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2008年3月25日(火曜日)

生まれくる? 沖縄の「兵庫」(マルちゃん編)

カテゴリー: - utinadanchu @ 22時45分08秒



▼ 3月らしく、お別れネタが2回続いた。本土復帰に絡み、沖縄と神戸・灘をつないだ歴史の生証人が消えてゆき、ひとつの時代が終わったかのようだ。
 一方で、沖縄の意外なものが、神戸から生まれている。

▼ そのひとつが、マルちゃんの「沖縄そば」。沖縄限定商品(本土の沖縄物産店では購入可)で、カップ麺と袋入りインスタント麺がある。容器には東京の本社住所だけが記されているが、これらは同社深江工場で作られているらしい。同社の関係筋から、個人的に明かされた。

▼ 沖縄に同社の工場はなく、神戸から(他地域もあるかもしれないが)の完全逆輸入品だ。もしかしたら、六甲の水で打った麺かもしれない。そう思うと「沖縄そばにインスタントはないやろ」という違和感が消え、「沖縄限定」という土産品的な安っぽさがとてもかわゆく思えてしまうのだった。



灘⇔沖縄 通い船対談

vs naddist 様
(消えゆく沖縄兵庫友愛スポーツセンターについて)
「とても素敵なロゴですね。
『デイゴとマリーゴールド』版にすれば
沖灘区の区章にぴったりです。
バッジとか作りたいなあ」


最初見たとき、マリーゴールドとデイゴかと思いました。
一瞬、資生堂にも見えましたが。
沖灘区の区章にしたいので、上手にパクってデザインして
くれませんか。 by 沖灘人



2008年3月18日(火曜日)

きえゆく、沖縄の「兵庫」

カテゴリー: - utinadanchu @ 23時04分39秒



▼ 3月14日(下り)15日(上り)、寝台特急「なは」は、消え逝く灘駅跨線橋の下で多くの沖灘区民に見守られ、南西九州と関西を結ぶ最後の花道を走った。沖縄本土復帰の先導車の役割を担い、製鉄会社などの労働力となった男たちやその家族を乗せて灘と故郷を40年にわたり往復した。本土でその「なは」が消えるのと期を同じくして、沖縄では兵庫ゆかりの建造物が消える。

▼ 沖縄・兵庫友愛スポーツセンター。那覇市の奥武山公園の一角にある。モノレール「奥武山公園駅」から歩いてすぐ。本土復帰の1972年、復帰はしたが財政に苦しむ沖縄県に対し、成人式で兵庫県の若者が中心となって集めた募金約2億円と兵庫県の補助金の1・5億円などを加えた3億6500万円で建設された。両県の古くからの人的・物的な交流と、沖縄戦直前に果敢に赴任し15万人の県民とともに殉職した戦前最後の沖縄県知事、島田叡氏が神戸出身だったことがきっかけだった。


兵庫県花ののじぎくと沖縄県花のでいごをハートに収めた優しい図柄。
壁面で建設当時と変わらぬ輝きを放っている。

▼ 沖縄県民なら、子どもの時からスポーツ大会などで一度はお世話になる建物だ。筆者の相方も沖縄県立普天間高校時代、バトミントン県大会で青春を燃焼させたとか。一階が体育館、二階が卓球専用場で浴室や宿泊室も備え、復帰直後の体育施設がない時代から長く県民に親しまれてきた。建築ラッシュだったため砂が不足し、コンクリートに海砂が混ぜられていたことなどで老朽化が進んだとか。財政難から再建は見送られ、昨年4月に閉鎖され解体の日を静かに待っている。1972年の成人式だから、現在56歳になられる兵庫県民の浄財だ。

▼ 観光ブームなどで、開発や建設が先行する沖縄。この建物がある奥武山公園も、那覇市が読売ジャイアンツのキャンプ地を誘致するため大規模な野球場を作るなど大整備が行なわれる。老朽化というだけで普通の建物を同じ扱いで解体されてしまうのは、悲しい。「守礼」と「万国津梁」を旨とする琉球王朝の流れをひく沖縄県は、これをどう考えるのか。




