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2011年12月14日(水曜日)

ウルトラ警備隊、摩耶へ

カテゴリー: - library @ 20時00分28秒

先日、神戸新聞のサブカル企画、ウルトラセブン聖地巡礼企画関連で
灘区内のウルトラセブンロケ地を巡る取材に同行させていただいた。
灘クミンにはおなじみの第14、15話「ウルトラ警備隊西へ(前・後編)」
全編神戸、芦屋ロケの作品だが、ペダン星人とモロボシダンが話し合う
シーン、ウルトラセブンに変身するシーン、キングジョーを倒すシーン
等など多くの名シーンは摩耶埠頭で撮影された。
映像を見ながら、山の稜線、建物のシルエット等から場所を特定していく。
今回の取材は、神戸市みなと総局の「ミナトの漢(おとこ)」の皆さんに
立ち会っていただけた。
最初はうさんくさそうな顔をしていた彼らも「ウルトラセブン」「アンヌ」
と聞いて目がキラリと輝いた。
もう、いつまでたっても男の子なんだから。

「このモロボシダンの後ろに見えるのは100トンビットちゃうか?」
「50トンビットに打ち変えたいうことか」
など、ミナト用語が飛び交う。なんかかっこいい。

やがてキングジョーを倒す爆弾ライトンR30が発射されたシーンに
登場する倉庫がA号上屋と特定された。15話でペダン星のスーパー
ロボット、キングジョーを倒すのはウルトラセブンではなくツチダ博士
とドローシーアンダーソンが開発した爆弾だった。
「おー、ここか!」
40年の時を越え、あの感動の場所にいることをしみじみと噛み締める。
「えーっと、ポインターがこの辺にとまって、アンヌがこの辺にいて…」
目の前にあるのはまぎれもなくウルトラセブンの1シーンだった。

A号上屋の横には港湾労働者向けの食堂がある。
「一般の人でも利用できるんですか?」とミナトの漢に尋ねると
「使えるよ。ここは労休(港湾労働者休憩所)の中でもうまいで」とのこと。
キングジョーとウルトラセブンが戦った港を見ながら食事ができるレストラン。
これは行かねばなるまい!

食堂の名前は「ピア ハウス 摩耶1」という、お洒落なんだか無骨なんだか
よくわからないネーミングで、正式には「港湾労働者休憩所」というらしい。
「CAFETERIA」という表記とのギャップがいい感じ。
派手さはないが、港都神戸らしい施設で素敵。
この手の港湾施設は神戸港にはいくつかあり、灘区には他に同じ摩耶埠頭内に
「ピアハウスマヤ」がある。なぜかこちらはカタカナの「マヤ」だ。

長テーブルとパイプ椅子の大食堂然とした店内は、昼時のピークを過ぎたのか、
意外と静かだった。壁に貼られた「港湾新聞」などミナトアイテムがハード
ボイルド感を盛り上げてくれる。
食券を買うシステムなのだが、サンプルがないので内容がわからない。
Aセットというのがあったのでそれにした。食券を出すと好きなおかずを
2品取れと言われた。
システムは社食のようでもあるが、今はやりの「社食レシピでダイエット」の
対極を行く、高カロリーおかずがずらりと並ぶ。各種揚げ物と、少し濃いめの
味付けの煮魚や焼き魚、出し巻き玉子など、いかにもミナトの漢(おとこ)が
食べそうなラインアップが頼もしい。
鯖の塩焼きとコロッケを選ぶ。味噌汁とご飯、香の物がセットされて500円。
まわりを見るとカレーを食べている人が多い。
「しまった。ミナトはやっぱりカレーか?」
また今度食べに来ることにしよう。

ウルトラセブンに登場した、A号上屋が見える場所に席を陣取った。
「いただきまーす」

小さなカツはヒレカツだった。
ヒレカツをパクリと食べて、窓の外を見る。
「キングジョーはこの角度だよな。モグモグ」

コロッケはクリームコロッケだった。
冬はクリームコロッケだよね〜!と味わいながら窓の外を見る。
「モロボシダンがこの岸壁走ったんだよな。モグモグ」

焼き鯖の塩分をつけあわせのキャベツで中和させながら窓の外を見る。
「ソガ隊員がマドロスのかっこしていたのはこっちだよな。モグモグ」

味噌汁は海の香りがした。やはり摩耶埠頭は海草の香りが相応しい。
「アンヌもここにいたんだよな。会いたかったなあ。モグモグ」

窓の外に40年前の情景を思い浮かべながら食べる飯は格別だった。
昼下がりのアンニュイな食堂を出ると、摩耶山がくっきりと見えた。
なぜこの埠頭を摩耶埠頭と名付けたのかわかるような気がした。
震災後すっかり風景が変わってしまった摩耶埠頭だが、
ウルトラ警備隊が見上げた山や空は、きっとあの頃のままだ。

ごちそうさまでした!


2011年6月27日(月曜日)

灘区に舞った奇跡の蛍

カテゴリー: - library @ 20時30分08秒

今年は、青谷川のホタルにすっかりはまってしまった。
もちろん、佐用や西脇のようにホタルの乱舞が見られるわけではなく、
7〜8匹、多くて20匹程度で、派手さはないが滋味あふれる光は、灘区
らしいといえば灘区らしい光景だ。
ともかく数よりも街なかから数分でホタルに会えることがステキなのだ。
ホタルが乱舞する川がAKB48劇場だとすれば、空き家になった古びた
文化住宅をバックにをホタルが舞う青谷川は、三朝温泉あたりの場末の
ストリップ劇場の風情に近い。
そう、ホタルのあかりは切なさがないといけない。
青谷川のホタルのステージは8時半、11時、夜中の2時の1日3回。
定刻になると川に架かる橋の上には一人、二人と人が集まってくる。
やがて線香花火に通じる淡く切ない光が川面をゆっくりと漂い始める。

「なんで蛍はすぐ死んでしまうん?」
ホタルと言えば、灘区中郷町に住んでいた野坂昭如の『火垂の墓』
シーンが思い浮かぶが、実は「ホタル」を題材にした作品を書いた
灘区出身の作家がもう一人いる。
作家、宮本輝は3歳まで石屋川のほとりで過ごした。
『泥の川』『道頓堀川』とともに川三部作と言われる『蛍川』に描か
れている蛍は灘の蛍ではなく富山の蛍だ。
宮本が描くホタルは、野坂が描いた『火垂の墓』のホタルとは全く違う
妖しい光を放つ。しかもその数は何千匹にもなり光の川のごとく光る。

宮本は、灘区にいた少年時代に進駐軍の将校からコーラをもらったこと
を述懐している。当時進駐軍の将校ハウス、通称「チューリップ村」が
六甲台にあり、山手幹線の一部は物資を運ぶ「六甲飛行場」だった。
石屋川の土手に向かって米軍の輸送機が飛び立っていくのを、宮本少年
も見上げていたに違いない。
そして、むっとするような梅雨の夜には、石屋川に舞うホタルを見た
かもしれない。
日本を代表する「蛍文学」の2作品が、灘区民の手によるという奇跡に
思いを巡らせるとき、青谷川や六甲川のホタルの輝きが一段と増す。
間もなく灘区のホタルの季節は終わるが、この夏は2人の描く対照的な
ホタルのあかりを味わってみてはいかがだろうか。


