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2007年11月28日(水曜日)

沖灘料理店物語「東のめんそーれ その3」

カテゴリー: - utinadanchu @ 00時06分57秒

西の琉宝、東のめんそーれ、都賀のよさこい vol.6




▼ スナックではあるが、京町筋にあった老舗「那覇」以来、神戸で正統派沖縄料理を味わえる店となった「めんそーれ玉緒」。「那覇」の時代は、沖縄料理といえば台湾料理とともに「ゲテモノ」イメージで通っていた。「ゲテモノに挑戦」という感じでママの料理を食べたおじさん達は、ゲテモノという異文化に対する少し見下したまなざしを改め、暮らしに密着した深い味わいのある料理であることを実感しただろう。


▼ 明方も近い4時ごろ、店を終えた小夜子ママは水道筋の東はずれにある灘温泉で疲れを癒してから摩耶小学校近くの自宅に帰るのが日課だった。かねてから、落ち着いた環境で沖縄家庭料理をやりたいという思いがあった。スナック店鋪は狭くて家賃は高く、料理をメインにできない。今の状態では、泡盛のボトル1本入れて少し食べたら軽く1万円は行ってしまう。これでは若い人は来ない。普通の値段で本当の沖縄家庭料理を食べられる店を出せたら、と灘温泉の湯舟で考える日々だった。


▼ 震災からの再建も落ち着いた2004年、思いは六甲道に叶った。駅の近く、安くておいしいと言われていたさぬきうどんの定食屋が立ち退いた店鋪だった。若い人も多い。家族連れも来てもらえる。沖縄から神戸へ骨を埋め、苦労の連続を乗り越え何十年と三宮で頑張ってきて、ようやく落ち着ける場所にたどりついた。沖永良部出身の相方女性と、料理することを楽しみながら切り盛りする姿が微笑ましい。そのころ、名護の孫娘が東京大学に進学した。広くて明るいキッチンの中で、すっかり「灘のおばあ」になったママは、嬉しそうだった。


naddist様より。
「手元の『神戸味覚地図1964年版』(創元社)によると、
『那覇』のメニューは足テビチ、ソーキ焼き、耳皮ナマスなど。
耳皮ナマスはおそらくミミガーの味噌和えなのでしょうが、
新鮮な語感です。
ソーキ焼きは文字通り焼いたソーキにソテツ味噌やハブの粉を
調合した特製味噌だれをつけて食べるそうです。これは興味津々。
あと『化亭物(ゲテモノ)』というカテゴリーもあったようです。
当時の琉球料理は南国の精力系スタミナ食というような認識も
あったんですかね」

naddist様、いつもありがとうございます。
たしかにそのような感じです。自分も、小中学生のころは本文でも
書いたように台湾料理と沖縄料理には大人からの刷り込みがあった
のか、そういう認識だった気がします。
1964年のガイドブックというのもすごいですが、それに載っている
のもすごいですね。ほんとに、かなりの名店だったようですね。
うちにある70年代の「ワンダフル・コウベ」などでも「沖縄料理は
スタミナ源になる」みたいな紹介をされています。どうやら、ハブ酒
のイメージが強いようです。
74年発行の「カラーブックス 神戸の味」では、「ソーキボーニイ
(豚骨焼)がうまい」とあり、こちらも新鮮な響きです。
「キングスアームス」の次、「ハイウエイ」の対抗ページに載っている
ことからも、格の高い店だったことが偲ばれます。
当時は沖縄からの船が中突堤に着いて、岸壁の建物で入国審査をした
そうな。沖縄県人会も、80年代に尼崎に移転するまでタワーサイド
ホテルの山側くらいにありました。
ところで、97年ごろの神戸市内の電話番号データベースで見ると、
なんと中央区に「那覇」という名前の店が3軒もありました。
加納町と北長狭で、加納町の1軒は前回書いた店だと思います。
他の店は、もしかしたら名店「那覇」と何か関係あるかも。


2007年11月20日(火曜日)

