「ヤツは阪神電車の地下線へ逃げ込んだッ」「岩屋の出口を固めて待ち伏せろッ」
歯をむき出して受話器に怒鳴りつける特高の警部(※1)。
追われる男は協合通信大阪社会部記者、峠草平。
学生陸上の花形選手だった自慢の足で逃げる。真夜中の線路を三宮から東へ。
「こ…この…重要文書のために…ドイツでも日本でもおれは…いつでも追われる身なんだ」
1938(昭和13)年の灘を駆ける逃走劇は、だが、ほんの序章に過ぎない。
自ら呟いたとおり、峠はその後も執拗に追われ、拷問を受け、職も住処も失い、あらぬ疑いで逮捕される。
重要文書。それは特高の見込みとはまったく違う、ナチス総統ヒットラーの出生の秘密を暴くものだった。
手塚治虫晩年の傑作『アドルフに告ぐ』は、この文書をめぐってアドルフという名を持つ3人の運命が交錯し、
急流のように破局へ向かっていくさまを熱く生々しく描いた大河ドラマである(※2)。
物語は神戸とベルリンを往還する。
ドイツ総領事館員の父と日本人の母を持ち、山本通に住むアドルフ・カウフマン。
元町にあるユダヤ人のパン屋「ブレーメン」の息子アドルフ・カミル。
幼いころ親友だった2人は、やがて国家と民族の「正義」に引き裂かれ、憎しみ合うようになる。
そしてもう1人のアドルフが、ヒットラーである。
峠の持つ文書は、ユダヤ人迫害に血道をあげるこの独裁者に、
ほかならぬユダヤ人の血が流れていることを示唆していた。
かつて実際に囁かれた説だというが、現在は否定されている。
過去のたった一片の情報をもとに、戦前戦後のほぼ50年にわたる壮大な物語を紡ぎ上げるのが、
手塚の天才的ストーリーテラーたる所以である。
正義とは、国家や民族や時代によって異なる相対的な価値観でしかないという主題。
ヒットラーという人間の中に、カウフマンとカミルを同居させる構図。
史実を巧みに取り込み、リアリティある物語を重層的に展開する腕力。
どれをとっても傑作と呼ぶにふさわしい。
手塚は巷間言われるようなヒューマニストでもなければ、牧歌的な平和主義者でもない。
作品の根底にはいつだって、人間への不信と虚無感が流れている。そこに出発点がある。
だからそのメッセージは重いのだし、僕は人生の師と仰ぐのだ。
豊中に生まれ、宝塚で育った手塚は阪神間〜北摂文化圏の人であった。
裕福でモダンな家庭だったから神戸へ来ることもあっただろうが、作品に登場することはほとんどない。
そんななかで『アドルフ』は、神戸を綿密に描いた貴重な作品だ。
有馬の温泉街、風見鶏の館を模した屋敷、元町の商店街。阪神大水害や神戸大空襲は物語を大きく展開させる。
だが灘は…灘はないのか?と探して、やっと見つけたのが冒頭に掲げたシーン。
灘の旅人でも紹介された「岩屋の出口」は、1933年に三宮─岩屋間が地下に切り替わったことを踏まえている。
惜しむらくはトンネル内の描写しかないこと。これでは、灘かどうか分かりようもない。
ほかにも、あれ?と引っ掛かる場面がないではない。
幼いカウフマンが通うドイツ人学校。こ、これは曽和町の神戸ドイツ学院ではないか!
いや…違った。当時ドイツ学院は北野界隈にあり、灘へ移ったのは昭和30年代だという。
ナチスの幹部養成校への入学を嫌がって家出するカウフマン。決死の思いで六甲山を越える。もしや!
いや…これもハズレ。一軒茶屋(東灘区)とか蓬莱峡(西宮市)とかの地名は出てくるんだけど(※3)。
手塚の原風景である阪急宝塚線沿線から眺めたとき、
神戸はやはり「北野」「元町」の街だった、ということか。
でも、まあいい。
『ロストワールド』や『鉄腕アトム』はもちろん、『火の鳥』も『ブラック・ジャック』も『どろろ』も『陽だまりの樹』も
ほとんど後追いで体験した僕にとって、『アドルフ』はほぼリアルタイムで出会えた大作なのだ。
そこに灘が一瞬でも出てきたことを喜ぼう。
手塚18回目の命日を5日も過ぎて、やっとまとまった感懐である。
(※1)特別高等警察。戦前の治安維持法に基づき、いわゆる思想犯を取り締まった。
狂気の警部を演じるのは手塚作品ではおなじみの悪役ハム・エッグ。
(※2)週刊文春1983・1・6〜1985・5・30連載。豪華版、コミックス、文庫本など
さまざまな版型で単行本化。上掲は全集版で全5巻。
(※3)山中に入る手前の場面に「六甲みち」と刻まれた道標が登場するが、これは
実在のもの? 流れから判断すると灘とは思えず。布引あたりかと…。


(継続中) - 11月23日
11月29日
