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        <title>灘の旅人</title>
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        <description>灘の旅人</description>
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            <title>第88話「備後町」</title>
            <description>	
また1年ぶりの更新となってしまった。
	備後町である。
成徳小学校あたりからウェルブの1番館（西側の高層棟）あたりまで、東西に広がる。
	備後町の備後は、備後堂というお堂に由来するそうだが、定かではない。
備後国（広島県の福山や尾道あたり）に縁があったのだろうか。
	備後町1丁目には、成徳小学校がある。
かつてこのあたりにあった成瀬村の「成」と、徳井村の「徳」を取って「成徳」となったという。
	合成地名のわりに、聖人君子の雰囲気だ。
	アニメ『火垂るの墓』に登場する小学校が、
かつての成徳小学校をモデルとしていることはよく知られている。
	野坂昭如が住んでいた中郷町は、備後町のすぐ隣だ。
	震災後のマンション建設ラッシュを反映し、
校庭にプレハブ校舎が建ったのは、ずいぶん前のような気がする。
	卒業式シーズンである。
	このプレハブ校舎も、子どもたちにとっては、
思い出の学舎になっているのかもしれない。
	成徳小学校あたりから六甲道駅の方を眺めると、
マンションが幾層にも重なり合って見える。
	巨大な山脈を仰ぎ見ているような気分だ。
	灘温泉六甲道店や西病院がある備後町3丁目を西へ歩き、
六甲道駅南のイタリア広場に出る。
	ピラミッドのようなものがある広場の北半分が備後町で、
ジャンプ台のようなものがある南半分は桜口町ということになる。
再開発事業の影響だろう。
	境界線と思われる位置から広場を眺めてみたが、
たくさんの子どもたちが無邪気に遊んでいるだけだった。
	希薄化した境界線は、グローバルな現代社会を彷彿とさせる。
	平和の足もとに埋まる過去に、時折、想いを馳せるのがよい。

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            <title>第87話「琵琶町」</title>
            <description>	今日が3月11日なので、琵琶町の記事を書く。
	先週、カメラを抱えて琵琶町をウロウロとしていたら、
	2号線沿いにあるバイク屋「一井サイクル」のおっちゃんが声をかけてくれた。
	「震災の時の写真がある」というので、提供していただいた。
	（一井サイクル提供）
	17年後の現在、同じ場所を、同じように撮ってみた。
	琵琶町の被害や震災の影響については、たとえば東京大学によるアンケート調査の結果が公開されているし、震災後の復旧を定点観測した写真集も作られている。
	震災復興の区画整理事業についても、多くの報告がある。
	震災で焼け野原になって、たくさんの方が亡くなって、区画整理事業をやり遂げて、今の琵琶町がある･･･と書けば、言葉の空虚さが漂うばかりだ。
	町を通り過ぎるだけの人間には分からないけれども、思いを馳せることはできる。
	それが何の力にもならないとしても。
	琵琶町に立って、3月11日の被災地に思いを寄せてみる。
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            <title>第86話「日尾町」</title>
            <description>	
日尾町を、というよりも灘区を離れて半年が経つ。
	日尾町に住んで10年が経った昨夏、灘区を去ることになった。
	思いがけない形で、灘区を巡る短い旅に一区切りがついてしまったかに思えた。
	しかし、さほど遠くに移ったわけでもないので、
	事情が許す限り「灘の旅人」は続けたいと思い直してみて、2年ぶりに更新してみる。
	日尾町に住むことにしたのは、阪急六甲とJR六甲道の、
	ちょうど中間あたりという立地が気に入ったからだ。
	（後輩が同じマンションの隣の隣の部屋に住んでいたから、という別の理由もあったけれど･･･。）
	山手幹線より山側の雰囲気も醸しつつ、
	阪急六甲というよりは、庶民的な雰囲気を残しつつ、というバランス感覚。
	山手と浜手の遷移地帯のような、中の手の雰囲気。
	八幡神社のお膝元感もあるし、だんじり倉庫もある。
	ケーキ屋のモリナカはいつも繁盛している。
	モリナカの向かい側にあるコインパーキングには、
	かつて「クラブミレー」があった。
	灘区を離れてみて、改めて思うが、こういう密度の高い混沌というか、
	コントラストが強めに「いろいろある」ということは、大きな魅力だ。
	この日尾町（ひおちょう）という町名、意外と言いにくい。
	電話で住所を伝える時、知らない人からは「ヒヨチョウですか？」と、何度も聞き返される。
	仕方なく「お日さまの日に、しっぽの尾」と言わないと相手に通じない。
	全国的に見れば、日尾の地名は散見される。
	「日尾」の字を冠した神社もあり、「日王（神道における太陽を祀る神官）」に由来するという説もあるが、日尾町の日尾がそれなのか、定かではない。
