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2007年4月24日(火曜日)

灘は指笛文化圏だった

カテゴリー: - utinadanchu @ 16時05分49秒

沖灘比較文化演習A■指笛(1)



人さし指と親指の爪が合わさったところを
舌先の上にのせる。舌には力はいれない。



▼ 沖灘区は、「笛文化圏」に属する。竹笛を作り、民謡から労働歌、賛美歌まで奏でる。指笛は、自分の手がつば臭くなるからといって、他人の指で鳴らす異習もある。沖灘人のルーツのひとつ、沖縄・奄美地方の指笛はよく知られるところだ。もうひとつの母郷、灘区ではどうか。


▼ 意外かもしれないが、灘区の中央エリアでは昭和時代まで、小中学生時分に先輩が後輩に指笛を伝授した。「指笛文化圏」だったのだ。伝授というより、指笛が吹ける先輩のカッコよさをマネしたい一心で、自分で鳴らし方を開発したものだ。残念ながら、現在では灘区の指笛は絶滅してしまっていると考えられる。


▼ 鳴らし方を再現しよう。どの指でも鳴るが、人さし指と親指で丸い輪を作ったものが音が出やすい。自分が小学校時代に伝授されたスタイルは、舌を「r」の発音の形にし、舌先の少し下側に人さし指と親指の爪が合わさった部分をあてて、指の腹で下唇をやや押す形にするものだ。


▼ 一気に息を吹き込むのではなく、ポイントに息を当てる感じで音を出す。自分は人さし指と親指の爪がうまく合わないので、中指を使った。ところが、沖縄では舌先に爪が合わさった部分をのせ、そこに息を当てるやり方だった。ポイントを探すのが難しいが、この方が慣れれば高音でクリアな音が鳴る。


▼ 篠原南町、神前町あたりの指笛がもっとも美しかった。琉球諸島出身者が多いエリアと重なることから、灘の指笛ルーツも沖縄・奄美に求められるのかもしれない。大人になると口に手を突っ込むことに不馴れであり、指も太くなっているので指笛はなかなか難しいが、「灘の指笛」を見直したいもの。

(つづく)



【解説】
「賛美歌」
八重山民謡は、構造的に賛美歌と共通する。

「伝授」
自分は「宇根元君」という友人に伝授された。

「r」の発音の形
舌先は口蓋につけなかったと思う。

「沖縄では」
この方が口笛同様に強弱もつけやすい。

「琉球諸島出身者が多い」
戦前は沖縄、戦後は沖永良部出身者が多かった。


2007年4月17日(火曜日)

灘から冊報使一行来たる

カテゴリー: - utinadanchu @ 18時56分47秒

沖灘史学概論A■交易史3



今回の灘冊報使来訪で取り引きされた沖灘の品々。島にんにく、イーチョーバーなど見える。
「黎明」は、沖灘で作られる日本最南端の清酒。「うふくるー正宗」と交易された。


▼ 灘地方を中心とした六甲山南麓と勝連半島を玄関とした沖縄島の交流が、実に2000年以上前から存在したことは前回述べた。現在も灘と沖灘を結ぶ定期航路で、多くの灘僑と琉僑が行き交う。かつて琉球王朝と中国が冊報体制で結ばれ交易が行われたように、灘と沖灘では今も毎月交互に進貢貿易が行われている。沖灘から灘に進貢使が、灘から沖灘には冊報使が、それぞれの地で生産される貴重な品々を携え来訪するのだ。

▼ かつては縄文から弥生時代にかけ、灘の豪族が富と権力の象徴として身につけたゴホウラガイやイモガイの貝輪、沖灘での祭祀道具となった青銅器が交易品として行き交った。現在は南西諸島産でビタミンや抗酸化物質に富んだ島野菜や薬草、互いに産出する酒、本土では最先端の風味とされるパン・洋菓子類などが往来する。

▼ 4月13日から16日まで、2007年度最初の冊報使5人(使節長・おもろまち恵憲)が沖灘を訪れた。一行は首里城から真西に2・2キロにある沖灘区の迎賓館「パヤオ」で対面式を行った後、饗応館「御殿東大(うどぅんあがりうふ)」で沖灘料理と沖灘民謡で歓待を受けた。翌日から沖灘北部・備瀬地区の海岸に滞在し、灘では貴重なモズクの採取や薬菜類の交易を行った。毎年のこの時期に行われる先祖供養行事「清明祭(しーみー)」を灘・沖灘先祖合同で、また年1回灘で行われる沖灘芸能祭の合同練習も行われた。

