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	<title>ナダ建築夜話</title>
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	<modified>2009-09-24T00:00:00+09:00</modified>
	<copyright>Copyright 2010</copyright>
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	  	<author>
			<name>dr-franky</name>
		</author>
		<title>底抜け!痛快!!船成金の館（75）</title>
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		<modified>2010-12-21T13:00:20+09:00</modified>
		<issued>2010-12-21T13:00:20+09:00</issued>
		
	<dc:subject>まちなみ・建築</dc:subject>		<summary type="text/html">	　昭和8年（1933）５月、銀次郎は２度目となる神戸市会議長に就任した。
	　黒瀬弘志市長の任期は３ヶ月後に迫っていた。
　梅雨入りの頃には、にわかに黒瀬市長の後継者調整の動きが活発となり
始めていた。
　新政会は、早くから銀次郎を次期市長候補に、と見込んでいた。古株の
議員が断続的に、銀次郎と面談して市長候補の受容を要請した。だが、銀
次郎は笑いながら「わしは市長をやるほど耄碌はしとらんぞ」と、やり過
ごしていた。
	　戦前期の市長の選考は、公選制では無かった。内務大臣の命令を受けて
市会で市長候補を３名選出、中央で裁可を得るという中央集権的色彩の強
い手続きだったものが、大正15年（1926)の制度改正で市会での選出で決
めるよう改められた。
	　銀次郎が市長候補を受諾しなかった大きな理由は、事業の整理がまだ道
半ばだったことだ。
　市会議員は企業の役員など兼業が認められていたが、市長となるとすべ
ての役職を返上しなければならなかった。
　木本たちの奮闘があるとはいえ、現在の金額で数十億円単位の債務を抱
える銀次郎にとっては、「今は身動きが取れない」というのが本音だった。
	　市会副議長の前田二一六、新政会古参の佃良一らが引き続き説得にあた
ったが銀次郎は首を縦には振らなかった。
	　8月16日、任期満了に伴い黒瀬弘志は市長を辞職した。黒瀬前市長を支持
してきた公政会は候補者を擁立するには至らなかった。
　当面、市長職務は梅津芳三助役が代行することとなった。
	　前田らは政友会の砂田重政代議士にも、側面支援を要請した。銀次郎と
同じ愛媛出身で、弁護士として海運業界とつながりが深かった砂田は快諾
すと勝田系企業の債権者である銀行との交渉に乗り出した。
	　10月になって新政会は正式に銀次郎を次期市長候補に推薦することを決
定した。市会の市長選考委員会も無産政党所属の委員を除いて、というこ
とは事実上、圧倒的賛成多数で銀次郎を推薦する決議をしても、銀次郎は
態度を変えなかった。
	  摩耶を始め六甲の山並みがすっかり秋色に染まった頃だった。
　市会の情勢を見守ってきた、黒瀬前市長を支持する公政会は、候補者を
立てていなかったが、この期に及んで正式に黒瀬前市長の三選反対を表明
した。事実上の銀次郎支持のサインだった。
	　銀次郎は決然と市長への立候補を表明した。
	　歳の瀬が迫った十二月二十日、臨時の市会が招集された。議題は第八代
神戸市長の選挙である。
	　冒頭、無産政党の2議員が議場から退席した。
	　続いて信任の投票が始まった。
　結果、勝田銀次郎を信任五十六、白票一。事実上、満場一致で銀次郎
が市長に選出されたのだった。実に第四代鹿島房次郎いらい、20年ぶり
のことであった。
	　この年、銀次郎が情熱を傾けた青谷御殿は、ひっそりと天理教に譲渡
されていた。債権者の金融機関と建物を活かしつづけるということで、
合意に達したのだった。主が不在であった館は、やや趣を変えて第二の
人生を歩もうとしていた。
	　十二月二十一日午後。銀次郎は第一礼装で神戸市役所に登庁した。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（この項つづく）
 </summary>
		<content type="text/html" mode="escaped" xml:base="http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=110"><![CDATA[	&lt;p&gt;　昭和8年（1933）５月、銀次郎は２度目となる神戸市会議長に就任した。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　黒瀬弘志市長の任期は３ヶ月後に迫っていた。&lt;br /&gt;
　梅雨入りの頃には、にわかに黒瀬市長の後継者調整の動きが活発となり&lt;br /&gt;
始めていた。&lt;br /&gt;
　新政会は、早くから銀次郎を次期市長候補に、と見込んでいた。古株の&lt;br /&gt;
議員が断続的に、銀次郎と面談して市長候補の受容を要請した。だが、銀&lt;br /&gt;
次郎は笑いながら「わしは市長をやるほど耄碌はしとらんぞ」と、やり過&lt;br /&gt;
ごしていた。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　戦前期の市長の選考は、公選制では無かった。内務大臣の命令を受けて&lt;br /&gt;
市会で市長候補を３名選出、中央で裁可を得るという中央集権的色彩の強&lt;br /&gt;
い手続きだったものが、大正15年（1926)の制度改正で市会での選出で決&lt;br /&gt;
めるよう改められた。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　銀次郎が市長候補を受諾しなかった大きな理由は、事業の整理がまだ道&lt;br /&gt;
半ばだったことだ。&lt;br /&gt;
　市会議員は企業の役員など兼業が認められていたが、市長となるとすべ&lt;br /&gt;
ての役職を返上しなければならなかった。&lt;br /&gt;
　木本たちの奮闘があるとはいえ、現在の金額で数十億円単位の債務を抱&lt;br /&gt;
える銀次郎にとっては、「今は身動きが取れない」というのが本音だった。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　市会副議長の前田二一六、新政会古参の佃良一らが引き続き説得にあた&lt;br /&gt;
ったが銀次郎は首を縦には振らなかった。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　8月16日、任期満了に伴い黒瀬弘志は市長を辞職した。黒瀬前市長を支持&lt;br /&gt;
してきた公政会は候補者を擁立するには至らなかった。&lt;br /&gt;
　当面、市長職務は梅津芳三助役が代行することとなった。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　前田らは政友会の砂田重政代議士にも、側面支援を要請した。銀次郎と&lt;br /&gt;
同じ愛媛出身で、弁護士として海運業界とつながりが深かった砂田は快諾&lt;br /&gt;
すと勝田系企業の債権者である銀行との交渉に乗り出した。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　10月になって新政会は正式に銀次郎を次期市長候補に推薦することを決&lt;br /&gt;
定した。市会の市長選考委員会も無産政党所属の委員を除いて、というこ&lt;br /&gt;
とは事実上、圧倒的賛成多数で銀次郎を推薦する決議をしても、銀次郎は&lt;br /&gt;
態度を変えなかった。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;  摩耶を始め六甲の山並みがすっかり秋色に染まった頃だった。&lt;br /&gt;
　市会の情勢を見守ってきた、黒瀬前市長を支持する公政会は、候補者を&lt;br /&gt;
立てていなかったが、この期に及んで正式に黒瀬前市長の三選反対を表明&lt;br /&gt;
した。事実上の銀次郎支持のサインだった。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　銀次郎は決然と市長への立候補を表明した。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　歳の瀬が迫った十二月二十日、臨時の市会が招集された。議題は第八代&lt;br /&gt;
神戸市長の選挙である。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　冒頭、無産政党の2議員が議場から退席した。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　続いて信任の投票が始まった。&lt;br /&gt;
　結果、勝田銀次郎を信任五十六、白票一。事実上、満場一致で銀次郎&lt;br /&gt;
が市長に選出されたのだった。実に第四代鹿島房次郎いらい、20年ぶり&lt;br /&gt;
のことであった。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　この年、銀次郎が情熱を傾けた青谷御殿は、ひっそりと天理教に譲渡&lt;br /&gt;
されていた。債権者の金融機関と建物を活かしつづけるということで、&lt;br /&gt;
合意に達したのだった。主が不在であった館は、やや趣を変えて第二の&lt;br /&gt;
人生を歩もうとしていた。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　十二月二十一日午後。銀次郎は第一礼装で神戸市役所に登庁した。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（この項つづく）&lt;br /&gt;
&lt;a style=&quot;float: left; margin: 0 10px 0 0;&quot; href=&quot;http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/attach/mayor-ginjirou.JPG&quot;&gt;&lt;img src=&quot;http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/attach/thumb-mayor-ginjirou.JPG&quot; alt=&quot;市長時代の勝田銀次郎（昭和10年頃）&quot; /&gt;&lt;/a&gt;
&lt;/p&gt;
]]></content>
	</entry>
		<entry>
	  	<author>
			<name>dr-franky</name>
		</author>
		<title>底抜け!痛快!!船成金の館（74）</title>
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		<modified>2010-12-19T22:39:13+09:00</modified>
		<issued>2010-12-19T22:39:13+09:00</issued>
		
