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2007年6月20日(水曜日)

沖灘語で解く「求女塚」

カテゴリー: - utinadanchu @ 02時02分37秒

沖灘地名学演習(3)「モトメヅカ」

▼ 灘区役所「灘区の歴史」には、「津守氏が敏馬の泊を生活の中心とした」「津守郷は敏馬泊の津守がいたところで森、岩屋、味泥、大石、新在家の範囲内とする」と書かれている。平安時代初期に編纂された古代氏族名鑑「新撰姓氏録」に、渡来系氏族として津守氏の名がある。また、同じく平安初期の百科辞典「倭名類聚抄」には、律令時代に津守郷という行政区分があったとする。

▼ その「敏馬泊」の「泊」とは、港を表わす古代の黒潮系語族の言葉だ。沖灘祖語の宝庫である南西諸島に多く残されるほか、鹿児島、愛媛、鳥取、福井、富山、北海道など古代黒潮系語族の交易ルートにあたる村落に今も多く残る。神戸港(兵庫港)が、奈良時代に僧行基が作り平安時代に平清盛が整備した「大輪田の泊」と呼ばれていたことを知る人も多いだろう。

▼ 多くの地名研究者が、渡来氏族の名前から地名を解読しようとする。間違いではないかもしれないが、渡来人以前の人々の営みを考えるとき、猫も杓子も渡来人の名前を当てはめる地名研究は先住民族や黒潮系海洋民族に失礼だ。津守氏がいたから津守という地名なのではなく、黒潮系語族が持ち込んだ「泊」(tomari)が「津守」(tumori)に転訛したと考えるべきだ。

▼ 前回、味泥の「トロ」は、黒潮系語族の「トー」の転訛と書いた。「泊」には大和言葉の趣があるが、「トー」が動詞活用されて港を意味する言葉となったからだろう。味泥地域には求女塚古墳がある。ロマンチックな古代伝説が事実ではないことは、築造年代から明らかになっている。東灘区の乙女塚の所在地域が旧字で東明(とうみょう)であることから、乙女はもともと「トーメ」だったとする学説がある。これは西求女塚、東求女塚(旧字で住吉町求女)にもあてはまる。

▼ その学説では、東明地区は徳井から見て遠目であることから遠目の浜と呼び、それから東明になったという。一方、トーメという地名は沖縄に多く存在する。「当銘」「當銘」のほか、「當真」「当間」などもあてはまる。「当目」なら静岡や石川県能登にもある。黒潮系語族の言葉では、トーメの「トー」は「海を望むような開けた平地」だ。東明、求女、乙女、泊、津守は、「トー」で因数分解すると渡来人以前の人々息づかいが聞こえて来る。そして「東明」は、古くは「那古」という地名だった。ナゴといえば・・・

(つづく)



【沖灘地名学演習 補講】

「 『味泥』の『ミ』に『味』をあてたのは、西郷川下流の肥沃な土地だったので

おいしい米(ドロヒカリ)がとれたからだ、と古老は申しております」とのコメント。

ドロヒカリってすごいなあ。米どころだったというのは、登呂遺跡の例からもよく

わかります。米は半島系弥生人ばかりが持ちこんだのではなく、南海からの民が米と

ともにやってきて、海辺に大水田地帯を作って五毛や篠原に住み、半漁半農半漁の

暮らしをしたのです。古代沖灘人は、豊かで平和な生活をしていたのです。


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