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2008年6月17日(火曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」その3

カテゴリー: - utinadanchu @ 15時00分00秒


▼ 島尾敏雄の回想を続ける。(*1)

「それから市場などを作って、南西諸島市場なんていう名前になっていて、そこに行くと島の様子がそのまま出ているので、ぼくはなつかしくて時々行きました。あの頃は物資の出廻りが悪かったでしょう。さつまいもの葉っぱですか。ああいうものまで食べていた時でしたけれども、連盟にはいりますと、まあ物資が手に入る。第三国人にはその頃特別な配給ルートがあったんでしょうか、ぼくにはわかりませんが・・・それで家内が奄美なもんですから、はいれってかなりすすめられました。

 
 そのうちに復帰運動ということになって、それは自然に潰れていったようです。分離された直後の頼りない状況があったことと、物資がわりあい手に入ったことで、一時は景気がよかったという面もありましたが、そのうちに、世の中がだんだん落着く方に向いていく。それから復帰運動というのが起こってくる。島の中だけではなくて、島外に出ている島の出身者の間にも、東京だとか、あるいは大阪を拠点にしてそういう動きが出てきますと、南西諸島連盟というようなものは必要ありませんから消えていったんじゃないかと思います」

 

▼ 「南西諸島市場」という名称が見える。先に上げた1946年9月29日付神戸新聞「南西諸島帰還者に告ぐ」の広告にあった「灘支部 神戸市灘区畑原市場内 前田久吉方」の記述、あるいは「葺合支部」「長田支部」の場所がその後商店街として発展したエリアであることから、当時の市場、というより市場の前身である闇市には、南西諸島連盟が深く関与したことが連想される。今は衰退した西灘市場は、「神戸市小売市場連合会20年史」(*2)によると1947年12月に「奄美廉売市場」として発足している。また、東畑原市場はかつて奄美市場と呼ばれていたという証言もある。

 

▼ 次回は、島尾の「連盟にはいりますと、まあ物資が手に入る。第三国人にはその頃特別な配給ルートがあったんでしょうか」という供述に注目してみたい。(つづく)

 

*1 島尾敏雄『ヤポネシア考 島尾敏雄対談集』葦書房、1977
*2 naddsit氏所蔵


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