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2012年7月2日(月曜日)

甘い予感

カテゴリー: - library @ 08時55分03秒

水道筋の[月光レコード]が閉店する。
水道筋からは本屋、レコード店という「文化部門」が完全になくなることになる。
時代の流れとは言え、これでいいのか?水道筋。
というか、レコード店自体が灘区内からなくなった。
今残ってるのは六甲道の[ベスト]くらいだろうか。

初めて自分の小遣いでレコードを買ったのは、阪神大石の高架下にあった
BSショッピングセンター2階の[大石音響]だった。
小学生の頃はレコードを買うという行為がとてもオトナなような気がして、
レコードを手に取り、レジまで持っていくのに相当時間がかかったような気が
する。さらに女性アイドルのレコードを買うことなんざ、純朴な男のコにとって、
相当なハードルな訳ですよ。
なにかイケナイことをしているような気分になるわけですよ。

アン・ルイスが青谷のステラマリスインターナショナルスクールに在籍していた
ことは、海星で非常勤講師をしていた母から聞いて知っていた。
「灘区の学校に通っていたアイドル」
それだけで僕の心は海星のチャイムのようにディンドンと高鳴った。
今回ご紹介する、彼女の13枚目のシングル『甘い予感』は、後に『女はそれ
を我慢できない』『ラ・セゾン』などのロック歌謡へと向かう前のソフト路線最後の
楽曲で、作詞作曲・松任谷由実、編曲・松任谷正隆の佳曲。

 Wow Wow Wow
 ふとつけたの カーラジオ
 流れてくるのは ビーチボーイズ

それまでアカぬけない歌謡ポップスから一転してのニューミュージック。
ユーミンが思い描いたであろう湘南の空気と、アンが吸った神戸の空気が
不思議とリンクする。

 夏がゆく頃に 恋も終わるって
 だれがきめた 悲しいこと
 私 信じない

かつては夏になるとインターナショナルスクール(後カナディアンアカデミーに吸収)
の「お姉さん達」が長峰の堰堤に飛び込む姿が見られたそうだ。
そのすらりと伸びた白い肢体と青い目に、灘っ子のハートはわしづかみにされたという。
そんな灘の夏をふと思い出させてくれるフレーズだ。

35年前に戻る。
ドキドキしながらBSショッピングセンターのエスカレーターを駆け上がり大石音響へ。
摩耶山のカエデのような葉っぱを髪につけて、伏し目がちのアンのジャケットを見つ
けて手に取った。
買うのか?このレコード買っていいのか?オレ。
誰かに見つかったらどうしよう。
長い時間が経ったような気がする。
レジのおじさんにもにらまれたような気がする。
でも結局は買えずに、横にあった太川陽介の『ルイルイ』を買ってしまったのだった。
これが私のレコード購入初体験だった。
そして後に『六本木心中』を聞いた時「青谷のアン」は僕の中からいなくなった。


2012年1月17日(火曜日)

その街のこども、その街のはなし(6)

カテゴリー: - library @ 12時00分38秒

17回目の1.17を迎えた今年、『その街のこども』の劇場版が1/14〜1/27まで
十三・シアターセブンで上映されているので、昨年に引き続きその街のロケ地を
探訪してみる。

  美夏(佐藤江梨子)が友人「ゆっちのおっちゃん」の家へ行っている間
  勇治(森山未來)はコンビニで時間をつぶした。

『その街のこども』では、前半に福住通のセブンイレブン、後半に灘南通の
ファミリーマートという2カ所のコンビニが登場する。
全体的に暗いトーンの映像が続く中、コンビニの明るい照明が印象的だ。
どちらのコンビニも元々は酒屋で、勇治が雑誌を立ち読みする灘南通のファ
ミリーマートは元々「ナダ萬酒店」という屋号だった。
黒々とした酒屋独特の看板ははずされ、煌煌と光る明るい内照式の看板に
なったが、端っこの方に小さく昔の屋号が表記されていた。

このあたりを歩くと、スパイシーな香りが鼻腔をくすぐる。
コンビニの北にある「インドスパイス」は全国にスパイスを卸している
知る人ぞ知るスパイス卸店で、そのシェアは国内のアジア系のレストラン
の70%を占めるという。
奇しくもインドからやってきた法道仙人によって開かれた摩耶山の麓から
日本全国へスパイスが届けられているというのも興味深い。
ちなみにインドスパイス・マルヤ(都通)・橋(灘南通→現在は千旦通に移転)
の3点をむすんだ三角形は「西灘カレートライアングル」と呼ばれていた。
「インドスパイス」の建物は、昭和50年頃まで「西灘温泉」という風呂屋
だった。灘南通にはもう一カ所「富士温泉」があり、たがいに定休日をずらし、
エリアに住む人々の便宜を図っていた。
どちらも、内風呂のない古い長屋やアパートが多かったこの地域になくては
ならない施設だったが今は存在しない。

劇中、コンビニとともに鉄道をくぐる「ガード」が印象的なシーンとして
使われている。
二人が三宮から灘に向かう途中にたこ焼きを買うガードでは、高架上を走る
列車の轟音と震災の時の音が美夏の記憶の中で重ね合わされ、その次の阪神
西灘駅のガードでは、勇治がガードをくぐり抜けるとトラウマになって
いる震災の記憶が蘇った。
灘南通のコンビニを出た勇治が、六甲風の郷公園へと戻るときに抜ける薄暗い
ガードの正式名称は「森村架道橋」という。このそっけないガードは震災前
まで歩車道の区別のないトンネルだったが、平成10年に市道国魂線にあわせて
拡幅された。
灘区民でも森村という地名は聞き慣れないかと思う。
東海道本線が開通した当時、このあたりは「森」という村だった。
その後西灘村になり、昭和4年には神戸市に編入され、昭和6年に灘区に
なった。今は140年の時を越え、旧村の「森村」の地名が刻まれた銘版が、
ガード入口にひっそりと残っている。

森村はやがて灘南通という町名になった。
灘南の地名は住吉〜三宮間に明治43年に開設された貨物駅、灘駅の南に
位置することに由来する。大正6年に現在の灘駅が完成し、大正8年には
貨物駅としての灘駅は東灘駅と改称された。ということで、灘南通は本来
「東灘南通」が正しい。
「灘区にあるのに東灘とはこれいかに」などと揶揄された東灘駅(操車場)
だったが、あと1年で開業100年を迎えるという平成15年に廃止された。
平成22年、この東灘駅跡に新駅ができると発表された。
「まや駅」という仮称がつけられた新駅は、2016年に開業する予定だ。
元の灘駅があった場所に、また駅が戻ってくる。
震災をくぐり抜け、数奇な歴史が積み重なったガードをくぐって、
勇治は美夏のいる六甲風の郷公園へ急ぐ。

『その街のこども劇場版』は十三・シアターセブンで上映中。
2011/1/14〜1/27 13:10〜14:33
1月17日はプロデューサーの京田光弘氏を招いての上映+トークイベント
詳細は
十三・シアターセブン
『その街のこども』オフィシャルサイト



震災経た若者の今 ドラマ「その街のこども」映画化(神戸新聞2010/11/24)


2011年12月14日(水曜日)

ウルトラ警備隊、摩耶へ

カテゴリー: - library @ 20時00分28秒

先日、神戸新聞のサブカル企画、ウルトラセブン聖地巡礼企画関連で
灘区内のウルトラセブンロケ地を巡る取材に同行させていただいた。
灘クミンにはおなじみの第14、15話「ウルトラ警備隊西へ(前・後編)」
全編神戸、芦屋ロケの作品だが、ペダン星人とモロボシダンが話し合う
シーン、ウルトラセブンに変身するシーン、キングジョーを倒すシーン
等など多くの名シーンは摩耶埠頭で撮影された。
映像を見ながら、山の稜線、建物のシルエット等から場所を特定していく。
今回の取材は、神戸市みなと総局の「ミナトの漢(おとこ)」の皆さんに
立ち会っていただけた。
最初はうさんくさそうな顔をしていた彼らも「ウルトラセブン」「アンヌ」
と聞いて目がキラリと輝いた。
もう、いつまでたっても男の子なんだから。

「このモロボシダンの後ろに見えるのは100トンビットちゃうか?」
「50トンビットに打ち変えたいうことか」
など、ミナト用語が飛び交う。なんかかっこいい。

やがてキングジョーを倒す爆弾ライトンR30が発射されたシーンに
登場する倉庫がA号上屋と特定された。15話でペダン星のスーパー
ロボット、キングジョーを倒すのはウルトラセブンではなくツチダ博士
とドローシーアンダーソンが開発した爆弾だった。
「おー、ここか!」
40年の時を越え、あの感動の場所にいることをしみじみと噛み締める。
「えーっと、ポインターがこの辺にとまって、アンヌがこの辺にいて…」
目の前にあるのはまぎれもなくウルトラセブンの1シーンだった。

A号上屋の横には港湾労働者向けの食堂がある。
「一般の人でも利用できるんですか?」とミナトの漢に尋ねると
「使えるよ。ここは労休(港湾労働者休憩所)の中でもうまいで」とのこと。
キングジョーとウルトラセブンが戦った港を見ながら食事ができるレストラン。
これは行かねばなるまい!

