2008年 7月
« 6月   8月 »
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
ログイン
ユーザ名:

パスワード:


パスワード紛失

新規登録
最近の投稿
沖声灘語 月別過去ログ
沖声灘語 カテゴリ一覧
沖声灘語 最近のコメント
最新の灘イベント情報
予定なし
オンライン状況
34 人のユーザが現在オンラインです。 (1 人のユーザが 沖声灘語 を参照しています。)

登録ユーザ: 0
ゲスト: 34

もっと...

2008年7月23日(水曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」 その5

カテゴリー: - utinadanchu @ 17時02分08秒


▼ 沖縄県および鹿児島県奄美群島に本籍を持つ者は、終戦により口之島を含む北緯30度以南がアメリカの統治下におかれたため、戦前からの仕事や出稼ぎ、戦時徴用工として本土やってきて終戦を迎えた者は帰る場所を失ってしまった。奄美群島出身はまだ鹿児島県があるのでよいが、沖縄県は完全に消滅したため、戦後復興にあたり本来県から施される行政サービスを沖縄県出身者は受けることができなくなった。ばかりか、米国占領により「非日本人」になってしまったため、政府によるサービスも難しくなった。

 

▼ 中国、台湾、朝鮮半島出身者で日本で終戦を迎えた者は、日本政府に対して「戦勝国民」として権利を要求できるようになった。物資などを優先的に獲得できる状況にあり、警察力が弱体化するなかで略奪行為や不法行為も見られるようになったと聞く。乏しい資金で農村に買い出しに行った者が、帰りの列車で荷物を強奪され、恨みに恨んだという話は戦後の混乱期によくあったそうだ。その恨みが、戦後の差別問題につながっているともいう。ともあれ、こうした状況がますます溝を深めることになり、憤怒の念をこめて「第三国人」と呼ぶ者もいた。沖縄出身者も立場上「戦勝国民」となったため、「第三国人」扱いとなった。

 

▼ 自分の故郷がアメリカになってしまい、帰る場所がないばかりか地獄の惨状と伝え聞く沖縄戦で実家や親族がどうなったかを知るすべもない沖縄県出身者は、路頭に迷うしかなかった。沖縄県から徴用工・女子挺身隊として本土に送り込まれ各地の軍需工場で働いた者は2万人、戦時中に本土疎開した者は6万人いた。沖縄から多くの学徒や若者を徴用した阪神間の軍需工場は、終戦とともにほとんどすべてが解雇され、学徒はみな焼け跡で孤児となり餓死しかけていた。戦前からの働き手で焼け出された者も、仕事も帰る場所も無くした。沖縄県出身の海外引き揚げ者や復員者は3万人で、舞鶴港などに上陸した後は各地区などで待機となった。彼らは本土に頼るべきものもなく、ひたすら窮乏した。

 

▼ そのため沖縄県出身者のリーダーは、生活防衛のためマッカーサー司令部に対し組織的な行動を行い、マッカーサーをもって日本政府に援護活動するよう働きかけた。1945(昭和20)年11月、東京で民俗学者・伊波普猷を主席総務委員に沖縄人連盟が結成され、占領軍総司令部に次の3点の要望を盛り込んだ請願書が出された。その内容は、(1)日本本土内に扶養義務を持たない旧沖縄県出身の老幼婦女子が速やかに郷土に帰れるよう取計らってほしい(2)沖縄および南洋(明治から多数の沖縄県民が南洋に開拓民、出稼ぎ民として渡っていた)との通信連絡、送金、救援物資の送付等に格別の配慮をしてほしい(3)沖縄在住生存者の安否及び軍閥暴虐行為の真相を調査し、沖縄人及び日本人民に報告するため、連盟より選抜した10名の派遣員の渡航を許可してほしい、というものだった。

 

▼ 当初、この請願書は「日本を祖国とする沖縄県人が占領軍当局に対して、祖国を告発することによって、何が期待できるか」と連盟でも問題になったというが、果たしてこの請願書がのちに救援物資の払い下げなどで威力を発揮することになる。1946(昭和21)年1月2日付マッカーサー司令部覚書は、請願に対する回答ともいえる形で日本政府に「沖縄人に関する請願書の内容を点検するに、食糧、住宅、衣料等に不足し、生活水準を低下せしめる結果、ここ二、三カ月以内に多数の死者が続出しさうな状況である」としたうえで「日本政府は窮乏せる琉球人避難民に対し、遅滞なく十分な食糧、住宅、治療、寝具、衣料等を支給すべし」命令した 。