	<dc:subject>まちなみ・建築</dc:subject>		<summary type="text/html">	　昭和６年のある日、銀次郎は某所で中井一夫と向き合っていた。
　銀次郎は、翌７年（1932）2月の総選挙に出馬しない意向を固めていた。
　「中井さん、やはり代議士というのは政治に専念できる環境に居る者が
　　ふさわしい。整理中の会社を３つも抱える私には、荷が重い」。
　銀次郎は中井に次回総選挙の立候補を促したのだ。
　前の選挙で、ある意味、自分の我儘を通す形で銀次郎を担ぎ出した中井
に、銀次郎の要請を断る理由はなかった。
　
　昭和7年（1932）2月の、総選挙で民政党候補で神戸市からは砂田重政と
ともに中井一夫が2回目の当選を果たした。
	　その頃、神戸市議会は国政における民政・政友両党がしのぎを削る情勢
を反映して民政党系の公政会、政友会系の新政会が二大派閥であった。
　おりしも黒瀬弘志市政も2期目の終盤に差し掛かりつつあった。生糸検
査所の移転・拡張、そして農林省への移管を始め、神有電鉄の建設や阪神
電鉄の地下延伸で発生する残土を用いた新湊川や新生田川改修など経済対
策としての公共事業の展開・・・、財政的に厳しい中で神戸市政を舵取り
してきた内務官僚出身の黒瀬の手腕は堅実であった。
　だが、謂わば「市長与党」である公政会では、黒瀬の３期目については
「白紙」という空気であった。後継の市長は誰が適任か、水面下での模索
が始まりつつあった。
　
  そうした中、銀次郎は勝田汽船を始めとする自身の関係する３つの会社
の整理を進めていた。
　総勢50人程の陣容だった勝田汽船も、今や木本幸吉ほか1名の2人が残っ
て銀行団と折衝を重ねていた。木本らの粘り強い交渉で大口債権者だった
在阪某有力銀行が20万円の債務を5千円まで棒引きしようと申し出てくれた。
「その代り」、担当者は木本に条件を出した。
「勝田社長に、いちど当社へ出向いてもらって頭を下げてもらいたい」。
	　それから暫く後、高麗橋の石造りのビルの一室。薄暗い応接室の固い椅
子で銀次郎は、融資担当の重役と向かい合っていた。
　銀次郎は深々と頭を下げ、自身の経営の失敗から迷惑をかけたことへの
謝罪をした。重役は「勝田さん、こういっちゃあ何だが、わたしども恐慌
以降、経営に難渋している。なんとか一万円まで手当いただけませんかね」。
	　西日の差す旧居留地のビルの一隅。勝田汽船の狭い事務室に銀次郎が戻
ってきた。
　「社長、いかがでしたか」。木本が机から立ち上がって出迎えた。
　「木本君」、銀次郎はぶっきらぼうに言った「一万円で話を付けてきた」。
　木本の顔から血の気が失せた。「社長、何いうてはりますねや。そんな
余裕はあらしません」。銀次郎は額に青筋を立てて、今まで辛抱してもら
った見返りだ、何とかしろ、と怒鳴る。その場を何とか押さえ銀次郎を送
り出した木本は、すぐさま三ノ宮駅へ走り大阪行きの汽車に飛び乗った。
再び銀行側に実情を訴えて、銀次郎の「空手形」を「回収」するために・・・。
	　こうしたことを繰り返して、木本たちは銀次郎の３つの会社の債務を
へらしていったのだった。　　　　　　　　　　　（この項つづく）

 </summary>
		<content type="text/html" mode="escaped" xml:base="http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=109"><![CDATA[	&lt;p&gt;　昭和６年のある日、銀次郎は某所で中井一夫と向き合っていた。&lt;br /&gt;
　銀次郎は、翌７年（1932）2月の総選挙に出馬しない意向を固めていた。&lt;br /&gt;
　「中井さん、やはり代議士というのは政治に専念できる環境に居る者が&lt;br /&gt;
　　ふさわしい。整理中の会社を３つも抱える私には、荷が重い」。&lt;br /&gt;
　銀次郎は中井に次回総選挙の立候補を促したのだ。&lt;br /&gt;
　前の選挙で、ある意味、自分の我儘を通す形で銀次郎を担ぎ出した中井&lt;br /&gt;
に、銀次郎の要請を断る理由はなかった。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　昭和7年（1932）2月の、総選挙で民政党候補で神戸市からは砂田重政と&lt;br /&gt;
ともに中井一夫が2回目の当選を果たした。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　その頃、神戸市議会は国政における民政・政友両党がしのぎを削る情勢&lt;br /&gt;
を反映して民政党系の公政会、政友会系の新政会が二大派閥であった。&lt;br /&gt;
　おりしも黒瀬弘志市政も2期目の終盤に差し掛かりつつあった。生糸検&lt;br /&gt;
査所の移転・拡張、そして農林省への移管を始め、神有電鉄の建設や阪神&lt;br /&gt;
電鉄の地下延伸で発生する残土を用いた新湊川や新生田川改修など経済対&lt;br /&gt;
策としての公共事業の展開・・・、財政的に厳しい中で神戸市政を舵取り&lt;br /&gt;
してきた内務官僚出身の黒瀬の手腕は堅実であった。&lt;br /&gt;
　だが、謂わば「市長与党」である公政会では、黒瀬の３期目については&lt;br /&gt;
「白紙」という空気であった。後継の市長は誰が適任か、水面下での模索&lt;br /&gt;
が始まりつつあった。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
  そうした中、銀次郎は勝田汽船を始めとする自身の関係する３つの会社&lt;br /&gt;
の整理を進めていた。&lt;br /&gt;
　総勢50人程の陣容だった勝田汽船も、今や木本幸吉ほか1名の2人が残っ&lt;br /&gt;
て銀行団と折衝を重ねていた。木本らの粘り強い交渉で大口債権者だった&lt;br /&gt;
在阪某有力銀行が20万円の債務を5千円まで棒引きしようと申し出てくれた。&lt;br /&gt;
「その代り」、担当者は木本に条件を出した。&lt;br /&gt;
「勝田社長に、いちど当社へ出向いてもらって頭を下げてもらいたい」。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　それから暫く後、高麗橋の石造りのビルの一室。薄暗い応接室の固い椅&lt;br /&gt;
子で銀次郎は、融資担当の重役と向かい合っていた。&lt;br /&gt;
　銀次郎は深々と頭を下げ、自身の経営の失敗から迷惑をかけたことへの&lt;br /&gt;
謝罪をした。重役は「勝田さん、こういっちゃあ何だが、わたしども恐慌&lt;br /&gt;
以降、経営に難渋している。なんとか一万円まで手当いただけませんかね」。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　西日の差す旧居留地のビルの一隅。勝田汽船の狭い事務室に銀次郎が戻&lt;br /&gt;
ってきた。&lt;br /&gt;
　「社長、いかがでしたか」。木本が机から立ち上がって出迎えた。&lt;br /&gt;
　「木本君」、銀次郎はぶっきらぼうに言った「一万円で話を付けてきた」。&lt;br /&gt;
　木本の顔から血の気が失せた。「社長、何いうてはりますねや。そんな&lt;br /&gt;
余裕はあらしません」。銀次郎は額に青筋を立てて、今まで辛抱してもら&lt;br /&gt;
った見返りだ、何とかしろ、と怒鳴る。その場を何とか押さえ銀次郎を送&lt;br /&gt;
り出した木本は、すぐさま三ノ宮駅へ走り大阪行きの汽車に飛び乗った。&lt;br /&gt;
再び銀行側に実情を訴えて、銀次郎の「空手形」を「回収」するために・・・。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　こうしたことを繰り返して、木本たちは銀次郎の３つの会社の債務を&lt;br /&gt;
へらしていったのだった。　　　　　　　　　　　（この項つづく）
&lt;/p&gt;
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	  	<author>
			<name>dr-franky</name>
		</author>
		<title>底抜け!痛快!!船成金の館（73）</title>
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		<modified>2010-07-19T17:48:18+09:00</modified>
		<issued>2010-07-19T17:48:18+09:00</issued>
		