▼ 冊報使が持ち帰ったり灘に直送された沖灘産品は、毎月第1火曜日に灘区水道筋の沖灘駐留施設「通い船(かゆいぶに)」で振る舞われる。一方で、今回の冊報使が沖灘にもたらしたものは、沖灘では手にはいらないドイツパンや、沖灘では「うふくるー正宗」として珍重される貴重な灘酒と酒粕など。冊報使の来訪や進貢貿易が近隣の沖縄県への経済波及効果に大きな影響を与えていることは、もちろんのことである。

(つづく)



【ホントノハナシ】
「冊報使」
琉球王朝では1327年の遣明船派遣を端緒に、中国への入貢は歴代王を通して不断に続けられた。
朝貢してきた国に対し貿易を許可するという中国の「冊報体制」に応じ、琉球王朝は南海貿易と
合わせて大交易を行った。琉球王府の王の交代ごとに中国から冊報使が来沖し、琉球側では長期に
わたり歓待した。これらの往来を通じて多くの文物が出入りした。

「灘と沖灘の進貢貿易」
最近6カ月の使節往来は次のとおり。
 9.29 灘→沖灘 3人
 10.19 灘→沖灘 1人
 10.22 灘→沖灘 3人
 10.28 沖灘→灘 2人
 12.21 沖灘→灘 2人
 12.29 灘→沖灘 1人
 1.1 灘→沖灘 2人
 1.4 灘→沖灘 2人
 1.20 沖灘→灘 2人
 1.27 灘→沖灘 2人
 1,29 灘→沖灘 1人
 2.5 灘→沖灘 6人
 3.4 灘→沖灘 1人
 3.10 沖灘→灘 2人
 4.13 灘→沖灘 5人

「ゴホウラガイ、イモガイ」
前回参照のこと。

「清明祭」
琉球王朝時代に中国から伝わる。旧暦3月「清明節」に沖縄本島を中心に行われる。4月の土日、
門中墓に一同が集まり、清掃のあとたくさんの重箱料理を供えて祈祷し、「うさぎむん」として
みんなでいただく。ピクニック的に考えられていることもある。お供えのお菓子として「白もち」
「餡もち」のほか、「レモンケーキ」は必須。
県立御影高の同窓会を「清明会」という。校訓に「清明」が盛り込まれている。

「うふくるー正宗」
大黒正宗



●沖灘民謡散歩
「唐船どーい」
唐船(とうしん)どーい さんてーまん 一散走(いっさんは)ーえ 
ならんしやー ユイヤナー 
若狭町村ぬ サー 瀬名波(しなふぁ)ぬ たんめ
ハイヤセンスル ユイヤナ

沖縄のカチャーシーやエイサーの定番であり、最も盛り上がるこの曲は、
中国からの冊報船が那覇港に着き街中が大騒ぎになる様子を謡っている。
1400年代、最大の貿易港だった兵庫津には中国船のほか琉球船も出入り
しており、幕府や有力大名向けの琉球の物資が下ろされた。
応仁の乱後は荒廃した兵庫を通過し、灘沖を通って堺に向かった。
鮮やかな琉球船を見た灘人たちは、きっと「琉船どーい」を踊っただろう。

聞きごたえがあるのは地元レーベルのマルフクレコード「七月エイサー」
の実況録音版か、ネーネーズ「IKAWU」(アカバナーレコード)での
メドレー。沖灘人でなくともサブイボが立つような高揚感がある。


2007年4月10日(火曜日)

勝連系平家伝説と沖灘人

カテゴリー: - utinadanchu @ 03時02分42秒

沖灘史学概論A■交易史2



「平家伝説と六甲山南麓交易」勝連グスクから中城湾越しに首里方向をのぞむ。
どことなく六甲から見る大阪湾のよう


▼ 実はそれより600年前、源氏に追われた平家の落武者が敏馬の浜から倭冦の航海術をもって南西に逃れ、沖縄本島の勝連半島に上陸し沖灘に流れ着いたという説がある。源氏の過酷な追手をのがれて深山の奥深く、あるいは島嶼部に逃れひっそり暮らした一派であるという★1