 遅れて、奄美地域出身者も同じような請願をマ司令部あて行っている。同時に払い下げ物資と「ヤミ市」をめぐっての動きが活発化する。
(つづく)



灘⇔沖縄 通い船対談

vs naddist様
「『沖縄の島守』を読み歩く
一度自転車でまわってみたいと思います。
その際はガイドよろしくお願いいたします」


 ひとりでも多くの兵庫県民に、63年前にあったことを
その場を訪れることで感じとってもらえる場になればと
思っています。
 「島守の道」走訪の際は、ぜひお供させてください。
 その切は、私も走りやすい自転車を仕入れます。
 なにしろ2006年に自転車で70キロをまわった時は、
小径の折りたたみの自転車だったため炎天下で死にそうに
なりましたが、61年前の地獄はこんなもんではなかったはず
といい聞かせてがんばりました。
 しかし、糸満のとある場所を走っていて、霊的なものに
呪縛されました。魔除けの「サン」は持っていたのですが。


   By 沖灘人



2008年7月17日(木曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」 その4

カテゴリー: - utinadanchu @ 11時38分03秒


▼ これまで神戸新聞記事および島尾敏雄の「ヤポネシア考」から、戦後まもなくの灘に「南西諸島連盟」という団体があることを見てきた。
 島尾の一文、「連盟にはいりますと、まあ物資が手に入る。第三国人にはその頃特別な配給ルートがあったんでしょうか」の部分の検討に入りたい。その前に、「第三国人」について知っておかねばなるまい。

 

▼ 敗戦後の南西諸島出身者、つまり沖縄県および鹿児島県奄美群島出身者をとりまく情勢は、一般の神戸市民とは大きく異なっていた。第2次世界大戦における太平洋戦争で沖縄県は唯一の地上戦の舞台となり、約10万から15万人の沖縄県在住民間人を含む約20〜25万人の犠牲者を出した激しい戦闘の後、米軍に占領された。犠牲者数に大きな誤差があるのは、住民票や戸籍を元にした数と収集された遺骨や米軍への収容者数などから政府が出した数とに大きな乖離があるからだ。

 

▼ ポツダム宣言を受諾して敗戦国となった後は、北緯30度以南(口之島を含む)、すなわち奄美群島から南にある南西諸島は米国の統治下に置かれることになった。戦時中の徴用工や女子挺身隊を含む本土に出稼ぎに来ていた者や本土への疎開者、海外から引き揚げてきた沖縄県および奄美群島出身者は行き場を失い、また戦前から移住していた同郷者たちも故郷を失ったことから、物心両面に過酷な苦難を強いられることになった。

 

▼ 敗戦後、まもなく沖縄県および奄美群島出身者の間で、同胞救済を目的とした同郷組織作りが進められている。マッカーサー司令部による南西諸島帰還許可に前後して、帰還者や残留者により組織再編が行われた。その際、沖縄県および奄美群島出身者は中国・朝鮮・台湾省などと同じく、制度上「非日本人」の立場に置かれた。これがいわゆる「第三国人」である。少し前、石原都知事が「第三国人」という言葉を差別的な意味で使ったとして非難されたことがあったが、戦後の混乱期では闇市などを舞台に横行を繰り広げた主役として「第三国人」は差別的な意志で使われたという。

 この「闇市」と「第三国人」が、南西諸島連盟に深く関わっていた。



灘⇔沖縄 通い船対談

vs MJ様
「島田叡という人物を知ったのは、貝原氏が震災後『犠牲者に対する知事の責任』に言及する中で、たびたびその名を挙げたからでした。任期途中の退任表明時にも、やはり『島田知事のように県土の一木一草まで責任を持ちたい』と語っていたのを思い出します。後世の県民や他県の知事にまで、これほど慕われ、尊敬される知事も珍しいですよね、たぶん。
同じく神戸→沖縄の道を辿ったうちなだんちゅさんが、島田氏の足跡を訪ね歩くルポ、読んでみたいです」