食堂の名前は「ピア ハウス 摩耶1」という、お洒落なんだか無骨なんだか
よくわからないネーミングで、正式には「港湾労働者休憩所」というらしい。
「CAFETERIA」という表記とのギャップがいい感じ。
派手さはないが、港都神戸らしい施設で素敵。
この手の港湾施設は神戸港にはいくつかあり、灘区には他に同じ摩耶埠頭内に
「ピアハウスマヤ」がある。なぜかこちらはカタカナの「マヤ」だ。

長テーブルとパイプ椅子の大食堂然とした店内は、昼時のピークを過ぎたのか、
意外と静かだった。壁に貼られた「港湾新聞」などミナトアイテムがハード
ボイルド感を盛り上げてくれる。
食券を買うシステムなのだが、サンプルがないので内容がわからない。
Aセットというのがあったのでそれにした。食券を出すと好きなおかずを
2品取れと言われた。
システムは社食のようでもあるが、今はやりの「社食レシピでダイエット」の
対極を行く、高カロリーおかずがずらりと並ぶ。各種揚げ物と、少し濃いめの
味付けの煮魚や焼き魚、出し巻き玉子など、いかにもミナトの漢(おとこ)が
食べそうなラインアップが頼もしい。
鯖の塩焼きとコロッケを選ぶ。味噌汁とご飯、香の物がセットされて500円。
まわりを見るとカレーを食べている人が多い。
「しまった。ミナトはやっぱりカレーか?」
また今度食べに来ることにしよう。

ウルトラセブンに登場した、A号上屋が見える場所に席を陣取った。
「いただきまーす」

小さなカツはヒレカツだった。
ヒレカツをパクリと食べて、窓の外を見る。
「キングジョーはこの角度だよな。モグモグ」

コロッケはクリームコロッケだった。
冬はクリームコロッケだよね〜!と味わいながら窓の外を見る。
「モロボシダンがこの岸壁走ったんだよな。モグモグ」

焼き鯖の塩分をつけあわせのキャベツで中和させながら窓の外を見る。
「ソガ隊員がマドロスのかっこしていたのはこっちだよな。モグモグ」

味噌汁は海の香りがした。やはり摩耶埠頭は海草の香りが相応しい。
「アンヌもここにいたんだよな。会いたかったなあ。モグモグ」

窓の外に40年前の情景を思い浮かべながら食べる飯は格別だった。
昼下がりのアンニュイな食堂を出ると、摩耶山がくっきりと見えた。
なぜこの埠頭を摩耶埠頭と名付けたのかわかるような気がした。
震災後すっかり風景が変わってしまった摩耶埠頭だが、
ウルトラ警備隊が見上げた山や空は、きっとあの頃のままだ。

ごちそうさまでした!


2011年10月31日(月曜日)

冬が来る前に坂

カテゴリー: - library @ 21時00分23秒

坂の細い道を 夏の雨にうたれ…

早いもので今年ももう秋…というか冬がそこまで来ている。
フォークデュオ、紙ふうせんのヒット曲『冬が来る前に』の歌詞に出てくる
坂道は、実は灘区内の坂道だったという灘的スクープ記事が先週末の産経新聞に
掲載された。
灘区で冬が来る前にすることといえば、六甲山小学校のストーブ火入れ式か、六甲
高山植物園の小便小僧マント着せ儀式が思い浮かぶが、そうではなかった。
『冬が来る前に』は、冬を迎える前の秋の歌だと思われがちだが、冒頭で紹介した
歌詞のように物語は夏から始まる。
記事によると、紙ふうせんの後藤悦治郎氏がパートナーの平山泰代さんに王子動物園
で結婚のプロポーズをしたが断られ、失意のうちに下りた「王子動物園と葺合高校の
間の坂道」の光景を詩にしたらしい。
王子動物園の正門は原田線に面しているので、動物園を出て西の坂道を通って帰る
という経路はいささか不自然ではあるが、そのあたりのナニな事情はよしとしよう。
そんなエピソードがある坂道なのに「王子動物園と葺合高校の間の坂道」では
あまりにも味気ないので、ナダタマでは仮にこの坂を「冬が来る前に坂」と呼ぶことにする。
ちなみに2番の歌詞は秋で、王子動物園南の市電筋の歩道に積もる落ち葉がモチーフに
なっているようだ。


昭和初期の王子公園付近の様子。赤線部が現在の「冬が来る前に坂」


「冬が来る前に坂」は昭和4年まで、神戸市の市境だった。
旧関西学院のチャペルだった灘文学館の敷地内には当時の境界石が残っている。
坂の西が神戸市、東は神戸市に編入される前の西灘村があり、坂をはさんで神戸
高等商業学校(現神戸大学)と関西学院が対峙していた。
学生街としてにぎわいを見せた界隈には学生目当てのカフェや本屋が並ぶ、文化の
香り高い街だったという。(それと比べると、現在の灘の学生街である阪急六甲
周辺の状況はいささか寂しいものがあるが)
加納町にある神戸最古のバー[アカデミー]も、実はこの坂道から少し西の上筒井
6丁目にあった。
三宮乗り入れ以前、阪急神戸線の終点だった上筒井からは「冬が来る前に坂」を
経由して摩耶ケーブル駅までバスが走っていた。

上筒井〜摩耶ケーブル間を結んでいたバス(写真:灘百選の会)


稲垣足穂、竹中郁、谷崎潤一郎などの文人も闊歩したかもしれないこの坂道は、
紙ふうせんの『冬が来る前に』以外にも詩のモチーフになっている。
坂道の北にある松蔭女子出身の南野陽子の自伝的一曲『春景色』には、
「坂道を上りきり 見下ろせば ほら船の影」
とこの坂道から見える風景とおぼしき表現があるし、松蔭の南隣の海星女子大学
出身の平松恵理の『南町から』には
「真っ赤な六甲を背に港へ続く道歩いた 黙ったまま」
というこの坂道を彷彿とさせる歌詞がある。
「冬が来る前に坂」は、昔も今も詩的で絵になる坂道なのかもしれない。

区界の坂道


[参考記事]
紙ふうせん「冬が来る前に」 神戸・王子動物園界隈(産経新聞 2011.10.29夕刊)


2011年6月27日(月曜日)

灘区に舞った奇跡の蛍

カテゴリー: - library @ 20時30分08秒

今年は、青谷川のホタルにすっかりはまってしまった。
もちろん、佐用や西脇のようにホタルの乱舞が見られるわけではなく、
7〜8匹、多くて20匹程度で、派手さはないが滋味あふれる光は、灘区
らしいといえば灘区らしい光景だ。
ともかく数よりも街なかから数分でホタルに会えることがステキなのだ。
ホタルが乱舞する川がAKB48劇場だとすれば、空き家になった古びた
文化住宅をバックにをホタルが舞う青谷川は、三朝温泉あたりの場末の
ストリップ劇場の風情に近い。
そう、ホタルのあかりは切なさがないといけない。
青谷川のホタルのステージは8時半、11時、夜中の2時の1日3回。
定刻になると川に架かる橋の上には一人、二人と人が集まってくる。
やがて線香花火に通じる淡く切ない光が川面をゆっくりと漂い始める。

「なんで蛍はすぐ死んでしまうん?」
ホタルと言えば、灘区中郷町に住んでいた野坂昭如の『火垂の墓』
シーンが思い浮かぶが、実は「ホタル」を題材にした作品を書いた
灘区出身の作家がもう一人いる。
作家、宮本輝は3歳まで石屋川のほとりで過ごした。
『泥の川』『道頓堀川』とともに川三部作と言われる『蛍川』に描か
れている蛍は灘の蛍ではなく富山の蛍だ。
宮本が描くホタルは、野坂が描いた『火垂の墓』のホタルとは全く違う
妖しい光を放つ。しかもその数は何千匹にもなり光の川のごとく光る。

宮本は、灘区にいた少年時代に進駐軍の将校からコーラをもらったこと
を述懐している。当時進駐軍の将校ハウス、通称「チューリップ村」が
六甲台にあり、山手幹線の一部は物資を運ぶ「六甲飛行場」だった。
石屋川の土手に向かって米軍の輸送機が飛び立っていくのを、宮本少年
も見上げていたに違いない。
そして、むっとするような梅雨の夜には、石屋川に舞うホタルを見た
かもしれない。
日本を代表する「蛍文学」の2作品が、灘区民の手によるという奇跡に
思いを巡らせるとき、青谷川や六甲川のホタルの輝きが一段と増す。
間もなく灘区のホタルの季節は終わるが、この夏は2人の描く対照的な
ホタルのあかりを味わってみてはいかがだろうか。


2011年6月6日(月曜日)

6月5日 中郷町

カテゴリー: - library @ 13時00分15秒

昭和20年6月5日。神戸、そして灘区が猛火に包まれた日。
8月5日の空襲と合わせて灘区の被害は、死者808人、全焼・
全壊家屋18068戸、罹災者74102人とされているが、届け出
のあったものだけに限られているので、実数はさらにこれ
を上回る凄惨なものだった。
当時、中郷町3丁目に住んでいた野坂昭如はこの時の空襲
体験をもとに戦争文学の名作『火垂の墓』を書いたのは、
灘クミンならよくご存知のことと思う。
この時、同じ中郷町にもう一人の少年がいた。
野坂の家(養父張満谷家)から目と鼻の先の中郷町2丁目
に住んでいた少年が、後の桂枝雀となる前田達少年だった。
神戸空襲のとき、野坂は15歳でが前田少年は5歳。
その時の記憶を野坂は小説にしたが、枝雀師匠は落語の枕
にした。「貧乏神」という気の弱い神様の話の枕が『上方
落語 桂枝雀爆笑コレクション〈4〉萬事気嫌よく』(ちく
ま文庫)に収録されている。

