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2007年12月25日(火曜日)

沖灘料理店物語「都賀のよさこい その4」

カテゴリー: - utinadanchu @ 20時41分30秒

西の琉宝、東のめんそーれ、都賀のよさこい vol.10




   


▼ 28年前の今日、1979年12月25日。自分は水道筋6丁目が夕闇に暮れるなか、「富士会館」でひたすら銀玉を打っていた。共通一次試験20日前というのに、パチンコにしか身が入らない。東天会館(六甲道)とHOGARAKA(灘中央筋)で泥沼の連敗を喫した。ここで負けて帰ったら受験も自分自身もすべてが崩壊する気がして、最後の千円札1枚の賭けだった。バイトの金とはいえ、自分を本当に情けないと思いつつ。店内に流れる甲斐バンド「安奈」を、覚えている。


▼ そんな、虚しいクリスマスの「水道筋6丁目の夕陽」以外、この時代の界隈の記憶は自分の中からほとんど消えてしまっている。ところがこの空白期間が少しでも埋まるような、当時の「よさこい」の様子が生き生きと思い出される証言をコメントでいただいた。中村よおさんとkomatsuさんの証言によると、店の女性、動物たち、そして三線は、このころから存在していたようだ。


▼ 都賀川のほとりのあばら家で「よさこい」が始まったのは、1975年か76年のこと。店名は妻が高知県出身だったからと聞いた記憶がある。奥さんはどうなったの?とは、詳しく聞けなかった。お二人の証言に登場する女性は、どうやらしんちゃんを店で看取った女性のようだ。このころからおられたとしたら、20年来のパートナー。独身だったはずで、あれから一人きりになられているに違いない。どこでどうされているのか・・・


▼ 当時、「三線」という言葉は、まだ一般的ではなかった。篠原南町あたりを歩いていてたまに聞こえてくる音色の楽器を、「蛇皮線」「蛇味線」と呼んでいた。自分が店の三線を明確に意識したのは、2000年のあるできごとがきっかけ。80年代からよさこいの壁に架かっていたとは!しんちゃんは、この三線を兄と一緒に入手したようなことを言っていた。戦後、親と島に帰った時、那覇港で苦労したとき、島の歌が励みだったという。


   

灘⇔沖縄 通い船対談
vs 中村よお 様
「ありがとうございます。僕が『よさこい』へ行ったのは、1回目、
淺川マキ皮ジャンの女友達と行ったのが80年?先輩フォーク・シンガー
と行ったのが83年or84年?といったところでしょうか?
三線の油については酔ってて、よく覚えてません。(笑)
女将さんと書いたのは上に書かれている女性と同じ人のようですが、
その人がにら玉を作ってくれたと思うのですが」

店で三線をかき鳴らして踊ったという話、80年代前半のことだったの
ですね。いつから壁に架かっていたのか、どうしても思い出せなかった
のです。どうりで「浅川マキ」なわけですね。ちょっと感動でした。
島出身者しか三線に触れなかった時代、沖縄音楽の谷間の時代にあたる
そのころに、そんな光景が80年代の灘にあったなんて・・・。
(沖縄歌謡「安里屋ユンタ」はうちの親の世代は歌えますが、その後に
坂本龍一がアルバムで取り上げたのは1989年です)
当時だったら三線もまだ油のコーティングは少なかったでしょうね。


vs  komatsu 様
「僕が『よさこい』に通ってたのは、1990年〜1994年のくらいですね。
地震後の記憶はあやふやなんですが、多分行ってないような気がします。
確かに店の人みたいな女の人が居たと思います。どんな人かはさっぱり
思い出せないのですが。
犬はそこそこでかいのが居て、猫も確かに居たような…。
何か犬、2匹居たような気もしているのですが、あれはお客が連れて
来てた犬だったのかなあ…。
記憶がほんと頼りないです…」

自分も、よさこいとその風景を通じて記憶を呼び戻そうとするのですが、
全くあいまいなままです。
そんな中で、コメントをいただきながらわずかでも修復できつつある気が
します。
しんちゃんは、最期の時を優しそうなその女性と迎えることができた
ようです。近所の人の話では、営業していたか閉店かはわからないが、
夜遅い時間だったと聞きました。
たしかに犬は複数いた気がします。土間をよくうろうろしていたようなー。
当時はまだ神大生の熱烈なお客さんが多かったころではないでしょうか。
そのあたりのこと、次回に触れられたらと思います。