▼ 後に琉球を統一し首里に王府を起こした中山王の祖で、琉球史上初の国王といわれる舜天王は、源為朝の子供という伝説がある★2。一方、勝連半島で力を蓄え★3、1458年に反乱を起こして首里を脅かした勝連グスクの豪族、阿麻和利は平家の末裔だとする人もいる。北琉球で北山王の支配下にあった奄美には、平家落人伝説のある集落が実在する★4

▼ 司馬遼太郎史観に慣らされた日本人は、沖縄にまで源平ロマンを持ち込んで学者から批判されるが、実は平家上陸伝説はあながちデタラメというわけではない。実は、古代この地には遠く兵庫・灘地方を東端とした海の交易があった★5。高度な船舶航海技術や宋から遠くペルシャまで交易テリトリーを持つなどの理由から、平家そのものが倭冦であるという説もある

▼ 沖灘区には現在、笛と胡弓が普及する。遠い昔、平家の公達がたしなんだ横笛★6と琵琶★7が沖灘の地で今に伝わるものとされる。須磨の戦場で死ぬ真際まで雅楽を奏し、東国の田舎武者を感嘆させたという誇りを南の島の落人集落に伝えたものという。沖灘では、600年前に琉球から兵庫津、灘経由で京都に伝わったとされる三線も盛んだ★8
(つづく)



【ホントノハナシ】
★1 平氏は1180年、半年で福原京を捨て京都に戻ったのち、木曽義仲に追われ京都も捨てた。
1184年、再び安徳天皇と生母建礼門院を奉じて福原に入り生田森に大本営を置いたが、一の谷
から急襲した源義経軍と生田川東側に陣取った範頼の軍に破れ九州方面に敗走。さらに破れて、
源氏の過酷な追手をのがれて深山の奥深く、あるいは島嶼部に逃れひっそり暮らしたという。

★2 沖縄では、源為朝が上陸し舜天王になったという話は、伝説としながらも多くの歴史本に
載っており、県民の支持を得ているといえる。ルートは保元の乱に敗れ伊豆に流刑後、今帰仁に
上陸したというのがオーソドックスである。上陸地の「運天(今帰仁村)」は、為朝が運を天に
まかせて到着したことにちなむとされ、彼が再び京を目指して出航したという「牧港(浦添市)」
は、残された妻子が帰りを待った港として「まちなと」の名がついたという。
沖縄で名前の頭に「朝」の文字をとる家系が多いのは、為朝伝説にあやかったものともいわれる。

★3 首里の尚泰久に阿麻和利が滅ぼされるまで勝連地域の支配者は独自の勢力を持っており、
付近では宋や明の財宝がかなり出ていることから、12世紀にはこの地域に倭冦が入っていたこと
は想像できる。琉球王朝が16世紀ごろ編纂した古謡集「おもろさうし」では、15世紀に詠まれた
とされる勝連地域と 阿麻和利を賛歌する中で、勝連地域を京都や鎌倉にたとえている。

★4 奄美群島のその集落では、平家ゾーンと一般ゾーンは道をへだてて左右に分かれるといい、
奄美では平姓がもてはやされるという話もある。★3の「おもろさうし」には、勝連と奄美との
交易や経済活動を謡ったものも見られる。このことから、勝連に平家が上陸したとしたら、奄美
経由だったことも十分に考えられる。

ちなみに沖縄にも平のつく姓は多い(平良、平良川、平良山、平安、平安山、平安名、平田、西平、
川平など)。古語の「ひら」と「てぃら」から発生したが、前者は「坂道」を表し、後者は「聖地」
表すという。沖縄の寺(てぃら)は、寺院というより尊い地という意味があり、神社が置かれている
こともある。琉球王朝時代に建てられた沖縄の神社は15世紀の室町時代にはすでに創建されており、
祭神は熊野権現か八幡である。平氏や倭冦、瀬戸内海航路、兵庫津、京都五山との関係を感じる。