 MJさま、ありがとうございます。
 私もかつていた新聞社で貝原知事の会見を取材した際、何度か島田知事の話が出たのを覚えています。中でも印象的だったのは、将棋の谷川名人(当時)の祝賀会でスピーチされた時、引退間近だった貝原さんが沖縄戦時下での島田知事の奮闘に触れながら、震災での県政がどうあるべきだったかということなど悔恨の情も含ませながら語っておられたことでした。

 昨年、沖縄本土復帰の日にあたる5月15日から島田知事が亡くなったとされる7月初旬まで、お世話になっている田村洋三氏の著作からの引用を中心に時系列で追ったものをブログ化しています。今後、大幅に肉付けして、「島守の道を歩く」というような紀行/ガイド的なものにしていくつもりです。
 『沖縄の島守』を読み歩く http://simamori.ti-da.net/


 島田知事のたどった道のガイドに関し、個別にメールをくださったみなさん、どうもありがとうございます。

   By 沖灘人



2008年7月10日(木曜日)

沖縄で今も慕われる、神戸出身の知事

カテゴリー: - utinadanchu @ 14時04分21秒


「島守之塔」にある慰霊碑

今年もこの日がやってきた。年に一度、「島守之塔」へのお参りの日。私たち沖縄の神戸人、兵庫県系人にとって、とても大切な日である。7月6日、沖縄本島南部、摩文仁の丘の中央に立つ「島守の塔」を訪れた。沖縄戦で殉職した戦前最後の沖縄県知事・島田叡とその麾下にあった県職員を慰霊する塔だ。7月初旬、島田は沖縄本島南部の戦場にあって、行政の長としてあるいは民間人として職に殉じた。長くなるが、やはりナダタマにはこのことは毎年書いておかねばならない。


島田叡の座右の銘だった「断じて敢行すれば鬼神も之を避く」。
兵庫高校の同窓会によって今夏建てられた。

島田叡は、神戸人である。
米軍が沖縄に迫る昭和20年初め、沖縄県知事の席は前任者で山梨県出身の泉守紀が政治力を使って本土に「逃亡」したため、1カ月以上空席になっていた。泉は地上戦が近付いているにも関わらず沖縄の行政に不熱心で、前年の那覇十・十空襲では逃げまどう市民をしり目に黒塗りの乗用車でこっそり那覇を脱出し、多くの県庁職員を那覇に残して本島中部の普天間に自分だけ勝手に県庁を移して居座るという体たらくだった。本土への脱出を試みてか、在任1年半の3分の1近くにわたって沖縄を留守にしていた。この泉知事のため、沖縄には軍により危うく戒厳令が敷かれるところだった。

当時の県知事は公選ではなく内務省の人事異動によって決定された。もはや悲惨な戦場化の運命が決した沖縄県の後任知事に任命されたのが、当時大阪府の総務部長だった島田叡だった。須磨の開業医の子息。神戸二中(現兵庫高校)から三高(現京大)、東京帝大に進み、行政マンとなった。沖縄県知事への任命に際し、「自分が行かなければ、誰かが行って死ななければならない」と、大阪に妻子と「断」の文字を残し沖縄に発った。島田の義理の弟が沖縄県人の医師であり、妹の夫の故郷を見捨て難いという思いもあったかもしれない。

島田は、沖縄の県土の草木1本1本にまで責任を持つ気概で、行政を行なった。海上封鎖され県民の食糧難の危機が想定されたため、アメリカの潜水艦や偵察機がうようよする中を自ら台湾に渡って総督府に頭を下げ、3000石の米を沖縄に輸送した。戦場化が避けられない沖縄でせめて県民に楽しみをと、戦時体制化で全国的に禁止の風にあった歌舞音楽を開放し、自ら酒を持って農村の民の輪に加わることもあったという。一方で、軍に住民保護など要望したバーターとして、住民や学徒の戦闘協力の要請を受けるなど辛い選択も行なっている。


