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2007年10月30日(火曜日)

沖灘料理屋物語「西の琉宝 その2」

カテゴリー: - utinadanchu @ 21時18分31秒

西の琉宝、東のめんそーれ、そして北のよさこい vol.2




阪急王子公園駅西側のガード下にある「琉宝」
(2001年10月撮影)


▼ テントに「琉球料理一式」とあるが、「大衆酒場」とも書かれているように沖縄料理のメニューはそれほど多くない。「沖縄そば」の大書きどおり、沖縄そばが食べられる店という感じだった。麺は、東南アジアの屋台に見られるような幅広麺を使ったものだった気がする。たぶん、当時は沖縄そばのゆで麺の入手が難しかったからだろう。ダシもラーメンに近かったと思う。これも沖縄向け鰹節(本土のものより水分が多く濃厚)が手に入りづらかったからか。

▼ 沖縄料理のメニューは沖縄そばのほか、角煮、ゴーヤーチャンプル(当時はニガウリ炒めだったかも)、もずく酢、豚足、豚耳といったところか。今の沖縄料理店にように、沖縄方言名では書かれていない。80年代初期の「沖縄」へのまなざしがどうだったかを感じさせる。沖縄料理の食材はルーツを台湾や中国南部の料理に求められるものも多く、ある意味で沖縄料理の原形としての中華料理といえるかもしれない。

▼ カウンターのガラスケースの上には、食材や揚げ物、豚足などが並んでいた。豚足は沖縄で一般的な煮込んだものではなく、茹でたものと中国や韓国風の焼いたものの2種類あり、「茹で」は濃厚な醤油ダレ、「焼き」は酢味噌か塩を選んだと思う。他にレバニラ炒めや魚類もあり、ボリュームがありうまかった。今世紀になり沖縄ブームが来ても、便乗することなく以前のままのメニューだった。

▼ 城間のおばあちゃんがやっていたころは、嘉陽さんという沖縄から来たわりとふてぶてしい料理人がカウンター内の厨房で鍋を振っていた。少し喜納昌吉に似た人だった。7年ほど前から、おばあちゃんの孫であるミカさんとそのご主人が厨房を切り盛りしている。学校から帰ってきてたまに顔を出していた曾孫は、もう20歳も半ばのはず。福留功男アナウンサーに似たご主人は、西灘らしく沖永良部島の出身だ。脱サラして継いだとか。


 Naddist様から。「ドラマ人間模様の『てだのふぁ』ですが、放映当時母親が
買い物から帰ってくるなり『タカバシでドラマのロケやってたよ〜』と。
後日それが『てだのふぁ』だったということが判明しました。
ひょっとしたら琉宝あたりを『おきなわ亭』の周辺という設定にしているかも
しれないと思い、大阪のBKにあるNHKアーカイブスで全編見たのですが(早送りで)
灘らしき風景を見つける事ができませんでした。あれはデマだったんでしょうかね?
それとも単にロケハンしてただけなのでしょうか?謎です」。
 「おきなわ亭」のセットと「琉宝」は、店のレイアウトと空間デザインがよく
似ている気がしました。そういう可能性はあるかもですね。タカバシでロケって、
なんか聞いたことあるようなー。山にピクニックに行くシーンがあったような
気がするのですが、これではなかったんですね。自分も今度帰った時、BKで見て
みます。もしかして、映画版のロケとか。ちょうど自分が大学生のとき、兵庫で
配達の運転手のアルバイトをしていた時、西出町でロケしていましたね。
セットに出てくる公園は実在のものと同じでした。


2007年10月23日(火曜日)

沖灘料理屋物語「西の琉宝 その1」

カテゴリー: - utinadanchu @ 18時09分41秒

西の琉宝、東のめんそーれ、都賀のよさこい vol.1




▼ 阪急王子公園駅のガード下を西にしばらく行くと、「琉宝飲食店」とテントに書かれた大衆食堂がある。電照看板に「沖縄そば 500円」とあり、時代とともに値段が変わってきた。当時は300円くらいだったか。1980年ごろ、城間さんというおばあちゃんが始めた。沖縄北部、羽地(現在は名護市内)の出身だが、生まれた場所は九州の炭坑らしい。父親が沖縄の出稼ぎ民で、沖縄と神戸と九州の炭坑を行ったり来たりだったという。

▼ 城間のおばあちゃんは、ウチナーンチュなのに、のんびりした典型的な神戸言葉を使っていた。初めてゴーヤーチャンプルを食べる若い客に「ゴーヤー食べれるかー。苦いでー」といつも優しく声をかけていた。仲良くなったら「これもっていき。さっき作ったんよ。沖縄のドーナツやで」とサーターアンダギーを持たせたりした。神戸人とも沖縄人ともいえる優しい一面を持っていた。

