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2008年1月29日(火曜日)

沖灘料理店物語「都賀のよさこい その7」

カテゴリー: - utinadanchu @ 23時16分11秒

西の琉宝、東のめんそーれ、都賀のよさこい vol.14





▼ 1973年のオイルショックによる不況で、水道筋の派出所横に出した店も苦境に陥った。数年後、ついにたたまざるを得なくなっていた。神前町に住んでいたが、「あのころみんな裕福でなかったし、いろんなやつがおって、ここは暮らしやすかった」。しんちゃんの子供は、長峰中に通っていた。


▼ 当時蛇皮線と呼んだ三線は、このころ兄と一緒に入手し、よく弾いたという。農業が嫌で飛び出した沖永良部島だったが、島ではパイナップルの缶に手製の棹をつけた「カンカラ三線」を作ってのめりこんだ。弦は島に売っていた。「サイサイ節」など、多くの島の歌を見よう見まねで覚えた。


▼ 76年ごろ、都賀川の東側のバラックで店を再開した。「よさこい」という名にしたのは、当時の奥さんかパートナーだかが高知出身だったからと聞いた。当時、神前町や将軍通は遠方から出稼ぎや事情があって流れ込んできた人や、神戸大学の1、2部学生が多かった。どちらかといえば貧しい彼らがよさこいの中心客となった。


   

灘⇔沖縄 通い船対談

vs naddist 様
「水道筋交番の横の靴屋って、ひょっとして旧KTV台北ビルの『靴下屋』の
ことですかね?
そこなら以前『王将』がありましたし、その前は『台北飯店』という中華が
あったはずですが。
ちなみにタモリの『おカミさん』の音声はYouTubeにあります。
『傑作!パロディー/タモリの戦後日本歌謡史Part1』
http://jp.youtube.com/watch?v=GnRstKskV1w」

もしかして、旧KTV台北ビルというのは「カラオケ台北」のあったビルですか?
「台北飯店」とも関係がありそうですね。しんちゃんは、台北飯店に関係して
いたのでしょうか。これはナゾです。
nadfistさんもよくご存じですね、あんな80年代初頭のC級名盤を。
そうそう、「死んでほしいよおカミさんー」でした。
YouTube見て、久々に吹き出しました。


vs 中村よお 様
「そうかあ『お富さん』はほんまに『そういう』もんやったんですね〜。
しかしこんなところにタモリのあのアルバムを持っていた人間が二人もいるなんて
おかしいですね。ナディストさんまで反応してる。
いかんいかん、僕がまた何か書いたら脱線してしまう…(笑)」

まったく、可笑しい話です。今聞いてみると、あのころ以上にくだらないという
気分と、新感覚の笑いという気分の両方を味わえますね。
MJさんから「沖灘ノオト」を暗黙で公認いただきました?ので、
どんどん脱線していただいて大丈夫ですよー。音楽のこともいろいろセッション
しながら書きたいです。


2008年1月22日(火曜日)

満月の夕〈沖灘ノオト!〉

カテゴリー: - utinadanchu @ 19時18分34秒

(沖灘料理店物語はお休みします)

今日は、今年の1・17から初めての満月。
灘区の南西海上1千キロのここ沖灘区は、あいにく曇り空。
14年目の灘はどうだろうか。
 

1995年1月17日の夜の情景を歌った曲がある。
ソウル・フラワー・ユニオンの「満月の夕」。
先日1月18日のNHKテレビ「プレミアム10」の特集
「被災地に生まれた“こころの歌”」で紹介されたシーンを見た方も
多いだろう。(番組ナビゲーターの森山未来君は、灘区出身とか)
西宮出身でボーカル&三線の中川敬とヒートウェーブの山口洋が、
被災地で目の当たりにした惨状を元に共作した。
HPによると2月10日に灘区青陽東養護学校で被災地出前ライブを
行なったのが最初で、以後長田を中心に活動している。
灘区では都賀川公園FIWCテント内などで歌われた。
 

