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2007年6月26日(火曜日)

神戸出身、戦前最後の沖縄県知事

カテゴリー: - utinadanchu @ 04時13分12秒

「6・23慰霊の汽笛」神戸港、いや敏馬の泊でもぜひ

▼ 6月23日は、62年前に沖灘区のある沖縄本島で沖縄地上戦で日本軍による組織的戦闘が集結(軍司令官と参謀長が自決)し、沖縄がアメリカの手に落ちた日。15万県民が亡くなった沖縄県同様、神戸市沖灘区でもこの日を「慰霊の日」として公共機関は休業し、区民は戦争を語り継ぎ平和を希求する心を新たにしている。沖声灘語では、沖縄戦時の沖縄県知事で神戸出身の島田叡(しまだあきら)氏が消息を経ったとされる本日6月26日は休載とし(命日は7月初旬という説が有力)、6・23企画として「戦前最後の沖縄県知事島田叡の苦闘を歩く」「神戸港でも慰霊の汽笛を鳴らしてほしいキャンペーン」を行う。

▼ 前者は沖灘区設置以来の伝統行事。島田知事が日本軍の後退とともに南下しながら壕内行政を続けた首里から摩文仁への撤退路、殉職した具志頭にかけての道を訪ね、自らの遺志で沖縄の土となった故郷の大先輩を偲ぶ企画である。島田氏は神戸市須磨区生まれ。神戸二中(兵庫高校)出身。沖縄戦が迫る1945年2月、前任者が本土に逃げ帰ったため(山梨県出身で、戦後のうのうと復帰し香川県知事など経て1984年まで生きる。沖縄県知事在任期間の3分の1を本土で過ごすほか、住民の県外疎開を妨害し15万県民の業死につながった)、当時大阪府総務部長だった島田が内務省から沖縄県知事赴任の打診を受ける。「自分が行かなければ、誰かが行って死ななければならない」と、妻子を残し沖縄に赴任した。

▼ 島田知事は赴任して6月下旬に殉職するまでの5カ月間、爆撃後の県庁庁舎や沖縄本島南部の壕を転々としながら
 ・住民の疎開と安全地帯への誘導、イモなど夜間食糧増産
 ・危険を犯して自ら台湾に渡航し、米3千石を調達
 ・一切禁じられていた酒や歌舞音曲の自由解放
 ・軍司令部に県民救済のための諸策要求
 ・「玉砕」を強制する風潮にあって、投降して生き延びることを説いた
など、死を決定づけられた県民へ人間味溢れる行政を執った。前任者が本土への逃避ばかりを考えてまともな施策を全くしていなかっただけに、苦難の中での奮闘は実に鮮やかだったという。現在、平和祈念公園の一角「島守の塔」に、島田叡と、島田と行動を共にして殉職した荒井退造沖縄県警察部長、県民のため砲弾をものともせず働き職に殉職じた多数の沖縄県庁職員が顕彰されている。

▼ 毎年6月23日の正午から1分間、沖縄県下で消防署のサイレンと港湾に停泊する船舶の汽笛が鳴り、県民と沖灘区民は黙祷を捧げる。1分にわたる汽笛を聞く時、沖灘人は思わず母港神戸を思い、涙ぐむ。そこで復帰以来の兵庫沖縄友愛提携があり、復帰前には沖縄航路の税関や待合室、沖縄県人会館があった神戸港でも6・23に汽笛を鳴らしてもらい、ともに平和を希求する心を発信しようというのが後者の企画だ。来年の6・23での実現を目指す。なお、神戸では「神戸泡盛の会」(長谷川充弘事務局長)が毎年この日の夕方に集まり、黙祷している。

▼ ナダタマ読者ならご存知の沖縄民謡「通い船」「懐かしき故郷」の舞台であり、ウルトラセブンの脚本家・金城哲夫(沖縄・南風原出身)に「キングジョー」の名で愛情たっぷりに破壊された神戸港である。戦前戦後、仕事などで本土にやってくる沖縄県民は、那覇で船に乗って最初に上陸するのが神戸だった。古くは琉球王朝時代、琉球船が兵庫津と那覇を往復して琉球の品々や室町幕府時代の文物を運んだ。1月17日と6月23日に両港で汽笛が鳴ったなら、こんな嬉しいことはない。せめて6・23に神戸ー沖縄平和の汽笛が鳴ってほしいと願うが、神戸新聞は一緒にキャンペーンを張ってくれないだろうか。




沖縄本島南部、平和祈念公園の一角にある「島守の塔」。
神戸出身で戦前最後の沖縄県知事だった島田叡の慰霊碑だ。
知られざる存在だが、沖灘民族の先輩移住者として手厚い
うーとーとー(沖縄方言でいう拝み)の対象だ。
塔は1951年6月25日、沖縄県民の浄財で建てられたもの。

塔は、島田知事が多くの県民が亡くなってしまったことに
責任を感じ、軍幹部と一緒に自決しようと摩文仁で入った
「軍医部壕」の前に立っている。
(日本軍から「民間人はここで死ぬ必要はない」といわれ、6月26日にここを出て具志頭の
海岸沿いの自然洞窟内で自決されたよう)

