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2008年6月10日(火曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」その2

カテゴリー: - utinadanchu @ 18時53分30秒


▼ 戦後まもなくの混乱期、篠原南町3丁目にあった「南西諸島連盟」とは、どういう団体か。「畑原市場内」にあった支部とは、何の拠点だったのか。そもそも数次にわたる大空襲で焼け野原になり、極端な物資不足で配給制が敷かれていた中で、「畑原市場」は市場として存在したのだろうか。そこには、現在の市場とは全く異なる磁場やアンダーグラウンドなにおいを感じずにはいられない。
 当時、神戸市外国語大学で教鞭をとっていた作家、島尾敏雄が「ヤポネシア考 島尾敏雄対談集」で次のように回想している。

 

▼ 「戦後、奄美群島は日本から分離された。けれども、奄美は軍事的にみてあまり価値がないので、アメリカは経済的に力を入れない。復帰運動というのも当初は出なかったんです。それは、しばらく期間をおいて、じょじょに動きが出てきている。そういう敗戦直後の空白みたいな状況の中で、本土の方に南西諸島連盟というのができたんですね。関西に来ていた奄美の人たちなど、まあ非常に頼りなかったわけでしょう。
 
 それと、身分があの当時、第三国人ということになって、物資なんかが手に入りやすかったと思います。それで金の廻りがよくなって、南西諸島連盟というのを作って、かなり羽振りをきかしたんです。ぼくはその頃神戸にいたのですが、彼らは神戸の街中を、南西諸島連盟と大書きした自動車でぶっとばしたりしていましたね」*

 

▼ 横浜で貿易商の子弟として生まれた島尾敏雄は、横浜尋常小学校2年の時に関東大震災で西灘村(当時)稗田に転居し、西灘尋常小学校(現稗田小学校)に転校する。自宅はその後葺合と生田に移ったが、県立第1神戸商業学校(現在の海星女子学院大学の地にあった)から長崎高商、九州帝大に進んだころ実家は再び灘に戻り、篠原北町1丁目1番地に住んでいる。昭和19年に横須賀などで水雷、魚雷艇の訓練を受け、秋に奄美大島の南、加計呂麻島の基地で出撃を待った。そのまま終戦となり、六甲に帰って大学に勤めながら創作活動を始めている。(つづく)

 

*島尾敏雄『ヤポネシア考 島尾敏雄対談集』1977
 


灘⇔沖縄 通い船対談

vs naddist 様
「いよいよ「南西諸島連盟(南諸連)」のナゾに迫るワケですね!
楽しみです」


かなりコアで難解でヘンコな話題ですが、のんびり取り組んでいきます。
すでに孤高なブログですが、さらに目指すは「灘建築夜話」の至高の世界です。
書ける話と書けない話があり、書けない話は酒場で口伝します。



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