	この日尾町にも、山手幹線拡張の波は押し寄せ、
	愛すべき定食屋やジーンズ屋がいくつか姿を消し、
	その代わりに、山手幹線がデップリと太った。
	日尾町、しばらく見ない間に痩せたような気がした。
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            <title>第85話「稗原町」</title>
            <description>	
歴史的には、稗という植物は救荒作物として知られる。
だが「これが稗か。。」と眺めた記憶はないし、まして飢饉を体験したこともない。
	ナダ区民にとって稗原の地名は、「放置自転車や原付の保管所」がある場所として、
聞き覚えがあるかもしれない。
	ちなみに水道筋商店街の南にある稗田小学校や稗田公園は旧稗田村に由来するが、
「稗田町」という町名はない。稗原町は六甲道の西にある。
	六甲道の山側、山手幹線の海側を東西に貫く「神若線」を都賀川方面に向かう。
普通の住宅街かと思いきや、こだわりの店、わがままな店が軒を連ねる。
	稗原町には、公園が多い。
1丁目から3丁目までの間に、4つも公園がある。
むつみ広場、ひょうたん広場、稗原町公園、そして高架下には睦市民公園。
	とりわけオススメは高架下の睦市民公園である。
雨の日も雪の日も、滑り台やブランコに没頭できる。
	このブランコに座って橋脚を見ていたら、震災を思い出す人もいるかもしれない。
	もうすぐ16年目の1月17日がやってくる。
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            <title>第84話「原田通」</title>
            <description>	
旧原田村の、原田通である。
原田の「原」には、開墾された土地という意味があるという。
	さて。まずは王子神社である。
	王子神社はかつて、「原田神社」と呼ばれていたという。
入り口の標石側面には大々的に「元原田神社」と彫り込まれているし、
高林神社という神社と合祀されたという話などもあり、なにやら複雑な歴史を匂わせる。
	最近、パンダのコウコウが急逝したという悲しいニュースが流れた王子動物園は、
道路を挟んで原田通の山側にある。
	この王子動物園の「王子」は、もちろんこの「王子神社」に由来する。
由来する、というよりも、動物園の敷地が王子神社の鎮守の森みたいな「原田の森」だったわけで、
キリスト教系の関西学院大学だって、元は「原田の森」にひょっこり生まれた大学だし、
京都の下賀茂神社にある「糺の森」と同じぐらい、霊験あらたかな原田の森なのだ。
	最近では「○○王子」全盛の時代だそうで、ハンカチだのハニカミだの腕立てだのポッチャリだの、
何でもかんでも王子王子だが、このあたりじゃ700年ぐらい前から王子権現が祀られているのだ。
	あれやこれやの歴史の話は置いといて、
とりあえず、この稲荷社の床下に佇む狐像の存在感はどうだろう。
	王子動物園に暮らすマヌルネコを彷彿とさせる佇まいである。
（体型はずいぶん違うけど。。。） 
	原田通は、灘区屈指の観光地である王子動物園の門前町・・・ではない。
動物園なんて知らん、というほどの存在感がある場所を、駆け足で紹介したい。
	王子街園のフェニックス
	景山医院。
	銃砲･火薬。
	 そして「原田の森ギャラリー」（前兵庫県立近代美術館）。
1970年竣工というが、40年の歳月を感じさせない。村野藤吾の作品。 
	原田通は、木々の緑、白い壁、青い空のコントラストがやけに印象的な町だった。
	次回は稗原町。

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            <title>第83話「浜田町」</title>
            <description>	
浜田町、というぐらいなので、かつては海辺であったことは間違いない。
	旧八幡村が海とつながっていた、唯一の場所でもある。
	浜田町の丁目の並びは、ちょっと不思議だ。
	浜田町は、阪神新在家駅から南東方向に広がる、およそ200メートル四方の区画だが、
	南東側4分の1が1丁目、北に上がって43号線の北側に2丁目と3丁目、
	再び43号線の南側に渡って、区画の南西部分が4丁目となる。
	浜田町2丁目、浜田公園を東に望んだ直線上には、阪神石屋川駅がある。
	細長い公園は、かつて阪神電車が走った名残である。
	季節柄、公園ではちょうど盆おどりの準備が進んでいるところだった。
	43号線の頭上には阪神高速が聳え、運河の南側には神戸製鋼の製鉄所が広がる。
	巨大な構造物や工場と隣り合うため、住宅と工場が混ざり合う浜田町の人間臭さが心地よい。
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            <title>第82話「畑原通」</title>
            <description>	
畑原村の名の由来は、字義通り、畑の原であったと思う。
梅雨のど真ん中ではあるものの、昨日降った土砂降りの雨が、傾斜のある溝の底をちょろちょろと流れる。
水が残らない扇状地に水田を作るのは困難なことだ。
	畑原のだんじり倉庫がある平五郎稲荷大明神あたりから、畑原通が始まる。
阪急より南にある畑原市場とは離れているが、このあたり一体が畑原村であった。