塔の傍らに、兵庫県や神戸市から送られた追悼碑や竹中郁の歌碑などがある。裏手には兵庫県
出身の沖縄戦戦没者を祀る「のじぎくの塔」がある。
各都道府県の慰霊塔が「武烈」「散華」「勇魂」など戦死を賛美する響きの文言が多い中で、
「のじぎくの塔」は「もし沖縄戦の筆舌に尽くしがたい持久と玉砕がなければ、太平洋戦争も
別の経過をたどり、本土も上陸作戦による深刻な戦渦を受けることなしには終戦を見なかった
でしょう」と、沖縄が本土の盾になったことにも言及している。
兵庫と京都(宜野湾市嘉数高地)の碑が、もっとも戦争賛美がなく沖縄県民の苦しみにも触れ
たまともな碑文との評価がある。




2007年6月20日(水曜日)

沖灘語で解く「求女塚」

カテゴリー: - utinadanchu @ 02時02分37秒

沖灘地名学演習(3)「モトメヅカ」

▼ 灘区役所「灘区の歴史」には、「津守氏が敏馬の泊を生活の中心とした」「津守郷は敏馬泊の津守がいたところで森、岩屋、味泥、大石、新在家の範囲内とする」と書かれている。平安時代初期に編纂された古代氏族名鑑「新撰姓氏録」に、渡来系氏族として津守氏の名がある。また、同じく平安初期の百科辞典「倭名類聚抄」には、律令時代に津守郷という行政区分があったとする。

▼ その「敏馬泊」の「泊」とは、港を表わす古代の黒潮系語族の言葉だ。沖灘祖語の宝庫である南西諸島に多く残されるほか、鹿児島、愛媛、鳥取、福井、富山、北海道など古代黒潮系語族の交易ルートにあたる村落に今も多く残る。神戸港(兵庫港)が、奈良時代に僧行基が作り平安時代に平清盛が整備した「大輪田の泊」と呼ばれていたことを知る人も多いだろう。

▼ 多くの地名研究者が、渡来氏族の名前から地名を解読しようとする。間違いではないかもしれないが、渡来人以前の人々の営みを考えるとき、猫も杓子も渡来人の名前を当てはめる地名研究は先住民族や黒潮系海洋民族に失礼だ。津守氏がいたから津守という地名なのではなく、黒潮系語族が持ち込んだ「泊」(tomari)が「津守」(tumori)に転訛したと考えるべきだ。

▼ 前回、味泥の「トロ」は、黒潮系語族の「トー」の転訛と書いた。「泊」には大和言葉の趣があるが、「トー」が動詞活用されて港を意味する言葉となったからだろう。味泥地域には求女塚古墳がある。ロマンチックな古代伝説が事実ではないことは、築造年代から明らかになっている。東灘区の乙女塚の所在地域が旧字で東明(とうみょう)であることから、乙女はもともと「トーメ」だったとする学説がある。これは西求女塚、東求女塚(旧字で住吉町求女)にもあてはまる。

▼ その学説では、東明地区は徳井から見て遠目であることから遠目の浜と呼び、それから東明になったという。一方、トーメという地名は沖縄に多く存在する。「当銘」「當銘」のほか、「當真」「当間」などもあてはまる。「当目」なら静岡や石川県能登にもある。黒潮系語族の言葉では、トーメの「トー」は「海を望むような開けた平地」だ。東明、求女、乙女、泊、津守は、「トー」で因数分解すると渡来人以前の人々息づかいが聞こえて来る。そして「東明」は、古くは「那古」という地名だった。ナゴといえば・・・

(つづく)



【沖灘地名学演習 補講】

「 『味泥』の『ミ』に『味』をあてたのは、西郷川下流の肥沃な土地だったので

おいしい米(ドロヒカリ)がとれたからだ、と古老は申しております」とのコメント。

ドロヒカリってすごいなあ。米どころだったというのは、登呂遺跡の例からもよく

わかります。米は半島系弥生人ばかりが持ちこんだのではなく、南海からの民が米と

ともにやってきて、海辺に大水田地帯を作って五毛や篠原に住み、半漁半農半漁の

暮らしをしたのです。古代沖灘人は、豊かで平和な生活をしていたのです。


2007年6月12日(火曜日)

沖灘語で解く「味泥町」

カテゴリー: - utinadanchu @ 08時00分00秒

沖灘地名学演習(2)「ミドロ」



首里桃原町から慶良間を望む。桃原の「トー」と味泥の「ドロ」は、
古代海洋民族の言葉で海を望むような平地を指す共通語だ。

▼ 沖灘語の祖語であるヤポネシア語では、海を望むような開けた平地のことを「トー」と呼ぶ。黒潮系語族地名の宝庫、沖縄では桃原(トーバル)、当真(トーマ)、当銘(トーメ)などがポピュラーだ。濁音化したものに伊舎堂(イシャドー)、荻堂(オギドー)、志良堂(シラドー)、辺戸(ヘド)、上勢頭(ウエセド)など見られる。また民謡に登場する石垣島の廃村に、桃里(トーザト)がある。