2009年8月5日(水曜日)

灘一千一秒物語

カテゴリー: - library @ 12時00分29秒

70年ぶりに関学の夏の甲子園出場が決まった。
実は灘クミンにとってもよろこばしいニュースだ。
ご存じのように、関西学院は1889年(明治22年)に現在王子動物園のある原田の森に創立された。
今から80年前には、「灘の関学」は夏の甲子園で全国優勝も果たした。
(余談だが甲子園常連校の報徳学園は関学の北、現在の海星の地にあった。
 つまり報徳も灘区にあったのである)
そんな縁でこの夏、灘クミンと甲子園がつながる。

関学発祥の地

原田の森の関学と言えば、やはり稲垣足穂を忘れるわけにはいかない。
足穂は1914年(大正3年)に関学に入学し1919年(大正8年)までの5年間
西灘村で学園生活を送った(自宅は明石)。
稲垣足穂といえば星と月が思い浮かぶ。
無類の天体狂だった稲垣作品には星や月が頻繁に登場する。
といっても、甘ったるくロマンチックなものではなく、灘酒のようにあくまでも辛口だ。
足穂の描く星と月は、ユーモラスで、時にはいたずらものだったり、暴力的だったりする。
人間だって負けていない。星や月を銃で撃ったり、石を投げつけたりする。

今回紹介する稲垣足穂の『一千一秒物語』は、月や星と「ぼく」の格闘を描いた絵本のような
掌編集である。
ほとんどが夜の物語であるが、モダンで都会的、しかしのんびりとした郊外感のある
神戸の夜の空気感が、行間とたむらしげる氏のイラストレーションから心地よく漂う。

もちろんナダタマで足穂文学を真正面から紹介するつもりはないので、
あくまでも足穂が闊歩した灘を切り口に斜め読みしていきたい。

「投石事件」は、主人公が月に石を投げることから始まる。
石は見事に月に命中する。怒った月は地面に下りてきて「ぼく」を追いかける。
「ぼく」は一生懸命に逃げる。
垣を越え、花畠を横切り、小川をとび、踏切を抜けようとしたら急行列車に行く手をはばまれ
「ぼく」は月に捕まってしまった。
この作品は是非とも灘視点で読解していただきたい。
「垣」は関学の垣で、「花畠」は与謝蕪村も詠んだ灘の菜の花畑、「小川」は青谷川、
行く手をはばんだ急行列車は阪急電車、などと想像しながら読むとタルホの世界が
一気に身近になり、いつもの散歩道もキラキラと輝きだすかもしれない。

「A MEMORY」で描かれた、月の光がシンシンと降り注ぐ、幻想的な山並みは
おそらく摩耶六甲ではなかろうか。
トンコロピーピーという笛の音は、クロツグミの鳴き声か。
関学のレンガ造のチャペルや芝生越しに見える摩耶は、きっと日本離れした
光景に見えたであろう。
関学から真正面に見えた摩耶山では、8月8日の深夜、つまり8月9日の午前0時に
天上の星が集まり天上寺の観音様に降り注ぐ日とされている。
神戸の人たちはこの時を目指して、摩耶山・天上寺を目指したという。
その光景を目にした外国人の新聞記者が天上寺を「Moon Temple(月の寺)」
と名付けて記事にした。
足穂もこの不思議な真夏の光景を目にしたかもしれない。

『一千一秒物語』にはこんな話もおさめられている。
ある人がこう言った。
「きみはあの月も 星も あんなものが本当にあると思ってるのかい」
「うん そうだよ」
とうなずくと、こんな答えが返ってくる。
「ところがだまされてるんだ あの天は実は黒いボール紙で 
 そこに月や星形のブリキが貼付けてあるだけさ」

8月は是非摩耶山で、あるいは原田の森で、足穂が愛した神戸の月と星が織りなす
一千一秒物語を楽しんでいただきたい。

上野踏切道

「ぼく」が月につかまった(かもしれない)踏切

[摩耶山で月と星を楽しむイベント]
※詳細は各リンク先イベント情報で

2009年8月7日(金)
摩耶山笹おい七夕まつり+ショートムービー紙芝居型上映会

摩耶山七夕笹おいまつり ホシアゲル 

2009年8月8日(土)
四万六千日大祭(ここのかび)

四万六千日大祭 

2009年8月28日・29日
摩耶山オープンテラス ステラ451

ステラ451 


2009年5月25日(月曜日)

おっちょこちょいの町

カテゴリー: - library @ 12時00分10秒

別冊暮しの手帖 保存版 300号記念特別号


別冊暮しの手帖 保存版 300号記念特別号(暮しの手帖社)
発売:2002-12/定価:¥1600

小さいころ、母の買ってくるいわゆる「家庭書」にはまったころがあった。
中でも『暮らしの手帖』がお気に入りで、えも言われぬ質感のある写真、絵本の
ような挿絵は私の心に確実に点を打った。
これらの仕事が孤高の編集者、花森安治の手によるものだということを知るのは
もっと後になってからだが。

編集者であり、コピーライターであり、デザイナーでもある花森安治は神戸で生まれた。
雲中小学校から神戸三中(現長田高)に進んだというから、残念ながら灘クミンではない。
その風貌、グラフィックセンス、批判精神、どれをとってもモダンだった。
そして何より「暮らしを眺める視点」がすばらしい。
彼のコラムにこんなフレーズがある。
「ぼくは飛行機のような高い空ではなく、地上2、30メートルの高さからみんなの
暮らしを眺めたい」
一時私もこれをもじって「地上2、30センチの高さから灘クミンの暮らしを眺めたい」
と書いたことがあるくらい影響を受けた言葉だ。

『別冊暮しの手帖300号記念特別号』の中に1963年の9月に発行された『暮しの手帖71号』
に掲載された「日本紀行 その1 神戸」というコラムが収録されている。
今回はそれを紹介したい。
故郷の姿を独特の筆致で綴ったコラムはこんな書き出しで始まる。

  神戸の町は歩きやすい町である。
  立ちどまって、道をたずねてごらんなさい。そこを右へ曲がってとか、まっすぐ
  行って四つ角を左へ曲がって、というのが、ふつうの町の返事である。
  神戸の人は、そんなふうには言わない。

このコラムが発表された1963年と言えば神戸港が世界有数の貿易港だったころ。
港から見える、六甲摩耶の風景がいかに素敵であったかが描かれている。
神戸にはそんな「天然の育ちの良い」風景があったのだが、その一方湊川神社のような
名所旧跡の殺風景さをこんな風に表現している。

  いったい、この町のひとは、いわゆる「名所旧跡」に、大して興味がないのである。
  日本中、どこの町ともちがう気風が、ここにある。(中略)古いもの、亡びゆくもの、
  過ぎ去ったものには、みれんもなければ、執着もないのである。
  「今日」と「明日」だけに、生きているのである。

ああ、なるほどと思う。
周りを見渡しても、そんな人が多い町だと思う。
明るくて、あきらめが早くて、ねばりっけがないのが神戸の気風なのだ。
だからナダタマなんていう、過去の町をネチネチとつっつくような非神戸的なサイトは
大して見向きもされないのだろう。