「島守之塔」の裏側

米軍による3月末の上陸前空襲、4月1日以降の「鉄の暴風」「耕す戦法」によるすざまじい攻撃で県庁が破壊された後も、壕で行政を執った。地獄の中での住民の疎開誘導、夜間食糧の増産、避難民は食糧をどの畑からでもとってよいとする通達など行なった。5月27日、島田の猛反対にも関わらず第32軍司令部が首里城地下の巨大な司令壕を放棄して多数の住民が避難している南部撤退を行なってからは、島田および県庁も南部の壕を転々とした。軍に対して厳しい態度で臨む知事である一方、壕にあっても穏やかでユーモアあふれる人柄と、柔らかい神戸弁が印象的だったという証言が残されている。

米軍の記録に「この世にあるどんな地獄よりも悲惨な地獄」とある阿鼻叫喚の戦場と化した沖縄本島南部で6月23日、ついに牛島司令官と長参謀長が摩文仁の断崖にある司令部壕で自決。島田と側近も司令部壕の北側、軍医部壕にいたが、民間人は軍人と最期を共にすべきではないとの軍の指示で島田と荒井警察部長は壕を出た。今、島守の塔が立つ場所が、この軍医部壕の前である。証言者によると、2人はこれだけの県民を死なせておいて生き残ることはできないと、なお断末魔の戦場を北東方向の具志頭方面に向かった。側近の県職員には、生き残って戦後の復興に尽くすよう指示したという。

その後の証言で、具志頭の海岸の洞窟で負傷して横たわる島田らしき人物に敗残兵が出会っていることがわかっている。敗残兵は、壕に残された食糧を探している時に島田と出会い、名刺と黒糖をもらったという。後日、この敗残兵が黒糖のお礼にと、海岸に流れ着いた米軍の小麦粉に黒糖をまぶした団子を作って持っていったところ、島田らしき人物は亡くなっていた。拳銃が落ちており、自決したようだったという。7月初旬のできごとだ。筆者は何度かこの地を訪れたが、海岸沿いに点在する琉球石灰岩の壕は亜熱帯の草木の覆われ、当時を伺い知ることはできなかった。ところどころに火炎放射器に焼かれた跡があるだけだ。


島田知事が最期を迎えた具志頭の海岸。琉球石灰岩の地形により、
断崖には大小多くの洞窟がある。今は草木で覆われる

これらの話は、私たち沖縄の神戸人にも、本土の神戸や兵庫でもあまり知られていない。だが、前兵庫県知事の貝原氏はことあるごとに島田の「県土の草木一本にまで責任を持つ」という言葉を引用し、島田を手本にしていた。また、島守の塔の真裏にある兵庫県出身の沖縄戦没者慰霊碑には、戦後50年の平成7年に戦争の否定と住民を守る決意を明記している。

「奇しくも本年、故郷兵庫では、阪神・淡路大震災が発生し、多くの尊い生命が失われました。戦争や災害による悲劇が二度と繰り返されることのないよう、人々が安心して暮らせる共生社会の実現をめざして、県民こぞってたゆまぬ努力を続けてまいります」

ちなみに、他県の慰霊塔が軒並み「散華」などの美辞麗句で自県戦没者を賛歌している中で、兵庫と京都だけは沖縄県民の心情をくんだ言葉が列ねられているというのが沖縄での評価である。

 「のじぎくの塔」にある貝原前兵庫県知事の言葉

****

● 年輩の沖縄県民からは、こちらから水を向けるわけではないのに、島田知事を慕う声を多く伺います。県庁では、沖縄の神戸出身者はやはり特別な存在であり、島田知事のことを次世代に伝えてほしいという声も聞きました。「島守之塔」は、そんな県民の浄財によって昭和26年に建てられたものです。島田知事が神戸二中、三高の野球部出身のスポーツマンだったことで、今も沖縄県高校野球新人大会は「島田杯」が命名されています。一昨年から始まった沖縄−兵庫高校テニス選抜大会も島田杯の名が冠されています。なにより、沖縄県系人が兵庫に多く住むこともあって、友愛県として両県のつながりは続いていることは承知のとおりです。沖縄では、沖縄戦での日本軍の残虐な行為や戦前から収奪されてきた経験が本土出身者に対して厳しい見方をさせることも多いですが、島田知事は沖縄で慕われる数少ない本土出身者といえます。