	<dc:subject>まちなみ・建築</dc:subject>		<summary type="text/html">	　昭和6年のある日、銀次郎は東京を発って西へ向かう列車の車上に
あった。
　草津のあたりを過ぎた時分に銀次郎は浅い眠りから覚めた。
　　
　今と違い、缶飲料などない時代である。
　銀次郎は扇子を開いて煽ぎながら、なんとなく車窓を眺めていた。
　
　大阪駅を出てしばらくすると、線路は長い長い直線に差し掛かる。
　松林が見えてくる。武庫川である。
　「川を越えるたびに神戸へ近づく」、いつも東京からの帰りに、
銀次郎は当たり前だが、こう心の中で思いながら列車が神戸へ滑り
込むのを心待ちにするのであった。
　
　精道村や本山、住吉のなだらかな斜面地はあっという間に彼方に
過ぎ、やがてひと際高い峰が、近づいて来るように見える。
　「摩耶山が見えた」。もう我が家に戻ってきたかのような安堵感を
銀次郎は覚えた。
	　列車の左手にはさっきから朝陽を反射した大阪湾が広がっている。
　やがて黒々と煙を吐く高煙突が見始める。脇浜の製鉄工場群だ。
　そうしたなか、一瞬、白い帯が布引から省線の線路へ向かっている
のが見える。
　「おお、かなり出来上がっておるなぁ」。銀次郎は思わずうなった。
　これは、三宮へ乗り入れる阪神電鉄の地下軌道の工事で出た残土を
使った新生田川の埋め立て工事の現場なのである。
	　銀次郎が衆議院議員に当選した昭和5年（1930）は、まだまだ世界
恐慌の影が神戸の町に暗い影を落としていた時期であった。
　神戸市は失業対策として、市独自に、また場合によっては国庫補助
を得て、河川改修事業や道路改修の事業を起こした。
	　新生田川の暗渠化は、直接は失業者対策ではなかった。すべからく
神戸の川は普段は水が少ししか流れておらず、長じて町のごみ捨て場
の様相を呈する始末だった。
　そこで、新生田川に蓋をして、旧湊川のように河川敷の上をを市街
地にすればよいという発想で、河川トンネルと緑地の整備が行われる
ことになったのだ。
	　この暗渠化が後の銀次郎を始めとする神戸の人々を悩ませる原因の
一つとなるのだが、そんなことは夢にも思わない銀次郎は、定刻通り
列車が神戸駅に滑り込むと、改札口の出迎えの市職員を従え、足早に
地方裁判所東隣の市役所庁舎へ向かった。　（この項つづく）　　　

 </summary>
		<content type="text/html" mode="escaped" xml:base="http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=108"><![CDATA[	&lt;p&gt;　昭和6年のある日、銀次郎は東京を発って西へ向かう列車の車上に&lt;br /&gt;
あった。&lt;br /&gt;
　草津のあたりを過ぎた時分に銀次郎は浅い眠りから覚めた。&lt;br /&gt;
　　&lt;br /&gt;
　今と違い、缶飲料などない時代である。&lt;br /&gt;
　銀次郎は扇子を開いて煽ぎながら、なんとなく車窓を眺めていた。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　大阪駅を出てしばらくすると、線路は長い長い直線に差し掛かる。&lt;br /&gt;
　松林が見えてくる。武庫川である。&lt;br /&gt;
　「川を越えるたびに神戸へ近づく」、いつも東京からの帰りに、&lt;br /&gt;
銀次郎は当たり前だが、こう心の中で思いながら列車が神戸へ滑り&lt;br /&gt;
込むのを心待ちにするのであった。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　精道村や本山、住吉のなだらかな斜面地はあっという間に彼方に&lt;br /&gt;
過ぎ、やがてひと際高い峰が、近づいて来るように見える。&lt;br /&gt;
　「摩耶山が見えた」。もう我が家に戻ってきたかのような安堵感を&lt;br /&gt;
銀次郎は覚えた。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　列車の左手にはさっきから朝陽を反射した大阪湾が広がっている。&lt;br /&gt;
　やがて黒々と煙を吐く高煙突が見始める。脇浜の製鉄工場群だ。&lt;br /&gt;
　そうしたなか、一瞬、白い帯が布引から省線の線路へ向かっている&lt;br /&gt;
のが見える。&lt;br /&gt;
　「おお、かなり出来上がっておるなぁ」。銀次郎は思わずうなった。&lt;br /&gt;
　これは、三宮へ乗り入れる阪神電鉄の地下軌道の工事で出た残土を&lt;br /&gt;
使った新生田川の埋め立て工事の現場なのである。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　銀次郎が衆議院議員に当選した昭和5年（1930）は、まだまだ世界&lt;br /&gt;
恐慌の影が神戸の町に暗い影を落としていた時期であった。&lt;br /&gt;
　神戸市は失業対策として、市独自に、また場合によっては国庫補助&lt;br /&gt;
を得て、河川改修事業や道路改修の事業を起こした。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　新生田川の暗渠化は、直接は失業者対策ではなかった。すべからく&lt;br /&gt;
神戸の川は普段は水が少ししか流れておらず、長じて町のごみ捨て場&lt;br /&gt;
の様相を呈する始末だった。&lt;br /&gt;
　そこで、新生田川に蓋をして、旧湊川のように河川敷の上をを市街&lt;br /&gt;
地にすればよいという発想で、河川トンネルと緑地の整備が行われる&lt;br /&gt;
ことになったのだ。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　この暗渠化が後の銀次郎を始めとする神戸の人々を悩ませる原因の&lt;br /&gt;
一つとなるのだが、そんなことは夢にも思わない銀次郎は、定刻通り&lt;br /&gt;
列車が神戸駅に滑り込むと、改札口の出迎えの市職員を従え、足早に&lt;br /&gt;
地方裁判所東隣の市役所庁舎へ向かった。　（この項つづく）　　　
&lt;/p&gt;
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	  	<author>
			<name>dr-franky</name>
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		<title>底抜け!痛快!!船成金の館（72）</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=107" />
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		<modified>2010-06-28T00:01:16+09:00</modified>
		<issued>2010-06-28T00:01:16+09:00</issued>
		
	<dc:subject>まちなみ・建築</dc:subject>		<summary type="text/html">	少し早い桜の開花のころから、気付いたら梅雨の終わりごろに
差し掛かっていた。先を急ぎたい。
	  昭和5年（1930）2月20日、普通選挙となって2回目となる第
17回衆議院選挙で、銀次郎は神戸選挙区で野党・政友会から
立候補し、トップ当選を果たした。
　神戸の海運界が一致団結した末の勝利であった。「それは
清い立派な選挙戦だった」と勝田を担ぎ出した中井一夫は胸
を張る。だが、与党・民政党に与する官憲は、選挙違反が
あったとして、勝田陣営の選挙参謀格である佐藤國一と松本
博邑の逮捕状を請求したのだった。
	　松本は、半年もの間、各地を潜伏して勝田の当選が確定した
のちに警察に出頭した。兵庫警察署に収監された佐藤に、番頭
格の大原尚三が算盤片手に接見の許可を求め、鉄格子越しに大
陸からの石炭運搬便の契約の裁決を仰ぐ、という苦心をしなが
ら、社長逮捕という異常事態の中で佐藤汽船の存続を賭けた交
渉を重ねるという逸話もあったが、詳しくは触れない。
　ともかく、松本や佐藤らの身を賭した闘いもあって、銀次郎
は当選を確かなものとしたのだった。
	　当時は、例えば、神戸市参与会（＝市会）議員と兼務する形
で衆議院議員を務めることが制度上できた。銀次郎は市会議長
という重責を担いながら衆議院議員に就任するという道を選択
した。
　その前年、銀次郎は国際連盟神戸支部長に選任。また6月には
神戸に行幸した天皇陛下に拝謁を許され栄誉にも浴した。ます
ます公務にいそしむことになる銀次郎であった。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（この項、つづく）

