、多くの県庁職員を那覇に残して本島中部の普天間に自分だけ勝手に県庁を移して居座るという体たらくだった。本土への脱出を試みてか、在任1年半の3分の1近くにわたって沖縄を留守にしていた。この泉知事のため、沖縄には軍により危うく戒厳令が敷かれるところだった。

当時の県知事は公選ではなく内務省の人事異動によって決定された。もはや悲惨な戦場化の運命が決した沖縄県の後任知事に任命されたのが、当時大阪府の総務部長だった島田叡だった。須磨の開業医の子息。神戸二中(現兵庫高校)から三高(現京大)、東京帝大に進み、行政マンとなった。沖縄県知事への任命に際し、「自分が行かなければ、誰かが行って死ななければならない」と、大阪に妻子と「断」の文字を残し沖縄に発った。島田の義理の弟が沖縄県人の医師であり、妹の夫の故郷を見捨て難いという思いもあったかもしれない。

島田は、沖縄の県土の草木1本1本にまで責任を持つ気概で、行政を行なった。海上封鎖され県民の食糧難の危機が想定されたため、アメリカの潜水艦や偵察機がうようよする中を自ら台湾に渡って総督府に頭を下げ、3000石の米を沖縄に輸送した。戦場化が避けられない沖縄でせめて県民に楽しみをと、戦時体制化で全国的に禁止の風にあった歌舞音楽を開放し、自ら酒を持って農村の民の輪に加わることもあったという。一方で、軍に住民保護など要望したバーターとして、住民や学徒の戦闘協力の要請を受けるなど辛い選択も行なっている。


「島守之塔」の裏側

米軍による3月末の上陸前空襲、4月1日以降の「鉄の暴風」「耕す戦法」によるすざまじい攻撃で県庁が破壊された後も、壕で行政を執った。地獄の中での住民の疎開誘導、夜間食糧の増産、避難民は食糧をどの畑からでもとってよいとする通達など行なった。5月27日、島田の猛反対にも関わらず第32軍司令部が首里城地下の巨大な司令壕を放棄して多数の住民が避難している南部撤退を行なってからは、島田および県庁も南部の壕を転々とした。軍に対して厳しい態度で臨む知事である一方、壕にあっても穏やかでユーモアあふれる人柄と、柔らかい神戸弁が印象的だったという証言が残されている。

米軍の記録に「この世にあるどんな地獄よりも悲惨な地獄」とある阿鼻叫喚の戦場と化した沖縄本島南部で6月23日、ついに牛島司令官と長参謀長が摩文仁の断崖にある司令部壕で自決。島田と側近も司令部壕の北側、軍医部壕にいたが、民間人は軍人と最期を共にすべきではないとの軍の指示で島田と荒井警察部長は壕を出た。今、島守の塔が立つ場所が、この軍医部壕の前である。証言者によると、2人はこれだけの県民を死なせておいて生き残ることはできないと、なお断末魔の戦場を北東方向の具志頭方面に向かった。側近の県職員には、生き残って戦後の復興に尽くすよう指示したという。

その後の証言で、具志頭の海岸の洞窟で負傷して横たわる島田らしき人物に敗残兵が出会っていることがわかっている。敗残兵は、壕に残された食糧を探している時に島田と出会い、名刺と黒糖をもらったという。後日、この敗残兵が黒糖のお礼にと、海岸に流れ着いた米軍の小麦粉に黒糖をまぶした団子を作って持っていったところ、島田らしき人物は亡くなっていた。拳銃が落ちており、自決したようだったという。7月初旬のできごとだ。筆者は何度かこの地を訪れたが、海岸沿いに点在する琉球石灰岩の壕は亜熱帯の草木の覆われ、当時を伺い知ることはできなかった。ところどころに火炎放射器に焼かれた跡があるだけだ。


島田知事が最期を迎えた具志頭の海岸。琉球石灰岩の地形により、
断崖には大小多くの洞窟がある。今は草木で覆われる

これらの話は、私たち沖縄の神戸人にも、本土の神戸や兵庫でもあまり知られていない。だが、前兵庫県知事の貝原氏はことあるごとに島田の「県土の草木一本にまで責任を持つ」という言葉を引用し、島田を手本にしていた。また、島守の塔の真裏にある兵庫県出身の沖縄戦没者慰霊碑には、戦後50年の平成7年に戦争の否定と住民を守る決意を明記している。

「奇しくも本年、故郷兵庫では、阪神・淡路大震災が発生し、多くの尊い生命が失われました。戦争や災害による悲劇が二度と繰り返されることのないよう、人々が安心して暮らせる共生社会の実現をめざして、県民こぞってたゆまぬ努力を続けてまいります」

ちなみに、他県の慰霊塔が軒並み「散華」などの美辞麗句で自県戦没者を賛歌している中で、兵庫と京都だけは沖縄県民の心情をくんだ言葉が列ねられているというのが沖縄での評価である。

 「のじぎくの塔」にある貝原前兵庫県知事の言葉

****

● 年輩の沖縄県民からは、こちらから水を向けるわけではないのに、島田知事を慕う声を多く伺います。県庁では、沖縄の神戸出身者はやはり特別な存在であり、島田知事のことを次世代に伝えてほしいという声も聞きました。「島守之塔」は、そんな県民の浄財によって昭和26年に建てられたものです。島田知事が神戸二中、三高の野球部出身のスポーツマンだったことで、今も沖縄県高校野球新人大会は「島田杯」が命名されています。一昨年から始まった沖縄−兵庫高校テニス選抜大会も島田杯の名が冠されています。なにより、沖縄県系人が兵庫に多く住むこともあって、友愛県として両県のつながりは続いていることは承知のとおりです。沖縄では、沖縄戦での日本軍の残虐な行為や戦前から収奪されてきた経験が本土出身者に対して厳しい見方をさせることも多いですが、島田知事は沖縄で慕われる数少ない本土出身者といえます。

● 私ごとながら、2002年に「島守之塔」に関することを知ってから毎年この時期に訪れ、当時の県民の4分の1にあたる15万人もの沖縄県民の犠牲者および島田ら県外出身の民間人の冥福を祈っています。島田知事を追った「沖縄の島守」(中央公論新社)の著者で、現在70歳を越えてなお精力的に沖縄戦関連の取材執筆活動を続けておられる元読売新聞記者の田村洋三さんにもおつきあいいただきながら、「沖縄の島田」を追っています。2003年には、島田一行が6月半ばの梅雨真っ盛りの泥濘の中で壕を求めてさまよった経路約70キロを、炎天下のもと2日間かけて歩きました。2006年には自転車で同じ経路をまわりました。

● 兵庫県から筆者の元を訪れる方には、島田知事の南下ルートや行政を執った壕の内部への案内など、できるだけガイドするようにしています。島田知事を通じて、沖縄戦で民間人がどういう行動を強いられたのか、行政マンたちがどのような判断を行なったのか、考えるきっかけになればと思っています。関心がおありの方は、気軽にお声かけくだされば幸いです。


*「灘にあった南西諸島連盟」はまたまた休みます


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