灘の山に関しての記述も興味深い。
彼によると、六甲山は「登る」所ではなく「行く」所だという。
そして町の中に公園が少ないかわりに、どこからでも5〜30分で行ける
六甲、摩耶という「大きな公園」があるではないかと説く。
東京なら何時間もかけて行くところを、気分次第ですぐに飯ごうすいさんに
出かけられる。そして山にはコーヒーの煮だし方や、トーストの「バタ」に
こだわる茶店のおばさんがいる。
幸せな町である。

  「しゃない」
  この町の人の口ぐせで、しょうがない、という意味だが、しかしあきらめのひびきはない。
  せっぱつまって、それでは、と立ち上がるときに使われる言葉である。

このコラムから32年後の阪神・淡路大震災のとき活躍したのがこの「しゃない」という
言葉だった。
過ぎ去ったものには、みれんもなければ、執着もない神戸っ子はやがて山を崩し始める。
コラムにはまだ新六甲大橋がかかっていない表六甲ドライブウェーから望む、造成中の
東部第二工区や鶴甲山(現在の鶴甲団地)が掲載され、こんなコメントがつけれれている。

  それ(山を崩して海を埋め立てる)くらいのことだったら、どこの町でも考えつくだろう
  その山をくずした土を、海へはこぶ、その方法が奇想天外なのだ。

鶴甲山でくずされた土地は、地下のベルトコンベアで海へと運ばれた。
今の鶴甲から徳井へまっすぐ下る、通称徳井幹線の下にはベルトコンベアが動いていた。
すごいというか、なんとも「おっちょこちょいなシステム」だと思う。

花森は続ける。
「新しいもの珍しいものは、たいていこの町からはじまるらしく、日本でいちばん早く
ゴルフ場ができたのもこの町だし、麻雀がまっ先に流行したのもこの町」
だが、先週またもやこの町から新しいものが流行してしまった。
新しいもの好きもほどほどにして欲しいと思う。
本当におっちょこちょいだと思う。
そして正直な町だと思う。
でも、私はこのおっちょこちょいさや、正直さはもっと誇りにしていいと思う。
国内初の新型インフルエンザが発生した町だということを、灘区民、そして神戸市民は
誇りにしてよいのだ。
どの町より真っ先に発表して、真っ先に対応したのだから。
東京の感染者が3人だけなんて絶対にありえないはずだ。

花森はこのコラムをこんな言葉で締めくくっている。

  明るくて、ハイカラで、すこしばかりおっちょこちょいで、底ぬけ楽天的で、
  それでいて必死に生きている。神戸はそういう町である。
  これからの日本が、大切にしなければならない町の一つでもある。

今日から、多くの学校の休校が解除された。
「しゃないなあ」
すこしばかりおっちょこちょいの灘クミンは、ぼちぼちマスクをはずし始めるはずだ。


2009年4月28日(火曜日)

ケーブルカーを愛する人へ

カテゴリー: - library @ 11時40分06秒

神戸の人がもっと自慢していいものの一つにロープウェーとケーブルカーがあると思う。
西から須磨浦ロープウェー、布引の夢風船、摩耶ケーブル、摩耶ロープウェー、六甲ケーブル、
六甲有馬ロープウェー。
実に6つもの索道、鋼索鉄道がある。
日本でこんな街は他にはないだろう。
市民と山との濃密な関係を表したものだと思う。
ロープウェーとケーブルカーはいわば神戸市民と山との「へその緒」なのだ。
しかし古くから街と山をつないでいた「へその緒」達も現在では経営が苦しいという。
5年前に大パノラマを誇った六甲有馬ロープウェー表六甲線が休止に、
そして昨年日経新聞に掲載されたショッキングなニュースに驚かれた方も多いかと思う。
まやビューライン(摩耶ケーブルと摩耶ロープウェー)の運営継続が難しいという記事。

大正14年に摩耶山天上寺の参詣客を輸送するために敷かれた摩耶ケーブルは
80年以上の歴史を誇る老舗のケーブルカー。
そして摩耶山の母「摩耶夫人(まやぶにん)」と灘クミンをつなぐ大事な「へその緒」である。
水害、戦争、水害、そして震災と大きな困難に出会い、その度に復活してきた、
灘クミンにとってはフェニックス(不死鳥)のような存在でもある。
阪神淡路大震災で被災し長期休止になった時は、さすがにもうこのまま廃止かと思われたが
平成13年、灘クミンをはじめ多くの署名で四たび息を吹き返す。
まさに神戸の街の復興のシンボルだった。

市民に愛されたケーブルといえば、サンフランシスコのケーブルカーが有名だが
今回の灘文化堂はそんなケーブルカーとサンフランシスコっ子の
愛を描いた絵本『ちいさいケーブルカーのメーベル』を紹介したい。
実際にサンフランシスコで起こった事件を元にした物語だ。




坂と海にはさまれ、神戸と似た街サンフランシスコ。
1906年のサンフランシスコ大地震の前は8つものケーブルカー会社があったという。

 メーベルはケーブルカー。
 サンフランシスコの さかみちを チンカン……チンカン
 のぼって くだって むきをかえ、
 もときた みちを また のぼります。

主人公のサンフランシスコ自慢のケーブルカー「メーベル」は働きもの。
彼女はこの街の移り変わりをじっと見つめてきた。
そして街が眠りにつく頃、
メーベルは昔話を始める。

 おぼえてる? この町が 小さくて、
 みんなが たがいに かおみしりで、
 だれも いそいだり、いらいらしたり、しなかったころのこと。
 むかしは よかったわねぇ。

サンフランシスコは大火にも見舞われた。
メーベルはそんな恐ろしいできごとはめったに思い出さなかったが
どんなに早く町が立ち直ったかを思い出したりした。
しかし町が大きくなるにつれ、ケーブルカーは忘れ去られていく。
それでもけなげに市民のためにはたらくメーブル。
メーブルは自分の町と、自分の仕事と、そして町の人が大好きだったのだ。
しかし、サンフランシスコ市会はそんなメーベルを見捨てようとする。
ある日、大型バスのビッグ・ビルにこんなことを言われる。

 きみたちは きゅうしきで じだいおくれ(中略)
 そのうえ、もうからないのが いちばん こまる。
 (市会)ぎいんさんが のぞんでいるのは スピードと はってん。
 それに やすあがりなこと。

まもなくサンフランシスコ市のケーブルカー廃止計画が市民の間で噂になる。

 「ケーブルカーがなくなる? ざんねんだな。それが はってんと いうものか」
 「さびしくなるなあ。この町から ケーブルカーが なくなったら、ほかの町と おんなじだ」

だが一人の市民が声を上げた。

 「とんでもないわ。わたしたちの町でしょう? それは わたしたちで きめましょうよ。」

そしてやがて市民の声は大きくなり、住民投票へ。
ここからのくだりは民主主義の原理や手続きなどがドラマチックに展開され、なんともアメリカ的
なバタ臭ささが漂うが、なんとかケーブルカーは残されることになる。

現在、神戸のケーブルカー、ロープウェーはかつてのメーベルと同じ状況にあるのかもしれない。
これまで灘区民はなんとか摩耶山に活気を取り戻そうと、山上ビアガーデン(ステラ702、451)や
山上市(摩耶山リュックサックマーケット)を開催してきた。
しかしそんな中での摩耶ケーブル存続困難のニュース。
このまま黙って指をくわえていてもしょうがないし、かといって声高に「廃止反対」を叫んだり
署名活動をしたりする気もさらさらない。
さらに何かクミンにできることはないか?
単に一鉄道を残すというのではなく、「へその緒」を切られることで摩耶山との関係も切れてしまう
のでは?そんな危機感もあって我々は昨年末に勝手連的なまやビューライン応援団
「摩耶ビューラインサポータースクラブ(仮)」を立ち上げた。