★5 古代に遡れば、琉球でしか採れないゴホウラ貝で作られる弥生時代の装飾品の貝輪は出土の
最東端が神戸・夢野遺跡であり、勝連城近くの宇堅貝塚で出土した古墳時代の漢式三角翼鏃は芦屋・
会下山遺跡でしか出土していない。相当古い時代から六甲山南麓と沖縄・勝連の間に交渉があった
と考えられる。
(写真はゴホウラ貝と同じく腕輪として使用したイモガイ=勝連・宇検貝塚出土。イモガイは女性
しか使用しなかったという)



一方で、灘区篠原中町2丁目の縄文遺跡は、東北で多く出土する遮光器型土偶の最西端出土地である。
これらのことから、古代灘地方は東西文化、極論すればアイヌ・南島文化の交接点だったといえる。

★6 一の谷で破れた平家の公達で、平経正・敦盛兄弟が音楽に秀でていたことは有名だ。経正は
琵琶の名手で、兵庫の清盛塚のとなりの琵琶塚に眠るとされる。敦盛は、錦の袋に入れた「小枝
(さえだ)」という横笛を腰にさして戦に臨んだ。戦場に笛を携えるという風流な心根は、ガサツ
で無骨な東国武者の心を打ち、泣く泣く打ち取ったという美談が今に伝わる。須磨寺には、敦盛の
所持と伝わる「青葉の笛」が伝存している。

★7 桃山時代、琉球に「らへいか」(レベック)という琵琶に似た擦弦楽器があったという記録
が存在する。また、ポルトガルの宣教師が持ち込んだレベックが織田信長の前で演奏されたという
記録もある。
琉球胡弓は、日本からのレベックの流れと東南アジアから椰子の実の胴を持つ擦弦楽器の両方の
流れをくむとされる。

★8 三線については、本土の三味線は16世紀に琉球から大阪・堺に入ったという記述が現存する
最古の記録にあるが、それ以前の時代に堺以上の国際貿易港だった兵庫津から入っている可能性
高い。琵琶は、桃山時代に三味線に変わっていったとされる。

参考文献「日本の古代遺跡 沖縄」保育社、「沖縄県の歴史」山川出版社、「兵庫県の歴史」同、
外間守善「古典を読む おもろさうし」岩波書店、灘区役所まちづくり推進課「灘区の歴史」



●沖灘区散歩ガイド
「パーラーダボ」
沖縄県中頭郡嘉手納町字屋良682-7
那覇から58号線嘉手納ロータリーを越え、比謝川の手前を右折して嘉手納高校近くになると、右手に「冷やし物一切 パーラーダボ」の看板。yahoo地図情報にもちゃんとレストランとしてのっている。神戸っ子、灘人にはたまらないお店。沖縄ぜんざい200円、紅いもパイ100円



2007年4月3日(火曜日)

海のかなたのユートピア

カテゴリー: - utinadanchu @ 02時40分21秒

沖灘史学概論A■交易史1

▼ 沖縄区の歴史をひもとこう。平和だった縄文時代から弥生時代になったころ、灘区篠原・中ノ島遺跡★1界隈の灘縄文人は、大陸からの渡来人進出や倭国の大乱で篠原伯母野山の高地★2に逃れた。当時の人々は、現在の山手幹線篠原2丁目バス停★3の橋あたりから六甲川の流れる方向を眺めては、河口の灘浜のずっとずっと南西の沖合に思いを馳せた。そこには、灘縄文人の故郷であり、ユートピアである「おきなだ」がある。彼らは六甲川が都賀川、大石川となって海に注ぎ、黒潮に逆らって沖灘島まで海の川がつながっていると信じた。

▼ 時代が過ぎ、江戸時代、当初の尼崎藩から畑原村と鍛冶屋村が天領になり、篠原村や河原村などは徳川の小役人どもにいいようにあしらわれていた★4。1769(明和6)年、突然の上知令で酒造、製油が盛んだった岩屋、味泥、大石、徳井の各村は取り上げられ、本年貢やさまざまな雑税を大坂の代官に搾り取られた★5。幕府の搾取と綱紀の乱れ、ご都合主義的な官僚主義に嫌気がさした灘人たちは、先祖から伝わる沖灘伝説を信じ、灘縄文人の故里で灘酒を作ろうと灘浜から樽廻船を持ち出して南西に漕ぎ出した。