 </summary>
		<content type="text/html" mode="escaped" xml:base="http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=107"><![CDATA[	&lt;p&gt;少し早い桜の開花のころから、気付いたら梅雨の終わりごろに&lt;br /&gt;
差し掛かっていた。先を急ぎたい。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;  昭和5年（1930）2月20日、普通選挙となって2回目となる第&lt;br /&gt;
17回衆議院選挙で、銀次郎は神戸選挙区で野党・政友会から&lt;br /&gt;
立候補し、トップ当選を果たした。&lt;br /&gt;
　神戸の海運界が一致団結した末の勝利であった。「それは&lt;br /&gt;
清い立派な選挙戦だった」と勝田を担ぎ出した中井一夫は胸&lt;br /&gt;
を張る。だが、与党・民政党に与する官憲は、選挙違反が&lt;br /&gt;
あったとして、勝田陣営の選挙参謀格である佐藤國一と松本&lt;br /&gt;
博邑の逮捕状を請求したのだった。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　松本は、半年もの間、各地を潜伏して勝田の当選が確定した&lt;br /&gt;
のちに警察に出頭した。兵庫警察署に収監された佐藤に、番頭&lt;br /&gt;
格の大原尚三が算盤片手に接見の許可を求め、鉄格子越しに大&lt;br /&gt;
陸からの石炭運搬便の契約の裁決を仰ぐ、という苦心をしなが&lt;br /&gt;
ら、社長逮捕という異常事態の中で佐藤汽船の存続を賭けた交&lt;br /&gt;
渉を重ねるという逸話もあったが、詳しくは触れない。&lt;br /&gt;
　ともかく、松本や佐藤らの身を賭した闘いもあって、銀次郎&lt;br /&gt;
は当選を確かなものとしたのだった。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　当時は、例えば、神戸市参与会（＝市会）議員と兼務する形&lt;br /&gt;
で衆議院議員を務めることが制度上できた。銀次郎は市会議長&lt;br /&gt;
という重責を担いながら衆議院議員に就任するという道を選択&lt;br /&gt;
した。&lt;br /&gt;
　その前年、銀次郎は国際連盟神戸支部長に選任。また6月には&lt;br /&gt;
神戸に行幸した天皇陛下に拝謁を許され栄誉にも浴した。ます&lt;br /&gt;
ます公務にいそしむことになる銀次郎であった。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（この項、つづく）
&lt;/p&gt;
]]></content>
	</entry>
		<entry>
	  	<author>
			<name>dr-franky</name>
		</author>
		<title>底抜け!痛快!!船成金の館（71）</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=106" />
		<id>http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=106</id>
		<modified>2010-03-28T22:56:12+09:00</modified>
		<issued>2010-03-28T22:56:12+09:00</issued>
		
	<dc:subject>まちなみ・建築</dc:subject>		<summary type="text/html">	現職代議士に、自分の後を継いで次の衆議院議員選挙の出馬を
要請されるという予想外の展開に、銀次郎は当惑していた。
「次出るのは中井さん、貴方自身ではないのかね」と銀次郎は
質した。
	「いや、中央政界の汚さが、私はどうしても許せんのです。」
と、この青年代議士はため息をついた。
　少し前の田中義一政友会総裁への乾新兵衛の資金融資を仲介
したと主張する東京の佐藤繁吉が、３００万円の融資成立の報
酬として４８万円の支払いを田中陣営に求め、田中、乾の双方
が融資話を否定する、という騒動が巷をにぎわせていた。
　また銀次郎とも近く、神戸に縁の深い内田信也も、政界に転
身していたが、憲政会の加藤総裁に普通選挙制の導入阻止を条
件に「珍品五品」を贈ったという「珍品五品事件」もあり、与
野党ともに利権・金まみれという有様。
	　華々しいデビューを飾った中井も憤懣やるかたない、という
風である。
　「中井さん、貴方の気持ちはよくわかるよ。だから私だって
そんな醜い世界はいやなんだ」。銀次郎はやんわりと中井の要
請を断ろうとしていた。
　しかし中井は、「当選が確実なお前が出ないなんて正気の沙
汰じゃない。どうしても出ないというなら当選確実な代わりの
候補者を見つけてこい」と民政党の選挙責任者に厳命にされて
いた。
	　その日は引きさがった中井だったが、ある夜、徹夜覚悟で銀
次郎を説得にかかった。さしもの銀次郎も、中井の熱烈なアタ
ックに音を上げる形で、出馬を承諾した。「中井さん、あなた
が選挙参謀をやるという条件付きだ。」というひとことを添え
て・・・。
　しかし神戸の船主たちのグループに「銀次郎出馬の意向」が
伝わるとメンバーから「海運界の代表を送り込むのだ」という
盛り上がりが起こった。結局、銀次郎の元部下の松本博邑と佐
藤国汽船の佐藤国吉が参謀役を買って出た。（この項目つづく）

 </summary>
		<content type="text/html" mode="escaped" xml:base="http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=106"><![CDATA[	&lt;p&gt;現職代議士に、自分の後を継いで次の衆議院議員選挙の出馬を&lt;br /&gt;
要請されるという予想外の展開に、銀次郎は当惑していた。&lt;br /&gt;
「次出るのは中井さん、貴方自身ではないのかね」と銀次郎は&lt;br /&gt;
質した。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;「いや、中央政界の汚さが、私はどうしても許せんのです。」&lt;br /&gt;
と、この青年代議士はため息をついた。&lt;br /&gt;
　少し前の田中義一政友会総裁への乾新兵衛の資金融資を仲介&lt;br /&gt;
したと主張する東京の佐藤繁吉が、３００万円の融資成立の報&lt;br /&gt;
酬として４８万円の支払いを田中陣営に求め、田中、乾の双方&lt;br /&gt;
が融資話を否定する、という騒動が巷をにぎわせていた。&lt;br /&gt;
　また銀次郎とも近く、神戸に縁の深い内田信也も、政界に転&lt;br /&gt;
身していたが、憲政会の加藤総裁に普通選挙制の導入阻止を条&lt;br /&gt;
件に「珍品五品」を贈ったという「珍品五品事件」もあり、与&lt;br /&gt;
野党ともに利権・金まみれという有様。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　華々しいデビューを飾った中井も憤懣やるかたない、という&lt;br /&gt;
風である。&lt;br /&gt;
　「中井さん、貴方の気持ちはよくわかるよ。だから私だって&lt;br /&gt;
そんな醜い世界はいやなんだ」。銀次郎はやんわりと中井の要&lt;br /&gt;
請を断ろうとしていた。&lt;br /&gt;
　しかし中井は、「当選が確実なお前が出ないなんて正気の沙&lt;br /&gt;
汰じゃない。どうしても出ないというなら当選確実な代わりの&lt;br /&gt;
候補者を見つけてこい」と民政党の選挙責任者に厳命にされて&lt;br /&gt;
いた。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　その日は引きさがった中井だったが、ある夜、徹夜覚悟で銀&lt;br /&gt;
次郎を説得にかかった。さしもの銀次郎も、中井の熱烈なアタ&lt;br /&gt;
ックに音を上げる形で、出馬を承諾した。「中井さん、あなた&lt;br /&gt;
が選挙参謀をやるという条件付きだ。」というひとことを添え&lt;br /&gt;
て・・・。&lt;br /&gt;
　しかし神戸の船主たちのグループに「銀次郎出馬の意向」が&lt;br /&gt;
伝わるとメンバーから「海運界の代表を送り込むのだ」という&lt;br /&gt;
盛り上がりが起こった。結局、銀次郎の元部下の松本博邑と佐&lt;br /&gt;
藤国汽船の佐藤国吉が参謀役を買って出た。（この項目つづく）
&lt;/p&gt;
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	</entry>
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	  	<author>
			<name>dr-franky</name>
		</author>
		<title>底抜け!痛快!!船成金の館（70）</title>
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		<modified>2010-02-21T22:28:28+09:00</modified>
		<issued>2010-02-21T22:28:28+09:00</issued>
		