沖灘料理店物語「東のめんそーれ その2」

カテゴリー: - utinadanchu @ 23時49分40秒

西の琉宝、東のめんそーれ、都賀のよさこい vol.5




▼ 沖縄で苦労して神戸に来て、神戸でも難儀の連続だったという小夜子ママ。苦労に苦労を重ねて、ようやく三宮に小さいが自分の店を持ったという。店を出すにあたっての借り入れ金もあっただろう。沖縄に残してきた子供たちのことも心に引っ掛かっていたに違いない。毎日、働きに働いていた。

▼ 軌道にのった矢先に、阪神・淡路大震災。店は全壊した。再びどん底の苦労に見舞われたが、生活再建、仕事の再建に駆けずり回った。今度は沖縄家庭料理を少しでも出せる店をと、生田新道の薬局の2階に開店したのが「めんそーれ玉緒」。名護の家にあった三線を飾った。転勤や出張で在沖経験のあるおじさんたちがよく集い、ママの正しい沖縄料理を堪能していた。

▼ 「西の琉宝」の項で書いたように、神戸には正統派の沖縄料理を出す店は少なかった。震災の少し前まで、三宮神社の東側、現在ケーニヒスクローネがある場所に「那覇」という沖縄料理店があった。昭和28年創業の老舗で、琉球王朝料理を出す名店として当時の神戸ガイドブックには必ず載った。もしかしたら「那覇」は全国的にも最古に近い沖縄料理店だったかもしれない。

▼ 話は大きく脱線する。昭和40年代には大阪大正区でも沖縄料理店を見かけることはなかったばかりか、そもそも当地の沖縄にもなかった。沖縄初の沖縄料理店といわれる「うりずん」(那覇市安里)でさえ、本土復帰年の昭和47年創業だ。スナックで出される肴としてはあったが、沖縄料理は外食するものではないという考え方があったようだ。


naddist様から。「灘ではないのですが、元町の旧日東館書林の
裏くらいに「那覇」という店があったと記憶しているのですが、
今どこかで営業されているのですかね。
確か神戸沖縄料理店の先駆けだったかと」

さすがnaddist様、今度は先読みされました。
「那覇」は上記のとおり、三宮にありました。
naddist様のコメントを見ずにアップして、コメントに気づいて
びっくりした次第です。見事にかぶってしまいました。
10年数年前、「那覇」がどこかでやっていないかと思っていた折、
東門筋と北野坂の間くらいに「那覇」の看板の小料理屋を見つけ、
入ってみました。
しかし、そこは沖縄料理ではなく、沖縄出身者がやっているお店
でもなく、ほんとに小料理屋さんでした。
「那覇」という名前をつけた由来を聞いたのですが、忘れて
しまいました。特に理由らしい理由はなかった気がします。
もしかしたら、看板だけ譲り受けたみたいな話だったかも。

ところで話は全然かわりますが、19才の女優、戸田恵梨香は
鷹匠中出身らしいですね。知りませんでした。
久々「ナダドル」の登場ですね。
「大阪は汚らしいから神戸と一緒にせんといてほしい」と
テレビで発言して話題になったとか。さすが灘人です。


2007年11月13日(火曜日)

沖灘料理屋物語「東のめんそーれ その1」

カテゴリー: - utinadanchu @ 20時00分51秒

西の琉宝、東のめんそーれ、都賀のよさこい vol.4




JR六甲道駅東側にある「めんそーれ」


▼ 「めんそーれ」は、六甲ではまだ新しい店だ。3年ほど前まで三宮・生田新道山側の薬局前にあった「めんそーれ玉緒」の看板なら見覚えのある人は多いかもしれない。ここから六甲道に移った。テントに書かれた現在の店名が「めんそーれ」なのに、道路の看板が「玉緒」なのはそのせいだ。同じ物を使っている。

▼ JR六甲道駅南側を東にバス道を越え、成徳小学校方向に向かって少し行ったところにある。ここに移ったのは、沖縄・名護出身の崎浜小夜子ママが、地元から取り寄せた食材を使って落ち着いて沖縄の家庭料理を出す店をやりたかったから。三宮時代は、雑居ビルの2階にある小さなスナック形式の店だった。