  エー、昭和20年に大空襲がございます。
  神戸は6月でございました。
  大阪は、エー6月ではなかったのかと思いますが、えらい
  空襲でございました。
  ご承知の方はご承知でしょうが、親父がブリキ職でござい
  まして、まあ、職人でございますから、仕事場にでござい
  ますね。神棚がしつらえてございまして…

前田家は灘区中郷町2丁目でブリキ店を営んでいた。
仕事場には神棚があり、朝に夕べに祈りをささげていたという。
近所の徳井神社の氏子だったのかもしれない。
6月5日、中郷町にも空襲警報が鳴り響く。
いつもは警戒警報だったのが、この日は違った。

  「今日も大丈夫やろう」言うてましたら、その日に
   限って、「空襲警報ォ!」
   ダルゥドゥズバババババババババァー…
   「えらいこっちゃー!お母ちゃん、空襲やー」
   言うたらね、そのね、朝晩拝み上げていた神棚の
   神さんね、一番にドタッ。
   落ちてこられたんでございますねえ。
   嘘でもねえ、朝晩拝み上げている神さんでござい
   ますから、もーちょっと頑張ってもらいたかたん
   ですが、ねえ…

神様が先に落ちてきて、その後に実の姉が落ちてきて、
「姉はようがんばったのに、神様は…」というオチ。
灘区を焦土と化した空襲だから、もっと緊迫感があった
に違いないが、枝雀師匠は「頼んない神さんでございま
してね。」とおどけてみせる。
悲惨な状況を笑いへと転化するという、彼の落語理論だった
「緊張と緩和」の実践。
そして戦時下の「神への妄信」を、軽やかに揶揄する批評
精神。

同じ神戸大空襲を描きながら、方や悲劇的な物語を、方や
喜劇的な噺を。
灘区中郷町という小さな街の小さな奇跡だ。

桂枝雀の生家があった中郷町2丁目から野坂昭如が暮らしていた中郷町3丁目を望む



2011年6月1日(水曜日)

その街のこども、その街のはなし(5)

カテゴリー: - library @ 13時00分13秒

灘文化堂で紹介してきた灘ロケ作品『その街のこども 劇場版』待望のDVDが6月3日発売になる。
ということで、中断していた「その街散歩」を再開したいと思う。

  御影のおばあちゃ家からの帰り道、美夏と勇治は「きれいな公園」を横切る。
  ふと見上げると、震災で亡くなった美夏の友人ゆっちのおっちゃんが住むマンションだった。

風の郷公園

「きれいな公園」は六甲町の「六甲風の郷公園」という新しい公園だが、
名前に聞き覚えが無い方も多いかもしれない。
JR六甲道駅北地区の震災復興再開発事業の一環として5年前に完成した。
公園の計画には周辺住民も加わり、ワークショップ形式でプランニングが
進められた。
風の郷公園は六甲町1丁目と2丁目にまたがる公園で、美夏がおっちゃんに
会っている間、野球少年だった勇治が素振りをしながら美夏を待つあたり
が六甲町1丁目。ここは昭和44年以前は「辰中町一丁目」という町名だった。
六甲町は辰中町、庄屋町、前出町、花園町が統合されてできた比較的新しい
町名。
かつての町名はいずれも趣のある名称だったが「六甲町」という、茫洋と
したのっぺりと陰影のない町名になったのは残念だ。
ちなみ花園町にあった花園中学は数奇な運命をたどった学校で、昭和22年
に開校した花園中学は、わずか16年後には長峰山に移転し長峰中学と改称。
残った校舎に摩耶高校が開校するが、5年後には湊川高校と合併し赤塚山へ
移転し赤塚山高校に。校舎はそのままで、昭和45年に六甲、西灘、稗田の
3小学校から分かれ、灘小学校が開校して現在に至る。

風の郷公園に戻ろう。
以前八幡神社の前にあった「八悟」が参道を下り、公園の南に移転した。
若夫婦が切り盛りした店はもう30年経った。同じ門前にあった「栄珍」無き
あと、70年代の宮前の空気を伝える貴重な老舗だ。
公園の東には宮前商店街が南北に走る。以前あった龍の腹の中のような
アーケード「宮前マジックドラゴン」は撤去され、空が見える明るい通り
になった。

取り壊される前の宮前商店街アーケード


アーケードからは東に向かって宮前市場が伸びていた。
昭和7年にオープン、空襲でも焼け残り灘区内で唯一震災を免れた市場だっ
たが、震災後アーケードは撤去され、明るいスーパー形式の市場になった。
宮前市場
震災後建て替え前の宮前市場西入口


さらにその東には「六甲東映」があった。東映と名がつくが谷ナオミや団鬼六
などの文字が踊る成人映画館で、独特の湿度のある雰囲気をかもし出してい
たが、マンションになってしまった。そういえば団鬼六も先月亡くなった。
路地はなくなり、道が広げられ、巨大な公園ができてしまった界隈にも、ヒュー
マンスケールの風景が今も残る。
マンションの足下に、子どもたちを見守る地蔵がまつられている。
普段はひっそりとしているが、今年も夏の地蔵盆、8月24日の「おさがり」
には、この街の子どもたちがにぎやかに集まるはずだ。

地蔵尊

「様々な傷を抱えた被災者と、非被災者の溝を乗り越えることの難しさと
大切さを伝える『その街の子ども劇場版』は、今を生きるすべての「こども
たち」が決して忘れてはならない未來への希望を描いている。」
(『その街のこども劇場版』パンフレットより)
東日本大震災がおこった今こそ、このドラマが描くテーマが大事になって
くるような気がする。


2011年1月24日(月曜日)

その街のこども、その街のはなし(4)

カテゴリー: - library @ 16時00分45秒

水道筋を抜け、御影の山手にある美夏(佐藤江梨子)の「おばあちゃん家」を目指す二人が登る
坂道は、天神筋もしくは天神坂と呼ばれている。
坂の上に五毛天神(河内國魂神社)があることから名付けられた。
灘区は南北をまっすぐに結ぶ道が意外と少ない。
水道筋から摩耶山麓に向かって、一直線にナイフで街を切り裂いたかのような道の両側には、
中の手から山の手までの「街の断面」が露出する。
この断面を味わいながら歩くのも天神筋の楽しみ方の一つだ。

阪急電車の天神湯踏切周辺は「むかで屋コンツェルン」の施設群が占める。
勇治(森山未來)と美夏が豚まんを買うセブンイレブンは、かつては「むかでや酒店」という
酒屋だった。現在は焼鳥の「百足屋」、クリーニングの「ムカデヤ」「むかでや不動産」などに、
その不思議な屋号が受け継がれている。
コンビニを出た二人が豚まんを頬張るあたりには、震災前まで市場の入口があった。
元々昭和22年に奄美廉売市場として発足した西灘市場。
このあたりの路地の奥には南島のコミュニティが息づいていた。
水道筋という巨大集積地に隣接しながらも、山の手の固定客が多く客筋のいい市場として
知られたが、阪神淡路大震災後にマンションに建て替えられた。
「ベーカリーハウスほてい堂」の南に路地に市場の通路の痕跡がかろうじて確認できる。
市場の西入口は、摩耶商店街の小さなアーケードが残り、震災前の風情を残している貴重な空間だ。

天神筋にはもう一つ忘れてはならない道の「断面」がある。
勇治に荷物を持たされ美夏がよろめいた先、福住通と天城通の町境にある東向き一方通行の道は、
市電の終点上筒井から阪神大石、篠原手崎(灘公設市場前)に向けて市バスが走る、灘の東西を結ぶ
中の手の幹線道路だった。
少しベテランの灘クミンは2系統が走る「上のバス道」に対してこの道を「下のバス道」と呼んだ。
山手幹線を下のバス道と呼ぶ人もいるようだが、歴史的には「市電道」と呼ぶのが正しい。

二人は暗い坂道を山手方向へ歩き始める。
いつもは静かな山の手の坂道だが、1年で2日間だけ人があふれる日がある。
毎年5月2日、3日に開かれる、坂の上にある五毛天神の「春祭」では、道の両側に屋台がずらりと並ぶ。
夕闇迫るころ、屋台の間を五毛、上野、畑原、篠原のだんじりが提灯を揺らせ、喘ぎながら坂を登って
いく勇壮な道に変わる。

だんじりと同じようにぐいぐいと坂道を登って振り向くと、海が見える。
美夏の「おばあちゃん家」はもうすぐだ。(つづく)

ほぼ灘ロケ作品『その街のこども劇場版』は1月15日からいよいよ
全国で上映。日本各地の灘クミンの皆さまは是非!

