昨年は太平洋戦争の敗戦から六十年であった。そして今年は太平洋戦争の開戦から六十五年にあたる。
太平洋戦争末期の空襲では、もちろんこのナダの町も戦禍を蒙った。だが、今日、そうしたことは街角を歩いていても、表立っては私たちに見えてはこない。
今回取り上げるのは、今日も街角で生き続ける、あの空襲の惨禍から甦ったある1軒の邸宅である。
その建物を知ったのは十五年ほど前のことだった。
ある都市探険仲間から、阪急西灘近くに旧ジェームス邸に似た洋館がある、という話を聞いた。旧ジェームス邸といえば塩屋の高台に聳え立つ南欧風の大邸宅だ。
まだ千里山へ通学する学生だった私は、その翌日、新開地発阪急梅田行き特急後ろから二両目山側の車窓から、必死で線路沿いに視線を走らせた。
春日野道を過ぎてすぐ、県美の白い豆腐の箱から視線を落とすと、見えた。銀色に鈍く光る、モスクのようなドーム屋根、スパニッシュの軒瓦・・・、全体構成はたしかにジェームス邸似の堂々たる館だ。
途中下車して、近付いていくと、その館は産婦人科医の住まいで、北隣に大きな診療所が建っていた。その診療所と館の庭の境目には、スパニッシュの館とはいささかつりあいの取れない古めかしい石の門柱がある。
邸の佇まいは、戦前を思わせるが、建具などは戦後に手を入れた部分もあるように考えられた。それと、銀色の玉葱坊主のドーム屋根も、なんとなくスパニッシュのファサードには不釣り合いだった。
この邸の周囲は、すっかり昭和30年代以降の町並みになっていることもあり、「ナゼ、コンナモノガ、コンナトコロニ」という建築少年探偵の疑問は深まる一方であった。あの石の門柱が、その疑問に拍車をかけていた。
なぜ、西灘にこの建物が建ったのか。
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