自分がこの曲と初めて出会ったのは、1999年7月。
炎天下をザックを背負って歩き旅をしていた沖縄北部、
ジュゴンのいる辺野古の海を臨む名護の小さな集落のイベントだった。
沖縄の田舎で神戸の震災のことが歌われるとは想像もしなかった自分は、
あまりのことにひどく涙した。
周囲も、神戸から来た人間が偶然いたことに驚いていた。
 

神戸に帰ってこの曲のことをいろいろな人に話したが、誰も知らなかった。
当時、避難所でさまざまな音楽や芸能の支援を経験し、
そういう支援を地元にコーディネートをすることもあったが、
自分たち当事者にとっては、それどころじゃなかったともいえる。
被災者サラリーマンは休みでも仕事場から戻れなかったり、
休日は水汲みや買い出し、自宅の復旧や片付けに追われた。
地域や家族とともにいることが許されなかった大多数の被災者にとって、
ここでどういう心の支援があったのか、知らないのが当たり前か。
むしろ冷静になってから聞く方が、妙にリアルで心に染みてくる。
 

ソウルフラワーユニオンは、被災地では長田神社や神戸市役所前など
比較的メジャーな場所での発信や、他県での震災支援イベントでの活動も
多かったせいで、この曲は案外神戸以外の人の方がよく知っているの
かもしれない。
そういえば、避難所はテレビによく出るところとそうでないところの
「格差」がほどはっきりしていて、集まってくる救援物資の質・量とも
恐ろしいほど違っていたものだった。
 

なぜ三線なのかを中川氏にメールで尋ねたことがある。
FAXで返ってきた答えは「モバイル」だった。
たしかに、ガレキの街では機動的だ。
彼らはロックバンドだが、被災地で動くにあたってギターを三線に、
ドラムをチャンゴに替えたという。時にはちんどんスタイルだ。
多民族都市への意識や聞き手の高揚感を高める意図もあったろうが、
電気を使わないアコースティックなものをという思いが強かったという。
マイクも、スタンドに野球の応援で使うメガホンをさしたものだった。
 
******

この曲は、詞に「神戸」とか「震災」が出てこないところに、
逆に当事者性や日常性が強く感じられる。
それだけ「焼け跡」「がれき」という言葉のインパクトが強く思える。
阪神淡路大震災だけではない、全世界で起こっている戦争や大規模災害、
世界はもとより日本でもいびつな経済システムによる貧困や
政治の機能不全による社会的孤立が増えている中、
当事者の普遍的な情景として、共感をもって聞くことができる。
災害、戦争、テロ。
我々は、いつでもその状況に巻き込まれえる。
 

「悲しくて、すべてを笑う」という無常感。
「解き放て、命で笑え」という開き直り感。
この歌を聞くと、町中に漂った木が朽ちたようなすえた匂いや
湿ったコンクリートの粉っぽい空気感とともに、
やりようのないあの感情が蘇ってくる。
 
 
 

★きょうの沖灘ノオト(MJさんごめんなさい)
「満月の夕」
現在7人がカバーしている。シングルを含め、少なくとも9枚にリリースされる。
ヒートウェーブとガガガSP、平安隆のものは、ソウルフラワー盤とは歌詞が異なる。
上はソウルフラワーユニオンのライブ盤、下は元チャンプルーズの平安隆が沖縄戦の
光景をダブらせてウチナ−グチ(沖縄方言)で歌ったもの。映画「豚の報い」の
エンディングにも使われた。


上:marginal moon / SOUL FLOWER with DONAL LUNNY BAND
Ki/oon Records 1998/7/8

下:平安隆「満月の夕」
リスペクトレコード 2003/3/26

   


2008年1月15日(火曜日)

沖灘料理店物語「都賀のよさこい その6」

カテゴリー: - utinadanchu @ 15時37分45秒

西の琉宝、東のめんそーれ、都賀のよさこい vol.13





▼ 15才の時、親の故郷である沖永良部島から沖縄に渡り、米軍の荷役をしながら闇商売で凌いでいたしんちゃんは、23才のとき(1957年)大阪に出た。ひと足先に兄が密航船で神戸に戻っていた。彼は本土復帰後だったといっていたが、沖永良部島がある奄美群島の本土復帰(1953年)を指すのか。沖縄の復帰は、まだ19年も後のことになる。