劇場情報ははこちら
http://sonomachi.com/theater/index.html

神戸での上映は1月25日まで
神戸映画資料館 http://kobe-eiga.net/
1/24(月)・25(火) 19:00

『その街のこども』オフィシャルサイト
http://www.sonomachi.com/



2011年1月14日(金曜日)

その街のこども、その街のはなし(3)

カテゴリー: - library @ 11時00分21秒


『その街のこども劇場版』予告編より「水道筋商店街往路」



勇治と美夏の胸の内を表しているかのような、照明が落とされた暗い
水道筋商店街のアーケードを二人は歩く。
スクリーンで薄暗いアーケードを見ていると、震災前の水道筋にタイム
スリップしたような感覚になった。リニューアルされた現在のアー
ケードに比べると薄暗かった震災前のアーケードの暗さに近いのかも
しれない。
震災後、壊れたアーケードは新しく改装するため撤去された。
アーケードが完成した1958年(昭和33)以来、実に37年振りに水道筋
から青空が見えた。
アーケードのない水道筋を歩いた。
どこか、初めて来た場所を歩いているような気がした。


昭和40年代の水道筋商店街(写真:灘中央地区まちづくり協議会)


アーケードの東端で立ち止まる二人。
「TUBOMAN」の看板がある一角はたこ焼き屋、小鳥屋、模型屋兼
駄菓子屋が軒を連ね、連日子どもたちでぎわった。
このあたりは「6丁目のアマゾン」とともに、「その街の子どもたち」
のプレイスポットだったのだ。
木製の引き戸を開けると、猫の匂いがする、数人入ると満員になる
模型屋のショーケースには、精巧な戦車や戦艦の模型の完成品が並
べられていた。ミリタリーもの以外にも、骸骨の手が硬貨をつかむ
貯金箱や、『ドボチョン一家』のフランケンなどの、ちょっとおど
ろおどろしい物も子どもたちの羨望の的だった。
「大人になったら、あの戦車売ってもらうねん!」
そう心に誓った子ども多かったに違いない。
おそらく誰もその願いが叶わないまま、2008年に模型屋は跡形も無く
なくなった。

模型屋の南隣には、水道筋最後の映画館があった。
水道筋は中央劇場、西灘東映、西灘第一、第二、摩耶劇場、灘松竹
など6つの映画館が並ぶ、神戸東部随一の「映画の街」だったのだが、
次々と閉館し、かろうじて西灘第一、第二劇場が「西灘シネマ・西灘
劇場」として生き残った。
「西灘シネマ・西灘劇場」は2つの顔を持つ。
成人系のシネマでは「馬を愛した牧場娘」「和服妻陵辱」などの成人
映画が、後期にはアート系作品を上映するようになった西灘劇場では
「12人の怒れる男」「草ぶきの学校」など文学的タイトルが並んだ。
まさに聖と俗。ジキルとハイド、あるいはアシュラ男爵的な映画館。
買い物帰りに、灘温泉帰りに、下駄履きで立ち寄れる映画館として、
神戸市内でも貴重な存在だったが、2004年5月31日に惜しまれながら
「水道筋の映画館」は閉館した。
跡地には何事も無かったかのように瀟洒なマンションが建った。

奇しくもこのドラマのロケが行われ、森山未來と佐藤江梨子が、映画
館跡近くで足を止めたのは、西灘劇場の地霊が彼らを呼び寄せたのか
もしれない。


『その街のこども劇場版』予告編より「水道筋商店街復路」


御影山手にある「美夏のおばあちゃん家」から、東遊園地を目指す二人
は再び水道筋へ。
行きは真っ暗だったアーケードは、明るくまばゆいばかりの光のトンネル
になっていた。
勇治と美夏は何かに吹っ切れたように水道筋を駆け抜ける。
もう立ち止まったりしなかった。
画面に映った「汽笛亭」がもともと瓦せんべい屋だったことも、子ども
であふれた模型屋があったことも、そしてこの地に映画館があったこと
も忘れるように。

無数の記憶と歴史が積層する水道筋も16回目の1.17を迎える。
(つづく)

劇場版『その街のこども』のシネ・リーブル神戸での上映は終了しましたが、
1月15日(土)〜1月18日(火)まで長田区の神戸映画資料館で上映されます。
1/15(土)19:30
1/16(日)19:30
1/17(月)・18日(火) 11:00、13:00、19:00

神戸映画資料館
http://kobe-eiga.net/



2011年1月6日(木曜日)

その街のこども、その街のはなし(2)

カテゴリー: - library @ 11時00分49秒

「西灘のガード」を越えたところで勇治の足が止まる。
通りの突き当たり、JR東海道線の下には「赤トンネル」と呼ばれた
長いトンネルが明治時代から街の南北を結ぶ。
その重厚な断面は歴史的建造物と呼んでもおかしくないオーラを放つ。
実は初代の灘駅はこのあたりに開業した。
神戸港方面への貨物をさばくために貨物専用駅として初代「灘駅」
が開設されたのは1907年(明治40)。
その後、西灘村、西郷町の有志が旅客扱いを鉄道省に要望し、1917年
(大正6年)に現在の場所に旅客駅として灘駅がつくられ、元の貨物
取り扱い駅は灘駅の東なので「東灘駅」と改称された。

赤トンネルの遥か先には摩耶山がそびえ、「傷」のように見える
ケーブルカーの軌道が山腹に走る。
かつては夜になると軌道沿いに照明が灯り、ちょうど摩耶山にかけ
られたネックレスのように見えた。今は深い緑に覆われてしまった
「軍艦ホテル」の威容と合わせて、美しい摩耶山のオブジェだった。
山に向かって真っ直ぐ延びるこの道は、天上寺の参詣道だった道で、
参詣道と西国街道などの幹線との交差部には山門が設置された。

高度経済成長期になると、この道の両側にはパン屋、八百屋、下駄屋、
本屋、豆腐屋、うどん屋、たこ焼き屋など小さな商店が軒を連ねた。
ガレージを改造したゲームコーナーには、ピンボールに興じる「その
街のこども」たちの声が響いた。
通りの西には「富士温泉」もあり、灘南部の下町らしい小さなにぎわ
いを見せていた。

平成7年1月17日、「トラウマ地帯や…」と勇治がつぶやくいたこの
街角も大きく揺れる。
倒壊した家屋が街路を塞いだ。実に地域内の半数が全壊という激震地
だった。
長い赤トンネルはシェルターとなって、何人かの命を救った。
このエリアも間もなく16年目の1.17を迎える。
赤トンネルの上の広大な東灘操車場は震災後その任を解かれ、皮肉
なことにかつての灘駅発祥の地にはJRの新駅ができることになった。
駅周辺には700戸余のマンション群が建つという。
この道から望めた、摩耶山の麗峰もやがて見えなくなるのだろう。

「西灘のトラウマ地帯」を越えた勇治と美華は水道筋へと向かう。
(つづく)


その街のこども劇場版』はシネ・リーブル神戸で上映中。
神戸の上映はいよいよ明日まで!

詳細は
シネ・リーブル神戸
『その街のこども』オフィシャルサイト


2010年12月7日(火曜日)

その街のこども、その街のはなし(1)

カテゴリー: - library @ 21時00分39秒

今年の1月17日にNHKで放送され、反響を呼んだドラマ『その街のこども』の劇場版が
現在シネ・リーブル神戸で上映されている。
この映画は灘クミンの皆さんには是非見ていただきたい。
というのも、内容もさることながら、灘区各所がスクリーンに登場するこれまでに類を見ない
灘ロケ作品なのだ。しかも出てくる街角がどこも地味で滋味あふれ、実に味わい深い。

新神戸で偶然出会った勇治(森山未來)と美夏(佐藤江梨子)が、震災15年目の朝まで
三宮〜御影間の街、つまり灘区でひとときを過ごすというストーリー。
灘文化堂ではこの映画に登場する灘の街を映画の内容とは全く関係のない読み解きをして
みたいと思う。

『その街のこども』阪神西灘ガード

『その街のこども劇場版』予告編より「阪神西灘ガード下」


三宮からJRの高架沿いを東へ歩いてきた二人は、なぜか阪神西灘駅に到着する。
阪急王子公園でもなく、JR六甲道でもなく、阪神西灘である。
渋すぎる。
灘クミンでも思わず「ここどこやねん」とツッコミたくなるにちがいない。
どこかで見たことがあるような、見たことがないような、不思議な浮遊感がある場所。
阪神電鉄西灘駅は、阪神国道電車との乗り換え駅として1927年(昭和2)に開設された。
つまり、街の中心でもなんでもなく、ただ乗り換えのために阪神本線と国道2号の交点に
偶然できたという「できちゃった駅」。
映画の中に漂う「どこでもない感じ」はこの駅の生い立ちによるものかもしれない。

画面にちらっと映る酒屋「坂田商店」では、その昔「やえもん」というオリジナルブレンド
の日本酒が売られていた。かつては酒屋がいろんな銘柄をブレンドして販売できたので、
無数のブレンド酒があったという。
坂田商店の南には「菅公」という銘柄で知られた、西郷・岩屋の蔵、1824年(文政7)創業
の「菅野酒造」があった。
その東南には灘酒では西の横綱と呼ばれた「若井酒造」の甍(いらか)の波が広がっていた。
ここで醸されていた「牡丹正宗」は西灘の幻の銘酒だ。
毎年大晦日になると、若井本家の蔵の外には酒がなみなみと入った樽が並べられ、無料で
酒が振る舞われた。その酒を飲んで海に落ちて溺死した人たちを供養するためにまつられた
といわれている地蔵の1つが、今でも高速道路のかたわらにひっそりと残っている。

