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2008年6月25日(水曜日)

慰霊の日。灘にあった壕を想う

カテゴリー: - utinadanchu @ 02時58分41秒

▼ 昨日6月23日は、沖縄県では沖縄戦の「慰霊の日」として官公庁や学校は休日となり、平和を祈るさまざまな行事が行なわれる。沖灘区事務所のある那覇新港や泊埠頭では、正午に停泊中の船が一斉に汽笛を鳴らし、黙祷を捧げた。63年前のこの日は住民15万人を地獄に引きづりこんだ旧日本軍の沖縄守備隊を指揮した第32軍司令部の最高司令官である牛島長官と長参謀長が沖縄本島南端の壕で自決した日であって、決して沖縄戦が終結した日ではないことに注意しなければならない。沖縄県民にとっては、組織的戦闘が終わったことを知らずに隠れていた壕に入り込んできた敗残日本兵による虐殺虐待で、この後も悲惨な地獄絵図は続いた。


 牛島長官らが自決した沖縄本島南端、摩文仁の壕

▼ 慰霊の日に前日、沖縄区事務所にほど近い那覇市真嘉比の再開発地域で、おそらく那覇市で最後の現場になるであろうという沖縄戦遺骨収集作業を手伝った。沖縄戦当時は墓が点在する森で、西側はシュガーローフと呼ばれる沖縄戦最大の激戦地だ。ここでの戦闘で、アメリカ兵には1289人の精神病患者が出た。県立一中の鉄血勤皇隊など学徒兵を含む旧日本軍兵士は、墓を拡張した壕や森に隠れながら爆弾を背負っての体当たり攻撃という邪道の用兵で死んでいった。現地を掘ると、遺骨や日本軍の武器弾薬が出た。ほぼ完全な形で埋まった兵士の一体もあった。ポケットを思われるあたりに、小さな銅製の観音像があった。遺骨の中には、灘出身者もいるかもしれない。ちなみに沖縄県にはまだ18万ともいわれる遺骨が埋もれたままになっている。アメリカでは、亡くなった人は必ず本国に連れて帰るので、残されているのはほぼ全部が日本兵および沖縄県民である。


 沖灘区の東、那覇市真嘉比で行われた遺骨収集作業

▼ ところで、灘にも壕は数多くあった。昭和40年代、自分がはっきり覚えているのは、神大農学部前から六甲ケーブルに至る26系統のバス道沿いにいくつかあったものだ。大きかったのは道の東側、六甲団地の崖下にあった2つだ。大土神社あたりにもあったかもしれない。そのころはまだ封鎖されておらず、学校からは夏休みのしおりなどに「マムシや野犬がいるので絶対に入らないように」などと書かれ、入ることを厳禁されていた。入るなといわれたら子供としては入らざるをえないので、荒ゴミなどが投げ込まれている中を負けずに入って遊んだ。誰かに聞いた話では、神戸大学の地下から神戸製鋼の方まで戦時用の秘密の地下通路がつながっているとか、地下に軍事工場があったというが、本当だろうか。
 あの壕の入口は、今思えば牛島長官と長参謀長が自決した摩文仁の壕の入口に似ている気がする。写真に撮っていなかったのが残念だ。


 墓を拡張した壕から出た日本軍兵士の水筒、銃剣、手榴弾など


※「灘にあった南西諸島連盟」は休みます


2008年6月17日(火曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」その3

カテゴリー: - utinadanchu @ 15時00分00秒


▼ 島尾敏雄の回想を続ける。(*1)

「それから市場などを作って、南西諸島市場なんていう名前になっていて、そこに行くと島の様子がそのまま出ているので、ぼくはなつかしくて時々行きました。あの頃は物資の出廻りが悪かったでしょう。さつまいもの葉っぱですか。ああいうものまで食べていた時でしたけれども、連盟にはいりますと、まあ物資が手に入る。第三国人にはその頃特別な配給ルートがあったんでしょうか、ぼくにはわかりませんが・・・それで家内が奄美なもんですから、はいれってかなりすすめられました。

 
 そのうちに復帰運動ということになって、それは自然に潰れていったようです。分離された直後の頼りない状況があったことと、物資がわりあい手に入ったことで、一時は景気がよかったという面もありましたが、そのうちに、世の中がだんだん落着く方に向いていく。それから復帰運動というのが起こってくる。島の中だけではなくて、島外に出ている島の出身者の間にも、東京だとか、あるいは大阪を拠点にしてそういう動きが出てきますと、南西諸島連盟というようなものは必要ありませんから消えていったんじゃないかと思います」

 

▼ 「南西諸島市場」という名称が見える。先に上げた1946年9月29日付神戸新聞「南西諸島帰還者に告ぐ」の広告にあった「灘支部 神戸市灘区畑原市場内 前田久吉方」の記述、あるいは「葺合支部」「長田支部」の場所がその後商店街として発展したエリアであることから、当時の市場、というより市場の前身である闇市には、南西諸島連盟が深く関与したことが連想される。今は衰退した西灘市場は、「神戸市小売市場連合会20年史」(*2)によると1947年12月に「奄美廉売市場」として発足している。また、東畑原市場はかつて奄美市場と呼ばれていたという証言もある。

 

▼ 次回は、島尾の「連盟にはいりますと、まあ物資が手に入る。第三国人にはその頃特別な配給ルートがあったんでしょうか」という供述に注目してみたい。(つづく)

 