	<dc:subject>まちなみ・建築</dc:subject>		<summary type="text/html">	　一週間のご無沙汰、どころか２月も最終週に突入してしまった。
　遅ればせながら今年もよろしくお願いします。
	　昭和４年のある日、銀次郎は、いつものように旧居留地の一角
に建つビルにある、自分の事務所へ顔を出した。書生の永原が、
「実は、社長に面会の申し込みをされているお方があります」と
告げた。
「誰だい、また変な記者じゃないだろうな」。銀次郎は、いぶかし
がった。
　永原は「衆議院の中井一夫議員です」、といった。
	　中井一夫は、東京帝国大学法学部を卒業した後、神戸地方裁判
所の判事に任ぜられた。大阪・船場の薬屋を営む父の影響を受け
て、一夫はかねてから政治家の道を探っていた。
　３年後、終身保障の判事の職をあっさり投げ出すと、中井は東
京の砂田重政と共同で、兵庫県庁の西、基督教青年会館近くの下
山手通6丁目に弁護士事務所を開いた。
　おりしも、普通選挙を求める声が労働者を中心に盛り上がって
いた時期、犬養木堂が打ち出した政界革新論に感化をされた少壮
の青年弁護士の胸中には、少しでも早く政界へ打って出たい、と
いう気持ちが湧いていた。　
	　大正13年、悪法「治安維持法」と抱き合わせ販売のようにして、
投票者の所得制限を撤廃する普通選挙法が公布。その３年後の昭
和２年、普通選挙法公布後初の兵庫県議会選挙で、応援演説での
弁舌の威勢のよさを買われた中井は、「知らないうちに」葺合選
挙区から立候補をする手続きをされて、政府与党のベテラン議員
を向こうにまわして善戦し、新人ながら３位で当選を果たしたの
だった。ちなみにトップ当選は、日本労農党から立候補した関西
学院文学部の教員・阪本勝であった。
　昭和３年、衆議院が解散をすると、中井は政友会から神戸一区
で立候補し、当選を果たした。
	　「次の選挙はまださきのはずだが、気の早い支援依頼なのか」
位に中井からの面談申し込みの理由を銀次郎は思いながら、面会
の日取りを永原と打ち合わせしていた。
	　数日後、銀次郎の事務所の応接室で、緊張した面持ちで待つ中
井の姿があった。
　銀次郎は一つ咳払いをして応接室に入った。
　「このたびは、お忙しい中、お時間をいただき、ありがたく存じます」。
深々と中井は頭を垂れた。
　「中井先生、今日はまたどういった御用向きで」。銀次郎は問うた。
　
　中井は真顔で、　「実は、勝田様、いや勝田先生に、次の衆議院
選挙に打って出ていただきたくお願いに参った次第です。」と銀次
郎に懇願をした。
	　「え、このわたしが、か。」あまりに唐突な話に、流石の銀次郎
も一瞬たじろいだ。
　「だいいち、次の選挙に出るのは中井先生、貴方なのでは。」　　
　銀次郎は現役代議士の意外な依頼に困惑していた。（この項続く）　

 </summary>
		<content type="text/html" mode="escaped" xml:base="http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=105"><![CDATA[	&lt;p&gt;　一週間のご無沙汰、どころか２月も最終週に突入してしまった。&lt;br /&gt;
　遅ればせながら今年もよろしくお願いします。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　昭和４年のある日、銀次郎は、いつものように旧居留地の一角&lt;br /&gt;
に建つビルにある、自分の事務所へ顔を出した。書生の永原が、&lt;br /&gt;
「実は、社長に面会の申し込みをされているお方があります」と&lt;br /&gt;
告げた。&lt;br /&gt;
「誰だい、また変な記者じゃないだろうな」。銀次郎は、いぶかし&lt;br /&gt;
がった。&lt;br /&gt;
　永原は「衆議院の中井一夫議員です」、といった。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　中井一夫は、東京帝国大学法学部を卒業した後、神戸地方裁判&lt;br /&gt;
所の判事に任ぜられた。大阪・船場の薬屋を営む父の影響を受け&lt;br /&gt;
て、一夫はかねてから政治家の道を探っていた。&lt;br /&gt;
　３年後、終身保障の判事の職をあっさり投げ出すと、中井は東&lt;br /&gt;
京の砂田重政と共同で、兵庫県庁の西、基督教青年会館近くの下&lt;br /&gt;
山手通6丁目に弁護士事務所を開いた。&lt;br /&gt;
　おりしも、普通選挙を求める声が労働者を中心に盛り上がって&lt;br /&gt;
いた時期、犬養木堂が打ち出した政界革新論に感化をされた少壮&lt;br /&gt;
の青年弁護士の胸中には、少しでも早く政界へ打って出たい、と&lt;br /&gt;
いう気持ちが湧いていた。　&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　大正13年、悪法「治安維持法」と抱き合わせ販売のようにして、&lt;br /&gt;
投票者の所得制限を撤廃する普通選挙法が公布。その３年後の昭&lt;br /&gt;
和２年、普通選挙法公布後初の兵庫県議会選挙で、応援演説での&lt;br /&gt;
弁舌の威勢のよさを買われた中井は、「知らないうちに」葺合選&lt;br /&gt;
挙区から立候補をする手続きをされて、政府与党のベテラン議員&lt;br /&gt;
を向こうにまわして善戦し、新人ながら３位で当選を果たしたの&lt;br /&gt;
だった。ちなみにトップ当選は、日本労農党から立候補した関西&lt;br /&gt;
学院文学部の教員・阪本勝であった。&lt;br /&gt;
　昭和３年、衆議院が解散をすると、中井は政友会から神戸一区&lt;br /&gt;
で立候補し、当選を果たした。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　「次の選挙はまださきのはずだが、気の早い支援依頼なのか」&lt;br /&gt;
位に中井からの面談申し込みの理由を銀次郎は思いながら、面会&lt;br /&gt;
の日取りを永原と打ち合わせしていた。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　数日後、銀次郎の事務所の応接室で、緊張した面持ちで待つ中&lt;br /&gt;
井の姿があった。&lt;br /&gt;
　銀次郎は一つ咳払いをして応接室に入った。&lt;br /&gt;
　「このたびは、お忙しい中、お時間をいただき、ありがたく存じます」。&lt;br /&gt;
深々と中井は頭を垂れた。&lt;br /&gt;
　「中井先生、今日はまたどういった御用向きで」。銀次郎は問うた。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　中井は真顔で、　「実は、勝田様、いや勝田先生に、次の衆議院&lt;br /&gt;
選挙に打って出ていただきたくお願いに参った次第です。」と銀次&lt;br /&gt;
郎に懇願をした。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　「え、このわたしが、か。」あまりに唐突な話に、流石の銀次郎&lt;br /&gt;
も一瞬たじろいだ。&lt;br /&gt;
　「だいいち、次の選挙に出るのは中井先生、貴方なのでは。」　　&lt;br /&gt;
　銀次郎は現役代議士の意外な依頼に困惑していた。（この項続く）　
&lt;/p&gt;
]]></content>
	</entry>
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	  	<author>
			<name>dr-franky</name>
		</author>
		<title>底抜け!痛快!!船成金の館（69）</title>
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		<id>http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=104</id>
		<modified>2009-12-31T22:27:13+09:00</modified>
		<issued>2009-12-31T22:27:13+09:00</issued>
		