その第一弾プロジェクトがいよいよ4月29日から始まる。
「摩耶ケーブル駅弁製作販売」。
おそらく80余年の摩耶ケーブルの長い歴史の中でもなかったであろう「駅弁」を灘クミンの手で作り
こっそり販売する。
もちろんこの弁当でケーブルカーの存続に寄与するほど増客できるなどこれっぽっちも思っていない。
これは灘クミンの「意思表示」であり、摩耶ケーブル、ロープウェーへの「ラブレター」なのだ。

メーベルは思い出す。

 おぼえている? にちよう日の ごごは こうえんや うみべへ 出かけ、
 おやすみの日は 1日じゅう えんそくに 出かける人々を のせていった ころのこと。

摩耶ケーブル、ロープウェーもサンフランシスコ市民に愛されたメーベルのように
クミンに愛される鉄道であって欲しい。
そんな想いを込めて、僕らは駅弁を売る。


摩耶ケーブル駅弁販売

日時:4月29日(祝)
   12:00〜
場所:摩耶ロープウェー星の駅前
個数:先着限定29食
   限定品のためお一人様1個まで
企画販売:摩耶ビューラインサポーターズクラブ(仮)
製作:新家(東畑原市場)

とりあえず第一弾「春弁」販売です。
今回は摩耶山からの風景を詠んだ与謝蕪村の春の句「菜の花や月は東に日は西に」
を弁当で再現。
摩耶ケーブルの最大傾斜「29度」にこだわった、ビジュアルコンセプト。
灘の食材にこだわったテイストコンセプト。
好評であれば毎月販売予定でっす。


2008年11月5日(水曜日)

摩耶山で本を読んだ日

カテゴリー: - library @ 09時00分27秒

・・・摩耶山でゆったりと過ごす・・・

摩耶山リュックサックマーケットと同じような、山の過ごし方提案イベント
「山の図書館〜摩耶山で本を読む日」を11月1日と2日の両日、摩耶山上で
開催しました。
まあ、思った通りのユルいブースになりました。
なんせただ「山で本を読んでください」というイベントなのですから。
ゆるいのなんのw
山上の貸本屋「摩耶山文庫」では103冊の灘の本、山の本を用意。
村上春樹、稲垣足穂、竹中郁、久坂葉子、島尾敏雄、
そして中村よおさんの酒場本などの灘ゆかりの作家の灘本、
新旧とりそろえた六甲山のガイドブック群、
近松門左衛門の摩耶本などを1日限り無料で貸し出しました。

流石山上だけあって人気があったのは、古い六甲山のガイドブック
『六甲山ハイキング』。
著者の大西雄一氏の名文がたまんない。
これが摩耶山や六甲山に行きたい気持ちを増幅させてれる文章なんです。
「わ〜これ持ってたわ〜!」
「ようこんなん持ってるな〜兄ちゃん」
「懐かしい〜!」
「ぼろぼろになるまで持ち歩いたなあ」
「ワシが就職したときに出た本や」
など、ハイカーの皆さんから本にまつわるエピソードも聞くことができました。
この本は昭和38年に発行されたのですが、神戸市民必携の六甲山ガイドブックと
いっても過言ではありません。かなりの率でご家庭にあるのでは?

あと、意外と人気があったのが
『落ち葉で調べよう どんぐりのいろいろ』『どんぐりノート』『どんぐりのいろいろ』の
子ども向け絵本。
子どもたちに引っ張りだこで、三冊あった本は常に貸し出し状態。
ひろってきたどんぐりの種類を絵本で確かめたり、
ハンモックに寝転がってユラユラ読書したり、
お母さんの読み聞かせが始まったり。
パラパラと立ち読みして立ち去って行く大人たちが多い中、子どもの方が
このイベントの主旨を理解してくれているような気がしました。
そう、摩耶山って意外とせかせかしている人が多いのですよ。
本を勧めても「先を急ぐので」とか「何時にどこそこに到着しないといけないから
そんな暇は無い」とか…
リュックサックマーケットのときも感じましたが、ハイカーって結構せっかちなんすね。
ハイカーにとって掬星台ってゆったりする場所ではなく、通過点なのでしょう。
もったいないなあ。
そんな中、何人かの参加者の方から感想をいただきました。
「山の上でゆっくり本を読むのって気持ち良いですね」
ありがとうございます。

それと、やっぱりハンモックの実力に恐れ入りました。
いやこれで本読むの、むちゃくちゃ気持ちいいっす。
真っ青な空と色づきかけた木々、心地よい秋風、そして本。
ハンモックに寝転びたいから本を借りた人もいたくらいですから。
レンタルハンモックを掬星台名物にしてもいいかもしれませんね。
夏は星空が眺められますから。

ということで、今月11月15日(土)の摩耶山リュックサックマーケット
再び摩耶山文庫を開店することにしました。
もちろんハンモックも持って行きますので。
今回来れなかった方も是非お立ち寄りください。

秋の1日、摩耶山でゆったりと本を読む。
皆さんのご来店をお待ち申し上げます。

「摩耶山文庫@摩耶山リュックサックマーケット
日時:11月15日(土)11:00〜16:00
場所:摩耶山掬星台 リュックサックマーケット会場


2008年10月28日(火曜日)

摩耶山文庫開設のお知らせ

カテゴリー: - library @ 18時30分41秒

灘区もズルズルと秋めいてまいりました。
皆さんいかがお過ごしでしょうか。灘文化堂店主です。
今回は今週末連休に開催される灘文化堂がらみのイベントのご案内です。
最近山で本を読んでいますか?
え?山なんかで本読まないって?
だまされたと思って摩耶山で本を読んでみてくださいよ。
とてもすがすがしいですから。

本好き灘クミンならリュックサックに文庫本を入れて摩耶山に登り、
山上のベンチで寝転がって青空の下、本を読んだことが一度はあるはず。
市街地からすぐの天然の書斎、摩耶山で読書を楽しんでいただく企画が
今回開催する「摩耶山文庫〜摩耶山で本を読む日」です。
摩耶山中には素敵な読書スポットがたくさんあります。
山に点在するベンチやテーブルを山の書斎として使ってみようという試みです。
桜谷の川沿いのベンチ、明るい掬星台のベンチ、360度パノラマの天狗塚
湖面が美しい穂高湖畔のベンチ、雄大な景色がのぞめる夕陽ケ丘や天上寺金堂回廊…
どうぞ気に入った場所でのんびり本を広げてください。
また摩耶山文庫ブースでは、灘ゆかりの作家や灘が舞台になった小説、
めずらしい昔の六甲山ガイドブックなど灘区にまつわる本を貸し出しいたします。
文化堂店主は2日とも山上におりますので、ぶらりとお越しくださいませ。

