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2011年6月27日(月曜日)
灘区に舞った奇跡の蛍
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予定なし

2011年6月27日(月曜日)

灘区に舞った奇跡の蛍

カテゴリー: - library @ 20時30分08秒

今年は、青谷川のホタルにすっかりはまってしまった。
もちろん、佐用や西脇のようにホタルの乱舞が見られるわけではなく、
7〜8匹、多くて20匹程度で、派手さはないが滋味あふれる光は、灘区
らしいといえば灘区らしい光景だ。
ともかく数よりも街なかから数分でホタルに会えることがステキなのだ。
ホタルが乱舞する川がAKB48劇場だとすれば、空き家になった古びた
文化住宅をバックにをホタルが舞う青谷川は、三朝温泉あたりの場末の
ストリップ劇場の風情に近い。
そう、ホタルのあかりは切なさがないといけない。
青谷川のホタルのステージは8時半、11時、夜中の2時の1日3回。
定刻になると川に架かる橋の上には一人、二人と人が集まってくる。
やがて線香花火に通じる淡く切ない光が川面をゆっくりと漂い始める。

「なんで蛍はすぐ死んでしまうん?」
ホタルと言えば、灘区中郷町に住んでいた野坂昭如の『火垂の墓』
シーンが思い浮かぶが、実は「ホタル」を題材にした作品を書いた
灘区出身の作家がもう一人いる。
作家、宮本輝は3歳まで石屋川のほとりで過ごした。
『泥の川』『道頓堀川』とともに川三部作と言われる『蛍川』に描か
れている蛍は灘の蛍ではなく富山の蛍だ。
宮本が描くホタルは、野坂が描いた『火垂の墓』のホタルとは全く違う
妖しい光を放つ。しかもその数は何千匹にもなり光の川のごとく光る。

宮本は、灘区にいた少年時代に進駐軍の将校からコーラをもらったこと
を述懐している。当時進駐軍の将校ハウス、通称「チューリップ村」が
六甲台にあり、山手幹線の一部は物資を運ぶ「六甲飛行場」だった。
石屋川の土手に向かって米軍の輸送機が飛び立っていくのを、宮本少年
も見上げていたに違いない。
そして、むっとするような梅雨の夜には、石屋川に舞うホタルを見た
かもしれない。
日本を代表する「蛍文学」の2作品が、灘区民の手によるという奇跡に
思いを巡らせるとき、青谷川や六甲川のホタルの輝きが一段と増す。
間もなく灘区のホタルの季節は終わるが、この夏は2人の描く対照的な
ホタルのあかりを味わってみてはいかがだろうか。


2011年6月6日(月曜日)

6月5日 中郷町

カテゴリー: - library @ 13時00分15秒

昭和20年6月5日。神戸、そして灘区が猛火に包まれた日。
8月5日の空襲と合わせて灘区の被害は、死者808人、全焼・
全壊家屋18068戸、罹災者74102人とされているが、届け出
のあったものだけに限られているので、実数はさらにこれ
を上回る凄惨なものだった。
当時、中郷町3丁目に住んでいた野坂昭如はこの時の空襲
体験をもとに戦争文学の名作『火垂の墓』を書いたのは、
灘クミンならよくご存知のことと思う。
この時、同じ中郷町にもう一人の少年がいた。
野坂の家(養父張満谷家)から目と鼻の先の中郷町2丁目
に住んでいた少年が、後の桂枝雀となる前田達少年だった。
神戸空襲のとき、野坂は15歳でが前田少年は5歳。
その時の記憶を野坂は小説にしたが、枝雀師匠は落語の枕
にした。「貧乏神」という気の弱い神様の話の枕が『上方
落語 桂枝雀爆笑コレクション〈4〉萬事気嫌よく』(ちく
ま文庫)に収録されている。

  エー、昭和20年に大空襲がございます。
  神戸は6月でございました。
  大阪は、エー6月ではなかったのかと思いますが、えらい
  空襲でございました。
  ご承知の方はご承知でしょうが、親父がブリキ職でござい
  まして、まあ、職人でございますから、仕事場にでござい
  ますね。神棚がしつらえてございまして…

前田家は灘区中郷町2丁目でブリキ店を営んでいた。
仕事場には神棚があり、朝に夕べに祈りをささげていたという。
近所の徳井神社の氏子だったのかもしれない。
6月5日、中郷町にも空襲警報が鳴り響く。
いつもは警戒警報だったのが、この日は違った。

