一昨年、ひょんなことから神戸高校110周年誌の編集(というほどのものではないが)
のお手伝いをさせていただいた。その中の学校に残された宝物(というほどのものでは
ないが)を紹介する「校史カタログ」という章に1965年8月13日の学級日誌が掲載された。
「ホームルーム:みんなさぼっていた」
と書かれたその日の「日番」の欄には村上春樹氏の名前があった。
氏の『辺境・近境』という旅行エッセイ集に、「神戸まで歩く」という章がある。
震災後の97年5月に西宮から神戸まで歩いた「旅行記」である。
芦屋〜神戸で十代の大半を過ごした氏は「コンサートに出かけたり、古本屋で安いペーパー
バックを漁ったり、ジャズ喫茶に入り浸ったり、アートシアターでヌーヴェルヴァーグの映画
を見る」VANジャケットを羽織った典型的な「阪神間少年」だった。
しかし彼には、故郷と自分を結びつける絆はもはや存在しなかった。
そして95年の震災。
彼は再び故郷を歩く。
西宮から夙川へ。
歩いてみても「さっぱり記憶がない」状況。
やがてそれは震災のせいだということがわかる。
かつて砂浜だった芦屋の浜は埋め立てられ高層住宅が建てられている。
別の暴力による、故郷の喪失。
芦屋から神戸へ。
震災の傷跡がまだ生々しく残る街。
夏草が繁る空地や、建築現場と自分との絆が見えない。
そしてついに、灘区へ。
阪急六甲。
「駅前のマクドナルド」で休憩し、「せっかくここまで来たのだから」と
母校へと向かう(いや彼の中には母校という概念はないだろうが)。
グラウンドの前でかつて眺めた海を見下ろしながらじっと耳を澄ませるが、
彼の耳には何も聞こえてこない。
海も山もそこにあるのに。
「過ぎ去ってしまった風景は、もう二度とはもとには戻らないのだから。
人の手によっていったん解き放たれた暴力装置は、決して遡行はしないのだから。」
故郷なんかにこだわらない、コスモポリタン的な発言をしてきた村上氏に明確な故郷の
記憶があることに驚いた。
しかし彼の中での「故郷」とは、芦屋であるとか灘であるとか地名によって規定される
場所ではないことがよくわかる。
そしてそこに残っている(はずの)風景にも興味を示さない。
彼が愛した(いや、おそらくそんなに愛してもなかっただろう、すごく低温な)
故郷はもはや記憶の中にしかないのかもしれない。
だからといってノスタルジーに浸ったりすることもない。
これは彼特有の感覚ではなく「阪神間少年」としては至極普通の態度だと思う。
エトランゼな街コウベには、場所にこだわる「ナダタマキッズ」より
「阪神間少年」が似合うのかもしれない。(いささか自虐的に)