▼ 沖縄本島北部から米軍の厳しい監視の中を命賭けの密航で与論島にわたり、そこから大阪に行ったのだろう。あるいは沖縄から直接密航船に乗ったか。当時、与那国島と徳之島などを中継点とした密貿易が行なわれ、日米双方の厳しい監視をくぐって沖縄本島や奄美大島から神戸まで、密貿易とそれに便乗する密航者が決死の渡航をしていた。


▼ 大阪では、中華料理店で修行をした。その後の約10年は不明だが、万博のころに独立し、須磨の月見山に店を出した。金を借りた先でのせられたという。夜は客が入らず失敗。借金が残ったようだ。それで、生まれ故郷の水道筋に帰ってきて、水道筋商店街の派出所の横に再度店を出した。この話を聞いた2001年では、その場所は靴屋になっているということだった。今はどうなのだろうか。


   

灘⇔沖縄 通い船対談

vs 中村よお 様
「うーん『中村鋭一のハイサイ歌謡曲』という番組もありましたよね。
僕の記憶では『これ』はチャンプルーズ本土デビュー後のように思って
いたのですが、微妙ですね。
夕焼け楽団は喜納さんのオリジナルヴァージョンのゆったりした
グルーヴでカヴァーしていて、中村鋭一・キダタローヴァージョンも
それを踏襲していたように思いますが、
チャンプルーズの本土デビュー盤では早いテンポで激しく演奏されて
いました。喜納さんのオリジナルヴァージョンは沖縄へ行ったとき
マルフクレコードのオムニバスカセットで入手しました。
ダウンタウン・ブギウギ・バンド…燃える珊瑚礁〜というところが
沖縄音階ですね。
余談ですが、発売禁止になったタモリの『昭和歌謡史』のLPでは、
「お富さん」が沖縄風になっていて大笑いしたのを覚えています。
『しんちゃんぎょうざ』の赤いテイクアウト窓口(?)の前を
しょっちゅう通ってたのに僕も結局買うことはなかった。
後悔しています」

『中村鋭一のハイサイ歌謡曲』。そんなんありましたねー。
中村鋭一とキダタローの「ハイサイおじさん」を少しググってみますと、
OAされたのは1975年から1976年あたりらしく、僕も栽監督の
豊見城高校が強かった時と記憶しています。彼らがこれをやりはじめた
のはなんでだったんでしょうね。とにかく朝から各家庭のラジオで
鳴っていました。今から考えると、可笑しいですね。
「お富さん」は作詞が沖縄出身の渡久地正信で、「テンクテンク」の
リズムなど沖縄民謡をベースにしたものと聞いたことがあります。
いまや、沖縄県民では知る人ぞ知る話です。
その『昭和歌謡史』、僕も持っていました!誰かにあげてしまいましたが。
1980年ごろのものですよね。たしか「粋な黒塀見越しの松に、
徒な姿のアライグマ」と歌っていたような。


2008年1月8日(火曜日)

沖灘料理店物語「都賀のよさこい その5」

カテゴリー: - utinadanchu @ 21時28分43秒

西の琉宝、東のめんそーれ、都賀のよさこい vol.12




   


▼ 1945年、灘の空襲で焼け出されたしんちゃんは、かろうじて生きながらえて終戦を迎えた。戦中に父を病気で失い、母親と2人暮しで闇市で生計を立てた。しんちゃんが東遊園地に進駐する米軍から仕入れたタバコを、母が現在の西灘市場界隈にあった闇市で売っていて警察に捕まる。恐ろしくなった母は夫婦の故郷・沖永良部島にしんちゃんを連れて、米軍統治下となった奄美・沖縄への帰還船で帰る。終戦の翌年だった。