灘⇔沖縄 通い船対談

vs nahhist 様
(「『なは』3・15灘駅ラストランへ」について)
「奄美方面に田舎を持つ神戸製鋼系の友人達が、夏休みに『なは』で
帰省していたのがすごくうらやましかったです。
南島と大和を結ぶ『通い船』ならぬ、『通い汽車』だったのかもしれませんね。
小さい頃、親父と弟とでよく東灘貨物駅に貨物の入れ替えを見に行っていた
のですが、その横をさっそうと走り抜ける『なは』の勇姿。
灘駅下りホームの大ソテツ横を流れ星のように走り抜ける『なは』の残像。
私にとって一番身近な沖縄だったかもしれません。
結局乗れずじまいでした。残念です。
ラストランは是非タカバシから見ようと思っています。
(utinadanchu さんが鉄チャンに混じってこの写真を撮っていたかと思うと
笑えましたw)  」


那覇市の久茂地公民館で講演「沖縄の鉄道を語る〜特急なは ラストランの夜に〜」
と写真展を企画した神奈川出身のスタッフは、naddistさんのこのコメントに
「関西の少年にとっては、ほんとに身近なオキナワだったんですね。
地域の方が実際にこの列車を使われて行き来されていたお話は、
とてもリアルに感じられます」と、
感慨深そうでした。

写真は、2月に帰灘していたとき、三宮から灘方面に乗ろうとして
ふと反対ホームを見ると「なは」が入ってきたので、
「わー、きたーっ」と叫びながら死にものぐるいで階段を駆け下りて駆け上がり、
必死のパッチでケータイカメラに収めたものです。
このときは僕以外に写真を撮っていたのは鉄ちゃん風の男性と、
鉄っちゃんとはとても思えない30代くらいの女性の2人でした。
沖縄か鹿児島になにかのゆかりのある方だったんでしょうかねー by 沖灘人


vs たん吉さま

「貴重な情報、ありがとうございました。
当日は、消えゆく灘駅の『跨線橋』から撮影したいと思います」


最後の「なは」、見届けていただけたでしょうか。
灘駅で乗り降りし、あるいは灘界隈に住まわれた鉄の男たちにとって、
どんな列車だったんでしょうね。
鉄関係者として、そのあたりを周辺の方々に聞いていただける機会など
あれば嬉しいです。
それにしても、三宮の隣駅とはとても思えない、
田舎駅のような懐かしく落ち着いた佇まいの跨線橋が消えるのも、
なんとも寂しいものです。
老朽化というだけで壊すという発想は、ほんとになんとかならないでしょうか。
人々の営みの文化なのに。 by 沖灘人



2008年3月11日(火曜日)

「なは」3・15灘駅ラストランへ

カテゴリー: - utinadanchu @ 20時15分25秒



▼ 「なは」という愛称のJR寝台特急列車がある。ベトナム戦争に血眼になっていた米軍の支配による大事故や事件、犯罪が沖縄で頻発していた1967年、琉球新報社が本土復帰を願う県民の声を受けて公募し、国鉄により名付けられた。翌68年10月、西鹿児島発京都行き昼間特急として出発した。

▼ 奇しくも「なは」が走り始めた翌69年11月、佐藤・ニクソン共同声明により、核持ち込みがうやむやのまま1972年沖縄返還が合意される。本土復帰を経て沖縄海洋博の1975年に寝台列車となり、唯一の路線外の地名がついた列車ながら、関西と鹿児島、その先を船で沖縄につなぐ鉄路として、親しまれた。現在は熊本ー京都を結ぶ。

▼ その「なは」が、3月14日発を最後に消える。新幹線整備や航空機、夜行バスなど競合激化により、西日本の寝台列車の使命が終わるからだ。40年間、灘の街に南風を香らせ、南国への憧憬と望郷を募らせた。厳密には、1995年1月17日から4月7日までの81日間は、灘に来ることはできなかった。あの日、「なは」はどこで震災を知っただろうか。

▼ 高架になる前の六甲の街並みも、震災から立ち上がっていく灘の人々も、ずっと見続けてきた「なは」。誰しも鉄道に興味を持つ子ども時代、灘をはじめ西日本の少年たちが初めて接する「沖縄」だった。おそらく、多くの少年にとって自分の住む県以外で初めて知る県庁所在地名だったろう。


アダン(ソテツかも)と芭蕉、青い海と空をモチーフした優しい図柄

▼ 沖縄のおもいとねがいを乗せた列車は、40年の旅を終えて間もなく終着駅に着こうとしている。最後の灘駅通過は、下りが3月14日21時8分ごろ、上りが3月15日6時55分ごろ。かつて南から来たたくさんの「鉄の男」たちが乗降した灘の駅舎が消え、そして「なは」が消えるのは、ひとつの時代の終焉である気がする。
 灘駅の懐かしい跨線橋やタカバシを走り抜ける最後の勇姿を、見届けてほしい。