	<dc:subject>まちなみ・建築</dc:subject>		<summary type="text/html">	幸次郎は武と差向いで正座した。武は常ならぬ気配を感じ取っていた。
	「オイが会社を潰したのも同然。コイ（この）腹ば、オモサマ（思い切って）
かっさばいて責めをカラウ（背負う）」。
	　武は一瞬当惑の眼差しとなったが、すぐさま幸次郎を戒めた。
「今、この時期に、社長、あなたがが自決することは、なるほどサムライ
らしく潔いかもしれない。しかし、それはこの難局から逃げることに他
ならない。川崎の救済を敢行すべきです」。
	　幸次郎は高揚して「オイは死ぬことは恐ろしくはなか」とまくし立てる。
　武は「あなたの今の自決は卑怯千万ですぞ」と重ねて幸次郎の軽率さを
指摘した。
	　武の般若のような面持ちを見据える幸次郎の眼に光るものが溢れていた。
	　それに気づいた武は、しかし気持ちを押しとどめるように「事態が進退
極まることと道が開けていくことは紙一重、そのつもりで明日から物事に
あたってください」と幸次郎に語りかけた。幸次郎は「うん」と小さく
頷いた。
	　８月、幸次郎は
１　会社抵当法により資金二千三百五十万円を借り入れ、社債償還と手形
　決済に充当。
２　自社所有地で神戸市内の不要な土地を売却。
３　それ以外の不用な財産の処分を促進。
などを柱とする整理案を債権者に提示した。
　政府による救済案を作成した郷男爵が大口債権者の９つの銀行団と川造
とのあっせんの労を担った。
	　そのころ、神戸高等商業学校の平井教授が市民による川造救済の献金を
呼び掛ける、今日でいうところの勝手連運動を展開した。
「一民間企業の問題では済まされない。「大神戸」の命運が、川崎に掛って
いる」あらゆる席で平井は川崎救済の意義を説いて廻った。
　
　そして、銀次郎も神戸市会にあって、神戸市による川崎への資金の供与
を市会議員団や市当局に働き掛けていた。　
	　銀次郎は人を介して、平井教授と面会した。銀次郎は開口一番、「私も
川造を神戸市あげて助けるべきと考えている。平井先生、あなたは川崎造
船所に頼まれて、触れて回っておられるのでもあるまい。
　どの様に思われておられるのか。お考えを受け賜わりたい。」と質した。
「勝田先生。」平井は銀次郎に向って持論を披露した。
「川崎に働く社員・職工の後ろには、協力工場のけ英医者・労働者や家族、
そして彼らが金を落とす新開地・福原をはじめとする無数の商店が控えま
す。川崎が「座礁」すれば、彼らは路頭に迷うことに直結します。」
　それ以上の言葉は不要だった。「愚問でした。私は市会と市の幹部を説
得しましょう。頑張りましょう、お互いに。」
「宜しくお願いします。」
	　翌昭和三年（１９２８）五月、川崎が兵庫工場の車両製造部門を分離し
て、川崎車輛株式会社を発足させたのと同じ時期、神戸市が川崎の経営陣
に、三百万円の資金融資を行う用意があることを打診した。
　川崎の負債額からすれば取るに足らない金額であったかもしれない。し
かし、経営陣、とりわけ幸次郎には平井や銀次郎らの無償の奔走に無上の
感謝の念を抱いていた。
	　幸次郎が株主総会で三十二年に及ぶ川崎造船所社長の椅子を明け渡すこ
とを表明したのは、それから間もなくのことであった。
	　九月、神戸市会は川崎造船所への資金融資の件を満場一致で議決した。
その陰には内には銀次郎の市会内での根回しと、平井教授の市民の世論
醸成が功大であったことは言うまでもない。　　　（この項つづく。）　
	　本年も最後までお下さり、ありがとうございました。年明けからは、
いよいよこの物語も第三幕へ突入します。来る年もお付き合いの程、
宜しくお願いします。 　

 </summary>
		<content type="text/html" mode="escaped" xml:base="http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=104"><![CDATA[	&lt;p&gt;幸次郎は武と差向いで正座した。武は常ならぬ気配を感じ取っていた。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;「オイが会社を潰したのも同然。コイ（この）腹ば、オモサマ（思い切って）&lt;br /&gt;
かっさばいて責めをカラウ（背負う）」。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　武は一瞬当惑の眼差しとなったが、すぐさま幸次郎を戒めた。&lt;br /&gt;
「今、この時期に、社長、あなたがが自決することは、なるほどサムライ&lt;br /&gt;
らしく潔いかもしれない。しかし、それはこの難局から逃げることに他&lt;br /&gt;
ならない。川崎の救済を敢行すべきです」。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　幸次郎は高揚して「オイは死ぬことは恐ろしくはなか」とまくし立てる。&lt;br /&gt;
　武は「あなたの今の自決は卑怯千万ですぞ」と重ねて幸次郎の軽率さを&lt;br /&gt;
指摘した。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　武の般若のような面持ちを見据える幸次郎の眼に光るものが溢れていた。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　それに気づいた武は、しかし気持ちを押しとどめるように「事態が進退&lt;br /&gt;
極まることと道が開けていくことは紙一重、そのつもりで明日から物事に&lt;br /&gt;
あたってください」と幸次郎に語りかけた。幸次郎は「うん」と小さく&lt;br /&gt;
頷いた。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　８月、幸次郎は&lt;br /&gt;
１　会社抵当法により資金二千三百五十万円を借り入れ、社債償還と手形&lt;br /&gt;
　決済に充当。&lt;br /&gt;
２　自社所有地で神戸市内の不要な土地を売却。&lt;br /&gt;
３　それ以外の不用な財産の処分を促進。&lt;br /&gt;
などを柱とする整理案を債権者に提示した。&lt;br /&gt;
　政府による救済案を作成した郷男爵が大口債権者の９つの銀行団と川造&lt;br /&gt;
とのあっせんの労を担った。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　そのころ、神戸高等商業学校の平井教授が市民による川造救済の献金を&lt;br /&gt;
呼び掛ける、今日でいうところの勝手連運動を展開した。&lt;br /&gt;
「一民間企業の問題では済まされない。「大神戸」の命運が、川崎に掛って&lt;br /&gt;
いる」あらゆる席で平井は川崎救済の意義を説いて廻った。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　そして、銀次郎も神戸市会にあって、神戸市による川崎への資金の供与&lt;br /&gt;
を市会議員団や市当局に働き掛けていた。　&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　銀次郎は人を介して、平井教授と面会した。銀次郎は開口一番、「私も&lt;br /&gt;
川造を神戸市あげて助けるべきと考えている。平井先生、あなたは川崎造&lt;br /&gt;
船所に頼まれて、触れて回っておられるのでもあるまい。&lt;br /&gt;
　どの様に思われておられるのか。お考えを受け賜わりたい。」と質した。&lt;br /&gt;
「勝田先生。」平井は銀次郎に向って持論を披露した。&lt;br /&gt;
「川崎に働く社員・職工の後ろには、協力工場のけ英医者・労働者や家族、&lt;br /&gt;
そして彼らが金を落とす新開地・福原をはじめとする無数の商店が控えま&lt;br /&gt;
す。川崎が「座礁」すれば、彼らは路頭に迷うことに直結します。」&lt;br /&gt;
　それ以上の言葉は不要だった。「愚問でした。私は市会と市の幹部を説&lt;br /&gt;
得しましょう。頑張りましょう、お互いに。」&lt;br /&gt;
「宜しくお願いします。」&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　翌昭和三年（１９２８）五月、川崎が兵庫工場の車両製造部門を分離し&lt;br /&gt;
て、川崎車輛株式会社を発足させたのと同じ時期、神戸市が川崎の経営陣&lt;br /&gt;
に、三百万円の資金融資を行う用意があることを打診した。&lt;br /&gt;
　川崎の負債額からすれば取るに足らない金額であったかもしれない。し&lt;br /&gt;
かし、経営陣、とりわけ幸次郎には平井や銀次郎らの無償の奔走に無上の&lt;br /&gt;
感謝の念を抱いていた。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　幸次郎が株主総会で三十二年に及ぶ川崎造船所社長の椅子を明け渡すこ&lt;br /&gt;
とを表明したのは、それから間もなくのことであった。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　九月、神戸市会は川崎造船所への資金融資の件を満場一致で議決した。&lt;br /&gt;
その陰には内には銀次郎の市会内での根回しと、平井教授の市民の世論&lt;br /&gt;
醸成が功大であったことは言うまでもない。　　　（この項つづく。）　&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　本年も最後までお下さり、ありがとうございました。年明けからは、&lt;br /&gt;
いよいよこの物語も第三幕へ突入します。来る年もお付き合いの程、&lt;br /&gt;
宜しくお願いします。 　
&lt;/p&gt;
]]></content>
	</entry>
		<entry>
	  	<author>
			<name>dr-franky</name>
		</author>
		<title>底抜け!痛快!!船成金の館（68）</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=103" />
		<id>http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=103</id>
		<modified>2009-11-30T23:59:33+09:00</modified>
		<issued>2009-11-30T23:59:33+09:00</issued>
		