水辺のレスト サンライズベンチ
天上寺金堂回廊 紅葉ベンチ
穂高湖畔ベンチ 夕陽ケ丘ベンチ

「摩耶山文庫〜摩耶山で本を読む日」
日時:11月1日(土)・11月2日(日)11:00〜16:00
受付:摩耶山掬星台 摩耶山文庫ブース(アートフェスティバル摩耶山:掬星台会場)
参加費:無料
主催:灘区役所
協力:灘文化堂(ナダタマ)

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天狗塚


2008年7月21日(月曜日)

阪神間少年の故郷

カテゴリー: - library @ 23時55分12秒

一昨年、ひょんなことから神戸高校110周年誌の編集(というほどのものではないが)
のお手伝いをさせていただいた。その中の学校に残された宝物(というほどのものでは
ないが)を紹介する「校史カタログ」という章に1965年8月13日の学級日誌が掲載された。
「ホームルーム:みんなさぼっていた」
と書かれたその日の「日番」の欄には村上春樹氏の名前があった。

氏の『辺境・近境』という旅行エッセイ集に、「神戸まで歩く」という章がある。
震災後の97年5月に西宮から神戸まで歩いた「旅行記」である。
芦屋〜神戸で十代の大半を過ごした氏は「コンサートに出かけたり、古本屋で安いペーパー
バックを漁ったり、ジャズ喫茶に入り浸ったり、アートシアターでヌーヴェルヴァーグの映画
を見る」VANジャケットを羽織った典型的な「阪神間少年」だった。
しかし彼には、故郷と自分を結びつける絆はもはや存在しなかった。
そして95年の震災。
彼は再び故郷を歩く。

西宮から夙川へ。
歩いてみても「さっぱり記憶がない」状況。
やがてそれは震災のせいだということがわかる。
かつて砂浜だった芦屋の浜は埋め立てられ高層住宅が建てられている。
別の暴力による、故郷の喪失。

芦屋から神戸へ。
震災の傷跡がまだ生々しく残る街。
夏草が繁る空地や、建築現場と自分との絆が見えない。

そしてついに、灘区へ。
阪急六甲。
「駅前のマクドナルド」で休憩し、「せっかくここまで来たのだから」と
母校へと向かう(いや彼の中には母校という概念はないだろうが)。
グラウンドの前でかつて眺めた海を見下ろしながらじっと耳を澄ませるが、
彼の耳には何も聞こえてこない。
海も山もそこにあるのに。

 「過ぎ去ってしまった風景は、もう二度とはもとには戻らないのだから。
  人の手によっていったん解き放たれた暴力装置は、決して遡行はしないのだから。」

故郷なんかにこだわらない、コスモポリタン的な発言をしてきた村上氏に明確な故郷の
記憶があることに驚いた。
しかし彼の中での「故郷」とは、芦屋であるとか灘であるとか地名によって規定される
場所ではないことがよくわかる。
そしてそこに残っている(はずの)風景にも興味を示さない。
彼が愛した(いや、おそらくそんなに愛してもなかっただろう、すごく低温な)
故郷はもはや記憶の中にしかないのかもしれない。
だからといってノスタルジーに浸ったりすることもない。
これは彼特有の感覚ではなく「阪神間少年」としては至極普通の態度だと思う。
エトランゼな街コウベには、場所にこだわる「ナダタマキッズ」より
「阪神間少年」が似合うのかもしれない。(いささか自虐的に)


2007年9月10日(月曜日)

伯母野山から愛を込めて

カテゴリー: - library @ 18時50分34秒

「神戸ものがたり」(陳舜臣著)

作家陳舜臣さんは灘区伯母野山に住んでいた。
しかも「灘区の中心で愛を叫ぶ」で有名な六甲学院正門前。

中国史を基盤とした歴史小説家として著名な陳さんが初めて
小説以外の作品として書いたのが『神戸というまち』(昭和40年)。
その16年後に改訂版の『神戸ものがたり』が出版され、さらに
16年後今回紹介する文庫本の『神戸ものがたり』が出版された。
陳さんの描く「神戸本」の醍醐味は、神戸に生きた人のものがたりを
通して街のものがたりを紡ぎ上げるところにある。
六甲山の開祖グルームを始め、原田の森を闊歩した稲垣足穂、
谷崎潤一郎、モラエス…かれらの生き様を通してあぶり絵のように
神戸のまちが浮きあがってくる。
ジャンジャン横町、メリケン波止場、布引、六甲、須磨…。
凡百の「神戸本」とはわけが違う。
もう聞きたくもない、ハイカラだのエキゾチックだのという神戸を
語る常套句も少ない。

神戸独特の風土を陳さんは「軽い精神」と呼ぶ。
伝統もなく、多方面から寄り集まった街の人々は極端に現実的で
時には悪趣味である。
振り向かない街であり、軽率で先走りな街なのだ。
先駆者になりうるが、大成はできない。
それは幾度もの破壊と再生が繰り返されている街であることも
関係しているのかもしれない。
陳さんも大水害、戦災、そして震災と大きな苦難を乗り越えて来た。

「古いもんはいずれなくなるんヤ」
「新しいもんもまた古くなるんヤ」
灘駅が建替えられようと、赤坂の家がなくなろうと、大正銀行が取り壊されようと
あまり気にしない、ある意味達観したような灘区の古老たちの言葉にも
「軽い精神」はリンクする。

しかし陳さんはその「軽さ」にも疑問を呈している。
そろそろ神戸も振り返る時期に来ているのではないかと。

陳さんは「灘区の中心で」震災の日を迎えた。
本書には何年経っても何度読んでも涙腺が緩む、震災直後1月25日の
神戸新聞朝刊1面に掲載された被災した神戸市民へのメッセージ
「神戸よ」も収録されている。

—————————————————————————————————−
神戸よ

我が愛する神戸のまちが、潰滅に瀕するのを、私は不幸にして三たび、
この目で見た。水害、戦災、そしてこのたびの地震である。大地が揺らぐ
という、激しい地震が、3つの災厄のなかで最も衝撃的であった。
私たちはほとんど茫然自失のなかにいる。
それでも人々は動いている。このまちを生き返らせるために、けんめいに
動いている。亡びかけたまちは、生き返れという呼びかけに、けんめいに
答えようとしている。

(中略)

神戸市民の皆様、神戸は亡びない。新しい神戸は、一部の人が夢見た神戸では
ないかもしれない。しかし、もっとかがやかしいまちであるはずだ。人間らしい、
あたたかみのあるまち。自然が溢れ、ゆっくり流れおりる美わしの神戸よ。
そんな神戸を、私たちは胸に抱きしめる。

—————————————————————————————————−

震災から12年が経った。
神戸は、いや灘区は美わしく、かがやかしいまちになっているだろうか?
やはりそろそろ神戸も振り返りながら未来を見つめる時期に来ているのかも
しれない。


2007年8月6日(月曜日)

摩耶とマヤと南島と

カテゴリー: - library @ 10時30分50秒

「硝子障子のシルエット―葉篇小説集」(島尾敏雄著)