酒の街だった西灘界隈も近代化とともに風景が変わっていく。
白砂青松の静かな村も、重厚長大の時代の波に飲み込まれ、西灘には葺合の浜にあった川崎
製鉄の社員住宅ができた。そして社員住宅はボウリングブームの到来とともにボウリング場
に変わった。全盛期は灘区内に6カ所あったボウリング場も次第に減り、震災で被災した
「西灘ボウル」も取り壊され、屋内スノーボード場「スノーヴァ神戸FREE区」と
して再スタート。しかしわずか8年で閉鎖し大規模マンションになった。
勇治と美夏が話をする公園のような場所が、このマンションの公開空地だ。

めまぐるしく変貌を遂げてきたこの場所で、エアポケットのように「西灘」が残っている
場所がある。阪神西灘駅前の、西郷の金盃酒造の宣伝酒場である「高田屋巽店」ののれんを
くぐると、当時の「西灘」に少しだけタイムスリップできる。
名物の関東煮をつつけば、酒蔵の匂いや、阪神国道電車の警笛、駅へ急ぐ工場労働者の靴音、
そしてボウリングのピンが倒れる音、耳をすませば砂浜に寄せる波音も聞こえてくるかも
しれない。

積層された歴史と浮遊感漂う「西灘のガード」を越えた二人は
「勇治のトラウマ地帯」へと歩いていく。(つづく)


『その街のこども劇場版』はシネ・リーブル神戸で上映中。
12/4〜12/10 20:20の回、予告なし本編スタート、レイトショー1,200円均一。
12月10日は元灘クミン、森山未來氏の舞台あいさつもあり。

詳細は
シネ・リーブル神戸
『その街のこども』オフィシャルサイト


震災経た若者の今 ドラマ「その街のこども」映画化(神戸新聞2010/11/24)


2009年8月5日(水曜日)

灘一千一秒物語

カテゴリー: - library @ 12時00分29秒

70年ぶりに関学の夏の甲子園出場が決まった。
実は灘クミンにとってもよろこばしいニュースだ。
ご存じのように、関西学院は1889年(明治22年)に現在王子動物園のある原田の森に創立された。
今から80年前には、「灘の関学」は夏の甲子園で全国優勝も果たした。
(余談だが甲子園常連校の報徳学園は関学の北、現在の海星の地にあった。
 つまり報徳も灘区にあったのである)
そんな縁でこの夏、灘クミンと甲子園がつながる。

関学発祥の地

原田の森の関学と言えば、やはり稲垣足穂を忘れるわけにはいかない。
足穂は1914年(大正3年)に関学に入学し1919年(大正8年)までの5年間
西灘村で学園生活を送った(自宅は明石)。
稲垣足穂といえば星と月が思い浮かぶ。
無類の天体狂だった稲垣作品には星や月が頻繁に登場する。
といっても、甘ったるくロマンチックなものではなく、灘酒のようにあくまでも辛口だ。
足穂の描く星と月は、ユーモラスで、時にはいたずらものだったり、暴力的だったりする。
人間だって負けていない。星や月を銃で撃ったり、石を投げつけたりする。

今回紹介する稲垣足穂の『一千一秒物語』は、月や星と「ぼく」の格闘を描いた絵本のような
掌編集である。
ほとんどが夜の物語であるが、モダンで都会的、しかしのんびりとした郊外感のある
神戸の夜の空気感が、行間とたむらしげる氏のイラストレーションから心地よく漂う。

もちろんナダタマで足穂文学を真正面から紹介するつもりはないので、
あくまでも足穂が闊歩した灘を切り口に斜め読みしていきたい。

「投石事件」は、主人公が月に石を投げることから始まる。
石は見事に月に命中する。怒った月は地面に下りてきて「ぼく」を追いかける。
「ぼく」は一生懸命に逃げる。
垣を越え、花畠を横切り、小川をとび、踏切を抜けようとしたら急行列車に行く手をはばまれ
「ぼく」は月に捕まってしまった。
この作品は是非とも灘視点で読解していただきたい。
「垣」は関学の垣で、「花畠」は与謝蕪村も詠んだ灘の菜の花畑、「小川」は青谷川、
行く手をはばんだ急行列車は阪急電車、などと想像しながら読むとタルホの世界が
一気に身近になり、いつもの散歩道もキラキラと輝きだすかもしれない。

「A MEMORY」で描かれた、月の光がシンシンと降り注ぐ、幻想的な山並みは
おそらく摩耶六甲ではなかろうか。
トンコロピーピーという笛の音は、クロツグミの鳴き声か。
関学のレンガ造のチャペルや芝生越しに見える摩耶は、きっと日本離れした
光景に見えたであろう。
関学から真正面に見えた摩耶山では、8月8日の深夜、つまり8月9日の午前0時に
天上の星が集まり天上寺の観音様に降り注ぐ日とされている。
神戸の人たちはこの時を目指して、摩耶山・天上寺を目指したという。
その光景を目にした外国人の新聞記者が天上寺を「Moon Temple(月の寺)」
と名付けて記事にした。
足穂もこの不思議な真夏の光景を目にしたかもしれない。

『一千一秒物語』にはこんな話もおさめられている。
ある人がこう言った。
「きみはあの月も 星も あんなものが本当にあると思ってるのかい」
「うん そうだよ」
とうなずくと、こんな答えが返ってくる。
「ところがだまされてるんだ あの天は実は黒いボール紙で 
 そこに月や星形のブリキが貼付けてあるだけさ」

8月は是非摩耶山で、あるいは原田の森で、足穂が愛した神戸の月と星が織りなす
一千一秒物語を楽しんでいただきたい。

上野踏切道

「ぼく」が月につかまった(かもしれない)踏切

[摩耶山で月と星を楽しむイベント]
※詳細は各リンク先イベント情報で

2009年8月7日(金)
摩耶山笹おい七夕まつり+ショートムービー紙芝居型上映会

摩耶山七夕笹おいまつり ホシアゲル 

2009年8月8日(土)
四万六千日大祭(ここのかび)

四万六千日大祭 

2009年8月28日・29日
摩耶山オープンテラス ステラ451

ステラ451 


2009年6月15日(月曜日)

幻の灘版キカイダー

カテゴリー: - library @ 12時00分56秒

「震災前に神戸でロケした仮面ライダーとかキカイダーのパロディ映画知っとお?」

ナダタマ「沖声灘語」担当の沖灘人さんから、沖縄で灘区のレアな映像が発見された
という報告があった。
いわゆる自主制作映画なのだが、ウンチクよりは、まずはそのすばらしい映像を
見ていただきたい。

「人造人間キカイダー 神戸版」
企画:小林浩司・姫嶋聖治


懐かしの人気特撮「人造人間キカイダー」をパロったアクション映画。
ゴダールを彷彿とさせる、ヌーベルバーグ的刹那感、不条理感によって、キカイダーの
ライバルとして、ある意味キカイダーより人気のあったハカイダーの「悲しさ」や
ハカイダーとの戦いを避けたいキカイダーの「葛藤」が描かれている。

震災前に神戸で撮影されたということだから、13年以上前の作品ということになるが、
沖灘人氏によると「女性の髪形から87年〜91年ごろと推定される」とのこと。
そして、随所に出てくる灘区内の風景にお気づきだろうか。
オープニングはおそらく桜ヶ丘辺りか?
2分43秒あたり、もの憂げなハカイダーのテーマとともにパンされる山上からの風景に
摩耶観光ホテルがちらりと見える。奥摩耶ロープウェー摩耶駅(現虹の駅)から撮られたもの
であろう。
そしてその後ハカイダーが市民を襲うシーン、主人公の「じろー」が登場するシーンは
灘丸山公園で撮影されている。
5分30秒以降のキカイダーとハカイダーのカーチェイスシーンは鶴甲、
6分39秒の橋での戦闘シーンは石屋川上流ではなかろうか。
エンディングは長峰堰堤のように見える。
他にもお気づきの風景があれば、是非ともご教示願いたい。

このようにほぼオール灘でロケが敢行された灘愛あふれるすばらしい作品である。
企画をされた小林浩司・姫嶋聖治の両氏は果たして灘クミンなのであろうか?
パロディセンス、バカさ加減、無用なクオリティの高さとチープさの絶妙のバランス感覚。
ばかばかしいことを大まじめにやる、灘クミンが誇るべきDNA「NADA DNA(ナダダナ)」
がひしひしと伝わってくる。

そう、そこはかとなく灘クミンのニオイがするのである。

可能であれば是非とも水道筋あたりで上映会を行いたいと思っている。
このご両人のお知り合いの方、映画製作にたずさわれた方が
いらっしゃいましたら、是非とも連絡いただきたく、よろしくお願いいたします。

ロケ以外にもう一つ灘クミンの香りを紹介しておこう。
同じく震災前に製作された「仮面ライダー 神戸版」という作品の主人公の名は
なんと「鷹匠タケシ」なのである。
この作品も震災前の三宮のど真ん中でゲリラロケが敢行されている貴重な映像である。

仮面ライダー 神戸版

なお、情報提供していただいた沖灘人さんによると、沖灘的考察も可能だということで
そのあたりは今後の「沖声灘語」に期待したい。


2009年5月25日(月曜日)