▼ 南島地名研究センター「南島の地名」は、「トー」が音韻転訛し「トロ」「ドロ」となったとする。「味泥」の「ドロ」も、古代の「トー」が転訛したものだ。落合重信「地名に見る生活史」には「西郷川が砂泥を流し込み、次第に埋められていき、深泥の地となったので味泥と呼ばれた」とあるが(*)、泥という大和言葉が登場する以前の地名があったはずで、それは「トー」だったと考える。

▼ 古代の地名というのは、他地の人から見て付けられるものだ。海を移動する民族、あるいは篠原の高地に居住した縄文時代人が付けたのか。味泥エリアには、西求女塚古墳と敏馬神社がある。ともに古代では近畿の入口のランドマークで、賛美と畏敬の対象だった。西暦700年代の万葉歌に「八千桙の 神の御代より 百舟の 泊つる泊と 八島国 百舟人の 定めてし 敏馬の浦は 潮風に・・・」とある。

▼ 同じ時代の「摂津国風土記」逸文には、敏馬神社の祭神は船材を伐り出す山の女神だったと記されている。相当古い時代から、航海技術を持つ海の民に崇められていた。敏馬神社の地はかつては崖地だったといい、淡路島を真向かいに望むことも航海神に祀られた由縁という。外海へのボーダーであり漂流の民に南海の島への望郷の念を抱かせたこのエリアが、古代沖灘人の故里であることは間違いない。

▼ その証は、西求女塚の「求女」(モトメ)にも見ることができる。そして、先述の万葉集に登場する敏馬の浦の「泊」(トマリ)とは。

(つづく)


(*)鏡味完二「地名の語源」は、トロの項で「水の滞る所」とする。民俗学者の谷川健一は、「現代地名考」で「トロの地名は水のよどんだところをあらわす」。全国区の有名な例では、静岡県の登呂や三重県の瀞がある。


2007年6月5日(火曜日)

沖灘語で解く「大土平町」

カテゴリー: - utinadanchu @ 16時47分18秒

沖灘地名学演習(1)「オオドヒラ」

▼ 灘をはじめ神戸には、2000年前に南方ルーツの黒潮系語族が持ち込んだと思われる地名がある。これらを沖灘語とする。灘の旅人第22話が「大土平町」を特集したところで、「オオドヒラ」を沖灘語で解いてみよう。

▼ 「灘区歴史散歩」昭和50年版によると、「阪急六甲駅の北、市バス六甲登山口からケーブル乗り場へ行く道に音ケ平という字の地がある。大土ケ平あるいは大堂ケ平とも書かれているが、もと一王山十善寺がこの辺にあって全盛時代には寺房もあったのではないかと思われる」。この地域は、江戸時代からは油製造や酒用精米のための水車業も発展した六甲川沿いの傾斜地だ。西隣には、縄文時代人の高地性集落跡「篠原伯母野山遺跡」がある。

▼ なぜ山がちの斜面が「平」か。沖灘学では「平」は後世の当て字であり、「ヒラ」は傾斜地を示す南方語、海系民族の言葉とする。実際、沖縄では「坂」を「ヒラ」と読む。たとえば那覇では「識名坂(しちなんだーびら)」「ヒジ川坂(ヒジガービラ)」「ガジャンビラ」などあちこちに見られる。沖縄での「坂」は、日本語が移入されてからの当て字だ。平らな地は、大きく開けている場合は「パル」「ダー」、海沿いの沖積地や低湿地などは「トー」である。

▼ 地名をやたら半島系渡来人や当て字である漢字の意味から解くのが好きな、ひどい時は朝鮮語をあてはめたりする中央の歴史学界は、沖灘語での解釈を否定するだろう。だが、渡来人や漢字に原灘人の営みを惑わされてはならない。漢字が伝来するずっと以前に、ゴホウラ貝やイモ貝を携えて南から灘にやってきた人々の足跡が地名に遺されていることは、間違いない。

▼ 西灘第2尋常小学校(現稗田小学校)、現在の海星女学院にあった県立第一神戸商業を卒業し、高羽にあった神戸外大で教鞭を取った奄美系作家・島尾敏男などは、こうした南方からの流れを再認識する考え方を「ヤポネシア論」と名付けた。沖灘語はヤポネシア論を、歴史学では厳禁である「ロマン」と生活実感を添えて検証するものだ。

(つづく)



沖縄にあるヒジガービラ


【沖灘比較文化演習B■ウラオモテ 補講】

 「私は“てってのて”のあとは“ててらのて”でした」というコメントをいただいた。

 沖灘語学における「浜言葉巻き舌音の法則」によると、「N」音は浜のテンションで弾き音「r」

から巻き舌音に変化ことが確認されています。全国的に浜側ではこの傾向があるようです。


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