● 私ごとながら、2002年に「島守之塔」に関することを知ってから毎年この時期に訪れ、当時の県民の4分の1にあたる15万人もの沖縄県民の犠牲者および島田ら県外出身の民間人の冥福を祈っています。島田知事を追った「沖縄の島守」(中央公論新社)の著者で、現在70歳を越えてなお精力的に沖縄戦関連の取材執筆活動を続けておられる元読売新聞記者の田村洋三さんにもおつきあいいただきながら、「沖縄の島田」を追っています。2003年には、島田一行が6月半ばの梅雨真っ盛りの泥濘の中で壕を求めてさまよった経路約70キロを、炎天下のもと2日間かけて歩きました。2006年には自転車で同じ経路をまわりました。

● 兵庫県から筆者の元を訪れる方には、島田知事の南下ルートや行政を執った壕の内部への案内など、できるだけガイドするようにしています。島田知事を通じて、沖縄戦で民間人がどういう行動を強いられたのか、行政マンたちがどのような判断を行なったのか、考えるきっかけになればと思っています。関心がおありの方は、気軽にお声かけくだされば幸いです。


*「灘にあった南西諸島連盟」はまたまた休みます


2008年7月3日(木曜日)

灘にあった壕を想う その2

カテゴリー: - utinadanchu @ 11時58分35秒


▼ 灘の壕話を続ける。
 昭和40年代、大人たちから戦時防空壕跡だとを聞かされた、神大農学部前から六甲ケーブルに至るバス道沿いにいくつかあった花崗岩質の壕。小学校低学年だった自分たちには、とても大きな洞窟に見えたものだ。ちょうどウルトラマン第8話「怪獣無法地帯」で、多々良島でピグモンが測候所員を介抱していた、あるいはレッドキングが現れた洞窟を思い起こさせた。余談ながら、「怪獣無法地帯」の脚本を書いたのは金城哲夫・上原正三の沖縄出身コンビだ。

 

▼ 鶴甲行き36系統のバスが神大理工学部方面に向かって右折する山側、かつて(今もあるかもしれないが)CASAがあった場所にも壕らしき穴があった。CASAができる前はセミがやかましく鳴く小さな森で、御影塚町の酒造会社「福寿」(現「神戸酒心館」)の安福さんの敷地だと聞いていた。壕の前を通る時、真夏の炎天下でもひんやりした空気が体にあたった。壕で亡くなった人の霊気かもしれないと思いつつ、「天然のクーラーや」と阪神電車か灘神戸生協くらいしか冷房を知らなかった僕らは、喜んで霊気にあたりにいった。思えば、このときの憑依がいま沖縄で役に立っている。

 

▼ 壕の中でした遊びで代表的なのは、なんといっても火遊び。小学校で配られた夏休みのしおりには「壕跡にはマムシや野犬がいるので入ってはいけません」などのほか、「火遊びは絶対いけません」などとくどくど書かれていた。大人が禁止すればするほど、当時の小学生は使命感に燃えたもの。学校から盗んだ(持ち出した)アルコールランプや、「手りゅう弾」というシャレにならない花火で「洞窟実験」を行なった。友人のコニシ君たちは油コブシ山で火遊びをして山火事になり、神戸新聞に載った。こうして僕らはイケナイこととヨイことの区別を覚えたものだった。

 

*「灘にあった南西諸島連盟」はまたまた休みます



灘⇔沖縄 通い船対談

vs naddist 様
「6月23日は灘的にも重要な日です。
神戸出身の元沖縄県知事、島田氏の慰霊碑も建立するそうですね。

防空壕は長峰ダムの南、杣谷川沿いに一つ確認できます。
写真撮影可能です」

 

次号は島田氏の命日(と考えられる日)に近いので、
糸満市に建てられた島田氏の慰霊碑を含めレポートしようと
思っています。 

防空壕跡、杣谷川沿いにもありますね。
現在登山道になっている六甲山南面の山道には
壕とおぼしき穴がいくつかありました。
由来とか研究されている方はいないのでしょうか。
by 沖灘人
 


33 queries. 0.044 sec.
Powered by WordPress Module based on WordPress ME & WordPress