おっちょこちょいの町

カテゴリー: - library @ 12時00分10秒

別冊暮しの手帖 保存版 300号記念特別号


別冊暮しの手帖 保存版 300号記念特別号(暮しの手帖社)
発売:2002-12/定価:¥1600

小さいころ、母の買ってくるいわゆる「家庭書」にはまったころがあった。
中でも『暮らしの手帖』がお気に入りで、えも言われぬ質感のある写真、絵本の
ような挿絵は私の心に確実に点を打った。
これらの仕事が孤高の編集者、花森安治の手によるものだということを知るのは
もっと後になってからだが。

編集者であり、コピーライターであり、デザイナーでもある花森安治は神戸で生まれた。
雲中小学校から神戸三中(現長田高)に進んだというから、残念ながら灘クミンではない。
その風貌、グラフィックセンス、批判精神、どれをとってもモダンだった。
そして何より「暮らしを眺める視点」がすばらしい。
彼のコラムにこんなフレーズがある。
「ぼくは飛行機のような高い空ではなく、地上2、30メートルの高さからみんなの
暮らしを眺めたい」
一時私もこれをもじって「地上2、30センチの高さから灘クミンの暮らしを眺めたい」
と書いたことがあるくらい影響を受けた言葉だ。

『別冊暮しの手帖300号記念特別号』の中に1963年の9月に発行された『暮しの手帖71号』
に掲載された「日本紀行 その1 神戸」というコラムが収録されている。
今回はそれを紹介したい。
故郷の姿を独特の筆致で綴ったコラムはこんな書き出しで始まる。

  神戸の町は歩きやすい町である。
  立ちどまって、道をたずねてごらんなさい。そこを右へ曲がってとか、まっすぐ
  行って四つ角を左へ曲がって、というのが、ふつうの町の返事である。
  神戸の人は、そんなふうには言わない。

このコラムが発表された1963年と言えば神戸港が世界有数の貿易港だったころ。
港から見える、六甲摩耶の風景がいかに素敵であったかが描かれている。
神戸にはそんな「天然の育ちの良い」風景があったのだが、その一方湊川神社のような
名所旧跡の殺風景さをこんな風に表現している。

  いったい、この町のひとは、いわゆる「名所旧跡」に、大して興味がないのである。
  日本中、どこの町ともちがう気風が、ここにある。(中略)古いもの、亡びゆくもの、
  過ぎ去ったものには、みれんもなければ、執着もないのである。
  「今日」と「明日」だけに、生きているのである。

ああ、なるほどと思う。
周りを見渡しても、そんな人が多い町だと思う。
明るくて、あきらめが早くて、ねばりっけがないのが神戸の気風なのだ。
だからナダタマなんていう、過去の町をネチネチとつっつくような非神戸的なサイトは
大して見向きもされないのだろう。

灘の山に関しての記述も興味深い。
彼によると、六甲山は「登る」所ではなく「行く」所だという。
そして町の中に公園が少ないかわりに、どこからでも5〜30分で行ける
六甲、摩耶という「大きな公園」があるではないかと説く。
東京なら何時間もかけて行くところを、気分次第ですぐに飯ごうすいさんに
出かけられる。そして山にはコーヒーの煮だし方や、トーストの「バタ」に
こだわる茶店のおばさんがいる。
幸せな町である。

  「しゃない」
  この町の人の口ぐせで、しょうがない、という意味だが、しかしあきらめのひびきはない。
  せっぱつまって、それでは、と立ち上がるときに使われる言葉である。

このコラムから32年後の阪神・淡路大震災のとき活躍したのがこの「しゃない」という
言葉だった。
過ぎ去ったものには、みれんもなければ、執着もない神戸っ子はやがて山を崩し始める。
コラムにはまだ新六甲大橋がかかっていない表六甲ドライブウェーから望む、造成中の
東部第二工区や鶴甲山(現在の鶴甲団地)が掲載され、こんなコメントがつけれれている。

  それ(山を崩して海を埋め立てる)くらいのことだったら、どこの町でも考えつくだろう
  その山をくずした土を、海へはこぶ、その方法が奇想天外なのだ。

鶴甲山でくずされた土地は、地下のベルトコンベアで海へと運ばれた。
今の鶴甲から徳井へまっすぐ下る、通称徳井幹線の下にはベルトコンベアが動いていた。
すごいというか、なんとも「おっちょこちょいなシステム」だと思う。

花森は続ける。
「新しいもの珍しいものは、たいていこの町からはじまるらしく、日本でいちばん早く
ゴルフ場ができたのもこの町だし、麻雀がまっ先に流行したのもこの町」
だが、先週またもやこの町から新しいものが流行してしまった。
新しいもの好きもほどほどにして欲しいと思う。
本当におっちょこちょいだと思う。
そして正直な町だと思う。
でも、私はこのおっちょこちょいさや、正直さはもっと誇りにしていいと思う。
国内初の新型インフルエンザが発生した町だということを、灘区民、そして神戸市民は
誇りにしてよいのだ。
どの町より真っ先に発表して、真っ先に対応したのだから。
東京の感染者が3人だけなんて絶対にありえないはずだ。

花森はこのコラムをこんな言葉で締めくくっている。

  明るくて、ハイカラで、すこしばかりおっちょこちょいで、底ぬけ楽天的で、
  それでいて必死に生きている。神戸はそういう町である。
  これからの日本が、大切にしなければならない町の一つでもある。

今日から、多くの学校の休校が解除された。
「しゃないなあ」
すこしばかりおっちょこちょいの灘クミンは、ぼちぼちマスクをはずし始めるはずだ。


2009年4月28日(火曜日)

ケーブルカーを愛する人へ

カテゴリー: - library @ 11時40分06秒

神戸の人がもっと自慢していいものの一つにロープウェーとケーブルカーがあると思う。
西から須磨浦ロープウェー、布引の夢風船、摩耶ケーブル、摩耶ロープウェー、六甲ケーブル、
六甲有馬ロープウェー。
実に6つもの索道、鋼索鉄道がある。
日本でこんな街は他にはないだろう。
市民と山との濃密な関係を表したものだと思う。
ロープウェーとケーブルカーはいわば神戸市民と山との「へその緒」なのだ。
しかし古くから街と山をつないでいた「へその緒」達も現在では経営が苦しいという。
5年前に大パノラマを誇った六甲有馬ロープウェー表六甲線が休止に、
そして昨年日経新聞に掲載されたショッキングなニュースに驚かれた方も多いかと思う。
まやビューライン(摩耶ケーブルと摩耶ロープウェー)の運営継続が難しいという記事。

大正14年に摩耶山天上寺の参詣客を輸送するために敷かれた摩耶ケーブルは
80年以上の歴史を誇る老舗のケーブルカー。
そして摩耶山の母「摩耶夫人(まやぶにん)」と灘クミンをつなぐ大事な「へその緒」である。
水害、戦争、水害、そして震災と大きな困難に出会い、その度に復活してきた、
灘クミンにとってはフェニックス(不死鳥)のような存在でもある。
阪神淡路大震災で被災し長期休止になった時は、さすがにもうこのまま廃止かと思われたが
平成13年、灘クミンをはじめ多くの署名で四たび息を吹き返す。
まさに神戸の街の復興のシンボルだった。

市民に愛されたケーブルといえば、サンフランシスコのケーブルカーが有名だが
今回の灘文化堂はそんなケーブルカーとサンフランシスコっ子の
愛を描いた絵本『ちいさいケーブルカーのメーベル』を紹介したい。
実際にサンフランシスコで起こった事件を元にした物語だ。




坂と海にはさまれ、神戸と似た街サンフランシスコ。
1906年のサンフランシスコ大地震の前は8つものケーブルカー会社があったという。

 メーベルはケーブルカー。
 サンフランシスコの さかみちを チンカン……チンカン
 のぼって くだって むきをかえ、
 もときた みちを また のぼります。

主人公のサンフランシスコ自慢のケーブルカー「メーベル」は働きもの。
彼女はこの街の移り変わりをじっと見つめてきた。
そして街が眠りにつく頃、
メーベルは昔話を始める。

 おぼえてる? この町が 小さくて、
 みんなが たがいに かおみしりで、
 だれも いそいだり、いらいらしたり、しなかったころのこと。
 むかしは よかったわねぇ。

サンフランシスコは大火にも見舞われた。
メーベルはそんな恐ろしいできごとはめったに思い出さなかったが
どんなに早く町が立ち直ったかを思い出したりした。
しかし町が大きくなるにつれ、ケーブルカーは忘れ去られていく。
それでもけなげに市民のためにはたらくメーブル。
メーブルは自分の町と、自分の仕事と、そして町の人が大好きだったのだ。
しかし、サンフランシスコ市会はそんなメーベルを見捨てようとする。
ある日、大型バスのビッグ・ビルにこんなことを言われる。

 きみたちは きゅうしきで じだいおくれ(中略)
 そのうえ、もうからないのが いちばん こまる。
 (市会)ぎいんさんが のぞんでいるのは スピードと はってん。
 それに やすあがりなこと。

まもなくサンフランシスコ市のケーブルカー廃止計画が市民の間で噂になる。

 「ケーブルカーがなくなる? ざんねんだな。それが はってんと いうものか」
 「さびしくなるなあ。この町から ケーブルカーが なくなったら、ほかの町と おんなじだ」