2007年12月18日(火曜日)

沖灘料理店物語「都賀のよさこい その3」

カテゴリー: - utinadanchu @ 18時51分59秒

西の琉宝、東のめんそーれ、都賀のよさこい vol.9




   


▼ 壁に架かった三線は、厨房から飛散する油でコーティングされていた。都賀川をつたって直撃する六甲颪と冬場の乾燥に三線の蛇皮が耐えたのは、オイルコーティングのせいと見ている。普通なら間違いなく裂けている。持つと棹から手に移るベトつき加減が味わいだった。なぜ「よさこい」に「三線」なのかはしばらくおいといて、もう少し店内の様子を思い出してみる。


▼ 2階に通じる奥の階段には、いつの時代か、猫がまるまっていた。そういえば厨房内に犬もいたかも。犬は最近のことかな。ネズミは時代を通じていつもたくさんいた。厨房の奥で何かをかじっているのをよく見かけた。昆虫類も豊富だった。いろんな生き物が人間と共存するこういう店は、少し前まで灘にけっこうあった気がする。今では、成り立たないだろうか。


▼ 女性がいた。女将なのかどうかはわからない。記憶にあるのは、厨房を手伝うようなそうじゃないような、いつも奥の席でのんびり動いていた優しいおばちゃんだった。奥さんではなく、パートナーのようだった。腰が悪いのであまり動かれへんねん、おまけに糖尿やし、という彼女も摩耶小学校の出身だった。店主のしんちゃんは、最終学歴は摩耶国民学校(現摩耶小)卒だ。


   

灘⇔沖縄 通い船対談
vs 中村よお 様
「よさこい、2回だけ行ったことがあります。もうほか開いてないよなあ
というような時間に。
1回は女友達と。にら玉でビールを飲みました。『彼女』の皮ジャンに
淺川マキのステッカーが貼ってあって、女将さんが
『そんなジャンパーがああるの?』
と聞いてきはったのがおかしかった。
2回目は先輩フォークシンガーと。『あ、三線がある!』言うたら大将が
壁からはずしてくれて『弾いてみ』言うて渡してくれたので、それらしい
フレーズを弾いたら『あんた沖縄の人?』て言われました。
先輩が『よおくん、もっと弾けや。俺踊るから』言うて踊り始め、しばらく
弾いて踊って帰りました。(当時は将軍通に住んでた)」

中村よおさん、コメントありがとうございます。このお話はいつくらいのこと
なのでしょうか。よおさんの描写から、さまざまな時代背景が読み取れます。
よければ教えてください。
それにしても、店で三線を弾かれたのですね。油の具合はどうでした?
あの狭い店で踊ったというのは、なんだか情景が想像できますね。
しんちゃんは嬉しそうな顔をしていたでしょうね。
そして、「女将さん」はどのような女性だったのでしょうか。
「彼女」の浅川マキというあたりが、渋いですねー


2007年12月11日(火曜日)

沖灘料理店物語「都賀のよさこい その2」

カテゴリー: - utinadanchu @ 17時30分34秒

西の琉宝、東のめんそーれ、都賀のよさこい vol.8




   


▼ よさこいの建築は、あと5年もしたら灘区から絶滅したであろう、都市民俗学的には貴重な建築様式だったと思う。震災と再開発が消し去った、遠い記憶のかなたにしかない灘の風景。その底らへんに、簡素な木造のまわりをトタンで囲った庶民の家々が佇んでいる。間口は狭く、奥行きもないが、人はたくさんいる。そういうバラック型建築のひとつだった。


▼ こうした家は、戦後神戸が高度経済成長で吸引力があった時、奄美・沖縄から徳島まで労働力として西日本一帯から大量に吸収された人々に、工場周縁部にて自力建造もしくは賃貸供給された。灘では、特に阪急六甲以西で南北問わずよく見慣れた風景だった。経済力がつくにつれ郊外の住宅に移動したため衰退したが、少し前まで中原通や福住通5・6丁目あたりにはこうした人の香りがする簡易的な家々が残っていた。