*1 島尾敏雄『ヤポネシア考 島尾敏雄対談集』葦書房、1977
*2 naddsit氏所蔵


2008年6月10日(火曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」その2

カテゴリー: - utinadanchu @ 18時53分30秒


▼ 戦後まもなくの混乱期、篠原南町3丁目にあった「南西諸島連盟」とは、どういう団体か。「畑原市場内」にあった支部とは、何の拠点だったのか。そもそも数次にわたる大空襲で焼け野原になり、極端な物資不足で配給制が敷かれていた中で、「畑原市場」は市場として存在したのだろうか。そこには、現在の市場とは全く異なる磁場やアンダーグラウンドなにおいを感じずにはいられない。
 当時、神戸市外国語大学で教鞭をとっていた作家、島尾敏雄が「ヤポネシア考 島尾敏雄対談集」で次のように回想している。

 

▼ 「戦後、奄美群島は日本から分離された。けれども、奄美は軍事的にみてあまり価値がないので、アメリカは経済的に力を入れない。復帰運動というのも当初は出なかったんです。それは、しばらく期間をおいて、じょじょに動きが出てきている。そういう敗戦直後の空白みたいな状況の中で、本土の方に南西諸島連盟というのができたんですね。関西に来ていた奄美の人たちなど、まあ非常に頼りなかったわけでしょう。
 
 それと、身分があの当時、第三国人ということになって、物資なんかが手に入りやすかったと思います。それで金の廻りがよくなって、南西諸島連盟というのを作って、かなり羽振りをきかしたんです。ぼくはその頃神戸にいたのですが、彼らは神戸の街中を、南西諸島連盟と大書きした自動車でぶっとばしたりしていましたね」*

 

▼ 横浜で貿易商の子弟として生まれた島尾敏雄は、横浜尋常小学校2年の時に関東大震災で西灘村(当時)稗田に転居し、西灘尋常小学校(現稗田小学校)に転校する。自宅はその後葺合と生田に移ったが、県立第1神戸商業学校(現在の海星女子学院大学の地にあった)から長崎高商、九州帝大に進んだころ実家は再び灘に戻り、篠原北町1丁目1番地に住んでいる。昭和19年に横須賀などで水雷、魚雷艇の訓練を受け、秋に奄美大島の南、加計呂麻島の基地で出撃を待った。そのまま終戦となり、六甲に帰って大学に勤めながら創作活動を始めている。(つづく)

 

*島尾敏雄『ヤポネシア考 島尾敏雄対談集』1977
 


灘⇔沖縄 通い船対談

vs naddist 様
「いよいよ「南西諸島連盟(南諸連)」のナゾに迫るワケですね!
楽しみです」


かなりコアで難解でヘンコな話題ですが、のんびり取り組んでいきます。
すでに孤高なブログですが、さらに目指すは「灘建築夜話」の至高の世界です。
書ける話と書けない話があり、書けない話は酒場で口伝します。



2008年6月5日(木曜日)

灘にあった「南西諸島連盟」 その1

カテゴリー: - utinadanchu @ 20時15分04秒


▼ 終戦翌年の1946(昭和21)年4月29日付神戸新聞に、次のような広告が掲載されている。

「南西諸島帰還者へ告ぐ 帰還者にして兵庫県在住沖縄・大島人は左記連絡事務所へ申し込まれたし。南西諸島連盟  

 兵庫県本部 神戸市灘区篠原南町三丁目一七 但し市電将軍通終点二丁上ル  
 長田支部 神戸市長田区久保町二丁目三六  
 中部支部 神戸市生田区中山手通1丁目九五ノ三、生田神社前喫茶店アンデス武 哲義方  
 葺合支部 神戸市葺合区宮本通三丁目九 碇山久輝方  
 灘支部 神戸市灘区畑原市場内 前田久吉方  
 西宮支部 西宮市高木字石訳四一 老山?人方  

 但し、芦屋・御影・住吉・本山・魚崎・淡路・明石方面在住者は直接、兵庫県連合会へ連絡相成度」

 

▼ 南西諸島連盟!なんと強引なネーミング。本部は灘区篠原南町3丁目17、市電の将軍通駅を2丁上がったところとあるから、春日神社を西に行って六甲登山口から将軍通交差点に伸びる広い道と交差するあたり。校区では六甲小−長峰中校区で、たしかに昔から人情や顔だちに南のにおいが香るエリアだ。ちなみに、このタテの道は戦前にはすでに今の広さに整備されていた。

 

▼ 灘の篠原で南西諸島が連盟していた。なんだか血湧き肉踊る話だ。「灘支部 神戸市灘区畑原市場内 前田久吉方」というのも、「沖声灘語」の読者でその筋の人には非常に気になるところだろう。都市社会学的で堅い話になるだろうが、次回からは「南西諸島連盟」のナゾを中心に、戦前戦後の灘および神戸で繰り広げられた南西諸島出身者や沖灘人の風雲録を、ぼちぼち追っかけていく。

 

※沖灘区事務所のネット環境にトラブルが発生しているため、掲載が遅れたことをお詫びいたします。
 


灘⇔沖縄 通い船対談

vs よねちゃん 様
今年の夏休みは琉球エクスプレスに乗って沖灘区の事務所に行くぞ!!!


沖灘区事務所は極めてアナログな環境で、いつどんな生態系トラブルが
発生するかわかりませんが、ぜひぜひお越しください。
安謝新港にて、紅型に花笠姿でお待ちしております。 by 沖灘人



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