だが一人の市民が声を上げた。

 「とんでもないわ。わたしたちの町でしょう? それは わたしたちで きめましょうよ。」

そしてやがて市民の声は大きくなり、住民投票へ。
ここからのくだりは民主主義の原理や手続きなどがドラマチックに展開され、なんともアメリカ的
なバタ臭ささが漂うが、なんとかケーブルカーは残されることになる。

現在、神戸のケーブルカー、ロープウェーはかつてのメーベルと同じ状況にあるのかもしれない。
これまで灘区民はなんとか摩耶山に活気を取り戻そうと、山上ビアガーデン(ステラ702、451)や
山上市(摩耶山リュックサックマーケット)を開催してきた。
しかしそんな中での摩耶ケーブル存続困難のニュース。
このまま黙って指をくわえていてもしょうがないし、かといって声高に「廃止反対」を叫んだり
署名活動をしたりする気もさらさらない。
さらに何かクミンにできることはないか?
単に一鉄道を残すというのではなく、「へその緒」を切られることで摩耶山との関係も切れてしまう
のでは?そんな危機感もあって我々は昨年末に勝手連的なまやビューライン応援団
「摩耶ビューラインサポータースクラブ(仮)」を立ち上げた。

その第一弾プロジェクトがいよいよ4月29日から始まる。
「摩耶ケーブル駅弁製作販売」。
おそらく80余年の摩耶ケーブルの長い歴史の中でもなかったであろう「駅弁」を灘クミンの手で作り
こっそり販売する。
もちろんこの弁当でケーブルカーの存続に寄与するほど増客できるなどこれっぽっちも思っていない。
これは灘クミンの「意思表示」であり、摩耶ケーブル、ロープウェーへの「ラブレター」なのだ。

メーベルは思い出す。

 おぼえている? にちよう日の ごごは こうえんや うみべへ 出かけ、
 おやすみの日は 1日じゅう えんそくに 出かける人々を のせていった ころのこと。

摩耶ケーブル、ロープウェーもサンフランシスコ市民に愛されたメーベルのように
クミンに愛される鉄道であって欲しい。
そんな想いを込めて、僕らは駅弁を売る。


摩耶ケーブル駅弁販売

日時:4月29日(祝)
   12:00〜
場所:摩耶ロープウェー星の駅前
個数:先着限定29食
   限定品のためお一人様1個まで
企画販売:摩耶ビューラインサポーターズクラブ(仮)
製作:新家(東畑原市場)

とりあえず第一弾「春弁」販売です。
今回は摩耶山からの風景を詠んだ与謝蕪村の春の句「菜の花や月は東に日は西に」
を弁当で再現。
摩耶ケーブルの最大傾斜「29度」にこだわった、ビジュアルコンセプト。
灘の食材にこだわったテイストコンセプト。
好評であれば毎月販売予定でっす。


2008年12月5日(金曜日)

鶴甲に機関車現る

カテゴリー: - library @ 17時00分02秒

1973年、水陸両用の蒸気機関車が日本全国を旅するという画期的なTVドラマが
放映された。
「走れ!ケー100」と題されたその子ども番組はたちまち大人気となる。
モータリゼーションの波が押し寄せ、各地から蒸気機関車が消えていった
時期に「蒸気機関車にゴムタイヤをつけて道路を走らせよう」という設定は
お見事としかいいようがない。
しかもアニメではなく実写だったのだ。
なにせ蒸気機関車が神社の階段を登ったり、沖縄の海の上を走ったりと、
信じられないパフォーマンスを見せるのだ。
子どもたちがハマらないはずがない。
そして人の言葉や感情を理解し、煙突から出る煙の色や汽笛で喜怒哀楽を表す
という芸の細かさ。
単調な勧善懲悪モノに成り下がったウルトラシリーズに飽き飽きしていた
子どもたちもこのドラマには目を輝かせた。
実は私も引き戸の戸車を車輪にし、ボディを木の板で作った一人乗りの
手作り機関車「K100号」に乗って遊んでいた。ただしドラマのケー100とは
違い坂を下ることしかできなかったが。

そしてこのドラマのもう一つの魅力は、全国を行脚するロードムービー
(といっても過言ではない)だったことであろう。
鹿児島を出発したケー100は北海道にいる老機関士に会うために日本列島を
縦断する。そして北海道で折り返し、復帰間もない沖縄を目指し、また旅に
出る。
4万キロを走破し、ついに最終回の沖縄へ。
沖縄ロケ回のうち1回は、ウルトラシリーズの脚本家で沖縄出身の脚本家
上原正三作品だった。医者役でウルトラセブン灘ロケ作品の脚本を書いた
「キングジョー」こと金城哲夫氏が登場するのも見逃せない。
ハブにタイヤを噛まれたケー100は血清で命を吹き返す。
ツボを心得た演出だ。
そして感動のラストシーン。
ケー100が夕陽にきらめく海に入っていく。
汽笛を鳴らしながらニライカナイに向かって消えていくケー100。
さよなら、ケー100。

そしてケー100は灘区も訪れていた。
第9話「煙モクモクなんだ坂、こんな坂〜兵庫の巻」である。
姫路から神戸に入ったケー100は少年ケンイチの父を捜すためになんと
六甲登山口経由で六甲山に登る。
「六甲山や摩耶山はケーブルで登るもの」と思っていた灘っ子たちに
とって、六甲山を登る蒸気機関車の映像はさぞ衝撃的だっただろう。
残念ながら私はこの回を覚えていない。
ひょっとしたら見逃したのかもしれない。
しかし、何人かの灘区民から「鶴甲公園でケー100を見た」など、
鶴甲近辺での目撃情報がいくつか寄せられている。
当時のロケを覚えている方がいらっしゃいましたら、
是非情報をお寄せください。
そして誰かこのDVDボックスを買ってください。
上映会をしますので(笑)



参考サイト
「発車オーライ!走れ!ケー100」


2008年11月29日(土曜日)

真夜中の福住ギター

カテゴリー: - library @ 20時00分38秒


『真夜中のギター』という昭和のヒット曲を覚えていらっしゃるだろうか。
この曲がリリースされたのは昭和44年、灘区ができて40年目の節目の年だった。
どんなことが起こっていたか当時の灘ニュースをひもといてみよう。

[市電石屋川線が廃止]
現在の山手幹線は当時「市電筋」と呼ばれていたが、
この年を境にヤマカンという呼称に変わっていった。

[阪国電車 東神戸〜西灘間が廃止]
大阪・野田と東神戸(現在のBBプラザ南)を結んでいたちんちん電車が一部廃止になり西灘止まりに。
これにより市電の乗り入れがなくなり、ルミナリエのルーツとも称される国道2号の花電車も消えた。

[鶴甲団地の造成完成]
神戸有数のマンモス団地が完成。
灘にも団地妻が急増。

[歩道橋ラッシュ]
高羽歩道橋、友田歩道橋など小学校の近くに歩道橋が設置された。交通戦争といった言葉も使われ
るようになった。初恋の女の子が交通事故で死んでしまうという、衝撃の灘っ子トラウマ合唱組曲
「チコタン」が芸術祭優秀賞を受賞したのもこの年。

万博前夜の昭和44年、灘区も大きく都市基盤が変わっていった年だったのだ…って、そんなことが
言いたいのではなく、なんでこの曲を灘文化堂で紹介するかというと『真夜中のギター』を唄って
いた千賀かほるが元灘クミンだった「らしい」のだ。
しかも福住小出身だったという。
彼女は神戸出身で故郷が沖永良部島らしい。
だとすれば南島出身者の多い神戸・灘に彼女が住んでいてもおかしくない。
しかも福住小学校区には「奄美廉売市場(後の西灘市場)」がある。
もし千賀かほるが灘クミンであったなら『真夜中のギター』は沖灘区民が唄っていたと
いうことになる。
沖縄・南島ブームの今なら『真夜中の三線』としてリリースされたかもしれないのだ。

今でも南島系スナックが残る福住〜中原界隈。
耳をすませばこんな歌が聞こえてくるかもしれない。

 ♪街のどこかに さみしがりやが一人
  今にも泣きそうに ギターを弾いている♪

ん?
え?
あれ?
ホントに真夜中にギターの音がしてくるではないか!
これはきっと千賀かほるさんの音魂に違いない。

摩耶商店街付近

ナダタマ読者の皆さんの中に
「千賀かほるさんと同級生だった」
「千賀かほるさんの隣に住んでいた」
「千賀かほるさんとギターを弾いた」という方がいらっしゃったら
是非とも情報をお寄せください。
灘文化堂店主からのお願いです。


2008年11月5日(水曜日)

摩耶山で本を読んだ日

カテゴリー: - library @ 09時00分27秒

・・・摩耶山でゆったりと過ごす・・・

摩耶山リュックサックマーケットと同じような、山の過ごし方提案イベント
「山の図書館〜摩耶山で本を読む日」を11月1日と2日の両日、摩耶山上で
開催しました。
まあ、思った通りのユルいブースになりました。
なんせただ「山で本を読んでください」というイベントなのですから。
ゆるいのなんのw
山上の貸本屋「摩耶山文庫」では103冊の灘の本、山の本を用意。
村上春樹、稲垣足穂、竹中郁、久坂葉子、島尾敏雄、
そして中村よおさんの酒場本などの灘ゆかりの作家の灘本、
新旧とりそろえた六甲山のガイドブック群、
近松門左衛門の摩耶本などを1日限り無料で貸し出しました。

流石山上だけあって人気があったのは、古い六甲山のガイドブック
『六甲山ハイキング』。
著者の大西雄一氏の名文がたまんない。
これが摩耶山や六甲山に行きたい気持ちを増幅させてれる文章なんです。
「わ〜これ持ってたわ〜!」
「ようこんなん持ってるな〜兄ちゃん」
「懐かしい〜!」
「ぼろぼろになるまで持ち歩いたなあ」
「ワシが就職したときに出た本や」
など、ハイカーの皆さんから本にまつわるエピソードも聞くことができました。
この本は昭和38年に発行されたのですが、神戸市民必携の六甲山ガイドブックと
いっても過言ではありません。かなりの率でご家庭にあるのでは?

