▼ 昨日6月23日は、沖縄県では沖縄戦の「慰霊の日」として官公庁や学校は休日となり、平和を祈るさまざまな行事が行なわれる。沖灘区事務所のある那覇新港や泊埠頭では、正午に停泊中の船が一斉に汽笛を鳴らし、黙祷を捧げた。63年前のこの日は住民15万人を地獄に引きづりこんだ旧日本軍の沖縄守備隊を指揮した第32軍司令部の最高司令官である牛島長官と長参謀長が沖縄本島南端の壕で自決した日であって、決して沖縄戦が終結した日ではないことに注意しなければならない。沖縄県民にとっては、組織的戦闘が終わったことを知らずに隠れていた壕に入り込んできた敗残日本兵による虐殺虐待で、この後も悲惨な地獄絵図は続いた。

牛島長官らが自決した沖縄本島南端、摩文仁の壕
▼ 慰霊の日に前日、沖縄区事務所にほど近い那覇市真嘉比の再開発地域で、おそらく那覇市で最後の現場になるであろうという沖縄戦遺骨収集作業を手伝った。沖縄戦当時は墓が点在する森で、西側はシュガーローフと呼ばれる沖縄戦最大の激戦地だ。ここでの戦闘で、アメリカ兵には1289人の精神病患者が出た。県立一中の鉄血勤皇隊など学徒兵を含む旧日本軍兵士は、墓を拡張した壕や森に隠れながら爆弾を背負っての体当たり攻撃という邪道の用兵で死んでいった。現地を掘ると、遺骨や日本軍の武器弾薬が出た。ほぼ完全な形で埋まった兵士の一体もあった。ポケットを思われるあたりに、小さな銅製の観音像があった。遺骨の中には、灘出身者もいるかもしれない。ちなみに沖縄県にはまだ18万ともいわれる遺骨が埋もれたままになっている。アメリカでは、亡くなった人は必ず本国に連れて帰るので、残されているのはほぼ全部が日本兵および沖縄県民である。

沖灘区の東、那覇市真嘉比で行われた遺骨収集作業
▼ ところで、灘にも壕は数多くあった。昭和40年代、自分がはっきり覚えているのは、神大農学部前から六甲ケーブルに至る26系統のバス道沿いにいくつかあったものだ。大きかったのは道の東側、六甲団地の崖下にあった2つだ。大土神社あたりにもあったかもしれない。そのころはまだ封鎖されておらず、学校からは夏休みのしおりなどに「マムシや野犬がいるので絶対に入らないように」などと書かれ、入ることを厳禁されていた。入るなといわれたら子供としては入らざるをえないので、荒ゴミなどが投げ込まれている中を負けずに入って遊んだ。誰かに聞いた話では、神戸大学の地下から神戸製鋼の方まで戦時用の秘密の地下通路がつながっているとか、地下に軍事工場があったというが、本当だろうか。
あの壕の入口は、今思えば牛島長官と長参謀長が自決した摩文仁の壕の入口に似ている気がする。写真に撮っていなかったのが残念だ。

墓を拡張した壕から出た日本軍兵士の水筒、銃剣、手榴弾など
※「灘にあった南西諸島連盟」は休みます


(継続中) - 11月23日
11月29日

6月23日は灘的にも重要な日です。
神戸出身の元沖縄県知事、島田氏の慰霊碑も建立するそうですね。
防空壕は長峰ダムの南、杣谷川沿いに一つ確認できます。
写真撮影可能です。
Comment by naddist — 2008年6月25日(水曜日) @ 22時30分41秒