▼ しばらく島で農業をしたが、神戸・西灘育ちには合わず、単身沖縄に渡った。沖縄は、沖永良部からは与論島越しに見える距離だ。15歳のときだった。沖縄戦が終わってまもない那覇港で、アメリカ船の荷役の仕事をした。「収入は月に1500円くらいで、安かったなあ。船内のビールなんか飲みまくったった。みんな腹をすかせとったから、盗み食いしまくったわ。食堂で包丁で追いかけまわされたこともあるで」。


▼ 「モノによっては取り放題の時もあったで。タバコとかをシャツの中やサイドポケットに隠して持ち出してな。証明を持っていたら、わりと簡単にスルーできたよ。それらは国際通りで売れた。結構な金になったで。英語も覚えたし、沖縄語も覚えた。船員を遊廓に連れていくと、紹介料をくれよった。遊廓は知り合いのおやじが経営しとった。24時間働いて、船の中で寝とった」。


   

灘⇔沖縄 通い船対談
vs 中村よお 様
「久保田麻琴と夕焼け楽団が名盤『ハワイチャンプルー』で『ハイサイおじさん』
をカヴァーしたのが75年、本家・喜納昌吉&チャンプルーズの本土デビューは77年
だったと思います。
 同年の大阪サンケイホールのコンサートへ行き、その演奏にぶっ飛んで以来、
ギターで沖縄っぽいフレーズを入れるようなことをちょこちょこやっていたので
『よさこい』で三線(そうそう、当時は蛇味線と言ってました)を手渡されたとき、
それっぽいフレーズが弾けたのでした。
 浅川マキのステッカーというのは関学であったオールナイトコンサートのPR用
ステッカー。そんなものをおねえちゃんが皮ジャンに貼りつけたりする時代だった
のですね。お店の女性は明かに『浅川マキとは誰か』をよく知っていて、声をかけて
きはった。そういう時代でもあったのでした」

 70年代中ごろ、朝日放送「おはようパーソナリティ中村鋭一です」で、中村鋭一が
キダタローアレンジの「ハイサイおじさん」をよくかけていたのを思い出します。
それって、チャンプルーズの本土デビュー以前だったのですね。
 私的に70年代の沖縄ポップスというと、1976年にダウンタウンブギウギバンドが
「沖縄ベイブルース」という曲をリリースしてコーセーの男性化粧品がCMカバーに
使っていましたが、沖縄音楽よりも中国っぽいメロディで変やなーと思っていた記憶
があります。最後の部分だけ、琉球音階でしたけど。
 その後、1979年にYMOが「Absolute Ego Dance」に沖縄っぽい音階と囃子を入れ、
むちゃハマってしまいました。それにしても、当時のチャンプルーズのコンサートに
行かれたのですか。ちょっとすごいですね。当時の音、聞いてみたいですねー。
 本題から離れて、個人的な沖灘ノオト風考察になりすみません。しかし、あのころは
やはり黄金時代ですね。


vs  komatsu 様
「僕は1人で店に行って炒飯か日替りでカレーライスの日はカレーを食べるくらいで、
友達との話題に『よさこい』が出てくることはなかったのですが、地震後に同じ避難所
に避難&ボランティアをしてた神大生から聞いた話では、実験中とか先輩が間食用に
買ってくるのが大抵「よさこい」の餃子だったそうです。
 そいつと『よさこい』話をする度に餃子美味しかったと言われ、あんだけ餃子と
書いてあったのに何故一度も食べなかったのかと悔しい思いをしましたよ、とほほ」