▼ 当時は、阪急西灘駅と神戸製鋼を多くの「鉄の男」たちが往復した。沖縄出身者も含め、彼らの胃袋を満たす店が必要だった。大衆を相手にすることや、沖縄料理屋ではどんなものが食べれるのかイメージしにくかったこともあるだろう、中華料理店のスタイルをとっていた。同じころ大阪大正区に増えていった沖縄料理店とは違い、神戸の沖縄料理は中華料理店を名乗ることが多かったようだ。

▼ ちょうどそのころ、NHK「ドラマ人間模様」で3カ月ほど放映された灰谷健次郎「てだのふあ 太陽の子」に登場する沖縄料理店と非常にかぶるものがあった。城間のおばあちゃんと、主人公ふうちゃんのお母さんで店主役の中村玉緒の話し方が、同じ感じだったからか。店内のレイアウトや空気も似ていた。琉宝に行くと、ドラマの中に入ってしまったような錯覚を覚えたものだ。

▼ おばあちゃんというのは、そのころすでに20歳くらいの孫がいたからで、当時まだ50歳そこそこくらいだったかも。その孫が、7年ほど前から今も店を切り盛りしている、はず。ここ3年ほど行ってないのでわからないのだ。


naddist様「この会館の少し東に「唐船」という中華料理屋とかもあって
あの看板を見るとどうしても「唐船どーい」が頭の中に鳴り始めてしまいますが、
沖灘区との関係はどうなんでしょう?」
さすがnaddist様、沖灘料理屋物語スタートに先駆けての絶妙なネタ振り、
ありがとうございます。自分も以前から気になっていました。
本企画で「南の唐船」となるかどうか、今後の調査が待たれます。


2007年10月16日(火曜日)

沖灘化する灘 その5「兵庫県洋菓子協会」

カテゴリー: - utinadanchu @ 08時00分00秒

帰灘特集 灘で感じる沖縄 vol.6 FEEL OKINAWA IN NADA




兵庫県洋菓子協会のホームページ写真

▼ ケーキ屋さんで買うケーキの生クリームが、時間が立っても崩れないのはなぜか、知っているだろうか。私は知らない。知らないが、この技術を開発し、神戸のケーキを全国一のレベルにした人は誰か、知っている。

▼ その人は、比屋根毅さんという。現在、兵庫県洋菓子協会の会長だ。沖縄県石垣島の出身。52年前、世界を股にかける航海の無線通信士を目指し、17歳でパスポートを持って神戸に来た。夜は学業に励み、昼はたまたま大阪の洋菓子店に努めたのが、ケーキとの出会いだ。いつしか世界は無線通信士ではなく、洋菓子で目指すことにした。

▼ 洋菓子職人としてメキメキ頭角を現した。やがて西日本でナンバー1のシェフに。あちこちからの誘いを断り尼崎に街のケーキ店「エーデルワイス」を開業したが、大苦戦。そこで乳業メーカーと組んで考えたのが、現在の生クリームだ。この技術とフランチャイズ化で、庶民が安く本物の洋菓子を口にできる時代を作った。また、ひんぱんにヨーロッパに行き、老舗店に頭を垂れて技術指導を乞うた。

▼ 時代の変化でエーデルワイスは縮小し、78年から取り組んだ「アンテノール」など高級店に絞った。同社の職人の8割は海外派遣の経験があり、02年県洋菓子協会長着任とともに、加盟店職人のヨーロッパ派遣を進めた。共同配送や仕入れなど沖縄の「ゆいまーる精神」を入れ、ライバル同志が共生しながら切磋琢磨した。神戸洋菓子のレベルの高さには、こういう下地がある。甲陽園のツマガリなど、「比屋根組」といわれる多くの子弟たちが阪神間で活躍する。

▼ この兵庫県洋菓子協会は、灘区の大石にある(株式会社兵庫県洋菓子会館)。今の神戸洋菓子のハイレベルや消費量の多さ、それに伴う市民の舌の肥え方は、ひとりの島人の努力によるところが大きい。その本拠地が灘にあるというのは、なんだか嬉しい限りだ。


沖灘区観光協会様「摩耶山のアイドル与那国馬の那美ちゃんの追っかけを
4年ほどやってます。
那美ちゃんは毎年3月の春分の日に開かれる摩耶山の山開き行事摩耶詣祭
には欠かせない存在です。
那美ちゃんの横では東畑原市場の新家が出張摩耶鍋を振る舞うという
沖灘区に春を告げるお祭りです。是非一度お越し下さい」。
いつもお世話になります。
それはぜひ行きたいですね。
春分の日のころといえば、沖縄では浜降りが近いころ。
灘では那美ちゃんが山降りするのですね。摩耶鍋、食べたいなー


2007年10月10日(水曜日)