	天神さんの鳥居から路地を西へ抜ける。
縦筋を横切って、また路地へ。
「畑原の小径」とでも名付けたくなる、路地ワンダーランド。
	空観堂は摩耶小学校の西隣にある。
空観上人を祀るお堂には、文字が書かれた大小さまざまな石が敷き詰められている。
	祈祷によって人々を病から救ったという空観上人。
念ずれば通ず。願いは叶う。
石に願いを込める人々の思いを、空観上人は今も静かに受け止めている。
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            <title>第81話「灘南通」</title>
            <description>	
灘南通から見る摩耶山がいい。
近からず、遠からず。
	数百万年前から続く六甲変動が生み出した、鋭い稜線が美しい。
	今は線路跡が遊歩道になってしまったが、灘南通は、臨港線の始点となった貨物東灘駅の南にある。
	ならば「東灘南通」になるかと思うが、そう単純な話でもない。
	『坂の上の雲』の舞台となる日露戦争が起きた1904年（明治37年）、この地に「灘信号所」が作られた。
	1907年（明治40年）には、貨物線の整備に合わせて「灘聯絡所」となる。
	そして現在の灘駅開業より先の1910年（明治43年）、「灘駅」の名を冠した貨物駅が設置された。
	ところが、1917年（大正6年）に現在の灘駅が作られたために、その東側にあった貨物「灘駅」は「東灘駅」と名前を変えた。
	戦前戦後は貨物駅としての役割を果たした。
	1972年（昭和47年）には貨物取扱廃止に伴い「東灘操車場」となり、さらに「東灘信号所」と名前を変え、2003年には臨港線が廃止された。
	灘に歴史あり、灘南に灘駅あり、である。（※現行の灘駅は岩屋北町です）
	灘駅ができたからと、「灘駅」の名前を譲って、自ら「東灘駅」を名乗るところなど、なにやら奥ゆかしい灘区民気質ではないか（という気がする）。
	そんなこんなで、灘南通は、海港都市コウベを感じる絶好の場所の位置しているのだ。
	歴史を踏まえれば、西灘村に東灘駅があったのも無理からぬことのようにも思えてくる。
	（※東灘区の編入は昭和25年なので、その頃から「灘の本拠地論争」は余計にややこしくなってくる・・・。）

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            <title>第80話「灘浜東町」</title>
            <description>	ウェブによって身近に使えるようになった衛星写真を眺めると、大阪湾の北に、一箇所だけ「赤い島」を見つけることができる。
	「神戸市灘区灘浜東町」、もとい神戸製鋼所の「神戸製鉄所」である。
	（※衛星写真）
	昭和34年（＝1959年）、新在家の海が埋め立てられてから、50年が経つ。
	赤い島は、今も線材や棒鋼の生産を続けている。
	十年以上前、灘区に住み始めて最初に覚えたランドマークが、神戸製鋼所の紅白煙突だった。
	総出力140万キロワットの石炭火力発電所建設に伴い、120メートルの紅白煙突は輪切りにされてなくなった。
	そして今度は、撞木を2本束ねたようなのような150メートルの灰色煙突がニョキニョキと生えてきた。
	ところで、この赤い島には、「火喰い竜」と呼ばれる怪物が棲む。
	2500度に達するという高炉の底には、「サラマンダー」（火喰い竜、もしくは火トカゲ）と呼ばれるドロドロに溶けた鉄鉱石の残渣が溜まるのだという。
	数年前に行われた高炉の改修工事を追ったドキュメンタリーは、「灘浜サイエンススクエア」で見ることができる。
	ナダの火喰い竜、そんな物語が灰色の煙突から吹き上がる。
	世界中の自動車の2台に1台は、ナダの火喰い竜が棲む高炉から生み出された部品を使っているのだ。
	日本最小で世界最高効率の高炉は、今も灘浜で熱く煮えている。

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        <item>
            <title>第79話「灘浜町」</title>
            <description>	
ハードボイルドとは元来、硬く茹でた玉子のことを指す。
	転じて、感情に流されず、時に冷徹で、時に無慈悲な男たちを描いた文学や映画がハードボイルドとされる。
ヘミングウェイ、ゴルゴ13、カサブランカ、舘ひろし。
	灘浜町は、ハードボイルドな空気が満ちた場所だ。
	マッチョな風景、とでも言い換えてもいいだろう。
	岸壁、クレーン、廃棄物運搬船、赤潮、セメント工場。
広大なガソリンスタンド、コカコーラ、人造アルコール工場。
遠景には製鉄所、発電所、艀、湾岸線、コンテナ、倉庫群。
	もし、灘浜のハードボイルド感を満喫したい人がいたら、
トレンチコートを着て、灘浜の岸壁を全力疾走してみたらいいと思う。
	でも、君のハードボイルドに危険を感じたサビキ釣りファミリーが通報したら、
本当にハードボイルドな警官たちがやってくるかもしれない。
	灘浜はすべて、昭和15年に埋め立てられた土地だ。
	埋め立てという考え方自体が、ハードボイルドである。
	それから70年近く経ってもなお、剥き出しのクレーンや愛想のないコンクリートが似合う町だ。
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