▼ 伝説どおり六甲川(都賀川)をまっすぐ南西に、ひたすら漕ぐこと30日間。540海里、ちょうど1000キロのあたりで、ついに彼らは六甲山と非常によく似た味がする水★6が地下から溢れ出る島を発見した。その地は花崗岩ではなく石灰岩ではあったが、ほどよい硬水であった。この島では東南アジアや中国と広く貿易が行われ、シャム国から米を輸入して酒を作っていたのだった★7。その風味は、どことなく灘酒を思わせるものだった★8
(つづく)



【ホントノハナシ】
★1 篠原本町3・4丁目の縄文遺跡。この界隈には篠原中町2丁目、同6丁目にも縄文遺跡があり、
東北産の土器や土偶の最西端出土地である。次回以降で述べるが、現時点の沖縄産貝輪(弥生期)の
最東端出土地が兵庫区であるところから、南北の影響圏のへりにあたったのかも。

★2 弥生中期の篠原伯母野山遺跡。この時期には六甲山南麓では各地に高地性集落が出現し、桜ケ丘
遺跡(灘区桜ケ丘町)からは銅鐸が14個出土するなどしている。近年、開発の嵐にさらされている。

★3 いつのころか、みなと神戸海上花火大会(ポートアイランド)を眺めるスポットとなり、花火の
大輪の向こうに沖灘を重ねるようになった。現在は花火がメリケンパークに移ったので、ここからは
方角が異なる。

★4 畑原村と鍛冶屋村が天領(直轄領)に、篠原村と河原村の一部を天領に編入、篠原村と河原村で
残った部分は領主に与えられた。藩主をころころ替えられたあげく、上知令で公収された。幕府直轄に
なると、役人が出入りするようになり綱紀が乱れたという。

★5 灘の人々は、それまでの尼崎藩役人から大坂町奉行や谷町代官所の代官を相手にしなければ
ならなくなった。しかも代官所は午後3時に営業修了で、現代の銀行並み不便だったとの記録がある。

★6 各水の成分は以下のとおり
          ph  カルシウム マグネシウム ナトリウム カリウム
 ・宮水      7.0  37.1    5.6     32.1    19.7
 ・沖縄本島の水  7.0  35.4    6.1     25.2    2.2
 ・日本平均目安  ー   8.8    1.9      6.7    1.2
 ・世界平均目安  ー   20.4    3.4      5.8     2.1

このデータから、とくにカルシウム、マグネシウムなどミネラル分において宮水と沖縄本島の水が似て
いることがわかる。水の中のミネラル分が食塩の害を消すので血圧が下がり、これらの水を飲む地域は
長寿とされる。このほか宮水はリンが多く含まれることが特徴。沖縄では八重山の波照間島の地質に
リンが多いので有名。また、石垣島の地質には琉球石灰岩のほか、六甲山と同じく花崗岩質がある。

★7 泡盛は琉球王朝時代から貿易で得たタイ米を使って作られる。最近になり、島米で作られるもの
も出てきた。

★8 沖縄で昔から最もポピュラーな灘酒は、剣菱である。かつての辛口が泡盛に似ていて親しみ深い
という。

参考文献 灘区役所まちづくり推進課「灘区の歴史」、中尾進彦「灘の酒」、杜山悠「神戸歴史散歩」、
遠山英一「沖縄の水とその環境」

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●沖灘区散歩ガイド
マンション六甲【建築】=那覇市金城町
首里城から金城町への石畳を下り、赤マルソウ通りを左折して首里崎山の方に坂道を上っていくと「マンション六甲」がある。たしかにこのあたりの雰囲気は、六甲台とどことなく似ている。このマンションの道を逆方向に行けば、途中に六甲ドライブウエイを模したかのようなS字カーブもあるのだ。
この界隈は昔から酒づくりに適したきれいで豊かな水が湧くため、数多くの酒造会社が集まっていた。まさに沖縄の灘である。現在は瑞泉酒造、咲元酒造、識名酒造が蔵を置く。
ちなみにマンション自体はかなり古い。


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