☆14日ラストランの夜、沖灘区の沖縄、灘両側で「なは」の名残を惜しむイベントが開催されます。
*灘側
「なだでなはをみおくるかい」
消え行く灘駅の跨線橋をくぐり抜ける九州行き「なは」の最後の勇姿にエールを。
●集合:3/14(金)20:45 灘駅北口改札
●参加費:120円
●開催:ナダタマ「なだでなはをみおくるかい」 実行委員会

*沖縄側
講演「沖縄の鉄道を語る〜特急なは ラストランの夜に〜」
●3/14(金)19:00~21:00 那覇市久茂地公民館6階ホール
(14〜31日、「特急なは写真展」を1階ロビーで開催)
●講師:ゆたかはじめ(エッセイスト)
●入場無料
●開催:久茂地公民館



灘⇔沖縄 通い船対談

vs naddist 様
(ありんくりんでの沖灘音楽大学構想について)
「すばらしい構想ですね。
水道筋ミュージックストリートとの連携も考えられますし。
灘ダイガクとの交流も可能かもしれませんね!」


灘ダイガクとの単位互換制度や交換留学、合ハイ合コン合ダンジリなど、
区議会で検討していただけたら生徒も喜ぶと思います。
水道筋ミュージックストリートでは、生徒たちが日ごろの成果を存分に
発揮してくれることでしょう。 by 沖灘人


2008年3月5日(水曜日)

沖灘料理店物語 番外編「灘駅ありんくりん その2」

カテゴリー: - utinadanchu @ 21時39分51秒

西の琉宝、東のめんそーれ、都賀のよさこい 番外編 vol.18





▼ 今、地下(灘と沖縄を結ぶ原田地下道みたいな)で、「沖灘音楽大学構想」が真剣に錬られている。といっても、錬っているのは筆者がコアな沖灘音楽関係者に勝手にもちかけているだけで、G沖灘区議会議長やK灘夫人会長への根回しもまだである。灘区では、灘中央筋から灘駅にかけての南西軸を中心に沖灘音楽の新しいムーブが孵化しつつある。「ライブ」より「遊ブ」「学ブ」空間をという考えだ。

▼ そのキャンパスに、ありんくりんの2Fを誘致しようという気運が、これまた勝手に盛り上がっている。普通は場所があって事業を誘致するものだが、沖灘区では逆だ。しかし、原田地区や岩屋地区をはじめ数々の望郷ソングが謡われた沖灘区に音大を設置することは、悲願であった。「都賀のよさこい」の稿に書いたような、「灘の沖縄」に生活する人間が日常的に向き合う、魂の謡を継ぐ場として。

▼ 誘致が実現すれば、沖灘民謡師範による演習や望郷の思いあふれる沖灘民謡講座、琉笛や三板を作る実習、かつて指笛文化圏だった灘の指笛指南、沖灘三線装飾人の匠技講座など、沖灘音楽のすべてを学ぶことができる。演歌歌手である金城ママの講義も聞きたいもの。実現すれば、月1回程度の開講で、のんびり楽しいスクーリングを目指したい。灘駅前校舎のほか、灘中央校舎の誘致も画策中。



灘⇔沖縄 通い船対談

vs naddist 様
「以前、畑原市場のCンタにN村Yおさんと一緒に
なんと平松愛理さんがいらっしゃってまして、
チャンスとばかりに『南町から』に歌われている坂道が
『海星時代の灘の坂道の情景』かどうかお聞きしました。
そうしたら
『聞く人それぞれのイメージで聞いてください』
とのことでした。
王子坂OGとして平松さんにも食べてもらいたいなですね、
沖灘スイーツ」


平松さんのバンド仲間が水道筋にいるという話を聞いたことが
あるのですが、Cンタに来られたとは! 
オレンジレンジとか綾戸智恵とかもんたよしのりなど、
灘音楽関係者はもっとA屋とかMンク、F越にも来てほしいもんです。
花*花もいましたね。
Aりんくりんの沖灘スウィーツは、イメージガールを起用するなら
やはり南野陽子(松蔭)と戸田恵梨香(鷹匠)の母娘という
設定でしょうか?


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