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2007年8月6日(月曜日)

摩耶とマヤと南島と

カテゴリー: - library @ 10時30分50秒

「硝子障子のシルエット―葉篇小説集」(島尾敏雄著)

作家、島尾敏雄は1917年に横浜で生まれた。
1925年、父親が輸出絹織物売込商を営んでいた関係で、一家は兵庫県武庫郡西灘村
(現灘区)に転居し、島尾は西灘第二尋常小学校(現稗田小学校)に転校することになる。
ここで彼は「小兵士」という本を自主製作する。
小学生で執筆、印刷、製本まで一貫制作というのもすごいが、定期刊行していたというから
これまた驚きである。
彼の活字、本に対するなみなみならぬ愛情はこのとき熟成されたにちがいない。
島尾文学のルーツでもあるこの本には、空観堂や摩耶山など、小学生の視点で
綴ったおだやかな灘の風景が綴られている。
やがて日本は戦争に飲み込まれ、自爆型特攻艇「震洋」の特攻隊長と
して奄美大島へ赴任、ここでの体験が「島の果て」「出発は遂に訪れず」
などの戦争私小説を生み出す事になる。
戦後、彼は再び灘(篠原北町1)に戻り、当時灘区にあった神戸外大の教壇
に立つ。このとき富士正晴らとメイドインナダの文芸同人誌「VIKING」を
発刊。この同人では阪急六甲駅で命を絶った「元祖天才少女」久坂葉子とも
出会っている。

今回紹介する、葉編小説集「硝子障子のシルエット」には、横浜生まれ神戸育ちの
彼が描いた神戸、灘の「平穏な日常のありふれた出来事」が数点収められている。
(葉編とはおそらく島尾が命名した小品小説のジャンル)

  「神戸では街の真ん中にいても顔を上げれば六甲や摩耶の山なみが見えたし
   (中略)はっきりとそれを意識しなくても、いつも眼の向こうに海や山の
   自然の姿があって、それに接していられるということは、いわば自分たちも
   その自然の一部分であることをいつとはなしに考えの中にしみ込まされて
   いることなのだった。そこでは、自然は丁度表札に掲げられた父の名前の
   ように、こちらで知らん顔をしていても、いつのまにか庇護して呉れる姿勢
   になって身辺にあったといってよかった」(硝子障子のシルエット)

摩耶山、六甲山が灘人の人間形成に深く関与していることは周知の事実である。
大阪や東京へ行った時、しばしば灘人にあらわれる動悸、息切れ、めまい、頭痛、
夜泣き、胃部不快感、げっぷ、おくび、便秘、軟便などの諸症状は、いわゆる
「六甲摩耶症候群(ロッコウマヤシンドローム)」と言われているもので、
そのことにもちゃんと触れている。
また、摩耶六甲にはかなりのこだわりがあったようで、

  「わたしに二人の子供がいます。六つに四つ。上の男の子は、六甲、下の
   女の子は摩耶、という名前です」(ニャンコ)

こんな下りではじまる作品「ニャンコ」と同様、実際に彼は愛娘を「マヤ」と命名した。
余談であるが「マヤ」は南島では猫を意味し、後の奄美暮らしとのダブルミーニング
になっている作品である。
(さらに余談ではあるが、なぜカタカナのマヤにしたのかというと、別に彼が
灘「クミン」だからというわけではなく、灘区役所に出生届を出したときに摩耶の
「耶」の字が人名に使えなかったからだそうだ)

灘〜奄美〜灘〜奄美と移り住んだ彼は、南島研究に没頭し、やがて「ヤポネシア論」
を発表する。
おだやかでゆるやかで慈悲あふれる島々の集まりとして日本を理解しようとした。
そこには「美しい国」だの「品格」だの、押し付けがましく、強権的に日本を
「ニッポン色」一色に塗ってしまおうという中央の傲慢な態度ではなく、南島からの
視点で多様で緩やかな島々の営みから日本という国を考えるという姿勢だった。
(ヤポネシア論に関してはナダログ「沖声灘語」担当のうちなだんちゅ氏が
取り上げられることと思うので、この辺で)

灘的には「火垂の墓」が定番戦争小説であるが、今年の夏は島尾文学を読んで
終戦記念日を過ごしてみることをナダタマ的にはおすすめしたい。
場所は、島尾が好きだった摩耶山…
そう、穂高湖のほとりで足を水に浸け、ヒグラシの声を聞きながら。


コメント

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  1. 私の相方が奄美に移りすんだ所が島尾さんの家の近くで
    去年遊びに行った時に通りかかったら奥様が相変わらずの黒い服と黒い帽子
    で庭仕事してるのが優雅で印象的でした
    島尾氏亡き後はずっと黒い服で喪に服していたそうですね
    確かこの間亡くなったはず、、

    Comment by sugar — 2007年8月6日(月曜日) @ 20時16分35秒

  2. そうでしたか。奥様は灘区のことはあまり好きではなかった
    みたいですよw
    先日ミホ夫人と島尾さんが出会った押角集落・呑之浦に行って
    きました。静かで美しい入り江でした。
    そのとき撮って来た映像を、8/18に水道筋で上映しますので
    よろしければ是非。

    Comment by 灘文化堂店主 — 2007年8月7日(火曜日) @ 09時26分20秒

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