作家、島尾敏雄は1917年に横浜で生まれた。
1925年、父親が輸出絹織物売込商を営んでいた関係で、一家は兵庫県武庫郡西灘村
(現灘区)に転居し、島尾は西灘第二尋常小学校(現稗田小学校)に転校することになる。
ここで彼は「小兵士」という本を自主製作する。
小学生で執筆、印刷、製本まで一貫制作というのもすごいが、定期刊行していたというから
これまた驚きである。
彼の活字、本に対するなみなみならぬ愛情はこのとき熟成されたにちがいない。
島尾文学のルーツでもあるこの本には、空観堂や摩耶山など、小学生の視点で
綴ったおだやかな灘の風景が綴られている。
やがて日本は戦争に飲み込まれ、自爆型特攻艇「震洋」の特攻隊長と
して奄美大島へ赴任、ここでの体験が「島の果て」「出発は遂に訪れず」
などの戦争私小説を生み出す事になる。
戦後、彼は再び灘(篠原北町1)に戻り、当時灘区にあった神戸外大の教壇
に立つ。このとき富士正晴らとメイドインナダの文芸同人誌「VIKING」を
発刊。この同人では阪急六甲駅で命を絶った「元祖天才少女」久坂葉子とも
出会っている。

今回紹介する、葉編小説集「硝子障子のシルエット」には、横浜生まれ神戸育ちの
彼が描いた神戸、灘の「平穏な日常のありふれた出来事」が数点収められている。
(葉編とはおそらく島尾が命名した小品小説のジャンル)

  「神戸では街の真ん中にいても顔を上げれば六甲や摩耶の山なみが見えたし
   (中略)はっきりとそれを意識しなくても、いつも眼の向こうに海や山の
   自然の姿があって、それに接していられるということは、いわば自分たちも
   その自然の一部分であることをいつとはなしに考えの中にしみ込まされて
   いることなのだった。そこでは、自然は丁度表札に掲げられた父の名前の
   ように、こちらで知らん顔をしていても、いつのまにか庇護して呉れる姿勢
   になって身辺にあったといってよかった」(硝子障子のシルエット)

摩耶山、六甲山が灘人の人間形成に深く関与していることは周知の事実である。
大阪や東京へ行った時、しばしば灘人にあらわれる動悸、息切れ、めまい、頭痛、
夜泣き、胃部不快感、げっぷ、おくび、便秘、軟便などの諸症状は、いわゆる
「六甲摩耶症候群(ロッコウマヤシンドローム)」と言われているもので、
そのことにもちゃんと触れている。
また、摩耶六甲にはかなりのこだわりがあったようで、

  「わたしに二人の子供がいます。六つに四つ。上の男の子は、六甲、下の
   女の子は摩耶、という名前です」(ニャンコ)

こんな下りではじまる作品「ニャンコ」と同様、実際に彼は愛娘を「マヤ」と命名した。
余談であるが「マヤ」は南島では猫を意味し、後の奄美暮らしとのダブルミーニング
になっている作品である。
(さらに余談ではあるが、なぜカタカナのマヤにしたのかというと、別に彼が
灘「クミン」だからというわけではなく、灘区役所に出生届を出したときに摩耶の
「耶」の字が人名に使えなかったからだそうだ)

灘〜奄美〜灘〜奄美と移り住んだ彼は、南島研究に没頭し、やがて「ヤポネシア論」
を発表する。
おだやかでゆるやかで慈悲あふれる島々の集まりとして日本を理解しようとした。
そこには「美しい国」だの「品格」だの、押し付けがましく、強権的に日本を
「ニッポン色」一色に塗ってしまおうという中央の傲慢な態度ではなく、南島からの
視点で多様で緩やかな島々の営みから日本という国を考えるという姿勢だった。
(ヤポネシア論に関してはナダログ「沖声灘語」担当のうちなだんちゅ氏が
取り上げられることと思うので、この辺で)

灘的には「火垂の墓」が定番戦争小説であるが、今年の夏は島尾文学を読んで
終戦記念日を過ごしてみることをナダタマ的にはおすすめしたい。
場所は、島尾が好きだった摩耶山…
そう、穂高湖のほとりで足を水に浸け、ヒグラシの声を聞きながら。


2007年5月15日(火曜日)

芳醇な残り香

カテゴリー: - mj-soul @ 09時30分00秒

「昭和の夢」の想像かき立てるアーチ窓の駅舎。蝉しぐれ降る路地裏に置き忘れたような寿司屋。
太いケーブルをゆっくり巻き上げるプーリー(滑車)。鉄鋼マンの心意気を伝える巨大高炉の威容。
灘を、神戸を知るほど、親しみ深く、誇らしくも感ずる情景がこの本にはいくつも刻まれている。
順に、JR灘駅、彦六寿司、摩耶ケーブル、神戸製鋼・神戸製鉄所。
< 白と黒=光と闇>だけで描き出すシャープなモノトーンの切り絵。行間から豊穣なイメージがこぼれる見事なエッセイ。成田一徹の真骨頂といえる1冊である。

成田さんと初めて会ったのは15年ほど前、元町の路地にあるバーだった。
僕は就職で神戸に来て間もなかった。成田さんが東京から帰るたび、その店で顔を合わせ、話をするようになった。そんなころ、僕は言ったことがある。
「神戸ってあんまり好きじゃないんですよね」
直前までお気楽な学生時代を満喫した京都に未練があったし、兵庫県、とりわけ神戸に根を張る当時の会社に「染まりたくない」という思いも強かったから、物を知らない若造は生意気にも言ってのけたのだった。
すると、いつも温厚な成田さんは心底不服そうな顔になり、「なんで?」と問うてきた。そして、自分はいま東京にいるが、いかに故郷の神戸が好きか、いかに趣のある街かを、静かに、しかし熱っぽく語り始めた。いや、正確には、いかに趣のある街「だった」かを。
数年後、震災が起きた。成田さんの好きだったバーや街の小さな風景が、いくつも消えた。3月ごろに会ったとき、成田さんは、震災の瞬間に神戸にいられなかったことを申し訳なく思う、と言った。「何もできない自分が歯がゆかった」と、作品展の売り上げを震災遺児のために寄託した。
さらに数年後、長いインタビューをさせてもらった。変わってゆく街への複雑な思いを語り、温めている企画があると話してくれた。
「神戸が神戸であったころの残り香を探して作品にしたい。どっしりと構える居留地の古いビル、山の手の名もない洋館、造船所に近い古びた飲み屋街。感傷に過ぎるかもしれないけど、消え行く風景へのオマージュ(献辞)を残したいんです」(※1)

想いは数年後、かたちになった。「神戸の残り香」という連載が新聞紙上で始まったのだ。(※2)
月に1度の帰郷のたび、絵心を誘う風景を求めて街を歩いておられた。ときどきお会いすると、「大変だよ」とこぼしながら、「でも、これは僕のライフワークだから」と、照れくさそうに付け加えた。そして、酔うほどに、話はやっぱり懐かしい神戸への思いと、いまの姿への嘆き節になる。いかに陰影に乏しい街になったか、便利できれいで安全かもしれないが、なんて薄っぺらな風景になったのか……。
「切り絵は、黒と白だけの陰影の世界。切り過ぎるとだめなんです。街も一緒だと思う。街のひだというか、文化の蓄積や生活のにおいを感じる部分があるからこそ、想像が膨らむし、愛着を感じる」
酒場のカウンターに並んで聞く“成田節”はいつも変わらず心地よかった。
夜の水道筋〜畑原市場にお連れしたときには、naddist氏らと、ここぞとばかり「灘にはこんなええネタもありますよ、あんな風景もありますよ」と売り込んだ。本に刻まれた灘区の風景は11。兵庫区と並んで2番目に多い。われわれの“泥酔セールス”は功を奏したのかどうか…。

昨日から、成田さんの神戸にまつわる作品を集めた個展が新開地で始まった。(※3)
「新開地音楽祭」の一環らしく、“音の流れる街角”とタイトルがついている。
モノクロームの世界に封じ込められた芳醇な残り香を味わいに行こうと思う。

(※1)2001・1・12付神戸新聞より。
(※2) 神戸新聞夕刊2003・4・3付「大阪商船三井ビル」〜2005・7・7付「ポートタワー」の50回連載。
    単行本化時に30点を加え、計80点を収録している。
(※3)神戸アートビレッジセンターで5・20(日)まで。火曜日休館。


2007年2月14日(水曜日)

岩屋の出口を固めろ!