▼ 「よさこい」の文字の提灯をくぐり横開きの戸を開けるとすぐ、横2人、縦4人掛けくらいのL字型カウンターがある。イスは丸イス。手前の壁には、神戸大学の学生らが寄せ書きした色紙が何枚か貼ってある。左側は高くなっていてタタミが1畳敷いてあり、小さい机を挟んで1畳に2人座れるようになっていた。上方には2階につながる階段の裏面。畳に座った頭上に、油にまみれた三線が1棹、架かっていた。


   

灘⇔沖縄 通い船対談 
vs naddist様
「しんちゃん=神ちゃんですね、チンパンジーの。
よさこい、結局入店できずじまいでした。無念です。
今、都賀川界隈で「しんちゃん」を襲名しているのは
ここです↓w」

naddistさんとしては、末代に続く不覚の思いをされて
いることでしょう。私もかつてクラブミレーの重要性を
某ML上で真っ先に指摘しておきながら、行けなかった
ことを非常に後悔しております。最近では唐船ですね。
よさこいには、都賀川で水没しそうになった時にでも
行っとけばよかったですね。


vs komatsuさん
「いよいよ『よさこい』ですねー!w
当方はどんどん思い出せることが減って来ています…
続編楽しみにしております!」

ありがとうございます。
はじめて複数のコメントがあり、嬉しいです。
一般読者はなかなかついて来れない真偽入り交じった
支離滅裂ネタが「沖声灘語」の特徴なのですが、
くじけずお読みいただき深謝です。
私も記憶はどんどん消去されており、記憶力も減退し、
文字にして残していた部分だけが頼りです。
よさこいの貴重な写真が数点あったはずなのですが、
家に現存するのは1枚だけでした。いつ出そうかな。


2007年12月5日(水曜日)

沖灘料理店物語「都賀のよさこい その1」

カテゴリー: - utinadanchu @ 21時45分18秒

西の琉宝、東のめんそーれ、都賀のよさこい vol.7




 たぶん、今回の話はかなり長くなる。灘と南西諸島の形而上的な関わりに触れなければならないからかもしれないし、単に年末年始と私事で忙しいから1回あたりの原稿量が短くなるというだけのことかもしれない。
ちょっとだけ深い思いがあることは確かだ。


▼ 水道筋商店街を東に抜け、都賀川を越えたすぐのところ。少し前まで橋の浜側の東詰に、赤い看板に「しんちゃんぎょうさ」と書かれた、朽ち果てたトタン屋根の小さなバラックがあった。今はどうなっているのか知らない。更地になっているという話も聞いた。市有地だったのか、それとも市有地にするのかで、所有者が立ち退きを渋っていたと聞いたことがある。


▼ 「よさこい」という、どちらかというと貧乏人や学生が集まる小さな中華料理屋だった。地域には、この店をどことなく蔑んでいる人と、親しみを持って受けとめている人が混在していた気がする。5年前まで、「しんちゃん」という主人がこの住宅兼店鋪に住んで鍋を振っていた。彼が帰らぬ人になってから、建物はしばらくそのままになっていた。


▼ 2002年6月に亡くなったとき、しんちゃんは70歳を超えたばかりだった。奄美でいうニラヤカナヤ、あるいは沖縄でいうニライカナイの神は、労働と酒に明け暮れた波瀾の人生の幕引きと見たのだろう。願いどおり、生まれ育った灘の仕事場で、酒と友に囲まれあっけなくあの世に行った。


灘⇔沖縄 通い船対談 vs naddist様
「出勤前の小夜子ママ、たまにお会いすることがあります。
お孫さん、そんなに大きいのですか。
でも「灘のおばあ」なんていったら怒られませんかねw
ネーネーとは言わないまでもせめて灘のアンマーくらいでw」


たしかにめんそーれのママは、おばーというには若々しすぎ
ますかね。かなり苦労されているのにね。
きょうからはじまる話の主人公「しんちゃん」は、生きていれば
文字どおり「灘のおじー」なんですが。
生きていてほしかった沖灘人のひとりです。
ところで、しんちゃんって王子動物園にもいませんでしたっけ。


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