	<dc:subject>まちなみ・建築</dc:subject>		<summary type="text/html">	　海軍にしてみれば今、発注している巡洋艦、潜水艦だけでなく
今後の艦船建造にも、川崎造船所の今後が大きく影響することを
感じ取っていた。
　「事は一民間企業の問題にあらず」。7月19日、海軍は閣議の
了承を得て海軍艦政本部臨時艦船建造部の設置を決定した。
　ようは川崎造船所に海軍省の艦船建造の部署を置き、艦船建
造に従事する職員約６千人もろとも海軍省の管轄のもとに置き、
川崎造船所で建造中の７隻の艦船（巡洋艦１、潜水艦６）の工
事を遂行しようというのだ。
　窮場のしのぎはできた。しかし「海軍の威を借りて」という
反発が世論から起こるであろうことも、また予想はたやすい。
　幸次郎の心の中は、まだ自力での造船所の経営立て直しが大
きく占めていた。「あとは人員整理しか、なか」幸次郎は苦渋
の決断を下そうとしていた。
　
　艦政本部臨時建築部の看板が川崎造船所の正門に掲げられて
から１０日後、川崎造船所は約三千人の人員整理に踏み切るこ
とを公表、８月には追加で三百人の付属員を解雇、ほかに職員
約二百三十人を休職とした。残った職員も給与の１０％カット、
幹部職員は報酬を返上、幸次郎自身も私財五十万円を会社に拠
出した。
	　初秋のころ、幸次郎は役員室の関係職員のために、慰労の宴
席を設けた。経済的にも苦しい中、川崎造船所立て直しに奮闘
する者たちばかり。日頃の労に報いたいとの幸次郎のせめても
の心づかいであった。
　花隈の料亭で、一堂は天婦羅をふるまわれた。久々のごちそ
うに、皆、相好を崩し、カリカリに揚がった衣の歯ごたえを楽
しんでいた。
	　宴席も、酒も入り崩れてきたころ、幸次郎の右腕的存在であ
った武文彦は、幸次郎から声を掛けられた。
　「武君。いっと（少し）」。武は宴席から離れた座敷へ招き
入れられた。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（この項つづく）

 </summary>
		<content type="text/html" mode="escaped" xml:base="http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=103"><![CDATA[	&lt;p&gt;　海軍にしてみれば今、発注している巡洋艦、潜水艦だけでなく&lt;br /&gt;
今後の艦船建造にも、川崎造船所の今後が大きく影響することを&lt;br /&gt;
感じ取っていた。&lt;br /&gt;
　「事は一民間企業の問題にあらず」。7月19日、海軍は閣議の&lt;br /&gt;
了承を得て海軍艦政本部臨時艦船建造部の設置を決定した。&lt;br /&gt;
　ようは川崎造船所に海軍省の艦船建造の部署を置き、艦船建&lt;br /&gt;
造に従事する職員約６千人もろとも海軍省の管轄のもとに置き、&lt;br /&gt;
川崎造船所で建造中の７隻の艦船（巡洋艦１、潜水艦６）の工&lt;br /&gt;
事を遂行しようというのだ。&lt;br /&gt;
　窮場のしのぎはできた。しかし「海軍の威を借りて」という&lt;br /&gt;
反発が世論から起こるであろうことも、また予想はたやすい。&lt;br /&gt;
　幸次郎の心の中は、まだ自力での造船所の経営立て直しが大&lt;br /&gt;
きく占めていた。「あとは人員整理しか、なか」幸次郎は苦渋&lt;br /&gt;
の決断を下そうとしていた。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　艦政本部臨時建築部の看板が川崎造船所の正門に掲げられて&lt;br /&gt;
から１０日後、川崎造船所は約三千人の人員整理に踏み切るこ&lt;br /&gt;
とを公表、８月には追加で三百人の付属員を解雇、ほかに職員&lt;br /&gt;
約二百三十人を休職とした。残った職員も給与の１０％カット、&lt;br /&gt;
幹部職員は報酬を返上、幸次郎自身も私財五十万円を会社に拠&lt;br /&gt;
出した。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　初秋のころ、幸次郎は役員室の関係職員のために、慰労の宴&lt;br /&gt;
席を設けた。経済的にも苦しい中、川崎造船所立て直しに奮闘&lt;br /&gt;
する者たちばかり。日頃の労に報いたいとの幸次郎のせめても&lt;br /&gt;
の心づかいであった。&lt;br /&gt;
　花隈の料亭で、一堂は天婦羅をふるまわれた。久々のごちそ&lt;br /&gt;
うに、皆、相好を崩し、カリカリに揚がった衣の歯ごたえを楽&lt;br /&gt;
しんでいた。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　宴席も、酒も入り崩れてきたころ、幸次郎の右腕的存在であ&lt;br /&gt;
った武文彦は、幸次郎から声を掛けられた。&lt;br /&gt;
　「武君。いっと（少し）」。武は宴席から離れた座敷へ招き&lt;br /&gt;
入れられた。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（この項つづく）
&lt;/p&gt;
]]></content>
	</entry>
		<entry>
	  	<author>
			<name>dr-franky</name>
		</author>
		<title>底抜け!痛快!!船成金の館（67）</title>
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		<id>http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=102</id>
		<modified>2009-10-31T23:35:52+09:00</modified>
		<issued>2009-10-31T23:35:52+09:00</issued>
		
	<dc:subject>まちなみ・建築</dc:subject>		<summary type="text/html">	　川崎造船所は、創業者の川崎正蔵が薩摩出身であったこともあ
り、同じ薩州閥である帝国海軍とともに伸びてきた経緯がある。
川崎の危機は海軍の危機であるとして、まずは政府による川崎造
船所への融資策が国会の審議に付された。
　企業の再建に政府の融資を頼むのはよくあることだが、その国
会の審議で、融資先企業のネガティブな情報が明るみに出るのも、
鈴木商店でつぶさに見てきたように、また然りである。川崎の救
済策、さらには川崎の経営状況そのものも野党勢力に徹底的に追
及される運命にあった。
	　野党側は、まず30数年にわたって社長の座にある幸次郎の責を
問うた。
　創業者の川崎正蔵から、幸次郎が造船所の経営を任されたのは
明治30年のこと。折しも社運をかけた旧湊川河口の砂州にコンク
リート造ドライドックを建設する一大プロジェクトが進行してい
る時期だった。
	　さらに、後に「榛名」と命名される巨大戦艦建造のため、今度
は36本の支柱で支えられたコレマタ巨大な鉄の檻の如きガントリ
ークレーンも築造し、第1次世界大戦の需要増にも乗った。
	　幸次郎自身も、ドイツの最新鋭の潜水艦技術を入手する密命を
帯びて、大戦後に欧州に長期出張し、ついにはＵボートの設計図
面を入手、更には独逸クルップ社のトップ技師らをジャワ経由で
日本に招き、自社の技術陣に設計、製造の「肝」を直に学ぶ機会
を作り、帝国海軍の潜水艦の水準向上に大きく貢献をした。
	　しかし、最初は潜水艦技術のヘッドハンティング・スパイのカ
モフラージュのため始めた美術品収集が、美術館建設を構想する
程までの規模に膨れ上がり、しかも大戦終結の時期を読み誤った
幸次郎は、ストックボートの余剰在庫で造船所の負債を増やす結
果となってしまった。
	　野党はこうしたあたりも念頭に、「一私企業に公金を投入する
のは憲法違反だ」と追及をした。
 また折悪く、大倉組から川崎造船所に未払い金の売掛金の支払
いを求める訴訟が起こされた。政府内でも川崎造船所救済の方針
に反対する閣僚まで現れる始末。
	　昭和2年7月、大蔵省は川崎造船所救済のための法案の廃案を発
表。巨船川崎は暗礁に乗り上げたかに見えた。
	　しかし、ここでも動いたのは帝国海軍であった。（この項つづく）　