あと、意外と人気があったのが
『落ち葉で調べよう どんぐりのいろいろ』『どんぐりノート』『どんぐりのいろいろ』の
子ども向け絵本。
子どもたちに引っ張りだこで、三冊あった本は常に貸し出し状態。
ひろってきたどんぐりの種類を絵本で確かめたり、
ハンモックに寝転がってユラユラ読書したり、
お母さんの読み聞かせが始まったり。
パラパラと立ち読みして立ち去って行く大人たちが多い中、子どもの方が
このイベントの主旨を理解してくれているような気がしました。
そう、摩耶山って意外とせかせかしている人が多いのですよ。
本を勧めても「先を急ぐので」とか「何時にどこそこに到着しないといけないから
そんな暇は無い」とか…
リュックサックマーケットのときも感じましたが、ハイカーって結構せっかちなんすね。
ハイカーにとって掬星台ってゆったりする場所ではなく、通過点なのでしょう。
もったいないなあ。
そんな中、何人かの参加者の方から感想をいただきました。
「山の上でゆっくり本を読むのって気持ち良いですね」
ありがとうございます。

それと、やっぱりハンモックの実力に恐れ入りました。
いやこれで本読むの、むちゃくちゃ気持ちいいっす。
真っ青な空と色づきかけた木々、心地よい秋風、そして本。
ハンモックに寝転びたいから本を借りた人もいたくらいですから。
レンタルハンモックを掬星台名物にしてもいいかもしれませんね。
夏は星空が眺められますから。

ということで、今月11月15日(土)の摩耶山リュックサックマーケット
再び摩耶山文庫を開店することにしました。
もちろんハンモックも持って行きますので。
今回来れなかった方も是非お立ち寄りください。

秋の1日、摩耶山でゆったりと本を読む。
皆さんのご来店をお待ち申し上げます。

「摩耶山文庫@摩耶山リュックサックマーケット
日時:11月15日(土)11:00〜16:00
場所:摩耶山掬星台 リュックサックマーケット会場


2008年10月28日(火曜日)

摩耶山文庫開設のお知らせ

カテゴリー: - library @ 18時30分41秒

灘区もズルズルと秋めいてまいりました。
皆さんいかがお過ごしでしょうか。灘文化堂店主です。
今回は今週末連休に開催される灘文化堂がらみのイベントのご案内です。
最近山で本を読んでいますか?
え?山なんかで本読まないって?
だまされたと思って摩耶山で本を読んでみてくださいよ。
とてもすがすがしいですから。

本好き灘クミンならリュックサックに文庫本を入れて摩耶山に登り、
山上のベンチで寝転がって青空の下、本を読んだことが一度はあるはず。
市街地からすぐの天然の書斎、摩耶山で読書を楽しんでいただく企画が
今回開催する「摩耶山文庫〜摩耶山で本を読む日」です。
摩耶山中には素敵な読書スポットがたくさんあります。
山に点在するベンチやテーブルを山の書斎として使ってみようという試みです。
桜谷の川沿いのベンチ、明るい掬星台のベンチ、360度パノラマの天狗塚
湖面が美しい穂高湖畔のベンチ、雄大な景色がのぞめる夕陽ケ丘や天上寺金堂回廊…
どうぞ気に入った場所でのんびり本を広げてください。
また摩耶山文庫ブースでは、灘ゆかりの作家や灘が舞台になった小説、
めずらしい昔の六甲山ガイドブックなど灘区にまつわる本を貸し出しいたします。
文化堂店主は2日とも山上におりますので、ぶらりとお越しくださいませ。

水辺のレスト サンライズベンチ
天上寺金堂回廊 紅葉ベンチ
穂高湖畔ベンチ 夕陽ケ丘ベンチ

「摩耶山文庫〜摩耶山で本を読む日」
日時:11月1日(土)・11月2日(日)11:00〜16:00
受付:摩耶山掬星台 摩耶山文庫ブース(アートフェスティバル摩耶山:掬星台会場)
参加費:無料
主催:灘区役所
協力:灘文化堂(ナダタマ)

●レンタルハッンモック
読書用のハンモックをご用意いたしました。
お好きな場所でおくつろぎください。

●萩原珈琲のサービス
摩耶山文庫をご利用のお客様にはあたたかい萩原珈琲(灘区・城内通)
をサービスいたします。

●摩耶山読書スポットマップ
灘文化堂おすすめの山中の読書スポットを紹介するマップも用意いたしました。
お好きな場所へお出かけください。
(山上の移動はシャトルバスおよび電動アシスト付き自転車をご利用ください)

灘イベント情報でもお知らせしています
摩耶山文庫〜摩耶山で本を読む日(11/1)
摩耶山文庫〜摩耶山で本を読む日(11/2)

天狗塚


2008年10月1日(水曜日)

摩耶の女

カテゴリー: - library @ 10時00分27秒

摩耶の女


摩耶の女(コロムビアレコード)
発売:1968-12/定価:¥370

もう出尽くしたかと思われた灘のご当地ソングだが、ナダタマ読者からのタレコミで
至極の1枚がネットオークションで発見された。
もちろん即入札でゲットしたのは言うまでもない。
昭和43年にコロムビアレコードからリリースされた青山和子の『摩耶の女』。
青山和子と言えば「マコ…甘えてばかりで ごめんね ミコはとっても しあわせなの」
でおなじみの大ヒット曲『愛と死を見つめて」でブレイクしたシンガー。


その4年後に世に出たのが今回紹介する『摩耶の女』。
摩耶山に関するレコードに関しては『奥摩耶音頭』『摩耶小唄』が灘クミンの間では
知られていたが、歌謡曲が存在したことを知る人はそういないだろう。ひょっと
したら水道筋にあったレコード店「摩耶レコード」で販売されたかもしれないのだ。
特筆すべきは、やはり昭和歌謡ライクなジャケットだ。
摩耶の樹海を行く「摩耶ロープウェー」の勇姿。
そして背景には出船入船で賑わう神戸港。
チーママチックな青山和子がフレームインし、にっこり微笑むというデザインは、
灘マニアでなくても心を揺さぶられるはず。

ジャケットをもう少し詳細に見ていこう。
毎月第三土曜日にはリュックサックマーケット参加者で賑わう摩耶ロープウェー
だが、当時のカラーリングは神戸市交通局が経営していたので白地に濃い緑という
神戸市バスの「菊水デザイン」を踏襲したシブいものだった。
まさに「空飛ぶ市バス」といった味わいだ。

おそらく山寺尾根あたりから撮影されたのであろうか、火災に遭う前の旧摩耶山
天上寺の塔頭も見え、昭和40年代の摩耶山の風情を伝える貴重な写真である。
この塔頭の南には摩耶山の主としてあがめられた巨木「摩耶の大杉」があるはずだ。
掬星台に設置されたライブカメラで現在の摩耶山と比べてみるのも一興だ。

実はこのレコードが発売される1年前の夏、神戸を集中豪雨が襲った。
いわゆる「昭和42年7月豪雨」で摩耶山も大きく傷ついた。
摩耶観光ホテルは廃業に追い込まれ、ホテル奥摩耶山荘も営業を中止する。
そんな時代背景の中、この『摩耶の女』は摩耶山復興の機運を盛り上げるために
リリースされた摩耶山応援ソング…ではなかった。

一部歌詞を紹介しよう。

 逃げて弱気になるなんて
 流れ花でも女なの 摩耶の摩耶の夜霧に
 恋をかくした みじめさを
 抱いてわたしわネ 生きてゆく

 流れ花でも心から
 愛を捧げた人がいる 生まれ生まれ変わって
 清い体で 逢えるなら
 妻と呼ばれたい この神戸(まち)で

女人高野とも呼ばれ、お釈迦様の生母、「摩耶夫人(ぶにん)」から名付けられた
摩耶山とはかけ離れたデカダンな歌詞。
どちらかというと敏馬あたりの花街のイメージである。

実は青山和子が摩耶山を歌うのは2回目だった。
昭和38年に発売された神部一郎とのデュエット曲『青い山脈』は国鉄の車窓から
見た六甲摩耶の山並みがモチーフになったと言われている。
同じ摩耶をモチーフにしながらも明るく健康的な青春歌謡が5年後にドロドロの怨歌に
なったわけだ。

と、ここまでつらつらと適当なことを書き連ねてきたが、まだこのレコードを
聞いたことがない。
なぜなら、当店にはレコードプレーヤーがないのだった。

…あそうだ
今度リュックサックマーケットのジューク屋さんでかけてもらうことにしよう。
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