  「今日も大丈夫やろう」言うてましたら、その日に
   限って、「空襲警報ォ!」
   ダルゥドゥズバババババババババァー…
   「えらいこっちゃー!お母ちゃん、空襲やー」
   言うたらね、そのね、朝晩拝み上げていた神棚の
   神さんね、一番にドタッ。
   落ちてこられたんでございますねえ。
   嘘でもねえ、朝晩拝み上げている神さんでござい
   ますから、もーちょっと頑張ってもらいたかたん
   ですが、ねえ…

神様が先に落ちてきて、その後に実の姉が落ちてきて、
「姉はようがんばったのに、神様は…」というオチ。
灘区を焦土と化した空襲だから、もっと緊迫感があった
に違いないが、枝雀師匠は「頼んない神さんでございま
してね。」とおどけてみせる。
悲惨な状況を笑いへと転化するという、彼の落語理論だった
「緊張と緩和」の実践。
そして戦時下の「神への妄信」を、軽やかに揶揄する批評
精神。

同じ神戸大空襲を描きながら、方や悲劇的な物語を、方や
喜劇的な噺を。
灘区中郷町という小さな街の小さな奇跡だ。

桂枝雀の生家があった中郷町2丁目から野坂昭如が暮らしていた中郷町3丁目を望む



2011年6月1日(水曜日)

その街のこども、その街のはなし(5)

カテゴリー: - library @ 13時00分13秒

灘文化堂で紹介してきた灘ロケ作品『その街のこども 劇場版』待望のDVDが6月3日発売になる。
ということで、中断していた「その街散歩」を再開したいと思う。

  御影のおばあちゃ家からの帰り道、美夏と勇治は「きれいな公園」を横切る。
  ふと見上げると、震災で亡くなった美夏の友人ゆっちのおっちゃんが住むマンションだった。

風の郷公園

「きれいな公園」は六甲町の「六甲風の郷公園」という新しい公園だが、
名前に聞き覚えが無い方も多いかもしれない。
JR六甲道駅北地区の震災復興再開発事業の一環として5年前に完成した。
公園の計画には周辺住民も加わり、ワークショップ形式でプランニングが
進められた。
風の郷公園は六甲町1丁目と2丁目にまたがる公園で、美夏がおっちゃんに
会っている間、野球少年だった勇治が素振りをしながら美夏を待つあたり
が六甲町1丁目。ここは昭和44年以前は「辰中町一丁目」という町名だった。
六甲町は辰中町、庄屋町、前出町、花園町が統合されてできた比較的新しい
町名。
かつての町名はいずれも趣のある名称だったが「六甲町」という、茫洋と
したのっぺりと陰影のない町名になったのは残念だ。
ちなみ花園町にあった花園中学は数奇な運命をたどった学校で、昭和22年
に開校した花園中学は、わずか16年後には長峰山に移転し長峰中学と改称。
残った校舎に摩耶高校が開校するが、5年後には湊川高校と合併し赤塚山へ
移転し赤塚山高校に。校舎はそのままで、昭和45年に六甲、西灘、稗田の
3小学校から分かれ、灘小学校が開校して現在に至る。

風の郷公園に戻ろう。
以前八幡神社の前にあった「八悟」が参道を下り、公園の南に移転した。
若夫婦が切り盛りした店はもう30年経った。同じ門前にあった「栄珍」無き
あと、70年代の宮前の空気を伝える貴重な老舗だ。
公園の東には宮前商店街が南北に走る。以前あった龍の腹の中のような
アーケード「宮前マジックドラゴン」は撤去され、空が見える明るい通り
になった。

取り壊される前の宮前商店街アーケード


アーケードからは東に向かって宮前市場が伸びていた。
昭和7年にオープン、空襲でも焼け残り灘区内で唯一震災を免れた市場だっ
たが、震災後アーケードは撤去され、明るいスーパー形式の市場になった。
宮前市場
震災後建て替え前の宮前市場西入口


さらにその東には「六甲東映」があった。東映と名がつくが谷ナオミや団鬼六
などの文字が踊る成人映画館で、独特の湿度のある雰囲気をかもし出してい
たが、マンションになってしまった。そういえば団鬼六も先月亡くなった。
路地はなくなり、道が広げられ、巨大な公園ができてしまった界隈にも、ヒュー
マンスケールの風景が今も残る。
マンションの足下に、子どもたちを見守る地蔵がまつられている。
普段はひっそりとしているが、今年も夏の地蔵盆、8月24日の「おさがり」
には、この街の子どもたちがにぎやかに集まるはずだ。

地蔵尊

「様々な傷を抱えた被災者と、非被災者の溝を乗り越えることの難しさと
大切さを伝える『その街の子ども劇場版』は、今を生きるすべての「こども
たち」が決して忘れてはならない未來への希望を描いている。」
(『その街のこども劇場版』パンフレットより)
東日本大震災がおこった今こそ、このドラマが描くテーマが大事になって
くるような気がする。


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