カテゴリー: - mj-soul @ 07時00分00秒

  「ヤツは阪神電車の地下線へ逃げ込んだッ」「岩屋の出口を固めて待ち伏せろッ」
  歯をむき出して受話器に怒鳴りつける特高の警部(※1)。
  追われる男は協合通信大阪社会部記者、峠草平。
  学生陸上の花形選手だった自慢の足で逃げる。真夜中の線路を三宮から東へ。
  「こ…この…重要文書のために…ドイツでも日本でもおれは…いつでも追われる身なんだ」

1938(昭和13)年の灘を駆ける逃走劇は、だが、ほんの序章に過ぎない。
自ら呟いたとおり、峠はその後も執拗に追われ、拷問を受け、職も住処も失い、あらぬ疑いで逮捕される。
重要文書。それは特高の見込みとはまったく違う、ナチス総統ヒットラーの出生の秘密を暴くものだった。
手塚治虫晩年の傑作『アドルフに告ぐ』は、この文書をめぐってアドルフという名を持つ3人の運命が交錯し、
急流のように破局へ向かっていくさまを熱く生々しく描いた大河ドラマである(※2)。
 
物語は神戸とベルリンを往還する。
ドイツ総領事館員の父と日本人の母を持ち、山本通に住むアドルフ・カウフマン。
元町にあるユダヤ人のパン屋「ブレーメン」の息子アドルフ・カミル。
幼いころ親友だった2人は、やがて国家と民族の「正義」に引き裂かれ、憎しみ合うようになる。
そしてもう1人のアドルフが、ヒットラーである。
峠の持つ文書は、ユダヤ人迫害に血道をあげるこの独裁者に、
ほかならぬユダヤ人の血が流れていることを示唆していた。
かつて実際に囁かれた説だというが、現在は否定されている。
過去のたった一片の情報をもとに、戦前戦後のほぼ50年にわたる壮大な物語を紡ぎ上げるのが、
手塚の天才的ストーリーテラーたる所以である。
正義とは、国家や民族や時代によって異なる相対的な価値観でしかないという主題。
ヒットラーという人間の中に、カウフマンとカミルを同居させる構図。
史実を巧みに取り込み、リアリティある物語を重層的に展開する腕力。
どれをとっても傑作と呼ぶにふさわしい。
手塚は巷間言われるようなヒューマニストでもなければ、牧歌的な平和主義者でもない。
作品の根底にはいつだって、人間への不信と虚無感が流れている。そこに出発点がある。
だからそのメッセージは重いのだし、僕は人生の師と仰ぐのだ。

豊中に生まれ、宝塚で育った手塚は阪神間〜北摂文化圏の人であった。
裕福でモダンな家庭だったから神戸へ来ることもあっただろうが、作品に登場することはほとんどない。
そんななかで『アドルフ』は、神戸を綿密に描いた貴重な作品だ。
有馬の温泉街、風見鶏の館を模した屋敷、元町の商店街。阪神大水害や神戸大空襲は物語を大きく展開させる。
だが灘は…灘はないのか?と探して、やっと見つけたのが冒頭に掲げたシーン。
灘の旅人でも紹介された「岩屋の出口」は、1933年に三宮─岩屋間が地下に切り替わったことを踏まえている。
惜しむらくはトンネル内の描写しかないこと。これでは、灘かどうか分かりようもない。
ほかにも、あれ?と引っ掛かる場面がないではない。
幼いカウフマンが通うドイツ人学校。こ、これは曽和町の神戸ドイツ学院ではないか!
いや…違った。当時ドイツ学院は北野界隈にあり、灘へ移ったのは昭和30年代だという。
ナチスの幹部養成校への入学を嫌がって家出するカウフマン。決死の思いで六甲山を越える。もしや!
いや…これもハズレ。一軒茶屋(東灘区)とか蓬莱峡(西宮市)とかの地名は出てくるんだけど(※3)。

手塚の原風景である阪急宝塚線沿線から眺めたとき、
神戸はやはり「北野」「元町」の街だった、ということか。
でも、まあいい。
『ロストワールド』や『鉄腕アトム』はもちろん、『火の鳥』も『ブラック・ジャック』も『どろろ』も『陽だまりの樹』も
ほとんど後追いで体験した僕にとって、『アドルフ』はほぼリアルタイムで出会えた大作なのだ。
そこに灘が一瞬でも出てきたことを喜ぼう。
手塚18回目の命日を5日も過ぎて、やっとまとまった感懐である。

(※1)特別高等警察。戦前の治安維持法に基づき、いわゆる思想犯を取り締まった。
   狂気の警部を演じるのは手塚作品ではおなじみの悪役ハム・エッグ。
(※2)週刊文春1983・1・6〜1985・5・30連載。豪華版、コミックス、文庫本など
   さまざまな版型で単行本化。上掲は全集版で全5巻。
(※3)山中に入る手前の場面に「六甲みち」と刻まれた道標が登場するが、これは
   実在のもの? 流れから判断すると灘とは思えず。布引あたりかと…。


2006年12月16日(土曜日)

スローボートで中国へ

カテゴリー: - mj-soul @ 15時34分29秒

中国行きの貨物船に
なんとかあなたを
乗せたいな、
船は貸しきり、二人きり……
            ─古い唄

処女短編集『中国行きのスロウ・ボート』の扉に村上春樹はこう記した。
「古い唄」は『On a Slow Boat to China』。
若きソニー・ロリンズの名演でも知られる1948年のスタンダード・ナンバー(※1)。
村上春樹は芦屋から阪急電車に乗り、六甲からバスで神戸高校へ通ったという。
「ボタンダウンのシャツにピカピカの革靴。みんな丸刈りなのに少し伸ばした髪を横分けにしていた」(※2)
モダンな少年は、アメリカ文学とジャズと摩耶山麓の空気の洗礼を受け、やがて
寄る辺なき時代の世界文学を創造してゆくことになる。
表題作『中国行き〜』は、その彼が「生まれて初めて書いた」短編小説である(※3)。