沖灘化する灘 その4「与那国馬」

カテゴリー: - utinadanchu @ 00時03分28秒

帰灘特集 灘で感じる沖縄 vol.5 FEEL OKINAWA IN NADA




「与那国の馬小」を鼻先で謡う、六甲山牧場のアイドル与那国馬

▼ 明治以降、沖縄や奄美など南島から多くの働き手が経済苦に押し出されるように、また軍需や高度経済成長の阪神地区に引っ張られるように、灘にやってきた。その流れのうち大きなものは、神戸製鋼所、川鉄葺合工場、ダンロップ護謨などの労働者一派だ。南の人間は忍耐強いとして、工場で積極採用された。過酷な労働だが、大企業やその下請けの労働者であり、ある意味メジャーな人々だ。彼らは先発している島人を頼ってJR灘駅の山側や海側に住み、六甲の麓にある大きな家を見て、いつか自分も坂の上に家を建てようと懸命に働いた。灘の基礎を作った人々だ。

▼ 一方、戦後間もなく、占領下にあった沖縄、奄美で米軍から盗んだ物資を「戦果(せんくぁ)」と称して密貿易した一派があった。南島側の拠点は与那国島、糸満、徳之島で、決死の思いで密貿易船を駆って神戸沖まで来て、夜陰にまぎれ上陸し商人に売った。その品々は、前々回に触れた東畑原市場など阪急六甲駅南側から西灘駅にかけ林立していた闇市でも売り捌かれたに違いない。与那国出身の大浦太郎、糸満出身の金城夏子といった密貿易人の半生が書籍化されている。小さい流れだが、家や仕事場は沖縄から神戸にまたがる海という、壮大なスケールの人々だった。

▼ そんな密貿易の拠点だった与那国島から、灘最北の地、六甲山にやってきた南島出身者が数頭いる。ただし、彼ら(彼女?)は決して密貿易で与那国からやってきたわけでない。彼らの場合は、六甲山牧場でアイドル民謡歌馬として働いている。春や秋に麓から遠足で訪れる灘の子供たちに、「与那国の馬小」(ゆなぐにぬうまぐぁー)という八重山民謡を鼻歌で謡って聞かせているが、どれくらいの子供たちが理解できているだろうか。亜熱帯沖縄の南西端から灘の最北雪国へ。そういえば昔、六甲山小学校の友人も親は沖縄の出身だった。


前回の沖灘めしに関し「この調査おもしろいですね。水道筋でもやってみます」と
naddistさんから。いつもありがとうございます。
ぜひぜひ。水道筋に沖灘ものを普及させるプロジェクトをやりたいです。
食材に関して、沖縄でぼちぼち動いてます。葉ものは難しいですが。
ナーベラーとシブイ(冬瓜)、シカクマメあたりでなんかしたいです。
前回の写真は六甲道南側をちょっと歩いただけですが、沖灘ものはなんぼでも
見つかりました。
ゴーヤチャンプルとかは逆にありふれてしまい、掲載してないです。


2007年10月2日(火曜日)

沖灘化する灘 その3「沖灘めし」

カテゴリー: - utinadanchu @ 19時59分55秒

帰灘特集 灘で感じる沖縄 vol.4 FEEL OKINAWA IN NADA




盆のころ、六甲道界隈にて(写真4点とも)。
手ぶれですんません。

▼六甲道界隈は、ごはん屋のレベルが上がっているという。行列ができる店があるのではなく、どこもまんべんなくうまい。どこに入っても、味はもちろん値段的にもそれほどはずれがない。この傾向は以前からはあったが、震災後テナントが増えたり、いろんな人が入ってくるようになって加速したようだ。

▼「ぐるなび」という飲食情報サイトの役員と話したとき、芦屋出身で美食家の彼はこんな話をした。尾道の店は、どこもうまい。自分の家で食べる人が多いから、うまくないと客が入らないので味にこだわる。外食を必要とする人と供給する人のバランスが取れているからという。六甲道も同じ状況と思う。

▼その六甲道の晩飯屋のうまさを支えているのが、沖灘ものだ。駅周辺の店先のお品書きをちょっと見て歩いただけでも、ほとんどの店で沖灘産の食材が使われている。ゴーヤーはすっかり夏の定番野菜だが、「海ぶどう」「島らっきょう」「沖縄もずく」の3強も着実に灘めし屋に定着しつつある。


「東畑原市場(アガリハタバルヌマチグヮー)ではゴーヤが異常に繁殖しています。
 やはり街のDNAなんでしょうか」とnaddistさんから。
それはすごい。前々回に植物の沖灘化を指摘しましたが、研究者の予想をはるかに
うわまわる勢いで灘の沖灘化、もしくは沖灘回帰現象が始まっていると考えられます。


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