 </summary>
		<content type="text/html" mode="escaped" xml:base="http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=102"><![CDATA[	&lt;p&gt;　川崎造船所は、創業者の川崎正蔵が薩摩出身であったこともあ&lt;br /&gt;
り、同じ薩州閥である帝国海軍とともに伸びてきた経緯がある。&lt;br /&gt;
川崎の危機は海軍の危機であるとして、まずは政府による川崎造&lt;br /&gt;
船所への融資策が国会の審議に付された。&lt;br /&gt;
　企業の再建に政府の融資を頼むのはよくあることだが、その国&lt;br /&gt;
会の審議で、融資先企業のネガティブな情報が明るみに出るのも、&lt;br /&gt;
鈴木商店でつぶさに見てきたように、また然りである。川崎の救&lt;br /&gt;
済策、さらには川崎の経営状況そのものも野党勢力に徹底的に追&lt;br /&gt;
及される運命にあった。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　野党側は、まず30数年にわたって社長の座にある幸次郎の責を&lt;br /&gt;
問うた。&lt;br /&gt;
　創業者の川崎正蔵から、幸次郎が造船所の経営を任されたのは&lt;br /&gt;
明治30年のこと。折しも社運をかけた旧湊川河口の砂州にコンク&lt;br /&gt;
リート造ドライドックを建設する一大プロジェクトが進行してい&lt;br /&gt;
る時期だった。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　さらに、後に「榛名」と命名される巨大戦艦建造のため、今度&lt;br /&gt;
は36本の支柱で支えられたコレマタ巨大な鉄の檻の如きガントリ&lt;br /&gt;
ークレーンも築造し、第1次世界大戦の需要増にも乗った。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　幸次郎自身も、ドイツの最新鋭の潜水艦技術を入手する密命を&lt;br /&gt;
帯びて、大戦後に欧州に長期出張し、ついにはＵボートの設計図&lt;br /&gt;
面を入手、更には独逸クルップ社のトップ技師らをジャワ経由で&lt;br /&gt;
日本に招き、自社の技術陣に設計、製造の「肝」を直に学ぶ機会&lt;br /&gt;
を作り、帝国海軍の潜水艦の水準向上に大きく貢献をした。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　しかし、最初は潜水艦技術のヘッドハンティング・スパイのカ&lt;br /&gt;
モフラージュのため始めた美術品収集が、美術館建設を構想する&lt;br /&gt;
程までの規模に膨れ上がり、しかも大戦終結の時期を読み誤った&lt;br /&gt;
幸次郎は、ストックボートの余剰在庫で造船所の負債を増やす結&lt;br /&gt;
果となってしまった。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　野党はこうしたあたりも念頭に、「一私企業に公金を投入する&lt;br /&gt;
のは憲法違反だ」と追及をした。&lt;br /&gt;
 また折悪く、大倉組から川崎造船所に未払い金の売掛金の支払&lt;br /&gt;
いを求める訴訟が起こされた。政府内でも川崎造船所救済の方針&lt;br /&gt;
に反対する閣僚まで現れる始末。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　昭和2年7月、大蔵省は川崎造船所救済のための法案の廃案を発&lt;br /&gt;
表。巨船川崎は暗礁に乗り上げたかに見えた。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　しかし、ここでも動いたのは帝国海軍であった。（この項つづく）　
&lt;/p&gt;
]]></content>
	</entry>
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	  	<author>
			<name>dr-franky</name>
		</author>
		<title>底抜け!痛快!!船成金の館（66）</title>
		<link rel="alternate" type="text/html" href="http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=101" />
		<id>http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=101</id>
		<modified>2009-09-24T00:00:00+09:00</modified>
		<issued>2009-09-24T00:00:00+09:00</issued>
		
	<dc:subject>まちなみ・建築</dc:subject>		<summary type="text/html">	　話は、鈴木商店の命運が尽きたその年の4月にさかのぼる。
	　幸次郎は、大戦終結後の欧州の経済情勢の見極めもあり、
造船所の汽函の買付のためフランスやイギリスを歴訪した
後に横浜へ戻った。しかし、台湾銀行に続いて川崎造船所の
メーンバンク十五銀行も恐慌のあおりで経営危機に直面し、
三週間の休業に入ったのだ。
	　十五銀行は皇族、華族関係の取引が多く「華族銀行」と
呼ばれるほどだったが，一方、幸次郎の兄・巌が頭取を務
めていたこともあってか、川崎造船所も約四千万円の融資
を受けていた。現在の貨幣価値に換算すると八百億円とも
いわれる規模である。
　その十五銀行も、鈴木・台銀ラインが「吹っ飛んだ」影
響で、取り付け騒ぎに飲み込まれたわけである。
　休業で、まっ先に影響がでたのは川崎造船所だ。職工達
の賃金を支払うあてがないのだ。事務方は鳩首額を寄せ合
い、遊休資産の売却を進めたが、運転資金の足しにはなる
という程度。
　川崎社内の変調は、すぐさま街角に現れた。
　まず、職工達が新開地の盛り場へ足を向けなくなった。
　工場の正門を出た人波は、まっすぐ家路を目指す。
　新開地の小屋はがらがら、カフェーの女給たちも手持
無沙汰で、閑古鳥が鳴いた。　
　次第に、下請け業者にもさらに仕事が発注されなくなっ
てきた。建築もそうだが源流をさかのぼれば同じ造船も
総合的、システマティックに作られる工業製品の集大成
であるから、膨大な下請け業者が干上がれば神戸を中心
とした経済圏は大打撃を蒙ることになる。
	  まず神戸市役所が動いた。黒瀬市長が、首相以下の政府
要人に川崎造船所の救済を要請する内容の電報を送り、ま
た直接面会を求めて上京した。
　これに商業会議所も追随する形で、鹿島房次郎会頭ら幹
部が関係大臣らに陳情を行うため東京行の列車に飛び乗っ
た。人員整理を行わず危機を乗り越えたい、という幸次郎
ら川崎造船所の経営陣の思いを知っているからこそ、の行
動であっただろう。　　　　　　　　（この項、つづく）　　　　　　　　　　　　

 </summary>
		<content type="text/html" mode="escaped" xml:base="http://www.nadatama.com/modules/wordpress3/index.php?p=101"><![CDATA[	&lt;p&gt;　話は、鈴木商店の命運が尽きたその年の4月にさかのぼる。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　幸次郎は、大戦終結後の欧州の経済情勢の見極めもあり、&lt;br /&gt;
造船所の汽函の買付のためフランスやイギリスを歴訪した&lt;br /&gt;
後に横浜へ戻った。しかし、台湾銀行に続いて川崎造船所の&lt;br /&gt;
メーンバンク十五銀行も恐慌のあおりで経営危機に直面し、&lt;br /&gt;
三週間の休業に入ったのだ。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;　十五銀行は皇族、華族関係の取引が多く「華族銀行」と&lt;br /&gt;
呼ばれるほどだったが，一方、幸次郎の兄・巌が頭取を務&lt;br /&gt;
めていたこともあってか、川崎造船所も約四千万円の融資&lt;br /&gt;
を受けていた。現在の貨幣価値に換算すると八百億円とも&lt;br /&gt;
いわれる規模である。&lt;br /&gt;
　その十五銀行も、鈴木・台銀ラインが「吹っ飛んだ」影&lt;br /&gt;
響で、取り付け騒ぎに飲み込まれたわけである。&lt;br /&gt;
　休業で、まっ先に影響がでたのは川崎造船所だ。職工達&lt;br /&gt;
の賃金を支払うあてがないのだ。事務方は鳩首額を寄せ合&lt;br /&gt;
い、遊休資産の売却を進めたが、運転資金の足しにはなる&lt;br /&gt;
という程度。&lt;br /&gt;
　川崎社内の変調は、すぐさま街角に現れた。&lt;br /&gt;
　まず、職工達が新開地の盛り場へ足を向けなくなった。&lt;br /&gt;
　工場の正門を出た人波は、まっすぐ家路を目指す。&lt;br /&gt;
　新開地の小屋はがらがら、カフェーの女給たちも手持&lt;br /&gt;
無沙汰で、閑古鳥が鳴いた。　&lt;br /&gt;
　次第に、下請け業者にもさらに仕事が発注されなくなっ&lt;br /&gt;
てきた。建築もそうだが源流をさかのぼれば同じ造船も&lt;br /&gt;
総合的、システマティックに作られる工業製品の集大成&lt;br /&gt;
であるから、膨大な下請け業者が干上がれば神戸を中心&lt;br /&gt;
とした経済圏は大打撃を蒙ることになる。&lt;/p&gt;
	&lt;p&gt;  まず神戸市役所が動いた。黒瀬市長が、首相以下の政府&lt;br /&gt;
要人に川崎造船所の救済を要請する内容の電報を送り、ま&lt;br /&gt;
た直接面会を求めて上京した。&lt;br /&gt;
　これに商業会議所も追随する形で、鹿島房次郎会頭ら幹&lt;br /&gt;
部が関係大臣らに陳情を行うため東京行の列車に飛び乗っ&lt;br /&gt;
た。人員整理を行わず危機を乗り越えたい、という幸次郎&lt;br /&gt;
ら川崎造船所の経営陣の思いを知っているからこそ、の行&lt;br /&gt;
動であっただろう。　　　　　　　　（この項、つづく）　　　　　　　　　　　　
&lt;/p&gt;
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