不思議な話だ。
両の手で捕えてもなお掌の中で浮遊するような、行き場を失った感情が頼りなげにたゆたうような。
3人の中国人との出会いとすれ違いの物語。
1人目は、模擬テストの会場となった港街の中国人小学校に勤める中国人教師。
彼は、「僕」ら日本人生徒に対し、2つの国の間に必要な「尊敬」と「誇り」について説く。
2人目は、東京の大学時代にアルバイト先で知り合った女子大生。
無口で、考えようによっては美人といえなくもない彼女との始まりに「僕」は滑稽な過ちを犯す。
3人目は、喫茶店で突然声を掛けてきた百科事典のセールスマン。
かみ合わぬ会話の中、彼が高校の同級生であったことを「僕」は思い出す。
出会いにも別れにもたいした意図はない。もちろん悪意も。
なのに、どうしても埋められない距離。違和感。
その理由を「僕」は女子大生の投げやりな言葉の中に探す。
「そもそもここは私のいるべき場所じゃないのよ」
彼女たちの存在の不確かさを匂わせる。匂わせるのだが、やがて「僕」自身こう思うに至るのだ。
「おい、ここは僕のための場所でもない」
東京。「濁ったコーヒーゼリーのような薄暗闇」を心にもたらす風景。
言葉は消え、夢は崩れ、重い沈黙と無限の闇を予感させる街。「世界」は自分の中だけにしかない。
それでも…。

初の短編であるこの小説を、村上春樹は発表後に2度書き直している。
アメリカで翻訳出版された作品を”逆輸入”した短編集『象の消滅』(※4)には3稿目が収録されており、
文庫版と読み比べると大幅に手が入っているのが分かる。
だがもちろん主題は変わらない。
1970年代の東京が村上春樹にとって「自分の場所」でなかったとすれば、
1960年代の灘は彼にとってどんな場所だったろうか。

(※1)作詞・作曲者はFrank Loesser。邦題はもちろん「中国行きのスローボート」。
(※2)同級生の証言。2006・4・12付神戸新聞より。
(※3)初出は「海」1980・4月号。
(※4)「ニューヨーカー」誌などに掲載された1980〜91年の短編選集。05年、新潮社刊。

●オマケの灘ノオト
粋な小唄として、モダン・ジャズ界に限らず渋くカバーされるこの曲。灘ノオト的には、憂歌団の『SLOW BOAT TO CHINA』。木村充揮さんのいつになく涼し気な、抑えた歌い口をサポートするアンサンブル。島田和夫さん(灘区在住)の絶妙なブラッシュワークが音の景色を決定的に作っている。
♪きみを乗せ 行くSlow Boat to China 夢の国へ♪


2006年12月6日(水曜日)

貧乏神は照れ屋さん

カテゴリー: - library @ 11時05分24秒

「桂 枝雀 落語大全 第八集」
「上方落語 桂枝雀爆笑コレクション〈4〉萬事気嫌よく 」

天才落語家、桂枝雀こと前田達さんは灘区中郷町のブリキ店で生まれた。
疎開を機に灘区を離れるも、彼はまた灘区に戻ってくる。
神戸大学文学部入学。
しかし、
「大学いうところがだいたい分かりました」
といって1年で灘区を去り、桂米朝師に入門。
前田さんが灘区にいたのは合計7〜8年くらいかもしれない。
でも彼の体の中には脈々と灘DNAが流れていたはずだ。

六甲山麓の明るい坂道を転げ落ちるかのような楽しげな仕種。
急斜面を流れる川のように突然あふれ出す切れ目のないまくしたて。
破天荒と言われ、賛否両論だったオーバーパフォーマンスは、
伝統の浅い港町特有の軽やかなモダンさに通じる。
定評のある酒噺は、灘の杜氏の霊が降りてきたとしか思えない。
でも、本当は控えめで照れ屋さん。
前田さんはやはり灘区が産んだ偉大な落語家、いやパフォーマー
だったんだと、あらためて思う。

奥ゆかしい前田さんが、唯一自分の出生をマクラにした噺が
今回紹介する書籍、DVDに収録されている「貧乏神」。

「ご承知であろうと思いますが、神戸市灘区中郷町2丁目3番地に、
 エー、私が生まれたんでございます。
 昭和14年8月13日でございますがね…」

前田さんには灘の街は、どう映っていたのだろう?
やはり買い物は八幡市場なのか、それとも地蔵市場なのか?
水道筋には行ったのだろうか?
「貧乏神」に出てくる実家の神棚の神さんはどこの神様なのか?
やはり徳井神社だったのか?
ご存命であれば是非一度いろんなことを尋ねてみたかった。

「徳井には『こぉ〜〜んな』大きなだんじりがありましたのでございます。
 お祭りの日ィは、朝から『コンチキチ〜ンコンチキチ〜ン』いいましてェ、
 その道中の陽気なことォ〜!」

少し照れながら、坊主頭を撫でつつ、
いつものオーバーパフォーマンスで灘噺を語ってくれたに違いない。


2006年11月24日(金曜日)

肴のある旅

カテゴリー: - library @ 18時29分38秒

「肴のある旅―神戸居酒屋巡回記」中村 よお (著)

中村よおさんは灘区出身のシンガーソングライター。
最近は、日本のフォーク&ロックの生き字引存在として、ラジオ
パーソナリティなどとしても活躍中である。
一度水道筋1丁目の「cafeP/S」で行われた、彼のレコードコンサート
「日本のフォーク&ロック史」にお邪魔したことがあり、その交遊録、
知識には唸らされた。

よおさんには水道筋でたまにお会いする。
灘中央市場あたりで「肴(アテ)」を仕入れていたり、
酒場のカウンターで静かに盃を傾けたりしている。
ワイワイ騒ぐこともなく、ただしっとりと。
そして、いつの間にかいなくなっている。
いい酒の飲み方だなと思う。

よおさんは嫌がるかもしれないが、私が敬愛するなぎら健壱氏との
共通点が多い。
まず前述の通りのロック&フォークの生き字引的存在であること。
地元を愛し、酒場を愛し、酒を愛し、肴を愛するミュージシャン
であるということ。
そして尋常ならざる記憶力でそれを文章にできるということ。
愛すべきものがありそれを伝えようとする人の言葉には、
文章の技巧なんて軽く凌駕する力がある。

本書はそんなよおさんが神戸の酒場を紹介した本である。
最近はやりのグルメ本なんかではない。
紹介されている肴(アテ)のフツーさがいい。
厚揚げ、海老の天ぷら、玉子焼きetc。
もちろん酒もどこそこの地酒なんてめんどくさいものではなく
フツーの「酒」。
旨い不味いなんて二の次で、その場の空気感を伝えているのが
読んでいて心地よい。

なので、無性に酒を呑みに行きたくなる。

当然、地元灘区の店も水道筋界隈中心に登場する。
高田屋旭店、高田屋旭店一色屋、一燈園、船越などの老舗の他、
畑原市場のニューウェーブ酒場、チンタ、モンク、汽笛亭も。
酒場だけでなく灘宝文館、中央堂、岩崎書店などオールド水道筋者には
たまらない本屋や、西灘劇場、中央劇場、摩耶劇場、西灘東映、灘松竹
などの映画館まで登場する。もちろん灘温泉も。

ライブハウスなどが多かった阪急六甲〜国鉄六甲道間の記述も
ディープだ。
春待ち疲れBANDはもちろん、ロック喫茶アローなど。
南天荘書店、おでん江戸栄、ぜい六なんていう六甲道者感涙の店名も
ちらほら。
そしてもちろん灘区への愛のある眼差し。

懐かしい灘に思いを馳せるもよし、
紹介されている店で一献飲るのもよし。
でも、本書は酒場ガイドブックなどではない。
私の酒場バイブル「東京酒場放浪記(なぎら健壱著)」と同様、
正に読む「肴(アテ)」なのだ。


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