 たしかに、よさこいといえば餃子でした。店の小窓みたいなのは、テイクアウト用に
作られていたのではなかったかな。なぜしんちゃんの餃子がうまかったかは、次回か
その次あたりでヒントになる話が出てくるかもしれません。
 私の場合、琉球ルーツのこの店らしい裏メニューがあって、それはまたいずれ本文で
書きますが、その裏メニュー+餃子というのが定番だったです。
 ここに80年代から集まっていた神大生は、何度かしんちゃんを救っているはずです。
倒れたところを救出したこともあったことを聞いた気がします。貧乏なしんちゃんが
病院に入院できて、ちゃんと治療を受けて退院し厨房に復帰したのは、彼らのカンパに
よるものだったはず。この話を本文で書こうと思ってたけど、いつになるかわからない
ので今だしておきます。扉の所に貼ってあった寄せ書きは、その時のもののようです。


vs  灘人 様
「一時は寂しくなった神戸港の汽笛ですが、今年は少し回復したように思います。
ただ往年のオーケストラのような『幅広い音域の高低音』にはまだ及びませんが。
沖灘でも聞けるのですね。指笛を合わせたくなりますね」

 昔はほんと、重厚な音でしたよね。那覇港や泊港の汽笛が高音なのは、やはり
離島航路のフェリーなど貨物が主体だった神戸港より軽量の船が多いからでしょうか。
那覇では元旦と同時に鳴りますが、神戸では紅白歌合戦で藤山一郎が「螢の光」で
シメるあたりから鳴り始めていました。篠原本町2丁目バス停あたりから聞くと、
遠くで聞くオーケストラのような音色になっていて、そこに天上寺や祥龍寺の鐘が
絡んでくる独特の空気だったです。いつまでも残しておきたい灘の音風景です。


2008年1月1日(火曜日)

沖灘料理店物語「都賀のよさこい 元旦篇」

カテゴリー: - utinadanchu @ 20時17分26秒

西の琉宝、東のめんそーれ、都賀のよさこい vol.11



沖灘区から那覇港、泊港方向を望む

あけましておめでとうございます。今回は正月の「なかゆくい」
(ひとやすみ)として、余話っぽくお送りします。

▼ ここ沖灘区では元旦になった瞬間、近くの那覇港、離島航路の
泊港、本土フェリー港の安謝新港(※1)から、小粒の雨が混じった
冷たい北風をさえぎるように、一斉に船の汽笛が鳴り響くのを聞く
ことができた。

▼ 今年も、灘の街や坂道に摩耶埠頭や神戸港からの新年の汽笛は
響いたのだろうか。新年になると、外に出て耳を澄ましたものだ。
那覇、神戸と場所は1000キロ違えど、やはり港の街はいいなーと、
沖灘区の自宅ベランダから思いにふけった年明けだった。

▼ 神戸の汽笛は幅広い音域の高低音が重なり合った、どこか不思議
なハーモニーで少し哀愁を感じるブルースっぽい響きだ。那覇の汽笛
は、ちょっと高めのユニゾンで新年にふさわしい、元気のよい「かぎ
やで風」(※2)の合奏みたいな感じだ。

▼ しんちゃんは、戦後まもまく、米軍の荷役として、また「戦果
アギャー」(※3)としてこの那覇港で働いた。新年の次号からは
この那覇港でのしんちゃんを少し追ってみたい。


「灘⇔沖縄 通い船対談」はお休みします。
中村よおさん、komatsuさん、コメントありがとうございます。
1月8日号でゆんたく(雑談)しましょう。


※1 「安謝新港」 神戸行きフェリーが出ている港だ。神戸側は
六甲アイランドが乗り場で、阪神御影にあるフェリー乗り場行きの
バス停はなんだか「沖縄行きバス」の趣きになっている。


阪神御影駅西側にあるバス停で「沖縄行き」バスを
待つ沖灘人女性


※2 「かぎやで風」 沖縄の古典芸能で座開きとして合奏、舞踊される、
沖縄県民にはおなじみのめでたい曲。灘で聞きたければ、水道筋界隈の
沖縄民謡教室へ行けばよい。
※3 「戦果アギャー」 戦後、まったくといっていいほど物資のない沖縄
で、米軍のさまざまな物資を持ち出すことは県民の間では合法とされた。
合法というより名誉という方が合っていたかもしれない。持ち出したものを
戦果(せんくぁ)と称し、戦果を上げることを生業とする人を戦果アギャー
と呼んだ。


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