▼ 三宮では場所が場所だけにかなりいい値段だったが、彼女が作る料理はまさにアンマー(沖縄方言でお母さん)の味、評判が高かった。沖縄で「手作り」をティーアンダー(「手油による味わい」の意)という。戦後、沖縄から神戸に来て今に至るまでの大変な苦労が、深い味わいとなっていることを感じたものだった。


 naddist様。
「前回コメントした烏帽子にあった『唐船』ですが、
残念ながらテナント募集の看板が出ていました。
沖縄との関連は不明のままです」

なんと。
ネーミングは「とうせん」「からふね」どちらだった
のでしょう。
消えた店を前にして、「行っとけばよかった」って
思うことがよくありますね。
気になる店には、思い立った日に行っておかねば。


2007年11月6日(火曜日)

沖灘料理屋物語「西の琉宝 その3」

カテゴリー: - utinadanchu @ 08時00分00秒

西の琉宝、東のめんそーれ、都賀のよさこい vol.3




▼ 戦後、米軍統治下の沖縄から初の集団就職船が神戸港に入ったのは、昭和32年。一足先に本土復帰した奄美群島からの集団就職船も同じころだ。神戸製鋼が葺合の脇浜から灘浜に工場を拡張したのが昭和34年だった。
 神戸製鋼や製鉄関連企業は、人手不足に加えケガ人が続出する危険な現場に従事したがらない人が増えたため、大きな寮を持つ強みを生かして就職難に苦しむ南西諸島の実直な少年たちを戦力として積極雇用した。朝鮮戦争特需から高度経済成長にかけて飛躍し、その後にポートアイランド博覧会を開催するなど大きく繁栄した神戸経済を下支えしたのは、彼らだった。


▼ 琉宝が開店したのはポートピア博のころで、西灘がそんな南島系労働者の活気であふれた最後の時代だった。いつしかカップルの姿も増え、労働者や地域のおっちゃん、学生が混在する、ほのぼのとした店になっていった。だが、マーケティングを度外視した「琉宝飲食店」「大衆酒場」の潔い看板も、とってつけたような沖縄料理のブームに惑わされることのない灘的メニューも、昔のままだ。
 ここに来ると、時計が止まっている錯角を覚える。82年のNHKドラマ「てだのふあ 太陽の子」で、「おきなわ亭」で沖縄出身のギッチョンチョンと言葉のことでけんかになったヤマトンチュのギンちゃんにお母さんが静かに語るシーンを思い出す。城間のおばあちゃんの神戸言葉とダブるものがある。この重く優しい言葉を、地で行っている店かもしれない。


▼ 「神戸は昔から神戸やろ、ギンちゃん。神戸が東京になったり、那覇になったりしたことはあらへん。神戸は神戸やから美しい。神戸が東京のまねをしたり、那覇のまねをしても、神戸の人がよろこぶはずがあらへん。神戸に育った人は神戸の良さを愛して生きてきたはずや。そのことがようわかるから、わたしらは沖縄の人間やけど神戸の言葉を使こうて、神戸を大切にして生きてきたんや。
 神戸の人が、ヤマトーの人がみんな、わたしらが神戸を考えるように、沖縄のことを考えてくれたことが、これまで一度でもあったやろか。ギッチョンチョンは、そのことがくやしくて情けのうてたまらんのや。な、ギンちゃん」。
(角川文庫「太陽の子」)


naddist様から。
「琉宝の焼きテビチは美味いですね。
沖縄本島のものもいくつか食べましたが、
少しあじくたー(味が濃い)すぎるような。
琉宝の塩加減が沖灘的には最高かと」

さすがはNaddist様。
味付けも、やはり灘なんです。
ふうちゃんのお母さんが話したみたいに、
灘を大切に思ってくれた沖縄の人の心が、
今に生きているのでしょうね。
ここが本当の沖灘、ユートピアとしての
沖灘かもしれません。


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